雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

高祖と項羽 ・ 今昔物語 ( 10 - 3 )

2024-05-20 14:46:12 | 今昔物語拾い読み ・ その2

      『 高祖と項羽 ・ 今昔物語 ( 10 - 3 ) 』


今は昔、 
震旦に漢の高祖という人がいた。
秦の御代が滅びた時に、感楊宮を攻め取って拠点にしていた。
また、その頃、項羽(コウウ)という人がいた。この人は、国王となるべき家柄の人である。「我は、必ず国王の位に昇るべきだ」と思っていたが、高祖が感楊宮を攻め取って居城にしていると聞いて、大いに不愉快に思った。

そうした時、一人の男がやって来て、項羽に告げた。「高祖は、すでに感楊宮を攻め取って、国王になっている。『[ 欠字。秦王の「子嬰」らしい。]を我の臣下とする』と決められました。あなたは、どうなさるのでしょうか」と。
項羽は、これを聞いて大いに怒り、「我こそが王位に就くべきであるのに、高祖は、どうして我を超えて王位に昇ったのか。されば、感楊宮に行って高祖を討ち滅ぼそう」と相談の上決定させ、すぐに出陣した。
もともと項羽は、勇猛な心の持ち主で、弓矢の技量は高祖より勝れている上に、軍勢を集めること四十万人に及んだ。高祖方の軍勢は十万人である。

項羽が軍勢を調えてまさに出立しようとしたが、その頃、項羽と親しい項伯(コウハク・項羽の伯父にあたる。)という人がいた。
この人は、項羽の一族であるが、長年項羽に随って従者として仕えていた。心は勇猛で武者として並ぶ者とてないほどである。
一方、高祖の第一の従者として張良(チョウリョウ・知謀の将として著名。)という者がいた。この項伯と長年無二の親友として、何事につけ分け隔てのない付き合いをしていた。
二人は互いに心を通わせて過ごしていたが、項羽が激怒して軍勢を集め、高祖を討つために感楊宮に出撃しようとしているのを見て、項伯は思った。「高祖はきっと討たれるだろう。高祖が討たれると、我が親友の張良も必ず殺されるだろう。そう思うと、とても堪えられない」と。そして、ただちに項伯は、密かに張良の所に行って、状況を知らせて言った。「貴君は知らないだろうが、項羽は高祖を討つために、軍勢を調えて感楊宮に向かって出立しようとしている。項羽は勇猛で勝れた武将である。それに、兵員の数は遙かに多い。されば、高祖は間違いなく討たれるだろう。高祖が討たれると、貴君の命も危うい。この戦いによって、貴君と我との長年の友情が永久に絶えてしまう。それゆえ、貴君が高祖の許を離れるほかない」と。

張良は、これを聞いて答えた。「貴君の意見は、まことにその通りだ。長年の友情とは、こうあるべきだ。我は極[ 欠字あるも不詳。]也[ 欠字あるも不詳。]教えに従うべきではあるが、我は、長年高祖に仕えて、自分の心に違えることがなかった。また、我と一切隔てる心なく長年やって来たのに、今、命が失われようとする時に臨んで去ることは、互いの信頼を忘れることで、それは、思いもよらないことである。されば、この命を棄てることになろうとも、このまま高祖を見捨てて去ることは、とてもできないことだ」と。
項伯は、これを聞くと、帰って行った。

その後、張良は、高祖に話した。「項羽は、すでに貴君を討たんがために軍勢を整えて攻撃してくると聞きました。あの男は、軍事に関して人に勝っています。また、兵の数は四十万人のようです。わが軍は十万人です。もし戦えば、きっと討たれてしまうでしょう。されば、ここは項羽に降伏しなさい。命に勝るものなどありますまい」と。
高祖は、これを聞くと驚いて、張良の進言に従った。使者を項羽の所に遣わして、「貴君は、どなたかの偽りの言葉によって、悪行を起こされてはなりません。我は、決して帝位に昇ろうという気持ちはありません。ただ、子嬰(シヨウ・三代皇帝。)の後、秦王朝が破れて乱れているのを、世を鎮めるために感楊宮を鎮圧して、貴君が帝位に昇っておいでになるのを待っているのです。どなたかの事実でない言葉をお信じになってはなりません。我は、この宮に逗留してはいますが、未だ玉璽(天子の印)も王国の財宝も動かさせてはいません」と伝えた。

項羽はこの事を聞くと、「高祖の言っていることを我は確かに聞いたが、直接会って語り合おう。されば、鴻門(コウモン・地名)に来るがよい。その所で会おう」と、日を定めて連絡させた。
その日になると、高祖は家臣をそれほど多く連れないで鴻門に行き会談に臨んだ。
項羽は、兵車千両・万騎の家臣を引き連れてやって来た。その中には、項伯が項羽の第一の家臣として加わっていて、今日は事を起こしてはならない旨を熱心に項羽に言上していた。それは、ひとえに張良と親しい友であるがゆえであった。
やがて、鴻門において会談する。
鴻門というのは、大きな門のことである。(実際は、単なる地名で、門があるわけではない。)そこに、大きな幕を引き渡して、その中にまず項羽・項伯らが入り、並んで東向きに席に着いた。その側には、南向きに項羽の家臣である范増(ハンゾウ)が着座している。范増は、熟練で軍事に精通していた。
その向かいには、北向きに高祖は着座した。高祖の家臣である張良は、西向きに少し控えて着座した。

