砂撒き調査に同行していた写真家のKさんが持っていた調査報告資料がある。
それによれば京都府の南部地域に地区の数軒で砂撒きをしていた報告である。
今でもそのような習俗は行われているのか、もし、あればどこのお家なのか、それを確かめにきた木津川市山城町の上狛。
上狛といえば、退院直後に訪れた京都府立山城郷土資料館である。
その当時の企画展は「踊る!南山城-おかげ踊り・花踊り・精霊踊り-」。
中でも印象的だったのが、上狛で行われてきたお盆のときに行われる精霊(しょうらい)踊りである。
地区の自治会ごとに集まる集団は揃って新盆の家の庭(たぶんにカド)で躍る。
上狛の精霊踊りの展示は人形さんに着せていた、ひときわ目立つ白装束だった。
拝見したときの文字記録はこう書いていた。
「上狛は環濠集落。精霊踊りはナモデ踊り、ジンヤク踊りがあるようだ。8月14日、新盆のタナマツリは地区の人たちが新盆の家を訪問して供養の踊りを披露する精霊踊りをする。家中に入ることなくカドで躍るように思えた。振りは小さいが、次の新盆家に向かう道中でも躍っている映像があった。上狛は泉、野日代(のびだい)、小仲小路(こなしょうじ)、五つ郷(角・城・御堂・磯・殿前垣内?か)、林からなる。かつては隣村椿井の椿井南、椿井北、神童子(じんどうじ)、北河原や平尾の北平尾、東平尾、大平尾および鹿背山にもあった精霊踊り。神童子、椿井は大正期、上狛は昭和21年、平尾は昭和28年に発生した南山城水害を最後に途絶えた。ただ五つ郷だけは踊りを復活されて現在に至っている。当時の精霊踊りは踊り子のカンコ打ち、シンボウ打ち、音頭取り、太鼓打ち、鉦叩き、シカ持ち、ガワなどで構成されていたが、奈良県内でみられる念仏は踊りでもなく六斎鉦を打ちならし念仏を唱える様式だ。違いがあることが判った上狛の精霊踊り。できる限り拝見したいものだ。」である。
精霊踊りを取材するには代表者にお会いしてからと思っていたが、どこにお住まいなのか、手がかりはまったくなかった。
そのような思いをもって訪れた上狛の中心部を走る。
ここら辺りでどなたか、と思ったところに男性が現われた。
とにかく尋ねてみなければと思ってお声をかけさせてもらう。
砂撒きの現況を話してくださる男性は木津川市山城町上狛乾町在住京都府文化財保護指導員だった。
なんと、なんとの奇遇に京都府立山城郷土資料館もよく出かけているという。
で、あればA学芸員は・・と、聞けばずいぶんと世話になり、地元上狛の精霊踊りも調査されたというのだ。
ここで民俗を共有するAさんにお会いするとはまったくの奇遇である。
Aさんは精霊踊保存会の副会長も務めておられる。
来夏の行事取材をお願いしたのは言うまでもない。
8月14日は巡行がある。
五つの踊りはあるが、今では数曲になってしまったそうだ。
踊り子は聞き間違いでなければ老人会。
で、ここ上狛へ来た目的の砂撒きである。
実は数年前まではA家も砂撒きをしていたというのだ。
砂は川に出かけて採取したもの。
奇麗な砂だった。
12個の丸い円を描くように砂を撒く。
12個というのは12カ月。
一年を無事に過ごせますように、という願いである。
その砂撒きは歳神さんが通る道やと云っていた。
元旦は開けるときに呪文を唱えるらしい。
「ハキゾメ」の名がある習俗があった。
家の玄関を開けて箒で掃く。
掃いて家に迎える歳神さん。
話しの状況から山添村菅生で行われている「フクマル」の「フク(福)」を迎える在り方と同じようなものだと思った。
藁で眼鏡の形のような丸い形の注連縄を結っていた。
結うのは作業場だった。
町からお札のような絵の門松が配られていたが、今はしていない。
親父さんがまだ生きていた生前のころは砂を家のカドニワに撒いていたが、20年ほど前にやめた。
そのわけは家の新築。
新築することによってカドニワの形態が砂撒きに相応しくなくなりやめた、というA家には東大寺に関係する古文書があるという。
時代年は1580年らしく、その年であれば和暦でいうと天正八年。
いつかは拝見したいものだ。
こうした話題を提供してくださったAさん。
今でも砂撒きをしている家を紹介してくださった。
道筋を教えてもらって県道に出る。
そこから見る景観はわかりやすい環濠集落。
濠のすぐ傍に建つ農小屋に風情に感動してシャッターを押す。
教えてくださったO家はすぐにわかったが、生憎の不在。
諦めて付近を歩いてみる。
しばらく歩けば干しものをしている家があった。
撮らせてもらうには許可が要るだろうと思って呼び鈴を押す。
家から出てこられた婦人に許可取りの干しもの。
竹製のザルに干していたのは赤トウガラシ。
白い方はワリボシだという。
ワリボシはカラカラに乾いているが、原材料はダイコンである。
