チンジサンの名で呼ばれている鎮守社の行事があると聞いたのはこの年の10月8日だった。
場所は奈良市米谷(まいたに)町に鎮座する白山比咩神社右に建つ社殿である。
鎮守社はかつて薬師堂傍にあった社であったそうだ。
薬師堂は「ムネの薬師」と呼ばれる薬師堂で、上の坊寿福寺境内より上にある墓地よりさらに階段を登ったところに建つ。
名阪国道の福住より下っていけば高峰SAがある。
そこよりさらに下れば左側に見える建物がある。
それが現在地の薬師堂。
名阪国道を計画されて工事が始まれば、古い堂をあらためて鉄骨製の堂を現在地に新築移設された。
元々あった地はもっと山の上。
「峯」にあったことから「ミネの薬師」。
いつしか訛って「ムネの薬師」と呼ばれたようだ。
平成2年9月9日に白山比咩神社、庵山石仏、寿福寺などを調査したと平成6年7月、五ケ谷村史編集委員会が発刊した『五ケ谷村史』に書いてある。
そのなかに書いてあった事跡を原文のまま書き写す。
『多聞山日記』 天正十七年(1589)九月十七日条に「今朝夢ニ米谷ノ宮弁才天東向立像ノ天女ニ舎利殿二ツアリ、前立ニ毘沙門ノ姿ニテ手ニ弓ヲ持、名ヲ富有留(ふうる)ト云ト見テ夜明了、不思議事也」とあり、同白山神社に弁才天を祀っていた。寿福寺の鎮守ともいわれる白山神社の所以である。
さらに頁をくれば、白山比咩神社の項に境内社は大山祇神を祀る山王神社とある。
チンジサンの名で呼ばれている鎮守社は山王神社であった。
チンジサンの祭りは12月15日と聞いていた。
先にあげた『五ケ谷村史』も12月15日が祭事日であると書いていた。
聞いていた時間に訪れた白山比咩神社には誰一人といなかった。
村神主にお聞きすれば都合で急遽、翌日の16日になったということからの再訪である。
この日に神職は登場しない。
神社行事を司る十一人衆の行事である。
特に祝詞もなく一人一人が参拝される。
まずは本社殿に参る。
その次に参るのが鎮守社。
その右に建つ神武天皇遥拝所の立石にも手を合わせる。
参拝した十一人衆は参籠所に移る。
行事手伝いの佐多人(助侈人とも)が差し出すお茶で一服。
この日は冷たい風が吹き抜ける日。
山間部は特に寒さを感じる日である。
今朝は霰(アラレ)が降ったというだけに特に寒さを感じる。
神社鎮座地の標高は海抜350m。
さほど高くはないが、風の冷たさが頬を撫でる。
お参りしていた男性は五老のYさん。
お爺さんは村の大工さんだった。
そのお爺さんが20年前に建替えたのが鎮守社。
ずいぶん前であるが、今でも鮮やかさをとどめる朱塗りである。
チンジサンに参拝したら参籠所に籠る。
行事を下支えする佐多人はこの日の料理を机に運ぶ。
料理は大鍋で炊いた煮物。
ダイコン、サトイモ、ニンジンにゴボテン(牛蒡の天ぷら)を煮込んだ料理を皿に盛って配膳する。
この日はゴボテンであるが、ヒラ天の場合もあるらしい。
ダイコンはダイコと呼ぶ。
イモとダイコンの煮込みであれば、その料理を「イモダイコ」の煮つけと呼ぶ。
田舎の料理やというが、だし味が利いていて美味しい。
自宅で栽培した野菜は、土が良いから特に柔らかくなる。
そう云ってくれたのは村神主の奥さんだ。
料理は家庭の味。
それが美味いのである
ところ、である。
十一人衆からお呼びがかかった。
特に一老を務めるKさんからである。
「写真撮りのあんたが、何度かここ米谷町に来ているが、なぜに来ているのか、この場で話してくれ」、と云われたのである。
希望されて断る理由はない。
米谷町の伝統行事を記録、取材するようになった経緯を話させてもらう。
始まりのきっかけは隣村の北椿尾町・稲荷講の寒施行行事である。
平成19年1月21日に行われた寒施行行事取材に上がらせてもらった講中の一人が自宅に保管していた『五ケ谷村史』を見せてくださった。
村史は伝統的行事がほぼ網羅されていた。
許可を得て貸し出し。
誌面をスキャンコピーさせてもらった。
その村史に書いてあったのが「ムネの薬師」で行われているオコナイ行事である。
