平成23年4月23日から始まっていた京都府立山城郷土資料館の春の企画展。
山城地域に点在するさまざまな正月行事を多数紹介している。
5月には講演会や列品解説があったが失念していたのでやっと拝見することができた。
山城辺りは奈良県の北部奈良市のならやまから数キロメートルも離れていない木津川市を中心とした地域だ。
国道24号線を北上して車を走らせた。
京奈和道路を越えれば木津川市街地になる。
ここは相変わらず信号待ちで渋滞ぎみだ。
そこを越えると木津川を渡る泉大橋。
そこを右折すれば木津川沿いの163号線になる。
ここを走るのは何年ぶりだろうか。
加茂町のJR笠置駅や井出町地蔵禅院の桜を見にいったのは平成14年。
その年の秋には恭仁京史跡に出かけた。
その2年後の平成16年の秋には笠置寺であった。
それ以来というから7年ぶりになる木津川べりの国道だ。
当時は目にしていても訪館しなかった山城郷土資料館。
資料館の名から地域の発掘調査や歴史文化のそれであると思っていたからだ。
京都府ではあるが奈良に近い関係もあって似たような民俗行事が行われていることを知ったのはそれ以降のことだ。
いずれは出かけてみたいものだと思っていたところ、
木津川辺りで行われている民俗行事を同館で紹介する企画展を知った。
知ったのはK氏に教えてもらったからだけど・・・。
6月19日まで開催されているのが「木津川の春~祈りの春~」の企画展だ。
一年の平和や安穏を祈り秋の豊作を願う正月行事を南山城地域で取材されてきた報告展示である。
村の正月行事では木津川市加茂町の銭司(ぜず)地区、笠置町の飛鳥路の勧請縄、精華町菱田の春日神社の弓始式、久御山町東一口(ひがしいもあらい)のトンド、京田辺市宮津の宮ノ口・江津地区のオンゴロドンだ。豊作の祈りでは精華町植庭神社のお田植祭、木津川市相楽の相楽(さがなか)神社の御田と正月行事、久御山町佐山の雙栗(さぐり)神社の粥占、精華町祝園の居籠祭、木津川市山城町湧出宮の居籠祭や百味御食などだ。
展示会場の撮影は禁止されているのでいくつかの行事をメモでしたためておいた。
今後の奈良の行事取材になんらかの形で役立つであろうと・・・。
銭司の正月行事がユニークだ。椎の木を割ったものをサエギ(斎木)と呼び、それを神社本殿周りに置く。始めて見た光景だ。社務所の囲炉裏にフクボタ(6mの木)を入れて燃やす。そこで籠りをする。年末の30日に境内と参道に砂蒔きをする。参道はハシゴ状で境内は格子状に箕を使って砂を蒔く。木津川の砂だそうだ。大和郡山で見られた砂蒔きの形状とは大きく異なる。
和束町の湯船では盆の行事にもあったとされるから神さんの砂でもなさそうだ。正月3日は勧請縄掛け。7日は「鬼の面つくり」をして青竹の先端に括りつける。10日の早朝にはトンドで燃やされる。鬼の面はいったい何ものなのか。ケイチンのオニが変容したものと思ったが・・・弓矢はない。
東一口のトンドの形状が面白い。高さは7mほどにもなるトンド。上部は笹竹で下部は藁のようだ。その中央部は「笠」と呼ばれる楕円形の円板がある。旧巨椋(おぐら)池の西岸に立てられるトンドは左義長とも呼ばれる。それは三毬杖(さぎちょう)に由来しているそうだ。東一口のトンドは玉田神社の宮座(本当座、御幣座、御箸座)の当屋、御礼、見習いによって作られ成人の日の明け方に燃やされる。
飛鳥路の勧請縄は笠置町の東部、木津川南岸の飛鳥路で布目川に掛けるそうだ。正月7日に行われる勧請縄は両端にケサが1対取り付けてある。その間には木製のクワ、スキとワラ製のサントク、ナベツカミと大きめの男根と女陰のツクリモノがある。作っている途中にトンドバヤシと呼ばれる地で長老がヤマノカミの奉射をする。オニ、地、天、東、西、南、北の的に向けて矢を射る。それを終えて再び勧請縄作りが続行される。奈良県内では見られないサントク、ナベツカミに興味を覚える。
