下市町に寒施行があるやも知れないと思って現地を探しまわったのは昨年の1月27日。
あっちこち、ぐるぐる探しまわった。
墓地近くに立ち寄った場にクワで耕していた男性がおられた。
その男性が話した状況に、これやと思った立ち話。
「ここにな、なんかわからんのやけど新聞紙に載せた俵型のアズキメシがありましたんや」と云ったのである。
「三角のアブラゲも置いてたんやけど、何ですのん」と逆に質問を受けた。
それは間違いなくセンギョの御供である。
「どなたがされているのか判らない」と云った男性に背中を押されて、数時間かけて探した桧皮蔵(ひわだ)地区は大字阿知賀の一つでほぼ住宅街。
付近を歩く住民に尋ねて、区長宅を訪問した。
先ほど聞いた田主の話しも伝えて尋ねたセンギョの在り方。
当地では、「寒行(かんぎょう)」と呼んでいたが、されている行為は間違いなく「カンセンギョ(寒施行)」である。
だいたいの様子を伺って来年に取材したいと申し出ていた。
桧皮蔵の寒行は、大寒入りした日曜日辺りに行っていると云う。
直前に聞いていた実施日は大寒前の19日の日曜日であった。
22戸の桧皮蔵地区の人たちが、お金を供出されて区長婦人の他数人の女性らがこの日の昼過ぎに作った俵型のアズキメシ。
モチゴメを一割程度混ぜて炊いたアズキメシはセキハンと呼んでいた。
アブラアゲは調理をしない生御膳である。
これらは2枚のコウジブタに入れて若い者が担いでいくと云う。
何十枚も作っておいたのは御供に敷く新聞紙だ。
これも区長の奥さんが予め作っておいた。
通達していた時刻ともなれば摂待家を提供しているお家に集まってきた。
例年の場合はお神酒を一杯飲んで出かけるのであるが、この年はふるまいのぜんざいも準備されていた。
出発前に皆でいただくぜんざいは美味しい。
一個のお餅を入れたぜんざいに身体が温まる。
お神酒は大人の飲み物で、ご婦人や子供たちはぜんざいをいただく。
白地に墨書した「寒中寒行 施行 桧皮蔵町」と墨書した幟をもって先導する「寒行」には、町内の医王山日光寺の住職も同行される。
この年は下市のケーブルネットワーク(こまどりケーブル)の撮影隊も来ているからと、集合した人たちに寒行の謂れなどを話された。
後日に放映される取材であるが、地元だけのケーブルテレビは観ることはできない。
かつて長老が囃していた寒行の掛け声は「センギョロー センギョロー」であったと区長が話していた。
「センギョロー」と云うだけに、寒行は間違いなく、かつては「センギョ」と呼んでいたのである。
この日に囃していた台詞は、ほとんど人が「カンギョ カンギョ」と云うのだと、区長から聞いていたが、実際に発声した掛け声はご住職と区長の奥さんだ。
いつのころか、判らないが「センギョ」はいつしか「カンギョ」に換わったと思われる台詞であった。
かつては、提灯に火を灯して寒行をしていたが、今では足元を照らすのは懐中電灯だ。
真っ暗な時間帯に寒行をする行程は日光寺の裏道や天神山辺りまで登る。
真っ暗な中ではピントも合わすことができず、ヘッドライトを装着しての撮影行程だ。
街灯の灯りもときおり利用するが、「カンギョ カンギョ」を囃して歩いていく姿を捉えることは難しい。
山道、ケモノ道、畑道など原野は、いずれも真っ暗な道中である。
数か所では二手に分かれて寒行される。
数えていた供える場所は、途中から数が判らなくなった。
山から下っていけば、街の灯りが見えてくる。
これから先はグラウンドに上がる。
隣町の原野(わらの)地区を抜けて、お堂にも置いていくアズキメシ。
急坂を登っていく道すがらの何か所も御供をする。
年配の婦人もおられるし、赤ちゃんを抱いた父親もついていく町内の行事。
総勢27人の集団がぞろぞろと連れもって歩いていく。
グラウンド場は峯山と呼ばれる地だ。
そこで一旦休憩をする。
御供のアズキメシをいただいてしばらくの時間を過ごす。
