マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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大西稲荷神社の新嘗祭

2017年08月09日 09時08分31秒 | 山添村へ
前日の夕刻から夜にかけての数時間はトンド焼きの火焚き祭りをしていた山添村の大字大西。

行事は稲荷神社で行われたという。

その火焚き祭の翌日は新嘗祭。

かつては陰暦11月中の卯の日に斎行されていたが11月23日の祝日に移した。

その後に移した行事日は12月初めの日曜日である。

かつて祭事日だった卯の日は当月にいくつかの卯のある日。

決め方は12月に卯のつく日が何かいあるか、である。

月に2回ある場合は最初にでてくる卯の日。

3回あれば2番目の卯の日になる。

今年のカレンダー状況であれば「丁卯」の12月11日が初め。

23日は「巳卯」の2度目にあたる卯の日になるから、行事日は12月23日となる。

年末が迫った日に行わなければならない新嘗祭。

当月の卯のつく日によっては行事日程が大きく替わりわかり難い。

或は今年のように日々の寒さが増し、年末の忙しい時期に被ってしまう。

そういうことがあって改められた行事日を11月23日の祝日に移行したのであるが、現在はそれも移した12月の第一日曜日に改定された。

新嘗祭はその年の新穀感謝祭。



収穫した稲穂を奉納して豊作に感謝する日である。

大西の新嘗祭は稲穂だけでなく特徴ある神饌御供もある。

一つは青豆をすり潰して作ったクルミをたっぷり塗したサトイモである。



県内事例に亥の子のクルミモチがある。

同じようにすり潰した青豆を塗すのであるが、塗すのは芋ではなく搗きたての白餅である。

クルミモチは神社に供えることなく各家が作ってそのお家の人が食べる。

いわば郷土料理であるが、亥の日にするのが特徴である。

11月22日の日にすると決まっている室生下笠間の事例もあれば、秋のマツリに当家のふるまいに亥の子のクルミモチを作って手伝いさんらと食べる事例もある。

区々さまざまな亥の子のクルミモチもあれば細かくサイの目に刻んだサトイモを入れてご飯炊き。

餡子で包んで食べる東吉野村鷲家のイモモチ事例もある。

大西の神饌御供のクルミは蒸して柔らかくしたサトイモに塗す。

もちろんであるが、蒸したり、茹でたりしたサトイモは芋の皮を剥がしやすい。

つるっ、と捲れるので剥がしやすい。

そうしてできたサトイモにたっぷりのクルミで塗すのだ。

青豆クルミは若干の塩に砂糖も入れて混ぜて味付けした。

味付け具合はその年の当番にあたる当家の人が作る。

当番が替われば、また違う味になる家庭の味付けである。

大西ではそのサトイモをやや太めの竹の串に挿す。

個数は3個と決まっているが、芋の大きさによっては2個になっても構わないという。

3個の芋を串に挿したらふと口ずさんでしまうのがだんご三兄弟の唄。

NHK教育テレビの「おかあさんといっしょ」の番組で歌われた今月の歌は大ヒットして日本全国どこでも歌われた。

それはともかく大西のクルミイモは串に挿した状態でどっさりと青豆クルミを塗すように盛る。

ドロドロになったクルミは青豆の香りがほのかに鼻に吸い込まれていくが、神饌に供えるがゆえ、清潔さを保つために透明シートでくるんでいる。

神饌に供える芋串は8本。

昔は50本も作って供えていた。

ちなみに当家が云うにはこの日に供えるクルミイモの青豆はミキサーで挽いて潰したそうだ。

かつてはどこの村でも石臼があった。

その石臼に茹でた豆を一粒ずつ穴に投入して臼の重みで潰す。

豆は完全な状態で潰すことはない。

僅かであるが潰し損ねる。

その食感が口にある。

また、ミキサー挽きあれば熱をもつ。

豆は熱をもつことで味わいが変わる。

かつて石臼でしていた奈良市茗荷町の民家を訪れたことがある。

石臼を廻す木の棒がない石臼だったから臼そのものを抱くように廻して挽いた。

お年寄りにはキツイ石臼挽き。

