『 裏を見せ 表を見せて 散るもみじ 』
この句を私はとても好きで、当ブログでは何度も使わせていただいています。
この句に初めて出会ったのは、ずいぶん昔のことですが、その頃は、「潔い言葉」といった感覚で受取っていたのですが、年を経るに従って、つまり、自らの年を重ねることによって、その色合いのような物が少しずつ変化してきたように感じています。
「表裏一体」という言葉があります。
辞書によりますと、「二つのものの関係が、密接で切り離せないこと」とあります。実はこの言葉を、私は「全員が力を合わせて」といったような意味で使ったことがあります。その時、漠然としてですが、「一枚のものの表と裏が力を合せて」といったイメージで使ってきていました。ところが、辞書の説明によりますと、この表と裏は別物のようです。
一枚の物には、表と裏があり、その二つが接することはありません。その物を曲げるとか破るかすれば表と裏は接することが出来ますが、それは、ルールや原理を逸脱すれば、ということになります。
しかし、物体の場合はその通りですが、物体以外の物となりますと、かなり様子が違ってきます。
「彼は裏表のない人間だ」「彼には裏があるからなぁ」などと言った表現をすることがあります。大体において、前者は良い評価を表し、後者は悪い評価を表しています。
ただ、前者は、「彼は正直者だ」と同じように、軽く見られる場合に使われることもありそうです。
その点、後者の場合は褒め言葉で使われることは、まずありません。「裏家業」などもあまり良い意味では使われないようですが、「裏には裏がある」「裏を返す」「裏をかく」などは、「表」では表現できない味があるような気もします。また、表を表面的と捉えれば、その裏に当たる所には、その人物の本当の姿や価値が秘められているのかもしれません。
最初に挙げました『裏を見せ 表を見せて 散るもみじ』は、良寛さんの辞世の句として紹介されることがあります。
ただ、良寛さんの最期を看取ったとされる貞心尼の著書「蓮の露(ハチスノツユ)」によりますと、「本人の言葉ではないが、息を引き取る寸前に貞心尼に告げられた言葉」らしいのです。
良寛さんについては、少々勉強したことがあるのですが、相当凄まじい生涯を送った人物のようです。故郷を棄て、仏門の道も厳しい修行の結果その道も棄てて、故郷に戻ります。私などは、子供たちと遊ぶ好々爺のような姿を描いていましたので、苦難の末に悟りのような物をつかんだ人物なのだと勝手に思っていました。しかし、そうした人物であっても、死に臨んで、信頼し慈しんでいた人にこの句を告げたのには、まだ最後に見せるべき『裏』があったからなのでしょうか。
そこそこ生きてくると、あまり表と裏が違う生き方は負担が大きいのではないかと、思うようになります。かと言って、最期に見せるべき『裏』が何もないのも寂しいような気もするのですが・・・。
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