やがて、これまでの経緯などについて会談する。
高祖は、自分には決して敵対する意志がないことを告げた。連れてきた家臣たちは皆門の下に待ち受けていて、心を奮い起こし、万が一に備えていた。
一方、范増は、項羽に目配せして、高祖刺殺の合図を送ったが、項羽はまったく無視する。( このあたり、破損部分が多く、推定した部分がある。)
そこで、范増は、「高祖を、必ず今日討ち取るべきである。もし、今日討たなければ、後で大いに後悔するだろう」と思って、項羽が信頼している家臣である項荘(項羽の従弟)という者を密かに呼び寄せて、「高祖を、今日、必ず討ち取るべきだ。どのように計略を立てればよいか」と相談して、「すぐに、この座において舞を披露するよう申し出よう。項荘がその舞人として剣を抜いて舞って、その座の辺りを舞ながら、高祖の所に近付いた時に、舞ってるようにして高祖の首を切り取ろう」と打ち合わせた。
それから、計画したように、舞を披露する旨申し出た。

その時、項伯は、その気配を見て取って、やはり張良が気の毒に思ったので、すぐに項伯も立ち上がって、共に舞って、高祖に立ち塞がって討ち取れないようにした。
すると、高祖はその気配を察知して、何気なく少しばかり立つようにして逃れた。そして、暇を請うために席に戻ろうとしたところ、高祖の家臣の燓会(ハンカイ)が強く制止して、席に返らせず連れて逃げた。同時に、張良を席に戻して、「これは、我が主君からの引き出物でございます」と言って、白璧一朱(ハクヘキイッシュ・白い輪型の玉、一双。)を項羽に奉った。玉斗(ギョクトウ・玉で出来た酒器。)を范増に与えた。范増はこれを受け取らず、打ち砕いて棄てた。
また、この燓会は、人間ではあるが、まるで鬼のようであった。一度に猪の肉片足を食べ、酒一斗を一口で飲んだ。

その後、項羽は陣を引いて還っていった。
その後(二年後の出来事)、項羽は高祖の許に使者を遣ったが、高祖は格別の宴席を準備して、使者をもてなそうとしたが、訪れたのが項羽からの使者だと知ると、用意させていた格別の宴席を中止させて、粗末な食事を出して、「実は、范増殿からの使者だと思ったので格別の宴席を準備していたのです。項羽からの使者であれば、その様な宴席はいりませんからなぁ」と言ったので、使者は帰ってから項羽にその事を話した。
項羽はそれを聞くと大いに怒り、「なるほど、范増は高祖と仲が良いと言うことだな。我はその事を知らなかった」と言った。
范増は、「我が主君は、思慮の足りない人物だ。前から思っていたことだ」と言って、項羽の許を去った。

また、項羽は、張良と項伯が親しい関係にあると聞き及んで、項伯に訊ねた。「どういうわけで、お前は我に臣従していながら、張良と仲が良いのだ」と。
項伯は、「かつて、始皇帝の御代に、我は張良と共に仕えていました時、我は、人を殺してしまったことがありました。ところが、張良はその事を知りながら、今まで誰にも告げようとしません。その恩を忘れることが出来ないからです」と答えた。

それから後のこと、高祖は感陽宮(感楊宮)に籠居し続け、軍を増強して、項羽を討つことを決心して、張良・燓会・陳平(家臣の一人)等と相談したうえで出陣した。
ところが、その途中で、白い蛇(クチナワ)に出会った。高祖はそれを見て、すぐに切り殺させようとした。
すると、その時、一人の老媼が現れて、白い蛇を殺そうとしているのを見て、泣きながら言った。「白き竜の子が、赤き竜の子に殺されようとしている」と。
これを聞いた人は、高祖は赤き竜の子だったのだ、ということを人々は知ったのである。

     ☆   ☆   ☆

* 最終部分は、欠文になっているようですが、「定型の結び」が欠けているだけのようです。

     ☆   ☆   ☆

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天ノ川の源を尋ねる ・ 今昔物語 ( 10 - 4 )

2024-05-20 14:45:41 | 今昔物語拾い読み ・ その2

      『 天ノ川の源を尋ねる ・ 今昔物語 ( 10 - 4 ) 』


今は昔、
震旦の漢の武帝の御代に、張騫(チョウケン・前 113 年没)という人がいた。
天皇(正しくは皇帝。以下は皇帝を使う。)は、その人を召して、「天河(アマノカワ・七夕伝説の天ノ川のこと。)の源を尋ねて参れ」と仰せになって向かわせたので、張騫は宣旨
をうけたまわって、浮き木に乗って河の水上(ミナカミ)を尋ねて行くと、遙かに行き行きてある所に至った。
その所の様子は、全く見たこともない。そこに、いつも見ている人とは異なる様子の者が、機(ハタ)を数多く立てて布を織っている。また、見たこともない翁がいて、牛を引いて立っている。

張騫は、「ここは、どういう所ですか」と尋ねると、「ここは天河という所です」と答えた。
張騫が、また「この人々は、どういう人々ですか」と尋ねると、「私たちは、織女・牽星(タナハタツメ・ヒコボシ)と言います。ところで、あなたはどういう人ですか」と尋ねたので、張騫は「私は張騫と言います。皇帝の仰せによって、『天河の水上を尋ねて参れ』という宣旨をうけたまわって、ここまで来たのです」と答えると、ここの人々は、「此処こそは、天河の水上です。もう、返りなさい」というのを聞いて、張騫は返ってきた。

そして、皇帝に奏上した。「天河の水上を尋ねて参りました。ある所に至りますと、織女は機を立てて布を織り、牽星は牛を引いていて、『此処こそ天河の水上です』と申しましたので、そこから返って参りました。その所の様子は、普通の所とはまったく異なっておりました」と。
ところで、張騫が未だ返ってきていない時に、天文の者が七月七日に参上して、皇帝に申し上げたことは、「今日、天河のほとりに知らない星が現れました」というものであった。
皇帝はそれをお聞きになって、怪しくお思いになっていたが、この張騫が返ってきて申し上げたことをお聞きになって、「天文の者が、『知らない星が現れた』と言っていたのは、張騫が行ったのが見えたのだったのだ。ほんとうに尋ねて行ってきたのだ」とお信じになった。

