昨年は燃え尽きたときに着いた小南町の二ノ正月のとんど。
火点けはどのようにされるのか確かめたくて出かけた大和郡山市の小南町である。
ここでは氏神さんが鎮座する小南神社の境内で行われる。
とんどの火点けは16時丁度だ。
直前の時間帯になれば村人が集まってくる。
大きめのとんどには赤い提灯があった。
数えてみれば18個である。
何故に提灯を燃やすのか。
もしやと思って尋ねた神社六人衆の答えは「提灯は新調したから古い提灯は燃やす」と云うのである。
18個の提灯は秋祭りに境内へ立てる神楽提灯だった。
平成22年10月6日に撮っておいた神楽提灯の写真は大きく引き伸ばして寄進した。
その写真は記念に拝殿へ掲げられた。
ありがたいことである。
大きなとんどは崩れないように括った荒縄は鳥居などに掲げた注連縄だ。
年末に当番の人が手で編んだと云う。
とんどの火点けは神社六人衆が行う。
神社本殿に灯したオヒカリを手にした六人衆。
ローソクに移したオヒカリが消えないように手で囲って運ぶ。
それは、さらに太い藁束に移す。
藁束は年3回行われる御湯の幣などを挿す用具である。
三郷の坂本さんが出仕されて神事される御湯の用具は毎年造り替えて新しくするということだ。
古い藁束はとんどの火点けに廻される。
かつては村の子供が各家で貰ってきた藁を使っていたと云う火点けの用具。
用立てた藁束は雑木のシバ、廃材板などであった。
風呂の焚き木はスギヌカ(モミガラ)も入れていたと話す六人衆。
1月31日、学びの小学校が終わってから家に帰ってから貰いに行ったと話していた時代はおよそ60年前のことである。
オヒカリから移したローソクの火は僅かな風に消えてしまう。
何度か繰り返す移すオヒカリの火は、藁束になかなか移らない。
宵宮の場合と同じように、この日も当番の人が燈籠灯しをしたオヒカリ移し。
火が消えにくいからそうしようと云って六人衆は距離が近い燈籠灯しの火を用いて藁束に火を移した。
六人衆は一年ごと新入りが加わる。
追い出すわけではないが、その日を以って一老は引退する。
六人衆は6年間も勤めるのだ。
かつては宮座制度があった小南町。
今では神社行事は自治会運営となったが、六人衆制度は継承していると云う。
大きな藁束を大とんどに運んで火を点ける。
メラメラと燃え上がった。
瞬く間に火が上昇する。
大きな火になったとんどが熱くなる。
その場を避けるように村人は後退する。
あまりにも火が強くなった場合は、境内に設置している水道ホースでただちに消火する。
防火装置は万全だと云う。
とんどが燃えている時間帯にも参拝者の波は途切れない。
親子連れ、家族伴って氏神さんに参る。
神社行事には見られなかった子供たちもやってくる小南のとんどである。
下火になれば鉄製の長い棒で焼けた消し炭を動かして勢いを鎮める。
これもまた六人衆の役目である。
そのころになれば、火を囲むようにモチ焼きの場を作っていく。
まるでストーンサークルのような円になった。
各戸が持ちこんだモチは12月30日に家で搗いた正月のモチ。
モチを焼くのは火がおさまった消し炭だ。
それを鉄製の長い棒でとんど周りに置いていく。
五徳に並べた紅白のモチもあるが、大多数はコゴメを入れたドヤモチだ。
正月のモチ搗きはドヤモチも作っておくと云う人が多い。
「あんたも食べてや」と云われていただいたドヤモチ。
醤油を漬けて食べるのがいちばん美味しい。
今では五徳でモチを焼いているが、かつては割いた竹の先にモチを挿していたそうだ。
モチを焼いてくださったご婦人の出里は奈良市の津風呂町。
昭和9年、吉野川分水の関係の津風呂(つぶろ)ダム建設によって村全戸が移転せざるを得なくなった。
一部の住民(20戸)が昭和33年に移ったのが奈良市山陵町の一角にある。
そこは行政地名には現れない津風呂町。
町内には旧社地から遷した春日神社(昭和35年に遷座)が鎮座していると云う。
婦人が若かったころの2月1日は神事をしていると話していた。
機会があれば一度訪ねてみたい神社である。
