『 英国は総選挙へ 』
英国のスナク首相は 下院の総選挙を7月に実施すると発表
与党有利と考えての 決断らしいが
世論調査では かなりの差で野党有利らしい
米国では バイデン現大統領とトランプ前大統領が
微妙な問題を抱えながら 接戦のようだ
一方で ロシアと中国は
楽々と 長期政権を実現した
ところで わが国はどうなるのかな??
☆☆☆
『 USスチールの買収難航? 』
日本製鉄が提案している
USスチールの買収が 難航しているようだ
USスチールの経営陣は 同意しているようだが
労働組合の反対や 米大統領選挙の争点にさえ
なりつつあるようだ
何といっても USスチールは
米国を代表するような企業の 一つであるだけに
米国であっても 資本の論理だけではないらしく
国民感情を 無視することは出来ないようだ
かつて エンパイアステートビルの買収でも
色々あったようなだけに しばらく難航しそうな感じだ
さて 結果やいかに??
☆☆☆
『 明智光秀という人物が、そのような庶民感情を誘うような人物であったのかどうか、これも謎の一つであろう。 』
天海がもし光秀であったとすれば、亡くなった時は百十六歳となる。但し、光秀の生年も諸説ある。
また、上記した天海光秀説に対しては、それぞれに反論があり、天海が光秀であるという説はほぼ否定されている。
同様の話は光秀に限ったことではなく、スケールの大きなものとしては、源義経がチンギス・ハーンになったというものもある。
この種の多くは、いわゆる「判官贔屓」といわれるように、悲運の人物に寄せる願望のようなものが含まれていることが多い。
明智光秀という人物が、そのような庶民感情を誘うような人物であったのかどうか、これも謎の一つであろう。
( 運命紀行「謎と謎を結ぶ」 より )
『 沖縄・奄美が梅雨入り 』
本日 気象庁は 沖縄・奄美地方が
梅雨入りしたとみられる と発表した
平年より 沖縄で11日遅いそうだ
当地などは この数日は晴れが続き
今日も 多くの地域で 30℃を超えている
梅雨入りは もう少し先になるが
すでに 真夏に近い天候が 度々顔を見せそうだ
長期予報も 今年の夏は暑いと
この数年聞き慣れた 予報が伝えられていた
テレビなどでも 暑さ対策を色々教えてくれているが
腹八分目 行動も八分目で 酷暑に備えたい
☆☆☆
『 ダルビッシュ投手が日米通算200勝 』
米大リーグ・バドレスの ダルビッシュ投手が
圧巻の投球で 日米通算200勝の偉業を達成した
パドレスとは 2028 年までの 長期契約を結んでおり
200勝の偉業も 通過点の一つに過ぎないのだろうが
この数試合の 充実しきった投球を見ると
パドレスが 42歳までの
異例の長期契約を結んだのも 納得できる
伝えられているところによると 戦力面だけに限らず
その人柄など 若い選手への影響も 高く評価されているとか
その点は WBC日本チームでの動向からも 納得できる
偉業と 今後のますますの活躍に
感謝と拍手を送ります!!