されば、天河は天にあるのだが、天に昇らない人でも、このように見えたのである。これを思うに、その張騫という男は只者ではないに違いない、と世間の人は疑った、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆ 

コメント (4)
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美貌が故の災難 ・ 今昔物語 ( 10 - 5 )

2024-05-20 14:45:11 | 今昔物語拾い読み ・ その2

      『 美貌が故の災難 ・ 今昔物語 ( 10 - 5 ) 』


今は昔、
震旦の漢の前帝(不詳。誤記らしく、前漢第十代元帝か?)の御代に、天皇(皇帝)は、大臣・公卿の娘で、容姿が美麗で優雅な者を選んで召し集めて、全員を宮中に座らせて、じっくりとご覧になられたが、その数が四、五百人にも及び、後には余りに多くなってしまい、とても全員をご覧になることもなくなってしまった。

ところで、胡国(ココク・西方の遊牧民の国。)の者たちが、都にやって来たことがあった。これは、夷(未開の国を指している。)のような者たちである。
そこで、皇帝を始め、大臣・百官など皆が集まって、どう対応すべきが議論したが、なかなか結論が出ない。ただ、一人の勝れた大臣がいて、その良い案を思いついて申し上げた。「あの胡国の者たちがやって来たことは、わが国にとって極めて良くないことです。それゆえ、策を練って、彼らを本の国に帰らせることで、その為には、宮中に無駄に大勢いる女たちのうち、容姿が劣る女を一人、あの胡国の者に与えるのがよろしいでしょう。そうすれば、きっと喜んで帰ることでしょう。これに勝る手段は決してありません」と。

皇帝は、これをお聞きになって、「なるほど」とお思いになったので、自ら女たちを見て、胡国の者に与えるべき者を決めようとなさったが、宮中にいる女人たちが余りに多く、思い悩んでしまわれたが、何とか思い至ったことは、「大勢の絵師を呼んで、この女人たちを見せて、その容姿を絵に描かせ、それを見て、容姿が劣っている女人を胡国の者に与えよう」ということであった。
皇帝の仰せによって、絵師たちを召して、宮中の女人たちを見せて、「この女人たちの姿を絵に描いて持って参れ」と仰せになったので、絵師たちは女人たちを描き始めたが、その女人たちは、夷の生け贄となって遙かに遠い見知らぬ国へ行くことになるのを嘆き悲しんで、誰もが我も我もと絵師に、ある者は金銀を与え、ある者は諸々の財宝を差し出したので、絵師はそれに影響を受けて、それほどでもない容姿の者も美しく描き上げて持参した。
その女人たちの中に王照君(オウショウクン)という者がいた。容姿の美しいことは抜きん出ていたので、王照君は自分の美貌に自信があり、絵師に財宝などを与えなかったので、その姿のままに描こうとしないで、大変賤しげに描いて持参したので、皇帝は、「この者を与えることにせよ」と決定された。

ところが、皇帝はふと思うところがあって、その女人を召し寄せてご覧になると、王照君はまるで光を放っているかのように美しい。実に玉の如くである。
それに比べると、他の女人はみな土の如くなので、皇帝は大いに驚き、この女人を夷に与えることを嘆いているうちに、数日が経ち、夷が「王照
君を下さる」という噂を聞いて、宮中にやって来てその旨を申したので、もはや、改めて決めなおすことなく、遂に王照君を胡国の者に与えたので、王照君を馬に乗せて胡国に連れて行ってしまった。

王照君は、泣き悲しんだが、もうどうすることも出来ない。
また、皇帝も王照君を恋い悲しんで、その思いが募り、王照君が連れて行かれた所に行って見てみると、春は柳が風に靡(ナビ)き、鶯がわびしげに鳴き、秋は木の葉が庭に積もり、軒の[ 欠字あるも不詳。]隙間なく、物哀れなること言いようもなく、ますます恋い悲しまれるのであった。

あの胡国の人は、王照君を賜って、喜んで、琵琶を弾き様々な楽器を演奏しながら連れて行った。
王照君は泣き悲しみながらも、その演奏を聞いて少し心が慰められた。胡国の人は、自国に連れ帰ると、后として寵愛すること限りなかった。それでも、王照君の心は、決して慰められることはなかったであろう。
これは、自分の美貌に自信がある故に、絵師に財宝を与えなかったからである、と当時の人は非難した、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆ 

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忘れさられた妃 ・ 今昔物語 ( 10 - 6 )

2024-05-20 14:44:45 | 今昔物語拾い読み ・ その2

     『 忘れさられた妃 ・ 今昔物語 ( 10 - 6 ) 』


今は昔、
震旦の唐の玄宗(ゲンソウ・第六代皇帝。762 年没。)の御代に、后・女御は大勢いらっしゃったが、ある人は寵愛されていたが、皇帝に見(マミ)え奉ることさえない人もいたが、皆、宮中に伺候していた。

ある時、ある公卿の娘[ 欠字あるも不詳。]に、並ぶ者とてないほど容姿が勝れ有様が立派であるのを皇帝がお聞きになって、熱心にお召しになった。
父母は拒むことなくして、娘の年が十六の時に奉った。その宮中に参内する時の有様は、すばらしい事限りなかった。
この国の習いとして、女御として入内する人は、再び退出することはないので、父母は別れることを嘆き悲しんだ。

さて、その女御は、皇帝がいらっしゃる宮殿内には住まず、離れて別の宮殿にお住まいになった。その宮殿の名を上陽宮(ジョウヨウグウ)と言う。
ところが、どういうことなのか、その女御が参られてから後、皇帝がお召しになることがなく、御使者さえ尋ねてこないので、ただ一人寂しく宮殿内でぼんやりと過ごしていたが、しばらくの間は、今か今かとお思いであったが、虚しく年月が過ぎて行き、すばらしかった容姿も次第に衰え、美麗であった有様もことごとく変っていった。
女御の家の人たちは、入内した始めの頃は、「あの君が、宮中に参上なさったので、我等はきっと恩恵にあずかる身となるだろう」と思っていたが、まったく当てが外れて失望するばかりであった。