京田辺市のオンゴロドンは変わった名前の行事だ。宮津の宮ノ口と江津地区で行われているそうだ。かつては各地でもあったようだ。オンゴロとはモグラのことである。毎年、小正月の夜の7時過ぎ。男児が宮ノ口の白山神社に集まって参拝する。手にしているのは奈良県高取町の佐田・森や大阪府南河内郡河南町で見られるイノコ槌の藁棒を同じような形状だ。住宅の庭先や玄関口の地面にそれで叩く。「オンゴロドン うちにかく(家にいるのか?) 横槌どんのおんまいじゃ(おみまいじゃ) おおまけ おまけ もひとつおまけ おまけのおまけ」と囃してモグラを追い払う。まるでモグラ叩きをしているようだ。横槌は翌日のトンドで燃やすから消滅してしまう。台詞に違いはあるもののそれはまさしくイノコの所作である。
雙栗神社の粥占は小正月の15日の零時に始まる。早稲(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)、綿、大豆、芋、黍(きび)、梨の8種類の豊作出来具合いを占う。名札をそれぞれの竹筒に取り付けているので混在することはないだろう。大釜で炊き、竹筒に入った小豆粥の詰まり具合を判定する。奈良市の登弥神社と矢田坐久志玉比古神社で行われている粥占(かゆうら)とほぼ同じような方法だ。
菱田の春日神社の弓始式も奈良県内で行われているケイチン儀式と同じであろう。真座、本座、今座の宮守が10本の矢を射る。2人の宮守が行われるので合計20本となる。貼的(はりまと)とも呼ばれている行事は1月10日だそうだ。ユニークなのは直会の儀式。御供された蒸米、ヤキサバ、ヤキイモ(サトイモ)は直会でよばれる。その直会は箸を使わずに手でつかみ口にするそうだ。食事の在り方に古来の様相が見えてくる。
相楽(さがなか)神社には御田と正月行事がある。相楽は大里、北庄、曽根山の集落の氏神さん。村座には北座、南座、南分座とそれぞれに前座、中座、後座がることから合計で9座。2月3日は初参仕(はつさんじ)といって北座、南座の一老が集まる。その前月の1月14日の夜に豆焼(まめやきであろう)と粥占が行われる。マメヤキは火鉢にカワラ一枚を置いてその上に円を描く。周囲には頂点に北、そして右へ1、2、3、4、5、6、7、8、9、10・・と書く。そこへ何かのクズを敷いて大豆を置く。豆は焼かれて割れていく。その割れ方で農業に大切な12カ月の水の状況を占う。奈良県内の野依での豆焼きも降雨を占っていたから同じであろう。
粥占は小豆粥で早稲(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)の出来を占う。興味深いのは水試(みずため)と呼ばれる行事だ。旧暦の正月15日の夜中にそれは行われる。本殿前の祭壇に短めの棒を立てる。そして月影の長短をもって年間の降雨量を判断する。すべては農作物にとっての豊作を占いと形でされるのだが降雨を診るのが二つもあるのはなぜなんだろう。元々していた地域であったものだったのか、それとも占いたい共同体(座、氏子)が違っていたのか・・・。
御田はお田植え行事のことだ。それは1月15日の午後に行われる。古風な翁面を付けた人が御田の所作をする。最後に長老とソノイチが登場して松苗を植える所作をする。早乙女の役目であるが3人はいずれも特徴ある笠を被っている。まるで割れた菅笠のようである。館内展示には竹に挿したお札があった。おそらくゴーサンのお札であろうが文字はなく炎のような朱印が三つだ。もとは寺行事であったろう。2月1日に行われる相楽のモチバナや祝園、湧出宮の居籠祭も展示されていたが時間切れで同館を後にした。
数点の古文書も展示解説されていた。
永禄三年(1560年)の「小平尾村祭礼の当役」や元和九年(1623年)の「小平尾村祭礼の頭の次弟」などを拝見した。
いずれも数名の神役の名が見られた。
その中には「神主」となった人名もあるが僧侶の名はなかった。
寺の存在はなかったのだろうか。
古文書をはじめとして地域文化は民俗文化にある。
こうした民俗行事を紹介するケースが増えてくれれば、と思っている。