☆☆☆
今昔物語 その2 ご案内
『 今昔物語 その2 』には 巻第六から巻第十 までを収めています
巻第八は欠巻となっていますが、 いずれも「震旦」に関する作品です
掲載順は 巻第十から巻第六へと逆になっていますが ご了承下さい
『 今昔物語 巻第十 ご案内 』
「巻第十」は、全体の位置付けとしては、「震旦付国史」となっています。
国史となっているのは、仏法を中心としたものに対して、世俗系の治世や歴史を
中心とした物語が多く集められているからです。
なお、震旦(中国)を中心とした五巻の最終巻になります。
『 始皇帝の最期 ( 1 ) ・ 今昔物語 ( 10 - 1 ) 』
今は昔、
震旦の秦の御代に、始皇という国王が在(マ)しました。
勝れた知性と勇猛な心で以て世を治めたので、国内で従わない者はいなかった。少しでも自分の命令に従わない者がいれば、その首を切り取り足や手を切った。されば、人民は皆、風になびく草の如く服従した。
始めて、感楊宮(カンヨウグウ・感陽宮とも。)という宮殿を造って都とした。
その都の東に関所があった。感谷関(カンコクカン・函谷関に同じ。)と言う。櫃の迫(ヒツのハザマ・大きな箱の角)のようであったので感谷関と言うのである。
また、王城の北には高い山を築いた。これは、胡国(ココク・北方遊牧民の国)と震旦との間に築き並べた山である。胡国の遊牧民が侵入してくる道を防ぐためである。(万里の長城のこと。)震旦側は普通の山のようで、人が登って遊んだ。遙かに高い山の頂上に登って胡国の方を見ると、さえぎる物がない。胡国側は垂直の高い壁を塗ったようになっていて、人が登ることなど出来ない。
山の東西の長さは、千里ある。高いことは雲の如し。されば、雁が渡る時、この山並みが高くて飛び越えることが出来ないので、山に雁が通れるほどの穴を開けていて、そこを飛んで通った。雁は、それが習性となって、大空であっても、列を作って飛ぶのである。
これは、胡国の襲来を恐れて築いた物で、始皇帝は「わが子孫は、代々引き継いでこの国を治めるべきで、他者の統治を認めない」(このあたり、破損による欠文が多く、推定した。)と、「又、これまでに代々踏襲されてきたことを皆廃止して、我が新しく政を定める。又、過去の代々の書籍(ショジャク)をすべて取り集めて焼き棄てて、我が新しく書籍を作って世間に留め置くこととする」と。
されば、孔子の弟子などには、大切に書籍などを密かに隠して、壁の中に塗り込めて後世に残そうとした。
ところで、始皇帝には昼夜に寵愛している一頭の馬がいた。名を左驂馬(ササンマ)と言う。この馬の体は、竜と違わないほどである。
これを朝暮に可愛がって飼っていたが、始皇帝の夢の中で、この左驂馬を海に連れて行って体を洗ってやっていると、高大魚(コウタイギョ・鮫のような物か?)という大きな魚がにわかに大海より現れて、左驂馬を食い付いて海に引き入れようとしたところで、夢から覚めた。
始皇帝は、心の内で極めて怪しいことだと思った。「どうして、我が宝として大切に育てている馬を、高大魚は喰らおうとするのか」と大いに怒り、国じゅうに宣旨を下した。「大海に高大魚という大きな魚がいる。その魚を射殺した者には、望み通りの賞を与えよう」と。
そこで、国じゅうの人はこの宣旨を聞くと、それぞれが大海に行き、船に乗って遙か沖に漕ぎ出して、高大魚を探し回ったが、わずかに高大魚の姿を見る者もいたが、とても射ることなどできなかった。
そこで、帰って王に申し上げた。「大海において高大魚の姿を見ることは出来ましても、とても射ることなど出来ません。これは、竜王に妨げられているためです」と。
始皇帝は、これを聞くと、わが身への祟りを恐れて、それを除くために方士(ホウジ・道士。道教の術者。)と言う人に、「お前は、速やかに蓬莱の山に行って、不死薬という薬を取ってこい。蓬莱は未だ知られていな所だといえども、昔より今に至るまで、世間に多く伝承が伝わっている。すぐに行くのだ」と命じた。
方士は、この宣旨を受けて、すぐに蓬莱に向かった。
それから後、還って来るのを待っているうちに、数ヶ月が過ぎ、ようやく還って来ると、王に申し上げた。「蓬莱に行くのはたやすいことでした。しかしながら、大海に高大魚という大きな魚がおります。これが怖ろしいために、蓬莱に行き着くことが出来ませんでした」と。