このように、皇帝が召し出した女御がどうしているかとさえ思い出さないことは、他の女御たちが、この女御が美しいこと並ぶ者とてなく、自分たちが劣るため、策をめぐらして別の宮殿に押し込めていたからであろう。あるいは、国土は広く政治の務めは煩雑なので、天皇もお忘れになってしまっているのを、思い出させ奏上する人もなかったようだ、と世間の人はたいそう不思議に思った。

こうして、皇帝に対面することもなく、お嘆きになっている間に、奥深くにある宮殿において、長い年月を重ね、過ぎゆく年月を十五夜の月を見るごとに数えると、自分の年齢はそれほどになってしまったのだ。
春の日は遅くしてなかなか暮れず、秋の夜は長くしてなかなか明けず。そして、紅の顔(カンバセ)は若き頃の風情にあらず、柳のような髪は今や黒き筋もない。されば、親しくない人とは会わないと、恥じられる。
十六歳にして参内なさり、すでに六十歳におなりであった。

ある時、皇帝は、「そういう事があった」と思い出され、たいそう後悔なされた。
そこで、「何としても、会わないでいられない」と思ってお召しになられたが、その身を恥じて参上なさらず、お会いしないままになった。
この人を、上陽人(上陽の人。玄宗皇帝が楊貴妃を寵愛するあまり、上陽宮に忘れ去られた妃。)という。
物の道理をわきまえている人であれば、これを聞いて、とても理解することは出来まいと、
此(カク)なむ語り伝へたるとや。

    ☆   ☆   ☆

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玄宗皇帝と楊貴妃 ・ 今昔物語 ( 10 - 7 )

2024-05-20 14:44:18 | 今昔物語拾い読み ・ その2

     『 玄宗皇帝と楊貴妃 ・ 今昔物語 ( 10 - 7 ) 』


今は昔、
震旦の唐の御代に玄宗という皇帝がいらっしゃった。性(ヒトトナリ)は、生まれつき色を好み、女を愛し給う心が強かった。

さて、皇帝には、寵愛しておられる后と女御がいた。后を[ 欠字。皇后の名前が入るが、良く分らない。]后宮と言い、女御を武淑妃(ブシュクヒ・伝不詳)と言った。
皇帝は、この人たちを寵愛し大切になさっていたが、その二人の后・女御が続いて亡くなってしまったので、皇帝はたいそう嘆き偲ばれたが、どうすることも出来ない。ただ、その人たちに似た女人を見つけようと、強く願い探し求められたが、人に任せているだけでは心許ないと思われてか、皇帝自ら宮殿を出てあちらこちらへと行き、様々な所を見て回られているうちに、弘農(グノウ)という所に行きあたられた。

その所に、楊の庵(ヤナギノイオリ・楊造りの庵、と思われるが、楊氏の庵が正しいらしい。)があった。その庵に、一人の翁がおり、名を楊玄琰(ヨウゲンエン)と言う。
従者にその庵を訪ねさせて様子を調べさせたところ、楊玄琰には一人の娘がいた。容姿は美しく有様のすばらしいことは世に並ぶ者がないほどである。まるで光を放っているように輝いていた。
従者はその娘を見て、皇帝にその旨を奏上すると、皇帝は喜んで、「すぐに連れて参れ」と仰せになったので、従者がその娘をお連れすると、皇帝はその娘をご覧になると、亡くなった后や女御よりも増さっていて、その美しさは数倍にも及ぶ。

そこで、皇帝は喜びながらその娘を輿に乗せて、宮殿に連れ帰った。
三千人にも及ぶ後宮の中でも、この人の美貌は抜きん出ていた。その名を楊貴妃という。
そのため、皇帝は他の事には目を向けようとせず、夜も昼も楊貴妃を寵愛なさるので、世の中の政もご存じなく、ただ、春は花を共に興じ、夏は泉に並んで涼み、秋は月を共に眺め、冬は雪を二人でご覧になられる。
このように、皇帝は楊貴妃を側から離さず、その他の事に割く時間は全くなく、この女御の御兄の楊国忠(ヨウコクチュウ)という人に、世の政をお任せになっていた。これによって、世間の大変な不満になっていた。そこで、世の人々は世間話で、「世にある人は、男子を儲けるよりは、女子を儲けるべきだ」と取沙汰した。

このように、世の中が騒がしくなっていたが、その時の大臣に、安禄山(アンロクザン・757 年没)という人がいた。賢明で思慮深い人で、皇帝が楊貴妃を余りにも寵愛するあまり、世の中が乱れることを嘆いて、「何とかこの女御の命を奪って、世を立ち直らせよう」と思う心があり、安禄山は密かに軍兵を集めて王宮に押し入ったが、皇帝は大変恐れて、楊貴妃を連れて王宮を脱出した。楊国忠も共に脱出したが、皇帝の護衛に当たっている陳玄礼(チンゲンレイ)という人がいたが、それが楊国忠を殺害した。

それから、陳玄礼は鉾を腰に差して、御輿の前にひざまづいて、皇帝を礼拝して申し上げた。「我が君、楊貴妃を寵愛なさるあまり、世の政に関わろうとなさらない。その為、世はすでに乱れております。国民の嘆きは、これに勝るものがありましょうか。願わくば、その楊貴妃を私に賜って、天下の怒りを鎮めるべきです」と。
しかし、皇帝は楊貴妃を思う心が深く、手放すことはとても出来ず、下賜することはなかった。

