男の人が42歳の厄年になればそれぞれの地区にある地蔵尊に参ってモチを供えて巡拝すると聞いていた吉野町丹治。
前厄、本厄、後厄の3年間もしなければならないと云っていたが、参るのはご婦人だ。
朝7時頃にはぼちぼち出かけると聞いていたので朝日が上がる前に到着しておいた。
だが、2年前に下見していた4カ所の地蔵尊にはだれ一人も来られない。
数か所ある地蔵尊にも出かけてみたが、それらしき姿はまったくなかった。
どうやらこの年は厄年対象の人がいないようだ。
2年前に聞いていたお家は後厄だった。
おそらく三年参りは、前年で終わったようだ。
散策していた時間帯、2カ所の地蔵尊ではローソクと線香を灯していた婦人もおられたが、結局は遭遇することもなく諦めて帰ろうとした。
そのときのことだ。
上の地蔵尊近くに住むご婦人が家の外周りを清掃されていた。
箒で掃いておられた婦人に尋ねてみた地蔵尊参り。
時間帯は「もっと遅いかも知れませんなぁ」と云う。
供えたモチは夕方になれば、ご近所人がたばって持ち帰っても良いと云う丹治の風習。
それまで待っているわけにはいかない。
そのご婦人が話した地蔵盆の在り方。
「8月の地蔵盆にシンコを供えますねん、写真があるから見ますか」と云われてお邪魔した。
数年前まではシンコを作るのに当番の家(トヤ・当屋)に集まったという上の地蔵尊。
10軒の営みである。
粉挽きは店屋にしてもらっているが、「シンコはこんなんです」と見せてもらった家の記録写真。
なんと、地蔵石仏を安置した祠の奥には埋めるように花びらのような形の盛りがあった。
緑、黄、赤の色粉で花弁をあしらったシンコである。
赤い色はツバキを模したと云うし、鯛の形もある。
緑の葉はほんまもんのツバキだ。
ヒバの葉を添えて盛った器は木の桶だと云う。
お供えはシンコだけではなく、地蔵尊には御膳も供えると見せてくれた写真の映像は驚愕であった。
おじいちゃんが毎年悩みながら当家宅で作る野菜の作りもの。
トマト、ピーマン、ショウガ、トウモロコシ、マツタケなどはゴボウで象った船に乗せていた。
もしかとしれば、それは七福神であろうか。
もう一枚の写真は違う年の作りもの。
カボチャを土台にキュウリ、サツマイモ、ニンジン、ショウガ、ミョウガ、ミニトマトを配置した。
何が驚きかと云えば、カボチャのヘタと細長い赤トウガラシで作ったカニである。
今にも動き出しそうに見えるカニの足。
リアルに作った造りものに感動する。
記録された写真ではあるが、ゲラゲラと笑ってしまったのはこれだ。
ショウガで作ったロバ。
たてがみもある精巧な作りに目は点になった。
左側はブロッコリーで作った動物はセサミストリートのビッグバードのようにも見える。
愛くるしい二つの目は黒眼。
なんともいえない表情である。
カボチャにへばりついているのはピーマンで作ったカエルだ。
愛嬌たっぷりのカエルさんの姿がむちゃくちゃ面白く、笑いが止まらなかった。
その他にエノキで作ったクジャクの羽根とか、いっぱい見せてくれました。
こういう地蔵盆の造りものを供える丹治の行事は実にユニークである。
主要地方道桜井吉野線の国道が沿った丹治の町内。
丹治川に沿って南北に抜ける旧街道に連なって建てられている。
垣内は上第一・第二・第三垣内から下っていく旧街道。
国道の向こう側は向丹治(むかいたんじ)と呼ぶ垣内だ。
それぞれの垣内ごとに作って供える御膳であっても、わざわざ他の垣内の人が見にくるぐらいにおじいちゃんの作品は面白みがある。
丹治に祭る地蔵尊は12カ所もあると云うが、祠の所在地が判ったのは4カ所だけだ。
あっちにもあると云われるが見つからなかった。
丹治の地蔵盆は8月24日。
第三垣内にある浄土宗金龍寺の住職が各地区に祭った12体の地蔵尊を巡って法要すると云う。
ただし、向かいのワセダには地蔵尊がなく、その日にどこからか寄せるらしい。
お寺も生御膳を供えていると寺婦人が話す丹治の地蔵祭り。
午後3時には飾り付けをして法要を待つ。
それから2時間後、順番にやってくるご住職を迎えて法要をするらしい。
その日は丹治地域どころか、近隣の子供たちがお菓子をもらいに大勢がやってくる。
帰るころには貰ったお菓子で袋がいっぱいに膨らむそうだ。
厄年参りは残念であったが、なにがでるやら、その日を祭るお楽しみの地蔵盆は是非とも訪問したいものだ。
ところで丹治には氏神さんを祭る神社がある。
神社名は大守・小守神社だそうだ。
毎月1日と15日は宮守さんが参拝をされていた。
今では第一日曜と第三日曜に移ったが、早朝に宮守さんがお供えをしているらしい。
この月の23日は祈年祭が行われるそうで町内には張り紙が貼ってあった。
また、丹治では12月7日に山の神の行事もあると云う。
上第一垣内の山の神は上流を遡って左折れの山道を登ったところにあるらしいが、所在は判らなかった。
行事は12月7日であるが、なぜか1月7日には山の仕事の製材は休むと云う。
元々は1月7日であったと思われる上第一垣内の山の神参りには供えたモチを撒くそうだ。
