マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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米谷町白山比咩神社の新嘗祭

2017年08月05日 08時48分56秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
旧五ケ谷村の一村。

奈良市米谷(まいたに)町に鎮座する神社は白山比咩神社。

この日の村行事は収穫した新穀に感謝する新嘗祭である。

時間ともなれば村の人たちは風呂敷に包んだお重を持ってくる。



お重に詰めているのは今年に収穫した新米初穂の玄米である。

一戸ごとに持ってくる新米は二合枡で軽量した5杯。

つまりは一升の新米である。

参拝する際に拝殿に供える。

そして手を合わせたら拝殿にいる世話人の佐多人(さたにん)に手渡す。



受け取った佐多人(助侈人とも)は風呂敷の紐を解いてお重の蓋を開ける。

米袋に入れる。

空になったお重に餅米で作った赤飯を盛る。



アカメシと呼ぶ人もいる赤飯である。

赤飯は予め手配していた和菓子屋さんが炊いて作ったもの。

次々と訪れる参拝者は参拝するときに風呂敷包のお重を供える。

供えたお重は拝殿前の回廊に置く。



徐々に増えだす風呂敷包。

包みは並んで順番待ち。

行事を世話する佐多人は並んでいるお重を取っては米袋に入れて赤飯に詰め替えて参拝者に返す。



返す場合もあれば、直会後に持ち帰る人もいる。

さまざまな柄の風呂敷は赤い模様が多いことに気づく。

そのうち僧侶も村の人と同様に風呂敷に包んだお重を持ってお見えになられた。

参拝してお重を手渡す。

見られない情景に思わずシャッターを押させてもらった僧侶は村にある上ノ坊寿福寺のご住職。



翌年の年明け2月4日に行われる寺行事のオコナイに誘われる。

実はご住職とお会いするのはこの日が初めてではなく、平成27年の5月6日だった。

平成6年7月、五ケ谷村史編集委員会が発刊した『五ケ谷村史』に「通称ムネの薬師と呼ばれる薬師堂に集まった十一人衆、氏子総代、檀徒総代に町役員がダンジョウをする」とあった。