そうしている間に、楊貴妃はその場を逃れて、お堂の中に入り、仏の放つ光の中に身を置いて隠れようとしたが、陳玄礼はその姿を見つけて捕らえ、練絹を以て楊貴妃の首を結び、殺害した。
皇帝はその様子をご覧になって、半狂乱のようになり、涙を流すこと雨の如しであった。その様子はとても拝見することが出来ないほどであったが、道理にかなったことなので怒りの心はなかった。

さて、安禄山は皇帝を追い出して、王宮において政を行ったが、すぐに死んでしまった(我が子に殺された)。
そこで玄宗は、御子に帝位を譲って、自分は太上天皇(日本的な表現)になられたが、なお、楊貴妃のことを忘れることが出来ず嘆き悲しまれて、春は花が散るのも知らず、秋は木の葉の落ちるのも見ようとしない。木の葉は庭に積み上がったが、それを払う人もいない。
日が過ぎるほどに、むしろ嘆きは増すばかりなので、方士(ホウジ・道士とも。神仙の術を極めた者。)というのは蓬莱(中国の東方海上にあるという不老不死の理想郷。)に行くことが出来る者を言うが、その人が参上して、玄宗に申し上げたことは、「私は、皇帝の御使いとしてあの楊貴妃がいらっしゃる所を尋ねて参りましょう」というものであった。
玄宗はそれを聞いて、大いに喜んで仰せになられた。「されば、あの楊貴妃がいる所を尋ねて、その様子を我に聞かせてくれ」と。
方士はこの仰せをうけたまわって、上は虚空(大空)を極めて、下は底根の国まで探し求めたが、遂に尋ねることが出来なかった。

また、ある人が「東の海に蓬莱という島があります。その島の上に大きな宮殿があります。それが、玉妃(楊貴妃を指す)の大真院という所です。そこにあの楊貴妃がいらっしゃいます」と言った。
すると、方士はこれを聞いて、その蓬莱を尋ねて行った。その島に着くと、山の端に日はようやく沈んで行き、海の面は暗くなって行く。花の扉も皆閉じて、人の声もしないので、方士はその戸を叩くと、青い衣(冥界の人の衣の定番。)を着た乙女の髪をみづらに結ったのが出て来て、「あなたは何処からいらっしゃった人ですか」と訊ねた。
方士は、「私は唐の皇帝の使者です。楊貴妃に申すべき事があって、このように遙々と尋ねてきたのです」と答えた。
乙女は、「玉妃は、ただ今、お寝みになっております。しばらくお待ち下さい」と言うので、方士は手を[ 欠字あるも不詳。]て座っていた。

やがて、夜が明けたので、玉妃は方士がやって来ていることを聞くと、方士を召し寄せて、「皇帝は健やかにおいででしょうか。また、天宝十四年(755 年。安禄山の乱が起きた年で、楊貴妃が死んだのはその翌年。)から今日に至るまでの間に、国にどのような事が起ったのですか」と仰せになった。
方士は、その間の出来事をお話し申し上げた。
そして、帰る時になると贈り物を方士に渡して、「これを持ち帰り、皇帝に奉って下さい。『昔のことはこれを見て思い出して下さい』と申し上げて下さい」と言った。
方士は、受け取った簪(カンザシ)を見て、「玉の簪は、世間によくある物です。これを奉りましても、我が君は、真実の事とお思いにならないでしょう。ぜひ、昔、皇帝とあなたとの間でだけでお話になり、人にまったく知られていない事、それをお話し下さい。それをお伝えすれば、真実とお思いでしょう」と言った。

すると、玉妃は、しばらく考えてから仰せになった。「わたしは昔、七月七日に織女(タナハタツメ)に共に相まみえた夕べ、皇帝がわたしに寄り添って申されたことは、『織女と牽星の契りは、しみじみと感じる。我もまた、このようにありたいと思う。もし天にあれば、願わくは翼を並べた鳥となろう。もし地にあれば、願わくは枝を並べた木となろう。天も長く地も久しくあるといえども終りがあるのであれば、その恨みは綿々として絶えることがないだろう』と。その事を皇帝に申し上げて下さい」と。
方士は、これを聞いて帰り、その由を皇帝に奏上すると、皇帝はますますお悲しみになり、遂にその思いに堪えられずして、幾ばくも経たないうちにお亡くなりになった。

あの楊貴妃が殺された所に、思いが募るあまり、皇帝が行かれて御覧になった時、野辺に浅茅が風になびいていて、しみじみとした様子であった。この皇帝の心境はいかばかりであったろうか。されば、哀れなることの例えとして、この事をいうのである。(やや意味不明であるが、例えとなる歌があるらしい。)

但し、安禄山を殺すのも、世を直(タダ)すためであったので、皇帝も惜しまれることはなかった。
昔の人は、皇帝も大臣も、道理というものを知っていてこのようであったのだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

* 結びの部分が、今一つ解りにくいのですが、作者には、本話を単なる「情愛」の物語としてではなく、「物の道理」といった物を強調する意向があったのかも知れません。

     ☆   ☆   ☆

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詩が結ぶ不思議な契り ・ 今昔物語 ( 10 - 8 )

2024-05-20 14:43:39 | 今昔物語拾い読み ・ その2

     『 詩が結ぶ不思議な契り ・ 今昔物語 ( 10 - 8 ) 』


今は昔、
震旦の[ 欠字。王朝名が入るが不詳。]の御代に、呉の招孝(ショウコウ・伝不詳)という人がいた。勝れた心の持ち主である。
その人がまだ若かった頃、宮殿から流れ出ている河の辺(ホトリ)に行って遊んでいたが、木の葉が流れてくるのを見て、取って見てみると、柿の葉の赤く紅葉したものに詩が書かれていた。
招孝がこれを見たところ、女の手によるものであった。
「これは、如何なる人が作って書いたのだろう」と思うに、誰だか分らないが、人柄や容姿が思いやられて、恋う気持ちが大きくなった。
そして、遂には、その恋いる思いを成就させる方法が思い浮かばず、その詩に唱和してそれも柿の葉に書いて、その河の水上(ミナカミ)に行って流したので、柿の葉は宮殿の中に流れ入った。
招孝は、どうしても恋しさに堪えられない時は、あの柿の葉の詩を取り出して、それを見ては泣いていた。