所在地並びに行事取材の許可を得るために訪れたのが米谷町の第一歩だった。
訪れたのは平成27年の5月6日である。
上ノ坊寿福寺の住職の了解をいただいたが、オコナイのお札は寺と神社の2枚(米谷町は苗代と田植えに分けている)があると教えてくださった。
住職は白山比咩神社行事のいくつかに参列していることも聞いた。
いずれは神社行事も拝見してみたいと思っていた。
白山比咩神社をはじめて訪れた日は平成27年の10月10日だった。
予めに伺うべきところ間に合わずに訪れた。
神社の所在地がわかればそれでいいと思っていた。
行事は始まっていた時間帯。
代表者のコンタクトはとれるような雰囲気はなかったが、だいたいの行事状況は理解できた。
それから一年後のマツリの宵宮。
唐屋の承諾は得てはいたものの十一人衆や宮総代とはその日の行事中になってしまった。
いや、その前にお会いしていた人がおられる。
八老さんに九老さんである。
九老さんは村神主でもある。
また、行事を手伝っていた助侈人のSさんである。
ところが肝心かなめの一老さんとはご挨拶ができていなかった。
マツリの日にあらためてご挨拶させてもらって了解をとったが気まずかったことを思い出す。
それらあれやこれやであるが、『五ケ谷村史』を読めば読むほど米谷町の年中行事の現況を記録したいと思ってやってきたと話させてもらった。
村史によれば旧五ケ谷の各村の伝統行事はあるが、米谷町の行事だけは今もなお昔から続けてきた在り方が継承されてきたと思っている。
村人の何人かとお話しする機会があった。
その話しによれば唐屋が一通りあたれば村行事を大改正するような動きがあるそうだ。
変革があればかつて務めてきた行事の在り方が消えてしまう。
この場を借りて現況を撮らせていただきたいと申し出たわけである。
自己紹介も兼ねて経緯並びにこれまで拝見した行事の類似例なども話させてもらったら、米谷町のオコナイは珍しいと思うからテレビ局の取材に来てもらって取り上げて欲しいとも云われる。
また、稲荷講は米谷町にもあるが、伊勢講との関係は、講の行事は仏事、それとも神事なのかなども質問される。
ここで米谷町に稲荷講があることを知った。
そのことについては村史にはない。
村史に記載されていない行事はどこともそうであるが埋もれているのである。
米谷町の稲荷講もこの場におられたのも二人。
その講中でなければわからないのである。
こういう機会は逃したくない。
二人の講中に聞いた行事日は3月あたまの初午の日。
場は八丁坂と呼ばれる急な坂道にある白山神社とは別の神さんだという。
別の神さんは10軒の稲荷講が信仰する稲荷社であろう。
会所から下る道がある。
下った三ツ辻近くにあるらしい。
行事の概要は講中が集まっての般若心経。
供えたお菓子などの御供は下げて子どもたちに配るという。
(H28.12.16 EOS40D撮影)
場所は奈良市米谷(まいたに)町に鎮座する白山比咩神社右に建つ社殿である。
鎮守社はかつて薬師堂傍にあった社であったそうだ。
薬師堂は「ムネの薬師」と呼ばれる薬師堂で、上の坊寿福寺境内より上にある墓地よりさらに階段を登ったところに建つ。
名阪国道の福住より下っていけば高峰SAがある。
そこよりさらに下れば左側に見える建物がある。
それが現在地の薬師堂。
名阪国道を計画されて工事が始まれば、古い堂をあらためて鉄骨製の堂を現在地に新築移設された。
元々あった地はもっと山の上。
「峯」にあったことから「ミネの薬師」。
いつしか訛って「ムネの薬師」と呼ばれたようだ。
平成2年9月9日に白山比咩神社、庵山石仏、寿福寺などを調査したと平成6年7月、五ケ谷村史編集委員会が発刊した『五ケ谷村史』に書いてある。
そのなかに書いてあった事跡を原文のまま書き写す。
