当家らが話すには奈良市佐紀の亀畑佐紀神社は超昇寺の鎮守社で天武期の673年に創建されたようだ。
戦前までのマツリには勅使が詔(みことのり)にきていたという神社というだけに古社の様相である。
かつては「超昇寺村」の鎮守社になる亀畑佐紀神社は二条町住民の20数軒で営んでいる。
拝殿に上がれるのは座入りした男だけで、生まれたばかりの男の赤ちゃんのときに「出産子酒」を供すると云う。
かつては一老と呼ぶ長老を筆頭に、二老、三老・・・八老までの八人衆と下に六人衆からなる宮座があった。
それは50年ほど前のことである。
当時は、一老が村神主を勤めていたと云う。
今では宮座組織を解体し、一老は総代に呼び名を替えたと話す。
村神主を辞めた関係だと推測する。
現在の神職は手向山八幡宮に奉職していた人に来てもらうようになったと云う。
神職の話しによれば、当時勤めていた父親の代を継いで現在に至るそうだ。
門外釣殿神社の節分を拝見して、大和郡山に戻ろうと思っていたが、亀畑佐紀神社には明かりが灯っていた。
その場におられたのが年番を勤める3軒の人たちだった。
昨年に訪れた際に年番さんに聞いていた亀畑佐紀神社の節分祭。
そのことを伝えて、行事取材にあたった。
急なお願いに快く応じてくださった年番さん。
ありがたいことである。
平成24年に立ち寄った際に年番さんから聞いた簾型の注連縄。
その年の大晦日に訪れたことがある亀畑佐紀神社。
掛けられていた簾型の注連縄や砂モチを撮らしてもらったことも伝えた。
村の行事をこうして知らないうちに撮ったのであるが、「ありがたいことだ」と返答された。
この年の年番のなかの最長老は二老さんであった。
数分後に参拝に来られた一老さんも突然の訪問に喜んでくださった。
二条町の座行事はいくつかがある。
秋のマツリにシトギと呼ぶ神饌があると聞いていた。
平成24年の年番さんが話していたシトギは、「家で米を挽いて粉にする。水に浸して塗りの椀に盛って供える。神事を済ませて座小屋で、それを取り分けバランに乗せる。座の人はそのシトギを食べる」と話していた。
シトギを充てる漢字は「粢」である。
シトギを食する行事はこれまでの取材で数カ所にその存在を知ったことがある。
奈良市池田町の熊野神社で行われていた御田植祭・八朔祭・月並祭。
大和郡山市満願寺町の古田神社のお盆祭の住吉祭り・宵宮座・例祭の座・新穀感謝祭。
天理市杣之内町の木堂の八王子行事の秋の彼岸講である。
シトギは食することはないが、お供えにあったのは天理市荒蒔町勝手神社の神縄掛だ。
拝見はしていない行事に奈良市柳生町山脇の山の神がある。
ごくごく僅かな行事例である。
シトギが登場する県内事例は他にもある。
清めに撒いているのは御湯の神事だ。
それほど多くない県内のシトギである。
この日の節分祭にはシトギの登場はなかったが、長老はマツリの神饌に「ヒトギ」があると話していた。
「ヒトギ」はおそらく「シトギ」が訛ったのであろう。
「ヒトギ」はマツリだけでなく、7月7日に行われる弁天さんにも供えると云う。
弁天さんは神社登り口に祭られている社である。
かつては御前池下の弁天池とも呼ばれる佐紀池にあったそうだ。
道路を造る際に、この場に遷したと云う弁天さんの行事に供えられる「ヒトギ」の姿はいずれ拝見いたしたくお願いしたのは言うまでもない。
この夜の節分祭には、拝殿に幕を掲げられる。
ところが、前年勤めた年番さんからの引き継ぎに手違いがあった。
掲げる幕が手元にない事態となったのである。
本来ならば幕がある状態であるが、例年と異なる状況を撮るわけにもいかない。
なんとか判らないようにという条件で撮らせてもらった節分祭。
神事を始める前には作業がある。
まずは、お供えを包丁で切ってヒモロギで括る。
その役目は神職が勤める。
かつては一老がされていたのかも知れない作法である。
息を吹きかけないようにマスクをする神職。
丸物神饌のダイコン、ニンジン、ゴボウ(二つ分け)を三方に乗せる。
「春日大社では今でも熟饌です」と神職が云った。
イワシは三尾と決まっていると云う神饌。
三方に乗せたフクマメなどを手渡しで座小屋から献饌する。
厳かに行われた神事は祓え、献饌、祝詞奏上、長老の玉串奉奠を経て撤饌だ。
神事は拝殿に登った男性らで勤められる。
女性は登ることができないから、拝殿下で神事を見守っていた。
こうして神事を終えた人たちは座小屋に上がった。
座は西の座、東の座に分かれて座る。
初めに年番の人が折敷を席に置く。
お重に詰めていた肴はゴボテンとヒラテンの二種類のテンプラだ。
この年は「近鉄百貨店で買った上等もんだ」と話す。
お神酒は上座の神職、次に東の座の長老、次に西の座の長老と年齢順に座した人たちに注いでいく。
乾杯をすることなく、注がれた順にお神酒を飲み干す。
まずは一献ということで二老もいただく。
ひと回りすれば、今度は熱燗になった。
これもまたひと回りの二献目。
こうして「献」をすれば、テンプラを肴に直会となった。
その間の年番の婦人らは忙しい。
供えたフクマメを小皿に移して半紙包みのオヒネリにする。
この年の参拝者はお一人だけだった。
節分の日だけに家からフクマメを持ってこられた。
それは神饌に供えるフクマメに足しておられた。
オヒネリにしたフクマメは授かって持ち帰る。
フクを捧げてフクをいただくということであろう。