さて、このようにして何年か経ったが、宮殿の中には、束縛を受けてむなしく年を重ねてしまった女御が数多くいた。しかし、皇帝がお召しになることもなかったので、皇帝は、「この者たちは、我を頼みにして虚しく年を送っている、極めて気の毒なことである。少しばかりの者を親に返し、あるいは男性に嫁がせよ」と仰せになり、少しばかりの者をお返しになった。

その中に、一人の女御がいた。容姿は美しい。
親元にお返しになったので、親はあの招孝をその女御に娶せて婿とした。しかし、招孝は、あの柿の葉に詩を書いた人のみを、誰とは知らないままに恋しく思い続けていて、どうしても別の人と結婚しようとは思わなかったが、親が決めたことなので、心ならずも婿になったのである。
しかし、この妻になった女は、理想的ですばらしい女性だったので、愛おしくいじらしく思われて、あの夜も昼も恋い焦がれていた柿の葉に詩を書いた人のことも、ようやく忘れかけていたところ、妻が招孝に言ったことは、「あなた、何かしきりに物思いにふけっている様子に見えますのは、何事でございますか。その事を、わたしに隠すことなくお話し下さいませ」と訴えた。
招孝は、「実は、私はずっと前に、宮殿の外で河の流れで遊んでいた時に、水の上に木の葉が浮かんでいたのを取って見てみますと、柿の葉の赤く紅葉した物に、女の筆跡で一つの詩が書かれていました。それを見てからは、その筆跡の主に会いたいと思いましたが、誰とも分らず、尋ねる手段とてなくて、会うことが出来ないままですが、今日になっても、忘れることが出来ません。ですが、あなたと一緒になってからは、ずいぶん慰められています」と答えた。

妻は、それを聞くと、「その詩はどういうものですか。また、その詩の唱和はお作りになりましたか」と尋ねた。
招孝が「これこれといった詩でした。想像してみますと、宮殿内の女性が作ったものと思いましたので、その河の水上に行って詩を作り、もしか見てもらえることがあるかも知れないと思って流しました」と答えると、妻は、それを聞くや涙を流して、前世からの因縁のただならぬ事を知って、招孝に語った。「その詩は、このわたしが作って書いた物でございます。唱和の詩は、その後にわたしが見つけましたので、今、手許にございます」と答えて、それぞれが取り出して見てみると、どちらも自分の筆跡による物なので、今結ばれているのが、決して浅い契りなどではないことを知って、泣きながらますます愛情を深めた。

妻は、「わたしがこの詩を作りましたのは、わたしは皇帝のお召しに随って宮中に参りましたが、皇帝に見え奉ることもなく、虚しく月日を送ることを嘆いて、河の辺で遊びました時に、一つの詩を作り柿の葉に書いて、河に流した物でございます。後にまた、その河の辺に行きましたところ、岩の間に流れ来て留まっている木の葉を取り上げて見てみますと、一つの詩が柿の葉に書かれておりました。もしかすると、あの時のわたしの詩を見つけた人が、唱和して下さったのだと思って、取り置いていたのでございます」と語った。
招孝は、これを聞いて感慨無量であったことだろう。

されば、夫婦の契りは、前世からの宿命なのだと互いに思ったのである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆ 

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孔子と童たち ・ 今昔物語 ( 10 - 9 )

2024-05-20 14:43:13 | 今昔物語拾い読み ・ その2

      『 孔子と童たち ・ 今昔物語 ( 10 - 9 ) 』


今は昔、
震旦の周の御代に、魯の孔丘(ロのクキュウ・孔子のこと)という人がいた。
父は淑梁(シュクリョウ)と言う。母は顔の氏(ガンのウジ)である。この孔丘とは、世間で孔子(クジ)と呼ばれているのはこの人のことである。
身の丈は、九尺六寸である。賢明で理解力に優れていた。

幼稚の頃には、老子に付いて学問を学んだが、理解できない物はなかった。
成長してからは、身につけた才能は広大で、弟子の数は大変多い。されば、公(オオヤケ)に仕えて、政を直(タダ)し、個人的には出掛けて行って人を教えた。あらゆる学問について劣ることがなかった。それゆえ、国の人は皆、頭を垂れて尊ぶこと限りなかった。
(但し、諸国の朝廷にはあまり受け入れられなかった、というのが定説となっている。)

ある時、孔子が車に乗って道を進まれていると、その途中に、七歳ばかりの童が三人遊んでいた。その中で一人の童は、仲間と遊ばず、道を防ぐかたちで土で以て城(ジョウ)の形の物を作っていた。
そこで、孔子はその近くまで行くと、童に話しかけた。「お前たち、速やかに道からのいて、我が車を通しなさい」と言った。
童は笑いながら言った。「未だ聞いたことがない。車を避ける城など。ただ、城を避ける車があることは聞いている」と。
それを聞いて孔子は、車をその所を避けさせて、城の外側から通り過ぎられた。