その行事は紛れもない村の初祈祷。

場を探してご住職に取材願いをいたしたく探訪した。

そのとき寺前で散歩中のご住職に出合えた。

行事取材を申し出て承諾を得て翌年の平成28年にお伺いするつもりだった。

ところが発症した心臓病で車の運転もままならない状態に家から一歩もでることはなかった。

あっても心臓リハビリの歩行運動だけの毎日の療養生活だった。

この日にお会いしたご住職が云った。

「来られるかと思って待っていたが・・・」のお言葉が嬉しかった。

来年こそは間違いなく行かせていただきたいと申し出たら笑顔で返してくれた。

そんな出会いもあってお重包みを差し出すご住職の姿に反応したシャッターである。

ところで、米谷町の玄米御供はこの日の新嘗祭と7月1日に行われる農休みの麦初穂にも登場する。

かつては麦秋に収穫した新麦初穂を供えることから行事名を麦初穂と呼んでいた。

いつしか二毛作はしなくなり新麦初穂は消えたが、お米に切り替えた。

量は同じ米一升。

氏神さんに供えたお重が空になったところに詰めるのは茶碗一杯の赤飯に1個のキナコモチになるという。

そのキナコモチは麦ではない。

二毛作時代であれば小麦で作ったサナブリモチであったが、今はお米で作るキナコモチに変移したものと考えられる。

県内事例は数々あれど、麦と新米を一年に2度の初穂に供える村行事はおそらく米谷町だけではないだろうか。

麦初穂から米に替わってはいるものの、新穀に感謝する気持ちは不変のようである。

米谷町は全戸で48戸。

新嘗祭に初穂する新米は合わせて4斗にもなる。

神さんに供えた初穂は神社行事を務める村神主にお礼として神主落ちとして奉げられる。

7月の麦初穂に神職は出仕されないが、この日の新嘗祭には奈良市丹生町にお住まいの新谷宮司が斎主される。



十一人衆に氏子総代、自治会役員は拝殿に登って斎主とともに斎行される。



境内に広がって進行を見守る村の人たちに祓えをされる神職。

神事を終えて直会も取材したかったが、次の取材地の時間が気になり失礼させてもらった。

平成6年7月、五ケ谷村史編集委員会が発刊した『五ケ谷村史』がある。

史料によれば米谷町は上、中、下、茶屋、横手、清水、門口、出、西などの垣内からなる堂ケ谷街道-旧伊勢街道間の谷間に面する村落であるそうだ。

さらに史料が伝える米谷の地名。

米谷は渓谷から発想される前谷。

前原、前川、前田、前山、前岡、前畑、前久保、前坂、前中などの地名(小字名であろうか)もあるようだ。

その前谷地名が見られる文書があるらしい。

弘安八年(1285)三月の春日大社文書に「福住前谷教信房」の名が記されているようだ。

また、『大乗院寺社雑事記』、文明十三年(1481)の条に「昨日、興福寺自焼了、舞谷同自焼了」とあり、米谷には米谷太郎入道宗慶の山城があった(「国民風土記」)。

「前谷」から「舞谷」。

そして、良質の米が産出され酒造りにも使われていたことから「米谷」村名に好字化されたと考えられるようだ。

氏神社は白山比咩神社。

かつて正暦寺成身院末寺だった上ノ坊寿福院の鎮守白山大権現であった。

そのころかどうかわからないが、現在地より東の方の少し高い小字山中やヤクシノムカイが元の鎮座地。

江戸時代に発生した大地震の影響を受けて被災したことから現在地に遷された。

平成四年にゾーク(造営事業)があった際に拝殿中央の石階段が新しくなった。

実はそこにあった古い石階段耳石に刻印があった。

「永正十五年戊(1518)二月十八日施主定禪」であるが、貴重な年代記を示す元石階段は本社殿を囲む瑞垣に移されたと史料に書いてあった。

ちなみに五ケ谷村史に村ごとの神社行事一覧がある。

そのなかに興味深い記事がある。

この日の行事名は新嘗祭。

カッコ書きに「米初穂」に「あから頭」の文字がある。

「米初穂」に関しては前述した通りであるが、「あから頭」とは何であるか、である。

詳細記事に「稲の初穂を供えて収穫を感謝する。氏子は新米初穂をとして玄米を供える。この時も昔はカンヌシが舛で分量をはかった。ミヤモリは酒肴として里芋、大根の煮込みを八寸の重箱に詰めて用意する。また赤飯四升を神前に供えて、初穂供えた者に配る。アカラガシラの名称の由来は不明」と書いてあった。

名称が不明であることしか書かれていない「あから頭」。

かつてこの日の行事は新嘗祭と呼ばずに「霜月朔日覚」と書き記していたのは安政六年(1859)の『宮本定式之事』である。

この文書においても「あから頭」の表記は見られない。

尤も翻刻ではあるが、この文書には「あから頭」は見当たらない。

私が調べた範囲内であるが、行事名に「アカラガシラ」が見られる地域行事がある。

天理市荒蒔町に鎮座する勝手神社の年中行事の一つに「アカラガシラ」がある。

行事日も米谷町とまったく同じの12月1日である。

今まで聞いたことのない奇妙で不思議な名称の行事はどのようなものだったのか。

荒蒔町では大豆をすり潰したものをサトイモに載せる御供がある。

それが「アカラガシラ」御供と推定した。

詳しくは私が記したブログ記事を参照していただければ幸いだが、サトイモをカシライモと呼ばれる地域は多い。

頭のような大きさの芋をそう呼ぶ。

そのカシライモは赤ズイキ芋。

赤い頭芋がそうではないかと推定したのであるが、どうだろうか。

尤も現在の米谷町の御供に赤い頭芋は見られない。

見落としていたかもしれないが、かつて三角に切った芋御供があり、その由来にアカラガシラがあると推定したのであるが、断定できる要素が見つからない。

(H28.12. 1 EOS40D撮影)