『 悲しみの日々 ・ 望月の宴 ( 138 ) 』
さて、この数日間というものは、そのままにされていた故一条院の御座所の儀式や有様は、これというほどでもない御調度をはじめ、変らぬようそのままにされていたので、在世中と同様であったが、今日からは、御座所をお念仏のための御仏のおわします所にして、僧などが出入りする姿も畏れ多く、何かにつけ悲しいことである。
念仏の声が、日が暮れる頃や、後夜(ゴヤ・一日を六分した最後で、夜半から朝までの間。)などは一段と胸にしみて聞こえ、あれこれと悲しいことばかり多くお過ごしのうちに、お庭先の撫子を人が折り取ってお持ちしたのを、宮の御前(彰子)の御硯瓶(硯に注ぐための水を入れる器。)に挿しておかれたところ、東宮(敦成親王、この時四歳。)がそれを取り散らされたので、宮の御前は、
『 見るままに 露ぞこぼるる おくれにし 心も知らぬ 撫子の花 』
( 見るにつけ 涙がこぼれます 亡き院に先立たれた この私の心も知らない 撫子の花のように無心の若宮を見ていると )
と、お詠みになった。
また、月がたいそう明るく照って、故院の御座所であった所がはっきりと見えるので、宮の御前は、
『 影だにも とまらざりける 雲の上を 玉の台(ウテナ)と 誰かいひけん 』
( 亡き院の面影さえも とどめていない 雲の上(宮中と天上界を指している)を 玉の台(宝玉で飾られた楼閣)などと 誰が言ったのだろう )
と、お詠みになった。
いつしか御忌みも過ぎて、四十九日の御法事が一条院において行われた。その折の有様などは、今さらと思われるので省かせていただく。
宮がたのご様子はまことにおかわいそうである。
四十九日が終って、中宮(彰子)は枇杷殿(ビワドノ)にお移りになる。その折、藤式部(紫式部)は、
『 ありし世は 夢に見なして 涙さへ とまらぬ宿ぞ 悲しかりける 』
( 一条院のご在世中の世は 今となっては儚い夢であったと思うにつけ 涙が止まらないばかりか 御殿までお移りになることが 悲しい限りです )
と、詠んだ。
一品宮(イッポンノミヤ・定子出生の脩子内親王)は三条院にお移りになった。一の宮(定子出生の敦康親王)は別納(ベツノウ・一条院の東部分にある邸。)にお住まいである。
九月の頃に、弁の資業(スケナリ・従五位下右小弁兼東宮学士。一条院の入棺に奉仕した。)が一品宮に参上して、「山寺に先日出掛けましたが、岩陰の故院がいらっしゃいました所を拝見しましたが、感慨深く思いました」と言って、
『 岩陰の 煙を霧に 分きかねて その夕ぐれの 心地せしかな 』
( 一条院の葬送の地である岩陰に 立ち上る煙と霧との 見分けがつかず あの日の夕暮れのような 悲しい心地が致しました )
と、詠んだ。
一条院の御念仏、御読経は、一周忌が終るまで続けられるのであろう。
四十九日までの間は、同じように御忌に籠もっていらっしゃった故関白殿(道隆)の御子である僧都の君(隆円。伊周や定子らの末弟。)は退出なさって、飯室(イイムロ・権律師尋円)は引き続きそのまま残られたので、僧都の君のもとに歌を詠み送られた。
『 くりかえし 悲しきものは 君まさぬ 宿の宿守(モ)る 身にこそありけれ 』
( 重ね重ね 悲しいことは わが君のいらっしゃらない 宿の宿守りをしている この身であります )
僧都の君の御返しは、
『 君まさぬ 宿に住むらん 人よりも よその袂(タモト)は 乾くよもなし 』
( わが君がおいでにならない 宿に住んでいる 人よりも 遠くの他所からお偲びしている私の袂は 涙で乾く間もありません )
東宮(敦成親王)は、今は宮中にいらっしゃるので、中宮(彰子)はあれやこれやとお心を煩わせておいでの上に、東宮の御有様を案じる心配まで加わって、お気持ちの晴れることのない日をお過ごしである。
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