秋更けぬ 鳴けや霜夜の きりぎりす
やや影寒し 蓬生の月
作者 太上天皇
( No.517 巻第五 秋歌下 )
あきふけぬ なけやしもよの きりぎりす
ややかげさむし よもぎふのつき
* 作者 太上天皇(ダイジョウテンノウ)は、後鳥羽院を指す。( 1180 - 1239 )享年六十歳。
* 歌意は、「 秋が深くなってしまった 鳴くがよい 霜降る夜のこおろぎよ 少し光も寒く感じられる 荒れ果てて蓬が茂る庭の月も 」 天皇から上皇となり、自ら政に携わり、天下の騒乱の中心にあったと思われる後鳥羽院であっても、歌人としての一面も持ち合わせていたのだろうと思わせる和歌のように思われる。
* 後鳥羽院は、『新古今和歌集』の編纂を命じた人物である。同時に、源平の激しい争いの時代であり、公家政治から武家政治へと移り行く時代であり、それは古代から中世への移行時期とも表現できる時代を、そのまんまん中でもがき苦しんだ人物といえるのではないだろうか。
* 後鳥羽院は、高倉天皇の第四皇子として誕生した。後白河天皇の孫でもある。
1183年7月、木曽義仲の軍勢が京都に迫ると、平家一門は安徳天皇と三種の神器を奉じて西国へと逃れた。
当時の朝廷は後白河法皇が握っており、平氏政権との対処方法に朝廷勢力の混乱もあったが、結局、安徳天皇と三種の神器を見限って、安徳天皇の義弟にあたる後鳥羽院(尊成親王)を即位させた。親王はまだ四歳であった。
安徳天皇が、僅か八歳で平家一門と共に壇ノ浦に身を投じたのは、1185年4月の事であり、この間は天皇が二人いたことになる。また、後鳥羽天皇の即位は、神器なき即位として後々も負い目となったようである。
* 後鳥羽天皇が誕生しても、四歳の幼帝に政務が取れるはずもなく、引き続き後白河法皇が朝廷の実権を掌握していた。1192年に後白河法皇が崩御した後も、関白九条兼実が朝廷を牛耳った。
1198年、後鳥羽院は土御門天皇に譲位した後は、1221年までの三代の天皇の二十三年間、上皇とし院政を敷いて実権を握った。
長期間にわたって朝廷の頂点にあり続けたが、それは、鎌倉武家政権との軋轢の連続であったのだろう。
しかし、その厳しい世相の中で、新古今調と呼ばれることになる和歌の一時代に貢献したことは特筆すべきである。
* 1221年(承久三年)5月、後鳥羽院は時の執権北条義時追討の院宣を発して挙兵した。承久の乱の勃発である。
だが、両陣営の戦力の差はあまりに大きく、わずか二ヶ月で後鳥羽院側は完敗した。この戦乱は、結局武家政権を定着させることになったとされる。
敗れた後鳥羽院は隠岐の島に流され、朝廷方は壊滅状態にまで打撃を受けた。後鳥羽院は、配流される直前に出家して法王となり、帰京を願い続けたが実現することなく、1239年2月に隠岐において崩御した。
* 最後に、筆者の好きな和歌を挙げさせていただく。
『 われこそは 新島守よ 隠岐の海の
あらき波かぜ 心してふけ 』
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