そして、孔子は童に訊ねた。「お前の姓名は何という」と。
童は、「姓は長(チョウ・伝不詳)と申します。私は年が八歳なので、字(アザナ・元服してからつける名。)はありません」と答えた。
孔子は、「お前は知っておるか。いずれの樹に枝が無いか。いずれの牛に子牛が無いか。いずれの馬に小馬が無いか。いずれの夫に妻が無いか。いずれの女に夫が無いか。いずれの山に石が無いか。いずれの水に魚が無いか。いずれの人に字が無いか」と訊ねられた。
童は、「枯れ木には枝無し。土牛(土で作った牛。儀礼用に使う。)には子牛無し。木馬には小馬無し。仙人には妻無し。玉女(神仙の女か?)には夫無し。大山には石無し。井の水には魚無し。空城には吏無し(この部分質問と合わないが、元になる話には、もっと多くの質問があり、誤ったようだ。)。小児には字無し」と答えた。
孔子はこれを聞いて、「この童は、只の者ではあるまい」と思って、過ぎ去って行った。

また、孔子が道を行かれていた時、七、八歳の二人の童に出会った。その童たちが共子(クジ・孔子のこと。)に尋ねた。
一人の童は、「日が始めて出ずる時は日が近いが、日中になれば日が遠くなる」と言った。もう一人の童は、「
日が始めて出ずる時は日が遠いが、日中になれば日が近くなる」と尋ねた。
先の童は、また質問して、「日の出ずる時は熱くて、湯の中に手を入れる
ようだが、日中になれば涼しい」と。すると、もう一人の童も質問して、「日の出ずる時は涼しい。日中になれば熱くて、湯の中に手を入れるようだ。どうして、日の出ずる時は近く、日中になれば遠いと言えるのか」と。
このように二人の童は言い争って、質問すると言っても、孔子はどちらが正否か裁定することが出来なかった。

すると、二人の小児は笑って言った。「孔子は知識が広大で、知らぬことなど存在しないと聞き奉っていたが、極めて愚かであられることだ」と。
孔子はこれをお聞きになって、この二人の童の知恵に、「只者ではない童たちだ」と言ってお誉めになった。
昔は、小児もこのように賢かったのである。

さて、孔子が多くの弟子たちを引き連れて道を行かれる時に、道の辺(ホトリ)にある垣から馬の頭が差し出ているのをご覧になって、「あそこに牛の頭が差し出ている」と仰せになったので、弟子たちは、「まさしく馬なのに牛と仰せになる、不思議な事だ」と思ったが、何か分けがあるのだろうと、道を行く間ずっと各々が師の真意を知ろうと考えていたが、顔回という第一の御弟子が、一里(中国では400mの事が多いが、わが国では4kmとなる。)を行って気付いたことは、「暦の午という字を、頭を差し出して書けば、牛という字になるので、師は、あの馬が頭を差し出していたので、人の心を試すとて、『牛』と仰せになったのだ」と思って、師にお尋ねすると、「その通りだ」とお答えになった。
次々の御弟子たちは、順々に十六町(1町は109m程だが、距離感はよく分らない。)を行く間に気付いた。

されば、これによって各人の理解力は明らかである。孔子はこのように知識の広いお方だったので、世の人は皆、頭を垂れて貴び敬ったのである、
となむ語り伝へたるとや。 
 
     ☆   ☆   ☆

 

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三楽話 ・ 今昔物語 ( 10 - 10 )

2024-05-20 14:42:42 | 今昔物語拾い読み ・ その2

      『 三楽話 ・ 今昔物語 ( 10 - 10 ) 』


今は昔、
震旦の孔子(クジ・孔子(コウシ
)のこと)、[ 欠字。地名が入るが不詳。]いう所に行き、林の中の丘のようになっている所に行って逍遙(ショウヨウ・気ままに歩き遊ぶこと。)なさった。孔子は、琴(キン・現在の琴とは違う。)を弾きなさった。弟子を十余人ばかり連れていて、周りに座らせて書物を読ませていた。

その時、海の方から小船に乗った帽子を着た翁が、漕いでやって来て、船を葦に繋いで陸に登り、杖を突いて来て、孔子が弾いている琴の調べが終るまで聞いていた。
孔子の弟子たちは、この翁を見て怪しく思っていると、翁が弟子の一人を招いている。けれども、弟子たちは、目にも留めず知らん顔をして行こうとしない。翁はさらにしつこく招くので、一人の弟子が近寄った。
翁は、弟子に尋ねた。「この琴をお弾きになっている人はどなたですか。もしかすると、国王でしょうか」と。
弟子は、「国王ではありません」と答えた。
翁は、「それでは、国の大臣ですか」と尋ねた。
弟子は、「大臣ではありません」と答えた。
翁は、「それでは、国の司ですか」と尋ねた。
弟子は、「国の司でもありません」と答えた。
翁は、「それでは、どういう人ですか」と尋ねた。
弟子は、「只、国の賢人として、公の政を直し、悪しき事を止め、善き事[ 欠字。「を勧め給う」といった言葉らしい。]人です」と答えた。
翁は、これを聞くとあざ笑って、「この人は、とんでもない愚か者だ」と言って、去って行った。

弟子は、翁の言葉を聞くと、元の場所に返って、孔子にこの事を話した。
孔子はそれを聞いて、「その人は、大変な賢人に違いない。速やかに呼び返しなさい」と言った。
弟子は走って行き、翁が今まさに船に乗って漕ぎ出そうとしているのを呼び返した。
翁は、呼ばれて引き返し、孔子と会った。

孔子は、翁に言った。「あなたは、どういうお方でしょうか」と。
翁は、「私は、何と言うほどの者ではありません。只、船に乗って心のままにあちらこちらへ行っている翁です。ところで、あなたは、何事を仕事となさっているお方ですか」と言った。
孔子は、「私は、世の政を直し、悪しき事を止め、善き事を行うために歩き回っている者です」と答えた。
翁は、「それは、まことにつまらないことです。世間には、影を嫌う人がいます。日向に出て、影から離れようとして走っても、影から離れることは出来ません。影に寄り添って、心静かに居れば影は離れるものを、そうはしないで、日向に出て影から必死に逃れようとする時には、身の力は尽きてしまうけれど、影が離れることはありません。また、犬の死骸が水に流れ下っていると、これを取ろうとして走る者がいます。そして、水に溺れて死んでしまいます。つまり、これらの例えのように、あなたのなさっていることは、極めて無駄なことです。ただ、然るべき所に居所を示して、静かに一生を送ること、これが今生の望みです。それなのに、その事を考えずに、心を世事に煩わされて騒ぎ回ることは、極めてつまらないことです。私には、三つの楽しみがあります。人として生まれたこと、これがその一つです。人に男女がありますが、男として生まれたこと、これが二つ目です。そして、私は今、九十五歳になりました。これが第三の楽しみです」と言うと、孔子の答えを聞くこともせず、返って行き、船に乗って漕ぎ出し去ってしまった。

