『 いよいよ開会式 』
いよいよ あと一時間あまりで 開会式が始まる
ここまで来ても なお 開会に否定的な意見も報道されているが
全体としては 少しずつ オリンピック関係の報道が増えてきている
このオリンピックは
きっと 長く語られることになる大会だと思われるので
時間の許す限り 放送を見ようと思っている
これだけ苦しんだ大会なので 何としても
たとえ満身創痍となっても 閉会式を迎えられることを祈りたい
☆☆☆
『 ここまで来れば 意地でも!! 』
オリンピック いよいよ明日 開会式
それにもかかわらず また新たなトラブルが
東京オリンピックが あまりにも弱い組織に運営されていたことに
ただただ あきれるばかりだが
ここまで来れば 何が何でも
意地でも 成功させねばなるまい
明日の開会式 ぜひみんなで テレビを見ましょうよ
☆☆☆
『 無観客を楽しもう 』
オリンピックが始まった
開会式はまだだが 一部競技が今日から始まった
ほぼ無観客での開催となったが そうであれば
むしろ 一部で有観客になる方が残念な気がする
無観客開催の大会だと 歴史に残せないからだ
考えてみれば 興行収入のことはともかく
オリンピック観戦ということに限れば
世界中でオリンピック観戦をする人が 例えば10億人いるとしても
有観客にしても 直接会場に入れる人は せいぜい数百万人ではないだろうか
無観客開催は 極めて平等だともいえるのでは???
無観客のオリンピック 大いに楽しみましょう
☆☆☆
『 猛暑が続く 』
当地も 厳しい暑さの一日だった
「梅雨明け十日」 という言葉通り
強い日差しが しばらく続きそうだ
特に 北海道などは とんでもない高温となっている
ここ数日は ゲリラ豪雨も まじえながら
猛暑が続きそうだ
コロナ対策もさることながら
くれぐれも 熱中症にご注意を
☆☆☆
『 兵庫県は若い知事を選出 』
兵庫県は 昨日知事選挙が行われ
県民は 四十三歳の 若い知事を選んだ
これまで 全国で 二番目に高齢の知事から
三番目に若い知事に 変わることになるそうだ
高齢だから経験豊富 というわけではなく
若いから斬新 というわけでもないだろう
ただ 兵庫県民は その溌剌とした主張に 期待したはずだ
思い切った政策の展開を 楽しみにしたい
☆☆☆
数ならば かからましやは 世の中に
いと悲しきは しづのをだまき
作者 参議篁
( NO.1425 巻第十五 恋歌五 )
かずならば かからましやは よのなかに
いとかなしきは しづのをだまき
☆ 作者は、小野篁(オノノタカムラ)のこと。平安時代初期の貴族。( 802 - 852 ) 行年五十一歳。
☆ 歌意は、「 私が 人の数に入るような男であれば このようなことはあるまい 世の中で 大変悲しいことは 身分の低い男であることだ 」といった、小野篁らしい皮肉を感じさせる和歌である。この和歌の前書き(詞書)には、「忍びて語らひける女の親、聞きていさめ侍りければ」とある。忍んで逢っていた女の親に、苦情を言われたので返答したものらしく、「恋歌」に入っているが、むしろ可笑しさを感じる。なお、「しづのをだまき」であるが、「しづ」は倭文のことで、古代織物の一種。「をだまき」は、糸を中が空洞になるような丸く巻き付けたもの。ただし、和歌などでは、「いやし」「繰ること」などの序詞と使われることが多い。また、「いと」は糸と掛けられており、「しづのをだまき」の縁語となっている。さらに、「しづ」は「賤」に掛けられていて、「賤しい・身分が低い」ことを表現している。
ややふざけた和歌とも取れるが、多くの技法が込められている和歌でもある。
☆ 小野氏は、神話時代にまで遡ることが出来る名門一族である。信頼に足る歴史上の人物としては、小野妹子は篁の祖先にあたり、小野小町・小野道風は孫にあたる。しかし、小野氏の全盛期はこの頃までで、藤原氏の勢威に上級貴族としての地位は沈んでいくことになる。
☆ 篁の父・小野岑守は文人として高い評価を受けていた。岑守が陸奧守に任じられたとき、篁も同国に赴いていて、弓馬を好み武者の道に進もうとしていたようである。一説によれば、身長が高く偉丈夫であったという。
やがて帰京するが、嵯峨天皇から父の文才に対して武者を志していることを非難されたことから、一念発起して、822 年に文章生の試験に合格している。当時は、武者が文官に比べて低く見られていたことが分かる。
その後、皇太子・恒貞親王(のちに承和の変で廃太子となる。)の東宮学士に任ぜられる。
