昭和32年に発刊された『桜井町史続(民俗編)』に書かれていた桜井市竜谷(りゅうたに)の宮座。
旧暦の正月7日に行われている「七日座」を短文で紹介されていた。
今から57年前に発刊されている史料を手掛かりに訪れた竜谷の集落。
しばらく歩けばお寺が目に入った。
そこは小安地蔵尊を安置する龍谷寺はあったが、村人の姿は見られない。
たしか、もう少し上がれば神社があるはずだと思って足を伸ばした。
そこにあった神社は龍谷三輪神社の表記がある。
参籠所を思われる建物がある。
屋根の構造が今までみたこともないような造りである。
なんとなくお堂のようにも感じる屋根。
葺きは赤い鋼板だ。
本殿はなくご神体とされる杉の大木がある。
下ろうと思ったときに見かけた車。
おそらく村の人だと思って駆けつけた。
降車された婦人は二人。
この地に来た訳を伝えた。
返ってきた答えは旧暦でなく正月の7日であった。
かつては旧暦であったと思われるが、鹿路が出里のNさんは存じていないと云う。
婦人の家は平成23年にトウヤ(頭家)を勤められた。
鶴の文様をあしらった日の丸御幣を残しておられる。
ススンボの竹に括りつけた御幣はトウヤの印し。
正月7日は宮座行事の「七日座」。
かつてはトウヤ家でキナコを塗した茹でゴボウを作って供えていた。
ごーさん札は予め、トウヤ家が刷っておく。
宮さんに参ってからお寺に。
ごーさん札はあるが、祈祷はどうやたしていないようだ。
そのころ竜谷寺横にある公民館に村人が集まってくる。
ナマスやクロマメなどの煮もの料理もあったが、今ではパック詰め料理に替ったという。
竜谷集落は20戸だが、トウヤを勤めることができるのは12、13戸ぐらいになる廻り。
負担も厳しく、トウヤを勤める家人もいない家では断りもあるそうだ。
そういうことで料理は簡単に済ませるようになったらしい。
キナコを塗した茹でゴボウは水引で括る。
当時の様相を取材された本(畿央大学・冨岡典子氏著)があると見せてくれる。
著者が記念にということでくれはったと話す『大和の食文化』は平成17年の発刊である。
秋にはマツリがある。
かつては10月28日だった。
前日のヨミヤにはトウヤが作る三角錐型のメシを供える。
その名は「オニギリ」。
形状から推測するには、各地で見られる「キョウノメシ」と同じである。
一つについて一升米のご飯で作る。
それは三品ある。
炊いたご飯(かつては蒸しご飯)をさらし布に入れて「オニギリ」の型を作る。
例年、上手に作られるおじさんがおられるのでいつも頼んでいると話す。
マツリでは12個の月の数のモチと家族の人数分のコモチ(これをキゴのモチと呼ぶ)も作ってお寺に供える。
その場でモチは焼いて食べていたが、今ではパック詰め料理になったと話す。
ご飯で作った「オニギリ」は冷えれば堅くなる。
トウヤはそれを貰って帰る。
自宅で食べるには堅い「オニギリ」。
お粥にして食べるが、量が多い。
親戚筋にも分けてあげるぐらいの量はあまりにも多いということで、今では四合の「オニギリ」になったと云うからやや小さめ。
それを「オゴク」と呼んでいる。
「オゴク」を充てる漢字はおそらく「お御供」であろう。
それはネムノキのまな板に乗せる。
翌日のマツリはトウヤ家で千本杵でモチを搗いたゴクツキ。
現在は公民館でするようになったが、県内では数少なくなった千本杵。
ハコヤの木の杵で搗いているそうだ。
いつしか体育の日に移ったマツリの日。
ヨミヤ行事も含めたような形式になったもようである。
なにかと忙しい時期。
最近は11月3日の祭日に替えたそうだ。
朝から御幣を作るが、それは神職。
三輪大神神社の神職が出仕される。
千本杵は午後のことである。
婦人が話した「七日座」の月の数のモチ。
思い出されたのが「お月見」。
お月さんに供えるドロイモの数も同じように月の数。
家族の人数分のドロイモも供える。
皮を剥いて洗って皿に盛る。夕方にはカドに供えておくと云う。
傍らには取ってきたススキやハギも添える。
お月見の日は毎年替る中秋の名月日。
ススキもハギも揃わない年がある。
県内では見られなくなったイモのお供えは貴重であろう。
是非ともお伺いしたいものである。