(H26. 1.31 EOS40D撮影)
火点けはどのようにされるのか確かめたくて出かけた大和郡山市の小南町である。
ここでは氏神さんが鎮座する小南神社の境内で行われる。
とんどの火点けは16時丁度だ。
直前の時間帯になれば村人が集まってくる。
大きめのとんどには赤い提灯があった。
数えてみれば18個である。
何故に提灯を燃やすのか。
もしやと思って尋ねた神社六人衆の答えは「提灯は新調したから古い提灯は燃やす」と云うのである。
18個の提灯は秋祭りに境内へ立てる神楽提灯だった。
平成22年10月6日に撮っておいた神楽提灯の写真は大きく引き伸ばして寄進した。
その写真は記念に拝殿へ掲げられた。
ありがたいことである。
大きなとんどは崩れないように括った荒縄は鳥居などに掲げた注連縄だ。
年末に当番の人が手で編んだと云う。
とんどの火点けは神社六人衆が行う。
神社本殿に灯したオヒカリを手にした六人衆。
ローソクに移したオヒカリが消えないように手で囲って運ぶ。
それは、さらに太い藁束に移す。
藁束は年3回行われる御湯の幣などを挿す用具である。
三郷の坂本さんが出仕されて神事される御湯の用具は毎年造り替えて新しくするということだ。
古い藁束はとんどの火点けに廻される。
かつては村の子供が各家で貰ってきた藁を使っていたと云う火点けの用具。
用立てた藁束は雑木のシバ、廃材板などであった。
風呂の焚き木はスギヌカ(モミガラ)も入れていたと話す六人衆。
1月31日、学びの小学校が終わってから家に帰ってから貰いに行ったと話していた時代はおよそ60年前のことである。
オヒカリから移したローソクの火は僅かな風に消えてしまう。
何度か繰り返す移すオヒカリの火は、藁束になかなか移らない。
宵宮の場合と同じように、この日も当番の人が燈籠灯しをしたオヒカリ移し。
火が消えにくいからそうしようと云って六人衆は距離が近い燈籠灯しの火を用いて藁束に火を移した。
六人衆は一年ごと新入りが加わる。
追い出すわけではないが、その日を以って一老は引退する。
六人衆は6年間も勤めるのだ。
かつては宮座制度があった小南町。
今では神社行事は自治会運営となったが、六人衆制度は継承していると云う。
大きな藁束を大とんどに運んで火を点ける。
メラメラと燃え上がった。
瞬く間に火が上昇する。
大きな火になったとんどが熱くなる。
その場を避けるように村人は後退する。
あまりにも火が強くなった場合は、境内に設置している水道ホースでただちに消火する。
防火装置は万全だと云う。
とんどが燃えている時間帯にも参拝者の波は途切れない。
親子連れ、家族伴って氏神さんに参る。
神社行事には見られなかった子供たちもやってくる小南のとんどである。
下火になれば鉄製の長い棒で焼けた消し炭を動かして勢いを鎮める。
これもまた六人衆の役目である。
そのころになれば、火を囲むようにモチ焼きの場を作っていく。
まるでストーンサークルのような円になった。
各戸が持ちこんだモチは12月30日に家で搗いた正月のモチ。
モチを焼くのは火がおさまった消し炭だ。
それを鉄製の長い棒でとんど周りに置いていく。
五徳に並べた紅白のモチもあるが、大多数はコゴメを入れたドヤモチだ。
正月のモチ搗きはドヤモチも作っておくと云う人が多い。
「あんたも食べてや」と云われていただいたドヤモチ。
醤油を漬けて食べるのがいちばん美味しい。
今では五徳でモチを焼いているが、かつては割いた竹の先にモチを挿していたそうだ。
モチを焼いてくださったご婦人の出里は奈良市の津風呂町。
昭和9年、吉野川分水の関係の津風呂(つぶろ)ダム建設によって村全戸が移転せざるを得なくなった。
一部の住民(20戸)が昭和33年に移ったのが奈良市山陵町の一角にある。
そこは行政地名には現れない津風呂町。
町内には旧社地から遷した春日神社(昭和35年に遷座)が鎮座していると云う。
婦人が若かったころの2月1日は神事をしていると話していた。
機会があれば一度訪ねてみたい神社である。
(H26. 1.31 EOS40D撮影)