ワリボシダイコンはこうして干していると紹介してくれたのがこういう状態である。
まるで生きたイカの足のように見えるワリボシダイコン。
ハンガー利用で干しているのがなんとも愛嬌を感じる。
干したばかりの状態も見せてくださるO婦人の話しに浮かれて、これもまたシャッターを押す。
ダイコンは四角い状態に切断する。
それは端っこを残して簾型のように包丁で切る。
切ったときはそれほど感動的ではないが、時間が経つにつれて乾燥する。
乾燥すればチリチリになる。
それがまるでイカかタコの足のように見えた。
平成29年3月18日に放映されたNHK番組の「ええこと選」がある。
その日の特集地域は「豊岡 いいもの作っています」だった。
豊岡といえばコウノトリで名高い兵庫県の豊岡市。
市内を巡る出演者の一人が気づいた軒下に干した白い物体。
その家の婦人が云うには、それは「タコ足」。
薄めに短冊切りにしたダイコンはほぼ四辺形。
それを五つ、六つに細く切る。それはまるでタコの足のようにぶら下がっていた。
そうしておけば早く乾くと話していた。
で、なぜに「ワリボシ」なのか。
これもまた教えてくださった婦人の話しによれば、短冊切りは割り箸の細さできるからだという。
割り箸の細さで切ったダイコンを干す。
略して「割り干し」である。
ちなみにキリボシダイコンは端っこを残さない細きり。
切って干すからキリボシダイコンというわけだ。
また、ダイコンをオロシガネで細切りにするのは「ダイコンをつく」というそうだ。
豊岡市内から離れる奥深い集落で見つけた干しものは、この日にたまたま訪れた上狛のお家も同じように干していた。
ザルを吊るして干していたのは赤トウガラシ。
一面、真っ赤に染まった赤トウガラシが美しい。
手前にあるのはオタフク豆だろうか、聞きそびれていた。
ちなみに干しものを見せてくれたO家もかつては砂撒きをしていたという。
O家の砂撒きの形は梯子状。
線路の形というか、中央に井桁の梯子を描いて、その両端に月の数の丸い形に砂を撒く。
それに加えて「おめでとう」の文字に象った砂も撒いていたそうだ。
ちなみにO婦人が教えてくれたすぐ近くの家も砂撒きをしているようだ。
その家はH家。
婦人の話しによれば宇治城陽の砂を使っているようだという。
そのお家も訪ねてみたが不在であった。
(H28.12.18 EOS40D撮影)
それによれば京都府の南部地域に地区の数軒で砂撒きをしていた報告である。
今でもそのような習俗は行われているのか、もし、あればどこのお家なのか、それを確かめにきた木津川市山城町の上狛。
上狛といえば、退院直後に訪れた京都府立山城郷土資料館である。
その当時の企画展は「踊る!南山城-おかげ踊り・花踊り・精霊踊り-」。
中でも印象的だったのが、上狛で行われてきたお盆のときに行われる精霊(しょうらい)踊りである。
地区の自治会ごとに集まる集団は揃って新盆の家の庭(たぶんにカド)で躍る。
上狛の精霊踊りの展示は人形さんに着せていた、ひときわ目立つ白装束だった。
拝見したときの文字記録はこう書いていた。
「上狛は環濠集落。精霊踊りはナモデ踊り、ジンヤク踊りがあるようだ。8月14日、新盆のタナマツリは地区の人たちが新盆の家を訪問して供養の踊りを披露する精霊踊りをする。家中に入ることなくカドで躍るように思えた。振りは小さいが、次の新盆家に向かう道中でも躍っている映像があった。上狛は泉、野日代(のびだい)、小仲小路(こなしょうじ)、五つ郷(角・城・御堂・磯・殿前垣内?か)、林からなる。かつては隣村椿井の椿井南、椿井北、神童子(じんどうじ)、北河原や平尾の北平尾、東平尾、大平尾および鹿背山にもあった精霊踊り。神童子、椿井は大正期、上狛は昭和21年、平尾は昭和28年に発生した南山城水害を最後に途絶えた。ただ五つ郷だけは踊りを復活されて現在に至っている。当時の精霊踊りは踊り子のカンコ打ち、シンボウ打ち、音頭取り、太鼓打ち、鉦叩き、シカ持ち、ガワなどで構成されていたが、奈良県内でみられる念仏は踊りでもなく六斎鉦を打ちならし念仏を唱える様式だ。違いがあることが判った上狛の精霊踊り。できる限り拝見したいものだ。」である。
精霊踊りを取材するには代表者にお会いしてからと思っていたが、どこにお住まいなのか、手がかりはまったくなかった。
そのような思いをもって訪れた上狛の中心部を走る。
ここら辺りでどなたか、と思ったところに男性が現われた。
とにかく尋ねてみなければと思ってお声をかけさせてもらう。
砂撒きの現況を話してくださる男性は木津川市山城町上狛乾町在住京都府文化財保護指導員だった。
なんと、なんとの奇遇に京都府立山城郷土資料館もよく出かけているという。
