母家のおばちゃんが亡くなった。
幼児のころから成年になるまで毎年のようにでかけては世話になっていた。
いつもにこにこ笑顔で応えてくれた。
葬儀の場は何年か前にも出かけた富田林。
母屋は錦織。
駅から東に向かえば滝谷不動がある。
斎場はそれよりさらに東に行ったところまでは覚えている。
左折れの処に道案内の札があった。
矢印に沿って行った先は佐備の信号。
そこにも道案内の札。右とある。
右折して車を走らせた。
どこまで行っても斎場の標識が見当たらない。
間違ったと思ってUターンした。
佐備の信号を今度は右折れした。そこでも見当たらない。
もしかとすれば矢印は来た道ではないだろうかと思って戻った。
矢印は左折れだ。真っすぐ向かうが見当たらない。
それどころか建水分神社が鎮座する千早赤阪村まで行ってしまったのである。
ひょっとすればメモリアルホールかと思ったが違った。
富田林斎場であることをいとこに電話して大きな勘違いを知る。
佐備に戻って東に行けば、そこは白木南。
行きすぎたどころか反対側に向かっていたのだ。
住之江に住むおふくろを乗せてあっちへ行ったり、こっちへ行ったりでロスタイムは40分。
道案内通りに左折れしたカ所よりほんの少しにあった斎場の行先。
見落としていたのだった。
葬儀が始まる5分前。
ようやく到着した斎場にはいとこたちが集まっていた。
僧侶は母家の前にあるお寺さんの融通念仏宗派の極楽寺だ。
子供の頃の遊び場だった。
骨揚げをする時間までは新族一同の会食。
「瀬音の膳」をいただく時間は懐かしい話しで盛り上がる。
母家はたしか萱葺き家だったと思う。
竃もあったしツルベで汲む井戸もあった。
お風呂と云えば五右衛門風呂だった。
浮いた板を沈めながら縁に当たらないようにそろそろ入った。
実成りがよかったザクロもあったが、ウスラウメもあったという。
それは覚えていない。
母屋は金魚すくいを営んでいた。
いとこはやりたい放題。
何度破れてもお金を払った記憶がない。
水槽にはワニもいた。
庭にはアヒルもいた。
生んだタマゴを食べようとしたら臭かったという。
それも覚えていないし、飼っていたヤギの存在も、だ。
おふくろはそこで生まれ育った。
出征した兄じゃたちが一人、一人と戻ってきたことを覚えている。
男兄弟は5人。
女姉妹は3人の末っ子だった。
おふくろの母親が亡くなったときの葬儀は丸棺。
今でも座していたおばあさんの姿が頭の中にある。
いとこ兄ちゃんたちが三角頭巾を見につけて棺桶を担いでいたことも覚えている。
話しによればおばあさんの出里は狭山。
かつては狭山藩に属していたらしい。
いとこ兄ちゃんのお嫁さんの出里は五島列島。
そこには墓がある。
一度見にいこうと出かけたそうだ。
そこで見た墓石に丸の十字の紋があったと云う。
丸に十字であれば島津藩。
かつては藩の御殿医。
御下命を受けて船に乗ったが難破した。
行きついた先が五島列島だった。
そこに住みついた先祖さんだったそうだ。
長崎には、熊本・佐賀・福岡・対馬・小倉・平戸・薩摩・久留米・柳川・島原・唐津・大村・五島・長州の14藩の蔵屋敷があっただけに少なからずの関係もあったのであろう。
(H26. 1.21 SB932SH撮影)
幼児のころから成年になるまで毎年のようにでかけては世話になっていた。
いつもにこにこ笑顔で応えてくれた。
葬儀の場は何年か前にも出かけた富田林。
母屋は錦織。
駅から東に向かえば滝谷不動がある。
斎場はそれよりさらに東に行ったところまでは覚えている。
左折れの処に道案内の札があった。
矢印に沿って行った先は佐備の信号。
そこにも道案内の札。右とある。
右折して車を走らせた。
どこまで行っても斎場の標識が見当たらない。
間違ったと思ってUターンした。
佐備の信号を今度は右折れした。そこでも見当たらない。
もしかとすれば矢印は来た道ではないだろうかと思って戻った。
矢印は左折れだ。真っすぐ向かうが見当たらない。
それどころか建水分神社が鎮座する千早赤阪村まで行ってしまったのである。
ひょっとすればメモリアルホールかと思ったが違った。
富田林斎場であることをいとこに電話して大きな勘違いを知る。
佐備に戻って東に行けば、そこは白木南。
行きすぎたどころか反対側に向かっていたのだ。
住之江に住むおふくろを乗せてあっちへ行ったり、こっちへ行ったりでロスタイムは40分。
道案内通りに左折れしたカ所よりほんの少しにあった斎場の行先。
見落としていたのだった。
葬儀が始まる5分前。
ようやく到着した斎場にはいとこたちが集まっていた。
僧侶は母家の前にあるお寺さんの融通念仏宗派の極楽寺だ。
子供の頃の遊び場だった。
骨揚げをする時間までは新族一同の会食。
「瀬音の膳」をいただく時間は懐かしい話しで盛り上がる。
母家はたしか萱葺き家だったと思う。
竃もあったしツルベで汲む井戸もあった。
お風呂と云えば五右衛門風呂だった。
浮いた板を沈めながら縁に当たらないようにそろそろ入った。
実成りがよかったザクロもあったが、ウスラウメもあったという。
それは覚えていない。
母屋は金魚すくいを営んでいた。
いとこはやりたい放題。
何度破れてもお金を払った記憶がない。
水槽にはワニもいた。
庭にはアヒルもいた。
生んだタマゴを食べようとしたら臭かったという。
それも覚えていないし、飼っていたヤギの存在も、だ。
おふくろはそこで生まれ育った。
出征した兄じゃたちが一人、一人と戻ってきたことを覚えている。
男兄弟は5人。
女姉妹は3人の末っ子だった。
おふくろの母親が亡くなったときの葬儀は丸棺。
今でも座していたおばあさんの姿が頭の中にある。
いとこ兄ちゃんたちが三角頭巾を見につけて棺桶を担いでいたことも覚えている。
話しによればおばあさんの出里は狭山。
かつては狭山藩に属していたらしい。
いとこ兄ちゃんのお嫁さんの出里は五島列島。
そこには墓がある。
一度見にいこうと出かけたそうだ。
そこで見た墓石に丸の十字の紋があったと云う。
丸に十字であれば島津藩。
かつては藩の御殿医。
御下命を受けて船に乗ったが難破した。
行きついた先が五島列島だった。
そこに住みついた先祖さんだったそうだ。
長崎には、熊本・佐賀・福岡・対馬・小倉・平戸・薩摩・久留米・柳川・島原・唐津・大村・五島・長州の14藩の蔵屋敷があっただけに少なからずの関係もあったのであろう。
(H26. 1.21 SB932SH撮影)