始皇帝は、この事を聞くと、「その高大魚、我に対して様々に悪事を働く。されば、やはり、あの魚を射殺すのだ」と宣旨を下したが、誰も大海に行って高大魚を射ようとはしなかった。
すると、始皇帝は、「我自らが、速やかに大海に行って、高大魚を見つけて射殺してやろう」と言って、忽[ 欠文。「大軍を調えて」といった文章らしい。]彼の所に行き、始皇帝自ら船に乗って、遙かに大海[ 欠文。「高大魚を発見した経緯など]らしい。]見る事を得たり。
そこで、始皇帝は喜んで、これを射ると、魚は矢に当たって死んだ。始皇帝は大いに喜んで帰還する途中、天の罰を蒙ったのであろうか、[ 欠字。史実としては「平原津」らしい。]という所において、重病となった。
その時、始皇帝は、我が子の二生(ニセイ・二世。「胡亥」のこと。)という人、並びに大臣の超高(チョウコウ)という人を呼び寄せて、密かに申し渡した。「我は、突然重病となった。きっと死ぬだろう。我が死んだ後は、大臣・百官は一人として相従って王城に返ってはならない。この所に全員を棄てて、還るのだ。そこで、我が死んでも、この所において我が死を公表しないで、なお生きていて車の中にいるようにして、王城に連れ帰ってから正式に葬送を行うべし。王城に還る途中で、大臣・百官が離反することを恥じるからである。決して、この事を違えてはならない」と。こう言い残すと同時に死んだ。
その後、彼の遺言の如く、この二人は、始皇帝が生きているように取り扱って帰還したが、その途中で命令すべき事があれば、王の仰せのようにして、この二人で相談して命令を下した。
( 以下 ( 2 ) に続く )
☆ ☆ ☆
『 始皇帝の最期 ( 2 ) ・ 今昔物語 ( 10 - 1 ) 』
( ( 1 ) より続く )
さて、始皇帝の死を隠して都に向かったが、夏の頃とて、数日経つうちに、車の中は極めて臭くなってきた。
そこで、始皇帝の子の二生と大臣の超高の二人は、相談して対策を立てた。それは、すぐに方魚(塩漬けの魚。異臭を放つ。)という物をたくさん召し集めて、車に積んで前後に連ならせ、また始皇帝の車の前後にも掛けさせた。
この魚は大変臭いので、その香りは他の魚と比べようがないほどである。そのため、車の中の臭い香りは、その方魚の香りにまぎれて、人に知られることがなかった。
始皇帝が生きていた時も、勝手気ままな政は常のことであったから、人々はこの様子を怪しみ疑うことはなかった。
こうして、数日掛けて王城に還り着き、正式に葬儀を行った。
その時になって、人々は始皇帝の死を知ったのである。
その後、二生が王位に就いた。大臣の超高と相談して政務を行った。
やがて、この国王は、「わが父始皇は、国内の政を思うに任せて行われた。我もまた、父のように行いたいものだ」と思って、政務を行っているうちに、大臣の超高と仲違いした。
超高は、「この国王、始皇帝の子ではあるが、まだ即位して幾らも経っていない。即位して間もないのにこの有様だ。いわんや、長年経ったなら、我が為に良い事などあるまい」と思って、たちまち謀反の心が芽生えた。
ただ、超高は、世間の評判が分からず、どちらに味方するか気掛かりだったので、世評を試してみようと思って、鹿一頭を国王の前につれて参って、「このような馬がおりました」と申し上げると、国王はこれを見て、「これは鹿という獣である。馬ではない」と仰せになると、超高は、「これは[ 欠字あるも不詳。]馬です。世間の人にお尋ねになると良いでしょう」と申し上げた。
そこで国王は、世間の人にお尋ねなると、これを見た人は、皆が「これは鹿ではありません。馬でございます」と申し上げたので、その様子を見て超高は、「なるほど、世間の人は皆、我が方に味方しているようだ。謀反を起こすのに、何の障りもないだろう」と受け取って、ひそかに大軍を準備して、隙を窺い十分に配慮して、王宮に入って国王を攻撃しようとした。
国王はこれを知って、「我は国王だとはいえ、未だ権力を握ってから日は浅く、軍勢も少ない。超高は臣だとはいえ、長年権勢を振るってきた者で、その勢力は強大である。されば、我は逃げよう」と思って、ひそかに王城を脱出して、望夷宮(ボウイグウ・始皇帝が造営した宮殿。)という所に籠もった。
すると、超高は、大軍を引き連れて望夷宮を包囲して攻撃した。国王も軍勢で以て防ごうとしたが、軍勢の差は大きく、とても支えきれない。勢いに乗って、大臣方の軍勢はさらに攻め続ける。