いつしかミキサーやジューサーで挽くようになった。

挽く道具が文化的になったが、クルミの味はとても美味かった。

これからの時代には石臼の姿は見ることはないが、味わいは継承されていくことだろう。

クルミイモに字数が多くなった。

もう一つの神饌に話題を戻そう。

三方に盛った左側は八つの赤飯握り。

これを「キョウ」と呼んでいる。

よくよく見れば赤飯一つずつに白いものをのっけている。

これは練った上新粉である。

この神饌は先々月に取材した大西の座祭りにも登場していた赤飯饗であるが、大きさ、形は異なる。

座祭りの場合はお茶碗に盛ってそれを逆さにする。

てっぺんに練った上新粉をのせていた。

今では上新粉で作るが、かつては石臼で挽いた粳米の米粉を水か、湯で練って作っていたシンコと思われる。

シンコは、材料、作り方から推定するにシトギ(粢)である。

さて、これより始まる神事は新嘗祭。

奈良市阪原町から出仕された神職が斎主を務める。

前述した2品の神饌や新嘗祭に相応しい収穫した稲穂付きの新穀に新穀で作られた神社庁指定の白酒(香芝市醸造元大倉本家御用酒)なども供えて神事が始まる。

境内には氏子一同揃って参拝する。



まずは祓の儀である。

神前に参られるのは区長に上老人、当家。

拝殿内で斎行される祭典を撮っているときに気づいた印がある。

切妻造り拝殿屋根の鬼瓦である。

それを支えるかのような様式は龍の姿。



もとより目を引いたのは鬼瓦の文様が牛玉の寶印なのだ。

神事の進行中はずっと見惚れていた鬼瓦の紋様。

これはと思ったのが座祭りに見た幕である。

八王子神社の扁額をあしらった幕にあった牛玉の寶印。

「座」の儀式を行った場は旧極楽寺である。

新嘗祭の祭り場は稲荷神社である。

旧極楽寺より相当離れている地に鎮座する。

八王子神社は旧極楽寺のすぐ傍にあるから旧極楽寺は神宮寺と思っていたが、稲荷神社拝殿にあるような牛玉の寶印はなかったと思う。

見逃していたら申しわけないが、旧極楽寺から見れば稲荷神社は鎮守社にあたる。

そう思ったわけはもう一つの建造物だ。

稲荷神社拝殿脇を固める建造物がある。

それは獅子狛犬ではなく稲荷大明神の神使の狐(眷族)さんである。



右に建つ狐の台座に三つの牛玉の寶印があった。

私はこういう建造物を見たのは初めてである。

県内事例はもとよりこのような建造物は他にもあるのだろうか。



狐は左側にも建つが、台座は牛玉の寶印ではなく、巻物である。

しかも彩色がある。

それもまた珍しい。



さて、神事が終われば、奉った稲穂付きの新穀は拝殿の柱に括られる。

これもまた事例が少ない奉りの在り方である。

そして、一同は参籠所に移る。

上座に座るのは左から区長、神職、一老、二老、三老。四老は右列の上座に座る。

一同、着座されたら区長の挨拶と村の諸事項報告。



続く直会に当家が動く。

ジャコと竹輪は上老人の席に運んで下げたお神酒をよばれる。

半時間ほど過ぎた時間帯だったと思う。

お酒を注いでいた当家手伝いの与力(よりき)が右手に銚子。



左手には四つの猪口をもっている。

これは大字大西の返杯の在り方。

他所でも同じような形があるのかどうかわからないが、はじめて見る返杯の在り方。

その様相に猪口をもつ姿を撮らせてもらった。

与力は酒を氏子らに注ぐ。

注がれた人はぐいと飲んで与力に空になった猪口を渡して逆に酒を注ぐ。

一般的な会社の宴会でも見られる在り方。

私は勤めた会社で30云年間も大宴会でそうしていた。

注ぎ側にまわっても注がれる側になっても返杯を要求した。

ごく普通にみる酒宴の返杯である。

大西は一対一の返杯であるが、数個の猪口を片手の指で挟む人もあれば、猪口重ねをする人もいるのは何故か。

話しを聞けば酒を飲めない人のためにあるそうだ。

つまりは飲めない人が酒のみに頼む。

頼まれた酒のみは一個、二個と増える。

人の数だけ猪口が重ねる。



頼まれた人の分だけ飲まなきゃならんといって猪口が増えるようだ。