(H26. 2. 3 EOS40D撮影)
戦前までのマツリには勅使が詔(みことのり)にきていたという神社というだけに古社の様相である。
かつては「超昇寺村」の鎮守社になる亀畑佐紀神社は二条町住民の20数軒で営んでいる。
拝殿に上がれるのは座入りした男だけで、生まれたばかりの男の赤ちゃんのときに「出産子酒」を供すると云う。
かつては一老と呼ぶ長老を筆頭に、二老、三老・・・八老までの八人衆と下に六人衆からなる宮座があった。
それは50年ほど前のことである。
当時は、一老が村神主を勤めていたと云う。
今では宮座組織を解体し、一老は総代に呼び名を替えたと話す。
村神主を辞めた関係だと推測する。
現在の神職は手向山八幡宮に奉職していた人に来てもらうようになったと云う。
神職の話しによれば、当時勤めていた父親の代を継いで現在に至るそうだ。
門外釣殿神社の節分を拝見して、大和郡山に戻ろうと思っていたが、亀畑佐紀神社には明かりが灯っていた。
その場におられたのが年番を勤める3軒の人たちだった。
昨年に訪れた際に年番さんに聞いていた亀畑佐紀神社の節分祭。
そのことを伝えて、行事取材にあたった。
急なお願いに快く応じてくださった年番さん。
ありがたいことである。
平成24年に立ち寄った際に年番さんから聞いた簾型の注連縄。
その年の大晦日に訪れたことがある亀畑佐紀神社。
掛けられていた簾型の注連縄や砂モチを撮らしてもらったことも伝えた。
村の行事をこうして知らないうちに撮ったのであるが、「ありがたいことだ」と返答された。
この年の年番のなかの最長老は二老さんであった。
数分後に参拝に来られた一老さんも突然の訪問に喜んでくださった。
二条町の座行事はいくつかがある。
秋のマツリにシトギと呼ぶ神饌があると聞いていた。
平成24年の年番さんが話していたシトギは、「家で米を挽いて粉にする。水に浸して塗りの椀に盛って供える。神事を済ませて座小屋で、それを取り分けバランに乗せる。座の人はそのシトギを食べる」と話していた。
シトギを充てる漢字は「粢」である。
シトギを食する行事はこれまでの取材で数カ所にその存在を知ったことがある。
奈良市池田町の熊野神社で行われていた御田植祭・八朔祭・月並祭。
大和郡山市満願寺町の古田神社のお盆祭の住吉祭り・宵宮座・例祭の座・新穀感謝祭。
天理市杣之内町の木堂の八王子行事の秋の彼岸講である。
シトギは食することはないが、お供えにあったのは天理市荒蒔町勝手神社の神縄掛だ。
拝見はしていない行事に奈良市柳生町山脇の山の神がある。
ごくごく僅かな行事例である。
シトギが登場する県内事例は他にもある。
清めに撒いているのは御湯の神事だ。
それほど多くない県内のシトギである。
この日の節分祭にはシトギの登場はなかったが、長老はマツリの神饌に「ヒトギ」があると話していた。
「ヒトギ」はおそらく「シトギ」が訛ったのであろう。
「ヒトギ」はマツリだけでなく、7月7日に行われる弁天さんにも供えると云う。
弁天さんは神社登り口に祭られている社である。
かつては御前池下の弁天池とも呼ばれる佐紀池にあったそうだ。
道路を造る際に、この場に遷したと云う弁天さんの行事に供えられる「ヒトギ」の姿はいずれ拝見いたしたくお願いしたのは言うまでもない。
この夜の節分祭には、拝殿に幕を掲げられる。
ところが、前年勤めた年番さんからの引き継ぎに手違いがあった。
掲げる幕が手元にない事態となったのである。
本来ならば幕がある状態であるが、例年と異なる状況を撮るわけにもいかない。
なんとか判らないようにという条件で撮らせてもらった節分祭。
神事を始める前には作業がある。
まずは、お供えを包丁で切ってヒモロギで括る。
その役目は神職が勤める。
かつては一老がされていたのかも知れない作法である。
息を吹きかけないようにマスクをする神職。
丸物神饌のダイコン、ニンジン、ゴボウ(二つ分け)を三方に乗せる。
「春日大社では今でも熟饌です」と神職が云った。
イワシは三尾と決まっていると云う神饌。
三方に乗せたフクマメなどを手渡しで座小屋から献饌する。
厳かに行われた神事は祓え、献饌、祝詞奏上、長老の玉串奉奠を経て撤饌だ。
神事は拝殿に登った男性らで勤められる。
女性は登ることができないから、拝殿下で神事を見守っていた。
こうして神事を終えた人たちは座小屋に上がった。
座は西の座、東の座に分かれて座る。
初めに年番の人が折敷を席に置く。
お重に詰めていた肴はゴボテンとヒラテンの二種類のテンプラだ。
この年は「近鉄百貨店で買った上等もんだ」と話す。
お神酒は上座の神職、次に東の座の長老、次に西の座の長老と年齢順に座した人たちに注いでいく。
乾杯をすることなく、注がれた順にお神酒を飲み干す。
まずは一献ということで二老もいただく。
ひと回りすれば、今度は熱燗になった。
これもまたひと回りの二献目。
こうして「献」をすれば、テンプラを肴に直会となった。
その間の年番の婦人らは忙しい。
供えたフクマメを小皿に移して半紙包みのオヒネリにする。
この年の参拝者はお一人だけだった。
節分の日だけに家からフクマメを持ってこられた。
それは神饌に供えるフクマメに足しておられた。
オヒネリにしたフクマメは授かって持ち帰る。
フクを捧げてフクをいただくということであろう。
(H26. 2. 3 EOS40D撮影)