孔子は、その漕ぎ行く翁の後ろ姿を見て、二度礼拝された。船に乗って行く棹(サオ)の音が聞こえなくなるまで、礼拝していらっしゃった。棹の音が聞こえなくなってから、ようやく車に乗ってお帰りになった。
この翁の名を、栄啓期(ヨウケイゴ・伝不詳。「三楽話」は知られているらしい。)と言うとある人が、
語り伝へたるとや。

☆☆☆

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後の千金 ・ 今昔物語 ( 10 - 11 )

2024-05-20 13:52:56 | 今昔物語拾い読み ・ その2

      『 後の千金 ・ 今昔物語 ( 10 - 11 ) 』


今は昔、
震旦の周の御代に荘子(ソウジ・中国戦国時代の思想家。)という人がいた。賢明で知識は豊かである。一方で、家は極めて貧しく貯えは全くなかった。

そのため、今日食べる物さえなかった。どうすれば良いか思い悩んでいたが、隣に[ 欠字。「かんあとう」という人名らしい。]という人がいたので、今日食べるための黄色い粟を請うたところ、[ 欠字。「かんあとう」らしい。]は「あと五日経ったら、我が家に千両の金が届く。その時にいらっしゃい。その金を進呈しましょう。どうして、あなたのように賢く立派なお方に、今日の糧として僅かな粟を進呈すれば、かえって私の恥になります」と言った。

これに対して荘子は、
「私は昨日、道を歩いていますと、後ろで呼ぶ声が聞こえました。振り返ってみますと、誰も見当たらない。不思議に思ってよく見ますと、車輪の跡の窪んでいる所に大きな鮒が一匹いて、生きていて動き回っている。『どうして、こんな所に鮒がいるのか』と思って、さらに近付いてみると、水が少しばかり溜まっている所に生きていて動いていたのだ。私は、その鮒に訊ねました。『どうしてお前は、ここに居るのか』と。すると鮒は、『我は、河伯神(カワノカミ・河の守護神。)の使者として、高麗に行く途中である。我は東の海の波の神であるが、思い掛けず飛びそこなって、この窪みに落ちてこの様だ。水は少なく喉が渇き、もう死にそうだ。「助けてもらおう」と思って、あなたを呼んだのです』と言いました。
私は、『あと三日後に、[ 欠字。池か湖らしいが不詳。]という所に、私は遊びに行きます。そこに、お前さんを連れて行って放してやろう』と言いますと、鮒は、『我は、もう三日も待つ事は出来ない。それよりも、今日、一滴の水を与えてくれて、とりあえず喉の渇きを潤わせてくれ』と言うので、鮒が言う通りに一滴の水を与えて助けてやりました。
されば、あの鮒が言ったように、私の命は、今、何も食べなければ、生きてはおれません。後の千金など、役に立ちません」
と言った。

これから後、「後の千金」という事はこういう事を指すのだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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長命の所以 ・ 今昔物語 ( 10 - 12 )

2024-05-20 13:52:27 | 今昔物語拾い読み ・ その2

      『 長命の所以 ・ 今昔物語 ( 10 - 12 ) 』


今は昔、
震旦に荘子(ソウジ)という人がいた。賢明で知識が豊富である。
その人が道を歩いていたが、ある杣山(ソマヤマ・植林された山。)に通りかかった。すると、その山の多くの木の中に、曲って歪んでいる木があるのが目に付いた。かなりの老木である。
荘子はこの木を見て、杣人に「この木が、これほど老木になるまで伐られずに生きているのはどういうわけか」と訊ねた。
杣人は、「私たちは、真っ直ぐの良い木を選んで伐りますので、この木は歪み曲っていますので役に立たたず、材木にも適していないので、このように長年そのままになっています」と答えた。
荘子は、「なるほど」と聞いて、通り過ぎた。

また別の日に、荘子は知人の家を訪ねたが、家の主人はご馳走を準備して食べさせた。
まず、酒を飲もうとしたが肴がなかったので、家の主人は、その家に雁二羽を飼っていたので、「その雁一羽を殺して、御肴にしなさい」と命じると、その雁を預かって飼っている人は、「良く鳴く雁を殺すべきでしょうか。それとも、鳴かない雁を殺すべきでしょうか」と尋ねた。家の主人は、「良く鳴くのは生かしておいて鳴かしなさい。鳴かないのを殺して御肴にしなさい」と答えた。
主人の言葉に従って、鳴かない雁を殺して調理して、御肴とした。

その時、荘子は、「昨日の杣山の木は、役に立たないので命を保っている。今日のこの家の主人の雁は、才能がある故に命を保っている。これを以て考えられることは、賢い者も愚かな者も、命を保つことは賢愚によるものではなく、ただ、自然とそうなるものなのだ。されば、『才能があれば死ななくてすむぞ。役に立たなければ死ぬぞ』と定められているものではない。役に立たない木も長命であり、一方で、役に立たない雁もたちまちに死ぬ。これを以て、様々な出来事を知るべきである」と言った。
これは荘子の言葉だ、
となむ語り伝へたるとや。 

     ☆   ☆   ☆

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