「あんたも食べてや」と云われていただいたアズキメシは塩味が利いて美味しかった。
その場で婦人が話した桧皮蔵の寒行。
57年前に嫁入りしたころのことである。
明治22(若しくは23)年生まれの姑さんが話していた謂れ話し。
「私が48歳のときに聞いた桧皮蔵の寒行は、新町で火事があったことからカンギョを始めた。それから火事は発生せずに済んだ」と話すのである。
「ありがたいことやからこうして今でも寒行をしているのです」と云う。
姑さんが話した火事は当時のことであるのか、それとも伝承であるのか、判らないと云った。
「地区に災いがあってはならん、できる間はずっとこれからも続けていきたい桧皮蔵の年中行事のひとつは大切に守っていきたい」と話す区長の思いが伝わってくる。
「阿知賀以外にもあったと長老から聞いたことがあるが、在所は未だに判っていない」とも云う。
小休憩を挟んで再び動き出した寒行。
グラウンドから僅かに下った道に置いたアズキメシの御供。
それが昨年に男性が話していた場であったのだ。
一年後に拝見した寒行の様相が現認できたのである。
そこから下は阿知賀の集合墓地。
シカやイノシシが出没する地区は、「荒らされてたまりません」と話していた。
寒の施行は一般的にいえば狐の施行。
キツネさんには施しをするが、田畑を荒らす害獣のシカやイノシシには施さない。
墓地の下、地蔵さん、六地蔵さんにも施しをする桧皮蔵の人たち。
町に戻っていく道すがらも供える。
町内に祭っている、下の地蔵さんや大日堂にも供えて終えた。
作ったアズキメシの最初の個数は120個。
前半は2個ずつであったが、休憩中に食べた数はおよそ30個。
差し引きして数えれば40カ所におよぶようで、およそ1時間あまりの行程であった。
ついてきた子供たちには金一封が渡される。
町内の人たちの心遣いや風情に浸った桧皮蔵の寒行に温もりを感じた。
7月の第二日曜日には模擬店の夜店も出店される町内の夏祭りのコンピラサンもあると云う。
(H26. 1.19 EOS40D撮影)
あっちこち、ぐるぐる探しまわった。
墓地近くに立ち寄った場にクワで耕していた男性がおられた。
その男性が話した状況に、これやと思った立ち話。
「ここにな、なんかわからんのやけど新聞紙に載せた俵型のアズキメシがありましたんや」と云ったのである。
「三角のアブラゲも置いてたんやけど、何ですのん」と逆に質問を受けた。
それは間違いなくセンギョの御供である。
「どなたがされているのか判らない」と云った男性に背中を押されて、数時間かけて探した桧皮蔵(ひわだ)地区は大字阿知賀の一つでほぼ住宅街。
付近を歩く住民に尋ねて、区長宅を訪問した。
先ほど聞いた田主の話しも伝えて尋ねたセンギョの在り方。
当地では、「寒行(かんぎょう)」と呼んでいたが、されている行為は間違いなく「カンセンギョ(寒施行)」である。
だいたいの様子を伺って来年に取材したいと申し出ていた。
桧皮蔵の寒行は、大寒入りした日曜日辺りに行っていると云う。
直前に聞いていた実施日は大寒前の19日の日曜日であった。
22戸の桧皮蔵地区の人たちが、お金を供出されて区長婦人の他数人の女性らがこの日の昼過ぎに作った俵型のアズキメシ。
モチゴメを一割程度混ぜて炊いたアズキメシはセキハンと呼んでいた。
アブラアゲは調理をしない生御膳である。
これらは2枚のコウジブタに入れて若い者が担いでいくと云う。
何十枚も作っておいたのは御供に敷く新聞紙だ。
これも区長の奥さんが予め作っておいた。
通達していた時刻ともなれば摂待家を提供しているお家に集まってきた。
例年の場合はお神酒を一杯飲んで出かけるのであるが、この年はふるまいのぜんざいも準備されていた。
出発前に皆でいただくぜんざいは美味しい。
一個のお餅を入れたぜんざいに身体が温まる。
お神酒は大人の飲み物で、ご婦人や子供たちはぜんざいをいただく。
白地に墨書した「寒中寒行 施行 桧皮蔵町」と墨書した幟をもって先導する「寒行」には、町内の医王山日光寺の住職も同行される。