遂に国王は、どうすることも出来なくなり、大臣に申し出た。「大臣、我が命を助けよ。我は、必ずこの後、大臣の御為に軽んずるようなことはしない。また、国王の地位は返上して、一臣下として貴方に仕えよう」と。
しかし、超高は、これを聞き入れず、自軍を激しく攻めさせた。
国王は、又申し出た。「それでは、我を小国の王(一郡の長、といった意味らしい。)にして、遠隔地に追いやってくれ。そして、命だけは生かしてくれ」と。
超高は、それも聞き入れず、なおも攻めた。
国王は、又申し出た。「それでは、我を、何者でもない普通の身分に落して、追放してくれ。決して我は、それなりの地位を得ようとは思わない。何とか、命だけは助けてくれ」と。
このように、国王は何度も命乞いをしたが、大臣はまったく受け入れず、激しく国王方を攻めて、遂に二生を討ち果たした。
その上で、超高は軍を引いて、王城に還った。
その後、始皇帝の孫に子嬰(シヨウ)という人を王位に就けた。
子嬰は、「我は、国王となって国を治めることは、嬉しいことだが、我が伯父の二生は、国王の地位にあっても、超高のために殺されてしまい、長く国を治めることが出来なかった。我もまた、その様になるだろう。少しでも意に添わないことがあれば、大臣の超高に殺されてしまうことは、疑うまでもあるまい」と思って、密かに謀を立てて、超高を殺した。
その後、子嬰は何の恐れもなく国を治めたが、周囲の者を信頼せず、腹心の者が少ないのを見て、項羽という武将が現れ、子嬰を殺害した。同時に、感楊宮を破壊し、始皇帝の[ 欠文。別資料では「塚を掘る」とあるらしい。]秦の宮室を焼いた。その火は、三ヶ月消えることがなかった。
子嬰が王位にあったのは、四十六日間である。これによって、秦の御代は滅びたのである、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 漢の高祖誕生 ・ 今昔物語 ( 10 - 2 ) 』
今は昔、
震旦に漢の高祖(コウソ・劉邦)という人がいた。
この人の母は、もとは身分の低い家柄の人である。父は、竜王である。
高祖の母、その昔、道を歩いていて、池の堤を通り過ぎようとした時、にわかに雷震が起り、辺りは闇の如く真っ暗になった。
母はこれを恐れて、堤にうつ伏せに身を伏せた。すると、雷はたちまち女の上に落ち掛かって、女を犯した。
その後、女は懐妊して、男子を生んだ。その後、また、女子を生んだ。
その男子は、数年を経て、成長していった。
ある時、その母が自ら田に入って耕作していたが、一人の老人がその近くを通りかかった。
老人は、田仕事をしている女を見て、「そなた、特に優れた相をお持ちだ。きっと国母になるでしょう」と言った。
女は、「わたしは、決してそのような相を持っているはずがありません。わたしは、貧賤・下姓の女でございます。どうして、国母の相など持っていましょうか」と答えた。
その時、女の男女二人の子がやって来た。
すると、その老人は、また、二人の子を見て言った。「そなたは、この二人の子によって、国母の相を備えたのです。兄の男子は、きっと国王となるでしょう。下の女子は后となるでしょう」と言って、去って行った。
兄の男子というのは、漢の高祖その人である。下の女子というのは、[ 欠字。名前らしいが不詳。]という后は、この人である。
その後、高祖は、この事を聞いて、老人の予言を信じて、心の内に国王となることに期待を抱いた。世間の人に知られることなく、芒碭山(モウヨウセン)と言う山に隠れ住んだ。
ところが、秦の始皇帝の御代に、五色の雲が常にその芒碭山にたなびいた。始皇帝はこれを見て不思議に思い、「我こそが、天下にただ一人の者として世に君臨しているのに、なぜ、いかなる者があの山に住んでいて、常に五色の雲をたなびかせているのか」と怪しみ、使者を遣わして命令した。「あの芒碭山には常に五色の雲がある。間違いなく行って、その様子を見て、もし人が居れば殺して参れ」と。
命令に従って、使者が赴き、住む人を尋ね捜すこと数度に及んだ。しかし、高祖は逃れ去っていて、討たれることはなかった。
芒碭山に、高祖が隠れ住んでいた木の上には、常に五色の竜王が現れていた、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