(H23. 6. 3 SB932SH撮影)
山城地域に点在するさまざまな正月行事を多数紹介している。
5月には講演会や列品解説があったが失念していたのでやっと拝見することができた。
山城辺りは奈良県の北部奈良市のならやまから数キロメートルも離れていない木津川市を中心とした地域だ。
国道24号線を北上して車を走らせた。
京奈和道路を越えれば木津川市街地になる。
ここは相変わらず信号待ちで渋滞ぎみだ。
そこを越えると木津川を渡る泉大橋。
そこを右折すれば木津川沿いの163号線になる。
ここを走るのは何年ぶりだろうか。
加茂町のJR笠置駅や井出町地蔵禅院の桜を見にいったのは平成14年。
その年の秋には恭仁京史跡に出かけた。
その2年後の平成16年の秋には笠置寺であった。
それ以来というから7年ぶりになる木津川べりの国道だ。
当時は目にしていても訪館しなかった山城郷土資料館。
資料館の名から地域の発掘調査や歴史文化のそれであると思っていたからだ。
京都府ではあるが奈良に近い関係もあって似たような民俗行事が行われていることを知ったのはそれ以降のことだ。
いずれは出かけてみたいものだと思っていたところ、
木津川辺りで行われている民俗行事を同館で紹介する企画展を知った。
知ったのはK氏に教えてもらったからだけど・・・。
6月19日まで開催されているのが「木津川の春~祈りの春~」の企画展だ。
一年の平和や安穏を祈り秋の豊作を願う正月行事を南山城地域で取材されてきた報告展示である。
村の正月行事では木津川市加茂町の銭司(ぜず)地区、笠置町の飛鳥路の勧請縄、精華町菱田の春日神社の弓始式、久御山町東一口(ひがしいもあらい)のトンド、京田辺市宮津の宮ノ口・江津地区のオンゴロドンだ。豊作の祈りでは精華町植庭神社のお田植祭、木津川市相楽の相楽(さがなか)神社の御田と正月行事、久御山町佐山の雙栗(さぐり)神社の粥占、精華町祝園の居籠祭、木津川市山城町湧出宮の居籠祭や百味御食などだ。
展示会場の撮影は禁止されているのでいくつかの行事をメモでしたためておいた。
今後の奈良の行事取材になんらかの形で役立つであろうと・・・。
銭司の正月行事がユニークだ。椎の木を割ったものをサエギ(斎木)と呼び、それを神社本殿周りに置く。始めて見た光景だ。社務所の囲炉裏にフクボタ(6mの木)を入れて燃やす。そこで籠りをする。年末の30日に境内と参道に砂蒔きをする。参道はハシゴ状で境内は格子状に箕を使って砂を蒔く。木津川の砂だそうだ。大和郡山で見られた砂蒔きの形状とは大きく異なる。
和束町の湯船では盆の行事にもあったとされるから神さんの砂でもなさそうだ。正月3日は勧請縄掛け。7日は「鬼の面つくり」をして青竹の先端に括りつける。10日の早朝にはトンドで燃やされる。鬼の面はいったい何ものなのか。ケイチンのオニが変容したものと思ったが・・・弓矢はない。
東一口のトンドの形状が面白い。高さは7mほどにもなるトンド。上部は笹竹で下部は藁のようだ。その中央部は「笠」と呼ばれる楕円形の円板がある。旧巨椋(おぐら)池の西岸に立てられるトンドは左義長とも呼ばれる。それは三毬杖(さぎちょう)に由来しているそうだ。東一口のトンドは玉田神社の宮座(本当座、御幣座、御箸座)の当屋、御礼、見習いによって作られ成人の日の明け方に燃やされる。
飛鳥路の勧請縄は笠置町の東部、木津川南岸の飛鳥路で布目川に掛けるそうだ。正月7日に行われる勧請縄は両端にケサが1対取り付けてある。その間には木製のクワ、スキとワラ製のサントク、ナベツカミと大きめの男根と女陰のツクリモノがある。作っている途中にトンドバヤシと呼ばれる地で長老がヤマノカミの奉射をする。オニ、地、天、東、西、南、北の的に向けて矢を射る。それを終えて再び勧請縄作りが続行される。奈良県内では見られないサントク、ナベツカミに興味を覚える。