この年は下市のケーブルネットワーク(こまどりケーブル)の撮影隊も来ているからと、集合した人たちに寒行の謂れなどを話された。
後日に放映される取材であるが、地元だけのケーブルテレビは観ることはできない。
かつて長老が囃していた寒行の掛け声は「センギョロー センギョロー」であったと区長が話していた。
「センギョロー」と云うだけに、寒行は間違いなく、かつては「センギョ」と呼んでいたのである。
この日に囃していた台詞は、ほとんど人が「カンギョ カンギョ」と云うのだと、区長から聞いていたが、実際に発声した掛け声はご住職と区長の奥さんだ。
いつのころか、判らないが「センギョ」はいつしか「カンギョ」に換わったと思われる台詞であった。
かつては、提灯に火を灯して寒行をしていたが、今では足元を照らすのは懐中電灯だ。
真っ暗な時間帯に寒行をする行程は日光寺の裏道や天神山辺りまで登る。
真っ暗な中ではピントも合わすことができず、ヘッドライトを装着しての撮影行程だ。
街灯の灯りもときおり利用するが、「カンギョ カンギョ」を囃して歩いていく姿を捉えることは難しい。
山道、ケモノ道、畑道など原野は、いずれも真っ暗な道中である。
数か所では二手に分かれて寒行される。
数えていた供える場所は、途中から数が判らなくなった。
山から下っていけば、街の灯りが見えてくる。
これから先はグラウンドに上がる。
隣町の原野(わらの)地区を抜けて、お堂にも置いていくアズキメシ。
急坂を登っていく道すがらの何か所も御供をする。
年配の婦人もおられるし、赤ちゃんを抱いた父親もついていく町内の行事。
総勢27人の集団がぞろぞろと連れもって歩いていく。
グラウンド場は峯山と呼ばれる地だ。
そこで一旦休憩をする。
御供のアズキメシをいただいてしばらくの時間を過ごす。
「あんたも食べてや」と云われていただいたアズキメシは塩味が利いて美味しかった。
その場で婦人が話した桧皮蔵の寒行。
57年前に嫁入りしたころのことである。
明治22(若しくは23)年生まれの姑さんが話していた謂れ話し。
「私が48歳のときに聞いた桧皮蔵の寒行は、新町で火事があったことからカンギョを始めた。それから火事は発生せずに済んだ」と話すのである。
「ありがたいことやからこうして今でも寒行をしているのです」と云う。
姑さんが話した火事は当時のことであるのか、それとも伝承であるのか、判らないと云った。
「地区に災いがあってはならん、できる間はずっとこれからも続けていきたい桧皮蔵の年中行事のひとつは大切に守っていきたい」と話す区長の思いが伝わってくる。
「阿知賀以外にもあったと長老から聞いたことがあるが、在所は未だに判っていない」とも云う。
小休憩を挟んで再び動き出した寒行。
グラウンドから僅かに下った道に置いたアズキメシの御供。
それが昨年に男性が話していた場であったのだ。
一年後に拝見した寒行の様相が現認できたのである。
そこから下は阿知賀の集合墓地。
シカやイノシシが出没する地区は、「荒らされてたまりません」と話していた。
寒の施行は一般的にいえば狐の施行。
キツネさんには施しをするが、田畑を荒らす害獣のシカやイノシシには施さない。
墓地の下、地蔵さん、六地蔵さんにも施しをする桧皮蔵の人たち。
町に戻っていく道すがらも供える。
町内に祭っている、下の地蔵さんや大日堂にも供えて終えた。
作ったアズキメシの最初の個数は120個。
前半は2個ずつであったが、休憩中に食べた数はおよそ30個。
差し引きして数えれば40カ所におよぶようで、およそ1時間あまりの行程であった。
ついてきた子供たちには金一封が渡される。
町内の人たちの心遣いや風情に浸った桧皮蔵の寒行に温もりを感じた。
7月の第二日曜日には模擬店の夜店も出店される町内の夏祭りのコンピラサンもあると云う。
(H26. 1.19 EOS40D撮影)