山添村の桐山はかつて切山と言われていた。
それはダム湖に沈む前のことだ。
そこには48軒の家屋があったが石屋を営む家は5、6軒もあったといい、石切り場もあったからそう呼ばれていたそうだ。
その集落村は昭和58年4月5日に協定が交わされ、翌年の9月から本格的な工事が始まって沈んだ。
足かけ24年間の工事を経てダム本体が完成し平成1年より灌水が開始された。
布目ダム湖ができるからには集落を移転しなければならない。
三日三晩も徹夜で行政と交渉されたと当時の村役員であった6年ぶりにお会いしたKさんが話す。
その集落には岩に刻まれたメオトの仏さんと呼ばれる二体の地蔵さんがあった。
また、阿弥陀さんの摩崖仏もあった。
ダム湖に沈んでしまうのでは申しわけないとその遺物は湖上に引き上げた。
その当時を再現するかのように池の中にあるという。
それを探してみたところたしかにあった鳥ヶ淵阿弥陀地蔵二尊摩崖仏。
車道の傍らにある仏たちの石は視界に入らなければうっかりと通りすぎてしまう。
集落移転の際には村の記録を撮らねばと10万円もする写真機を若者に預けて撮ったが美しくなかったという。
その記録文も残していなかったので今となっては惜しいことをしたと話す。
毎月1日は朔日参りで和田に鎮座する戸隠神社に行かれていたKさんが話すには秋祭りに祭礼されるウタヨミの渡り衆は今年から宵宮、本宮とも公民館から出発するようになるであろうという。
これまではトーヤの家だったから大きな変革を迎えた年になりそうだ。
初めてのことだからどのような様相になるか判らないがこの時点ではまだ決定されていない。
ウタヨミをされる本殿は平成27年には造宮をしなければならない。
それに合わせて5人の渡り衆の衣装も新調したいがたいそうな金額になる。
費用の工面をどうするか、難しい課題が山積みだと話す。
明日は半夏生(ハンゲショウ)の日。
それは毎年2日の日にあたり、夕方には公民館に集まってハゲッショ(ハンゲショウが訛った)の虫祈祷をされるそうだ。
青葉さんのお札を配るだけで会食がメインだそうだ。
村の行事には手作りのごちそうの膳があった。
それはいつしかパック詰め料理に替った。
膳の料理は婦人たちが作る。
それを「オデン」と訛った呼び名でいうKさんの奥さんは大塩の生まれ。
ここに嫁いできたのは昭和30年。
ハゲッショの日は一年に一度の休みの日だったという。
「2日だけは休ましてあげる」と嫁ぎ先の舅に言われた。
この日はどこかへ出かけてもいいと命令口調で言われたそうだ。
その2日のハゲッショの日にはカマボコやチクワの煮物や縁で飼っていたニワトリが産み落としたタマゴをタマゴ焼きにして作った。
その御馳走は重箱に詰めて戸隠の宮さんにもって行った。
3日はご本人の誕生日で、両日の休みはその御馳走の余りをよばれた。
作っているときのことだ。
ご飯の中にタマゴ焼きを入れた。
そのようにしなさいと黙って目で合図する姑さんの行動を話す奥さんの目に涙が溢れた。
何十年も前の優しい対応が走馬灯のように思い出され、自然と涙がほほをつたったのであろう。
実家である同村の大塩の様相も思い出された。
それは正月のことだった。
家には囲炉裏があった。
そこには火を焚いていた。
オツキサンのモチを手にとった父親が「ブトノクチ、ハミノクチ、ムカデノクチ、カノクチとせんぞ言うて「口」のあるやつは焼いてしまえとモチをちぎっては囲炉裏の火に投入してくべた。最後に残ったモチは火で焼いて食べた」と話す。
ジュウクヤサン(十九夜)の日にはニンジン、ダイコン、カマボコなど炊いてお寺(旧観音寺であろう)に参りに行った。
八柱神社の社務所に来た人にはそのごちそうを食べさしていたというが子供のころだけに今ではどうかなと話す。
そのジュウクヤサンは同じ桐山に属する大君(おおきみ)でされているそうだ。
鉄工所の婦人に聞けば判るらしい。
また大久保垣内ではヤクシサンがあるらしい。
トンネルを越えた山の上がその地区。
キナコのニギリメシを供えるそうだ。
これは中谷さんに聞けば判るらしい。
かつての行事になるかどうか判らないが一度訪ねてみたいものだ。
ご主人が話された隣村の的野では正月に寒行(かんぎょう)をしていたそうだ。
川に入って禊をしていたが20年ほど前が最後になったようだ。