(H26. 2. 1 EOS40D撮影)
前厄、本厄、後厄の3年間もしなければならないと云っていたが、参るのはご婦人だ。
朝7時頃にはぼちぼち出かけると聞いていたので朝日が上がる前に到着しておいた。
だが、2年前に下見していた4カ所の地蔵尊にはだれ一人も来られない。
数か所ある地蔵尊にも出かけてみたが、それらしき姿はまったくなかった。
どうやらこの年は厄年対象の人がいないようだ。
2年前に聞いていたお家は後厄だった。
おそらく三年参りは、前年で終わったようだ。
散策していた時間帯、2カ所の地蔵尊ではローソクと線香を灯していた婦人もおられたが、結局は遭遇することもなく諦めて帰ろうとした。
そのときのことだ。
上の地蔵尊近くに住むご婦人が家の外周りを清掃されていた。
箒で掃いておられた婦人に尋ねてみた地蔵尊参り。
時間帯は「もっと遅いかも知れませんなぁ」と云う。
供えたモチは夕方になれば、ご近所人がたばって持ち帰っても良いと云う丹治の風習。
それまで待っているわけにはいかない。
そのご婦人が話した地蔵盆の在り方。
「8月の地蔵盆にシンコを供えますねん、写真があるから見ますか」と云われてお邪魔した。
数年前まではシンコを作るのに当番の家(トヤ・当屋)に集まったという上の地蔵尊。
10軒の営みである。
粉挽きは店屋にしてもらっているが、「シンコはこんなんです」と見せてもらった家の記録写真。
なんと、地蔵石仏を安置した祠の奥には埋めるように花びらのような形の盛りがあった。
緑、黄、赤の色粉で花弁をあしらったシンコである。
赤い色はツバキを模したと云うし、鯛の形もある。
緑の葉はほんまもんのツバキだ。
ヒバの葉を添えて盛った器は木の桶だと云う。
お供えはシンコだけではなく、地蔵尊には御膳も供えると見せてくれた写真の映像は驚愕であった。
おじいちゃんが毎年悩みながら当家宅で作る野菜の作りもの。
トマト、ピーマン、ショウガ、トウモロコシ、マツタケなどはゴボウで象った船に乗せていた。
もしかとしれば、それは七福神であろうか。
もう一枚の写真は違う年の作りもの。
カボチャを土台にキュウリ、サツマイモ、ニンジン、ショウガ、ミョウガ、ミニトマトを配置した。
何が驚きかと云えば、カボチャのヘタと細長い赤トウガラシで作ったカニである。
今にも動き出しそうに見えるカニの足。
リアルに作った造りものに感動する。
記録された写真ではあるが、ゲラゲラと笑ってしまったのはこれだ。
ショウガで作ったロバ。
たてがみもある精巧な作りに目は点になった。
左側はブロッコリーで作った動物はセサミストリートのビッグバードのようにも見える。
愛くるしい二つの目は黒眼。
なんともいえない表情である。
カボチャにへばりついているのはピーマンで作ったカエルだ。
愛嬌たっぷりのカエルさんの姿がむちゃくちゃ面白く、笑いが止まらなかった。
その他にエノキで作ったクジャクの羽根とか、いっぱい見せてくれました。
こういう地蔵盆の造りものを供える丹治の行事は実にユニークである。
主要地方道桜井吉野線の国道が沿った丹治の町内。
丹治川に沿って南北に抜ける旧街道に連なって建てられている。
垣内は上第一・第二・第三垣内から下っていく旧街道。
国道の向こう側は向丹治(むかいたんじ)と呼ぶ垣内だ。
それぞれの垣内ごとに作って供える御膳であっても、わざわざ他の垣内の人が見にくるぐらいにおじいちゃんの作品は面白みがある。
丹治に祭る地蔵尊は12カ所もあると云うが、祠の所在地が判ったのは4カ所だけだ。
あっちにもあると云われるが見つからなかった。
丹治の地蔵盆は8月24日。
第三垣内にある浄土宗金龍寺の住職が各地区に祭った12体の地蔵尊を巡って法要すると云う。
ただし、向かいのワセダには地蔵尊がなく、その日にどこからか寄せるらしい。
お寺も生御膳を供えていると寺婦人が話す丹治の地蔵祭り。
午後3時には飾り付けをして法要を待つ。
それから2時間後、順番にやってくるご住職を迎えて法要をするらしい。
その日は丹治地域どころか、近隣の子供たちがお菓子をもらいに大勢がやってくる。
帰るころには貰ったお菓子で袋がいっぱいに膨らむそうだ。
厄年参りは残念であったが、なにがでるやら、その日を祭るお楽しみの地蔵盆は是非とも訪問したいものだ。
ところで丹治には氏神さんを祭る神社がある。
神社名は大守・小守神社だそうだ。
毎月1日と15日は宮守さんが参拝をされていた。
今では第一日曜と第三日曜に移ったが、早朝に宮守さんがお供えをしているらしい。
この月の23日は祈年祭が行われるそうで町内には張り紙が貼ってあった。
また、丹治では12月7日に山の神の行事もあると云う。
上第一垣内の山の神は上流を遡って左折れの山道を登ったところにあるらしいが、所在は判らなかった。
行事は12月7日であるが、なぜか1月7日には山の仕事の製材は休むと云う。
元々は1月7日であったと思われる上第一垣内の山の神参りには供えたモチを撒くそうだ。
(H26. 2. 1 EOS40D撮影)