☆ 834 年、遣唐副使に任ぜられ、従五位上、正五位下と急速に昇進した。しかし、836 年、837 年と、二回続けて渡唐に失敗し、838 年の三回目には大事が発生してしまった。
遣唐大使の藤原常嗣が乗る第一船が損傷したため、篁が乗る予定の第二船に乗船することになり、その変更に不満を示した篁は乗船を拒否してしまったのである。一行は篁を除外して渡唐していった。
その後、さらに篁は、遣唐使制度や朝廷を風刺するような漢詩を作ったことから、嵯峨上皇の怒りを買って、官位剥奪のうえ隠岐国に配流されてしまった。828 年 12 月のことである。
☆ 赦免されたのは 840 年 2 月のことで、6 月頃に帰京している。
帰京を果たした後、篁の人格・文才は高く評価されたようで、841 年には本位(正五位下)に復帰が許され、842 年には、承和の変(廃太子を伴う政変。藤原氏による他氏排斥の最初の事件とされる。)により道康親王(のちの文徳天皇)が皇太子に就くと、その東宮学士に任ぜられた。
これにより、篁は日の目を見ることになり、847 年には参議に任ぜられて、遂に公卿に列したのである。四十六歳の頃のことである。
しかし、その後は、病のため官職を辞すことになったようである。
☆ 850 年に文徳天皇が即位すると、正四位下に叙され、852 年には左大弁(太政官の最高位)に復帰するが、再び病となり参朝さえ困難になってしまった。それでも天皇は大変な信頼を寄せていたようで、何かと支援を続け、在宅のままで従三位に叙されたが、程なく世を去ってしまった。
☆ 以上が作者 小野篁の略歴であるが、実は、筆者が大好きな歴史上の人物の一人である篁の真骨頂は、人間界と冥界を股にかけたスケールの大きな数々の伝説にあると言える。少し長くなるが、その幾つかを紹介させていただきたい。
『 篁は、昼間は朝廷に仕え、夜は冥府において閻魔大王の下で裁判の補佐をしていたと言う。』
『 冥府との往還には、井戸を使っていた。京都東山の六道珍皇寺と京都嵯峨の福正寺にその井戸が有ったと言う。』
『 京都北区にある篁のものとされる墓の隣には、紫式部のものとされる墓があるが、これは、愛欲を描いた罪により地獄に落されていた紫式部を、篁が閻魔大王に掛け合って救ったという縁によるものだと言う。』
『 嵯峨天皇が、「無悪善」という落書を読み解けと命じたが、篁はなかなか応じなかった。天皇がさらに強く求めると、「悪さが無くば善けん」(悪い嵯峨天皇が無ければ善いのに)と読み解くと、天皇は、「読み解けたということはお前が書いたのであろう」と強く責めたと言う。』
『 上記の天皇の怒りに対して、「私はどんな文章でも読めるのです」と釈明すると、「それではこれを読んで見よ」と言って「子子子子子子子子子子子子」という文章を示した。篁は、「猫の子の子猫 獅子の子の子獅子」と読み解いて、大事に至らなかったと言う。』
☆ 小野篁には、異母妹との壮絶な悲恋も伝えられているようだ。
人間社会だけでは納まらない篁と、異母妹との熱愛という人間の業を併せ持った篁・・・、もっともっと知りたいことの多い人物である。
☆ ☆ ☆
『 雨が降る前に 水をまく 』
梅雨が明け 多くの地域が 猛暑となっている
当地も 暑いことは暑いが 雲の多い一日
それも 時々 怪しい雲が流れてくる
ごく近くで 激しい雨との報道もある
ただ 庭の草花は 水を欲しがっていて
朝顔などは 葉が萎んでいる
怪しげな空を見上げながら
雨が降らないうちにと 急いで 水やりをする
何だか これ 変だなぁ と思いながら・・・
☆☆☆
『 ご一家 散策中 』
今 わが家の庭に スズメのご一家が散策中
種をつけている花も多いので それを食べているのか
無農薬で 毛虫の天下なので 助けに来てくれているのか
植木や花壇 鉢から鉢へと 走り回っている
夕暮れに向かうひととき ほっとさせてくれる
当地も 梅雨が明け いよいよ暑さは本番
くれぐれも 熱中症にご注意を
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今昔物語 巻十八
『 巻第十八 』は欠巻となっています。
「本朝付仏法」の一部を成す巻と思われますが、当初ヵら成立していなかったと考えられています。
『 オールスターゲーム 』
プロ野球 オールスターゲーム
主力選手が ずいぶん変わった感じがある
というのも プロ野球のテレビ放送が少なくなり
日頃 お目にかからない選手も少なくない
オオタニサーンひとりに 負けそうなので
日本のベストメンバーを
じっくり 楽しませてもらおう
☆☆☆