で、あればA学芸員は・・と、聞けばずいぶんと世話になり、地元上狛の精霊踊りも調査されたというのだ。
ここで民俗を共有するAさんにお会いするとはまったくの奇遇である。
Aさんは精霊踊保存会の副会長も務めておられる。
来夏の行事取材をお願いしたのは言うまでもない。
8月14日は巡行がある。
五つの踊りはあるが、今では数曲になってしまったそうだ。
踊り子は聞き間違いでなければ老人会。
で、ここ上狛へ来た目的の砂撒きである。
実は数年前まではA家も砂撒きをしていたというのだ。
砂は川に出かけて採取したもの。
奇麗な砂だった。
12個の丸い円を描くように砂を撒く。
12個というのは12カ月。
一年を無事に過ごせますように、という願いである。
その砂撒きは歳神さんが通る道やと云っていた。
元旦は開けるときに呪文を唱えるらしい。
「ハキゾメ」の名がある習俗があった。
家の玄関を開けて箒で掃く。
掃いて家に迎える歳神さん。
話しの状況から山添村菅生で行われている「フクマル」の「フク(福)」を迎える在り方と同じようなものだと思った。
藁で眼鏡の形のような丸い形の注連縄を結っていた。
結うのは作業場だった。
町からお札のような絵の門松が配られていたが、今はしていない。
親父さんがまだ生きていた生前のころは砂を家のカドニワに撒いていたが、20年ほど前にやめた。
そのわけは家の新築。
新築することによってカドニワの形態が砂撒きに相応しくなくなりやめた、というA家には東大寺に関係する古文書があるという。
時代年は1580年らしく、その年であれば和暦でいうと天正八年。
いつかは拝見したいものだ。
こうした話題を提供してくださったAさん。
今でも砂撒きをしている家を紹介してくださった。
道筋を教えてもらって県道に出る。
そこから見る景観はわかりやすい環濠集落。
濠のすぐ傍に建つ農小屋に風情に感動してシャッターを押す。
教えてくださったO家はすぐにわかったが、生憎の不在。
諦めて付近を歩いてみる。
しばらく歩けば干しものをしている家があった。
撮らせてもらうには許可が要るだろうと思って呼び鈴を押す。
家から出てこられた婦人に許可取りの干しもの。
竹製のザルに干していたのは赤トウガラシ。
白い方はワリボシだという。
ワリボシはカラカラに乾いているが、原材料はダイコンである。
ワリボシダイコンはこうして干していると紹介してくれたのがこういう状態である。
まるで生きたイカの足のように見えるワリボシダイコン。
ハンガー利用で干しているのがなんとも愛嬌を感じる。
干したばかりの状態も見せてくださるO婦人の話しに浮かれて、これもまたシャッターを押す。
ダイコンは四角い状態に切断する。
それは端っこを残して簾型のように包丁で切る。
切ったときはそれほど感動的ではないが、時間が経つにつれて乾燥する。
乾燥すればチリチリになる。
それがまるでイカかタコの足のように見えた。
平成29年3月18日に放映されたNHK番組の「ええこと選」がある。
その日の特集地域は「豊岡 いいもの作っています」だった。
豊岡といえばコウノトリで名高い兵庫県の豊岡市。
市内を巡る出演者の一人が気づいた軒下に干した白い物体。
その家の婦人が云うには、それは「タコ足」。
薄めに短冊切りにしたダイコンはほぼ四辺形。
それを五つ、六つに細く切る。それはまるでタコの足のようにぶら下がっていた。
そうしておけば早く乾くと話していた。
で、なぜに「ワリボシ」なのか。
これもまた教えてくださった婦人の話しによれば、短冊切りは割り箸の細さできるからだという。
割り箸の細さで切ったダイコンを干す。
略して「割り干し」である。
ちなみにキリボシダイコンは端っこを残さない細きり。
切って干すからキリボシダイコンというわけだ。
また、ダイコンをオロシガネで細切りにするのは「ダイコンをつく」というそうだ。
豊岡市内から離れる奥深い集落で見つけた干しものは、この日にたまたま訪れた上狛のお家も同じように干していた。
ザルを吊るして干していたのは赤トウガラシ。
一面、真っ赤に染まった赤トウガラシが美しい。
手前にあるのはオタフク豆だろうか、聞きそびれていた。
ちなみに干しものを見せてくれたO家もかつては砂撒きをしていたという。
O家の砂撒きの形は梯子状。
線路の形というか、中央に井桁の梯子を描いて、その両端に月の数の丸い形に砂を撒く。
それに加えて「おめでとう」の文字に象った砂も撒いていたそうだ。
ちなみにO婦人が教えてくれたすぐ近くの家も砂撒きをしているようだ。
その家はH家。
婦人の話しによれば宇治城陽の砂を使っているようだという。
そのお家も訪ねてみたが不在であった。
(H28.12.18 EOS40D撮影)