(H26. 2. 6 SB932SH撮影)
旧暦の正月7日に行われている「七日座」を短文で紹介されていた。
今から57年前に発刊されている史料を手掛かりに訪れた竜谷の集落。
しばらく歩けばお寺が目に入った。
そこは小安地蔵尊を安置する龍谷寺はあったが、村人の姿は見られない。
たしか、もう少し上がれば神社があるはずだと思って足を伸ばした。
そこにあった神社は龍谷三輪神社の表記がある。
参籠所を思われる建物がある。
屋根の構造が今までみたこともないような造りである。
なんとなくお堂のようにも感じる屋根。
葺きは赤い鋼板だ。
本殿はなくご神体とされる杉の大木がある。
下ろうと思ったときに見かけた車。
おそらく村の人だと思って駆けつけた。
降車された婦人は二人。
この地に来た訳を伝えた。
返ってきた答えは旧暦でなく正月の7日であった。
かつては旧暦であったと思われるが、鹿路が出里のNさんは存じていないと云う。
婦人の家は平成23年にトウヤ(頭家)を勤められた。
鶴の文様をあしらった日の丸御幣を残しておられる。
ススンボの竹に括りつけた御幣はトウヤの印し。
正月7日は宮座行事の「七日座」。
かつてはトウヤ家でキナコを塗した茹でゴボウを作って供えていた。
ごーさん札は予め、トウヤ家が刷っておく。
宮さんに参ってからお寺に。
ごーさん札はあるが、祈祷はどうやたしていないようだ。
そのころ竜谷寺横にある公民館に村人が集まってくる。
ナマスやクロマメなどの煮もの料理もあったが、今ではパック詰め料理に替ったという。
竜谷集落は20戸だが、トウヤを勤めることができるのは12、13戸ぐらいになる廻り。
負担も厳しく、トウヤを勤める家人もいない家では断りもあるそうだ。
そういうことで料理は簡単に済ませるようになったらしい。
キナコを塗した茹でゴボウは水引で括る。
当時の様相を取材された本(畿央大学・冨岡典子氏著)があると見せてくれる。
著者が記念にということでくれはったと話す『大和の食文化』は平成17年の発刊である。
秋にはマツリがある。
かつては10月28日だった。
前日のヨミヤにはトウヤが作る三角錐型のメシを供える。
その名は「オニギリ」。
形状から推測するには、各地で見られる「キョウノメシ」と同じである。
一つについて一升米のご飯で作る。
それは三品ある。
炊いたご飯(かつては蒸しご飯)をさらし布に入れて「オニギリ」の型を作る。
例年、上手に作られるおじさんがおられるのでいつも頼んでいると話す。
マツリでは12個の月の数のモチと家族の人数分のコモチ(これをキゴのモチと呼ぶ)も作ってお寺に供える。
その場でモチは焼いて食べていたが、今ではパック詰め料理になったと話す。
ご飯で作った「オニギリ」は冷えれば堅くなる。
トウヤはそれを貰って帰る。
自宅で食べるには堅い「オニギリ」。
お粥にして食べるが、量が多い。
親戚筋にも分けてあげるぐらいの量はあまりにも多いということで、今では四合の「オニギリ」になったと云うからやや小さめ。
それを「オゴク」と呼んでいる。
「オゴク」を充てる漢字はおそらく「お御供」であろう。
それはネムノキのまな板に乗せる。
翌日のマツリはトウヤ家で千本杵でモチを搗いたゴクツキ。
現在は公民館でするようになったが、県内では数少なくなった千本杵。
ハコヤの木の杵で搗いているそうだ。
いつしか体育の日に移ったマツリの日。
ヨミヤ行事も含めたような形式になったもようである。
なにかと忙しい時期。
最近は11月3日の祭日に替えたそうだ。
朝から御幣を作るが、それは神職。
三輪大神神社の神職が出仕される。
千本杵は午後のことである。
婦人が話した「七日座」の月の数のモチ。
思い出されたのが「お月見」。
お月さんに供えるドロイモの数も同じように月の数。
家族の人数分のドロイモも供える。
皮を剥いて洗って皿に盛る。夕方にはカドに供えておくと云う。
傍らには取ってきたススキやハギも添える。
お月見の日は毎年替る中秋の名月日。
ススキもハギも揃わない年がある。
県内では見られなくなったイモのお供えは貴重であろう。
是非ともお伺いしたいものである。
(H26. 2. 6 SB932SH撮影)