笑いが絶えない大西の直会は実に楽しそうに思えたが、飲めない人は逆に辛いのかも・・・。

ちなみに与力は本家筋、或は分家筋にあたる家筋の人たち。

当家にあたる家筋であれば自主的に動く。

与力制度はここ山添村のほとんどの大字がその制度組織化している。

今では奈良市に属している旧月が背村もそうであるし、三重県の伊賀地方にもあるという。

探してみたネット資料によれば、「山添村の多くの大字に与力制度がある。隣村の月ヶ瀬村も同じような組織体がある。この辺りの地方は昔から相互扶助の自主的組織として与力制度を確立しているのである。この制度はいわば同族の本家、分家の組織のようなものであり、一般に“縁者は一代、与力は末代“といわれているほど強固な結合関係をもち、今日に至るまで社会生活の上で大きな役割を果している。旧月ヶ瀬村で与力という言葉を使っているのは大字の石打、長引。また、大字尾山、桃香野では同族共同体を一統の名で呼んでいる。一方、大字の嵩、月瀬では組と呼ぶ。一統の中で誰の与力は何某というように互に与力関係を結んでおり、分家が分れるに従って歴史的に自然に決っていくのである。与力は冠婚葬祭などの場合に万事その家の面倒をみる。紛争が起った場合などは当事者の与力同志が話合い折衝してその解決に当り、その決定には異議なく従わなければならない慣習になっている。即ち生活の上においてこの制度は極めて有意義なものとされている。なお、与力は同族の代表としての資格と責任をもち、土地売買、借金等の場合にも重要な証人となることもある」ということである。

直会時間はそれほど長くはないが、合間に拝見した参籠所掲げの古い写真に目がいった。



写真に写る大勢の人たち。

撮影地は稲荷神社境内であろう。

大人の人たちすべてが着物姿のように思える。

ほとんどの人は大正時代にみられる特徴ある一文字麦藁帽子を被っている。

前に大太鼓を据えてバチをもつ白装束の子どもたちも大勢いる。

女性は少ないがいずれも着物姿。

幼女もいる一枚の記念写真は「大正十四年九月吉日に奉納された大字中勇踊實況」である。

今から92年前に記録された「勇踊り」の写真は実に貴重である。

直会が始まってから1時間後に動きがあった。



区長が一枚ずつ氏子に手渡すお札である。

お札は神波多神社の護符。



天照皇大神宮の護符とともにお守りも。

もう一つは神社庁刷りの山辺暦も配布される。

そのころ同時進行する神饌御供下げの鯖も直会〆に配膳される。



二枚におろした焼き鯖は脂がのってとても美味しい。

海苔も果物のバナナも配膳されるころは日暮れどき。



幕締めに失礼して場を離れた。

自宅に戻って神饌下げの芋串と赤飯饗(キョウ)を皿に盛る。

供えていたときは透明シートを被せていたので、どういうものなのかわかりにくかったが、我が家の照明で撮ったらよくわかる。



記録の写真を撮ってからはいただき、である。

そのときの感想を綴ってみれば、こういう具合だ。

フォークで切る。

すっと切れる。

難なく切れる芋串はとても柔らかい。

口に入れたら溶けてしまうほどに柔らかい。

噛む歯はいらないほどに柔らかい。

刺してあった竹串は力もいれずにすっと抜けた。

僅かに塩と砂糖の味もあるが、青豆が勝っている。

郷土料理の味の一つに挙げてもいい料理である。

一方の御供の赤飯饗(キョウ)もよばれた。

ご飯はモチゴメで炊いた赤飯だ。

てっぺんにちょこっとのせていた白いものはシトギの名がある。

シトギだけを口にした。

堅い以前にこの味は、と思った。

それは食べたらすぐにわかる味。

片栗粉のようだ。

シトギの本来は米を挽いた粉。

つまり米粉である。

前述もしたが、シンコ作りは地域によって異なるが、水または熱湯を少しずつ混ぜて練ったもの。

奈良市佐紀町にある二条町氏子の亀畑佐紀神社の行事でよばれたシンコは上新粉で作っていた。

米粉と違ってやや甘い。

私はそう思う。

ところがこれは片栗粉の味。

我が家のかーさんもそう感じながらも食べた。

(H28.12. 4 EOS40D撮影)