京田辺市のオンゴロドンは変わった名前の行事だ。宮津の宮ノ口と江津地区で行われているそうだ。かつては各地でもあったようだ。オンゴロとはモグラのことである。毎年、小正月の夜の7時過ぎ。男児が宮ノ口の白山神社に集まって参拝する。手にしているのは奈良県高取町の佐田・森や大阪府南河内郡河南町で見られるイノコ槌の藁棒を同じような形状だ。住宅の庭先や玄関口の地面にそれで叩く。「オンゴロドン うちにかく(家にいるのか?) 横槌どんのおんまいじゃ(おみまいじゃ) おおまけ おまけ もひとつおまけ おまけのおまけ」と囃してモグラを追い払う。まるでモグラ叩きをしているようだ。横槌は翌日のトンドで燃やすから消滅してしまう。台詞に違いはあるもののそれはまさしくイノコの所作である。
雙栗神社の粥占は小正月の15日の零時に始まる。早稲(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)、綿、大豆、芋、黍(きび)、梨の8種類の豊作出来具合いを占う。名札をそれぞれの竹筒に取り付けているので混在することはないだろう。大釜で炊き、竹筒に入った小豆粥の詰まり具合を判定する。奈良市の登弥神社と矢田坐久志玉比古神社で行われている粥占(かゆうら)とほぼ同じような方法だ。
菱田の春日神社の弓始式も奈良県内で行われているケイチン儀式と同じであろう。真座、本座、今座の宮守が10本の矢を射る。2人の宮守が行われるので合計20本となる。貼的(はりまと)とも呼ばれている行事は1月10日だそうだ。ユニークなのは直会の儀式。御供された蒸米、ヤキサバ、ヤキイモ(サトイモ)は直会でよばれる。その直会は箸を使わずに手でつかみ口にするそうだ。食事の在り方に古来の様相が見えてくる。
相楽(さがなか)神社には御田と正月行事がある。相楽は大里、北庄、曽根山の集落の氏神さん。村座には北座、南座、南分座とそれぞれに前座、中座、後座がることから合計で9座。2月3日は初参仕(はつさんじ)といって北座、南座の一老が集まる。その前月の1月14日の夜に豆焼(まめやきであろう)と粥占が行われる。マメヤキは火鉢にカワラ一枚を置いてその上に円を描く。周囲には頂点に北、そして右へ1、2、3、4、5、6、7、8、9、10・・と書く。そこへ何かのクズを敷いて大豆を置く。豆は焼かれて割れていく。その割れ方で農業に大切な12カ月の水の状況を占う。奈良県内の野依での豆焼きも降雨を占っていたから同じであろう。
粥占は小豆粥で早稲(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)の出来を占う。興味深いのは水試(みずため)と呼ばれる行事だ。旧暦の正月15日の夜中にそれは行われる。本殿前の祭壇に短めの棒を立てる。そして月影の長短をもって年間の降雨量を判断する。すべては農作物にとっての豊作を占いと形でされるのだが降雨を診るのが二つもあるのはなぜなんだろう。元々していた地域であったものだったのか、それとも占いたい共同体(座、氏子)が違っていたのか・・・。
御田はお田植え行事のことだ。それは1月15日の午後に行われる。古風な翁面を付けた人が御田の所作をする。最後に長老とソノイチが登場して松苗を植える所作をする。早乙女の役目であるが3人はいずれも特徴ある笠を被っている。まるで割れた菅笠のようである。館内展示には竹に挿したお札があった。おそらくゴーサンのお札であろうが文字はなく炎のような朱印が三つだ。もとは寺行事であったろう。2月1日に行われる相楽のモチバナや祝園、湧出宮の居籠祭も展示されていたが時間切れで同館を後にした。
数点の古文書も展示解説されていた。
永禄三年(1560年)の「小平尾村祭礼の当役」や元和九年(1623年)の「小平尾村祭礼の頭の次弟」などを拝見した。
いずれも数名の神役の名が見られた。
その中には「神主」となった人名もあるが僧侶の名はなかった。
寺の存在はなかったのだろうか。
古文書をはじめとして地域文化は民俗文化にある。
こうした民俗行事を紹介するケースが増えてくれれば、と思っている。
(H23. 6. 3 SB932SH撮影)