(H23. 7. 1 EOS40D撮影)
それはダム湖に沈む前のことだ。
そこには48軒の家屋があったが石屋を営む家は5、6軒もあったといい、石切り場もあったからそう呼ばれていたそうだ。
その集落村は昭和58年4月5日に協定が交わされ、翌年の9月から本格的な工事が始まって沈んだ。
足かけ24年間の工事を経てダム本体が完成し平成1年より灌水が開始された。
布目ダム湖ができるからには集落を移転しなければならない。
三日三晩も徹夜で行政と交渉されたと当時の村役員であった6年ぶりにお会いしたKさんが話す。
その集落には岩に刻まれたメオトの仏さんと呼ばれる二体の地蔵さんがあった。
また、阿弥陀さんの摩崖仏もあった。
ダム湖に沈んでしまうのでは申しわけないとその遺物は湖上に引き上げた。
その当時を再現するかのように池の中にあるという。
それを探してみたところたしかにあった鳥ヶ淵阿弥陀地蔵二尊摩崖仏。
車道の傍らにある仏たちの石は視界に入らなければうっかりと通りすぎてしまう。
集落移転の際には村の記録を撮らねばと10万円もする写真機を若者に預けて撮ったが美しくなかったという。
その記録文も残していなかったので今となっては惜しいことをしたと話す。
毎月1日は朔日参りで和田に鎮座する戸隠神社に行かれていたKさんが話すには秋祭りに祭礼されるウタヨミの渡り衆は今年から宵宮、本宮とも公民館から出発するようになるであろうという。
これまではトーヤの家だったから大きな変革を迎えた年になりそうだ。
初めてのことだからどのような様相になるか判らないがこの時点ではまだ決定されていない。
ウタヨミをされる本殿は平成27年には造宮をしなければならない。
それに合わせて5人の渡り衆の衣装も新調したいがたいそうな金額になる。
費用の工面をどうするか、難しい課題が山積みだと話す。
明日は半夏生(ハンゲショウ)の日。
それは毎年2日の日にあたり、夕方には公民館に集まってハゲッショ(ハンゲショウが訛った)の虫祈祷をされるそうだ。
青葉さんのお札を配るだけで会食がメインだそうだ。
村の行事には手作りのごちそうの膳があった。
それはいつしかパック詰め料理に替った。
膳の料理は婦人たちが作る。
それを「オデン」と訛った呼び名でいうKさんの奥さんは大塩の生まれ。
ここに嫁いできたのは昭和30年。
ハゲッショの日は一年に一度の休みの日だったという。
「2日だけは休ましてあげる」と嫁ぎ先の舅に言われた。
この日はどこかへ出かけてもいいと命令口調で言われたそうだ。
その2日のハゲッショの日にはカマボコやチクワの煮物や縁で飼っていたニワトリが産み落としたタマゴをタマゴ焼きにして作った。
その御馳走は重箱に詰めて戸隠の宮さんにもって行った。
3日はご本人の誕生日で、両日の休みはその御馳走の余りをよばれた。
作っているときのことだ。
ご飯の中にタマゴ焼きを入れた。
そのようにしなさいと黙って目で合図する姑さんの行動を話す奥さんの目に涙が溢れた。
何十年も前の優しい対応が走馬灯のように思い出され、自然と涙がほほをつたったのであろう。
実家である同村の大塩の様相も思い出された。
それは正月のことだった。
家には囲炉裏があった。
そこには火を焚いていた。
オツキサンのモチを手にとった父親が「ブトノクチ、ハミノクチ、ムカデノクチ、カノクチとせんぞ言うて「口」のあるやつは焼いてしまえとモチをちぎっては囲炉裏の火に投入してくべた。最後に残ったモチは火で焼いて食べた」と話す。
ジュウクヤサン(十九夜)の日にはニンジン、ダイコン、カマボコなど炊いてお寺(旧観音寺であろう)に参りに行った。
八柱神社の社務所に来た人にはそのごちそうを食べさしていたというが子供のころだけに今ではどうかなと話す。
そのジュウクヤサンは同じ桐山に属する大君(おおきみ)でされているそうだ。
鉄工所の婦人に聞けば判るらしい。
また大久保垣内ではヤクシサンがあるらしい。
トンネルを越えた山の上がその地区。
キナコのニギリメシを供えるそうだ。
これは中谷さんに聞けば判るらしい。
かつての行事になるかどうか判らないが一度訪ねてみたいものだ。
ご主人が話された隣村の的野では正月に寒行(かんぎょう)をしていたそうだ。
川に入って禊をしていたが20年ほど前が最後になったようだ。
(H23. 7. 1 EOS40D撮影)