『多聞山日記』 天正十七年(1589)九月十七日条に「今朝夢ニ米谷ノ宮弁才天東向立像ノ天女ニ舎利殿二ツアリ、前立ニ毘沙門ノ姿ニテ手ニ弓ヲ持、名ヲ富有留(ふうる)ト云ト見テ夜明了、不思議事也」とあり、同白山神社に弁才天を祀っていた。寿福寺の鎮守ともいわれる白山神社の所以である。
さらに頁をくれば、白山比咩神社の項に境内社は大山祇神を祀る山王神社とある。
チンジサンの名で呼ばれている鎮守社は山王神社であった。
チンジサンの祭りは12月15日と聞いていた。
先にあげた『五ケ谷村史』も12月15日が祭事日であると書いていた。
聞いていた時間に訪れた白山比咩神社には誰一人といなかった。
村神主にお聞きすれば都合で急遽、翌日の16日になったということからの再訪である。
この日に神職は登場しない。
神社行事を司る十一人衆の行事である。
特に祝詞もなく一人一人が参拝される。
まずは本社殿に参る。
その次に参るのが鎮守社。
その右に建つ神武天皇遥拝所の立石にも手を合わせる。
参拝した十一人衆は参籠所に移る。
行事手伝いの佐多人(助侈人とも)が差し出すお茶で一服。
この日は冷たい風が吹き抜ける日。
山間部は特に寒さを感じる日である。
今朝は霰(アラレ)が降ったというだけに特に寒さを感じる。
神社鎮座地の標高は海抜350m。
さほど高くはないが、風の冷たさが頬を撫でる。
お参りしていた男性は五老のYさん。
お爺さんは村の大工さんだった。
そのお爺さんが20年前に建替えたのが鎮守社。
ずいぶん前であるが、今でも鮮やかさをとどめる朱塗りである。
チンジサンに参拝したら参籠所に籠る。
行事を下支えする佐多人はこの日の料理を机に運ぶ。
料理は大鍋で炊いた煮物。
ダイコン、サトイモ、ニンジンにゴボテン(牛蒡の天ぷら)を煮込んだ料理を皿に盛って配膳する。
この日はゴボテンであるが、ヒラ天の場合もあるらしい。
ダイコンはダイコと呼ぶ。
イモとダイコンの煮込みであれば、その料理を「イモダイコ」の煮つけと呼ぶ。
田舎の料理やというが、だし味が利いていて美味しい。
自宅で栽培した野菜は、土が良いから特に柔らかくなる。
そう云ってくれたのは村神主の奥さんだ。
料理は家庭の味。
それが美味いのである
ところ、である。
十一人衆からお呼びがかかった。
特に一老を務めるKさんからである。
「写真撮りのあんたが、何度かここ米谷町に来ているが、なぜに来ているのか、この場で話してくれ」、と云われたのである。
希望されて断る理由はない。
米谷町の伝統行事を記録、取材するようになった経緯を話させてもらう。
始まりのきっかけは隣村の北椿尾町・稲荷講の寒施行行事である。
平成19年1月21日に行われた寒施行行事取材に上がらせてもらった講中の一人が自宅に保管していた『五ケ谷村史』を見せてくださった。
村史は伝統的行事がほぼ網羅されていた。
許可を得て貸し出し。
誌面をスキャンコピーさせてもらった。
その村史に書いてあったのが「ムネの薬師」で行われているオコナイ行事である。
所在地並びに行事取材の許可を得るために訪れたのが米谷町の第一歩だった。
訪れたのは平成27年の5月6日である。
上ノ坊寿福寺の住職の了解をいただいたが、オコナイのお札は寺と神社の2枚(米谷町は苗代と田植えに分けている)があると教えてくださった。
住職は白山比咩神社行事のいくつかに参列していることも聞いた。
いずれは神社行事も拝見してみたいと思っていた。
白山比咩神社をはじめて訪れた日は平成27年の10月10日だった。
予めに伺うべきところ間に合わずに訪れた。
神社の所在地がわかればそれでいいと思っていた。
行事は始まっていた時間帯。
代表者のコンタクトはとれるような雰囲気はなかったが、だいたいの行事状況は理解できた。
それから一年後のマツリの宵宮。
唐屋の承諾は得てはいたものの十一人衆や宮総代とはその日の行事中になってしまった。
いや、その前にお会いしていた人がおられる。
八老さんに九老さんである。
九老さんは村神主でもある。
また、行事を手伝っていた助侈人のSさんである。
ところが肝心かなめの一老さんとはご挨拶ができていなかった。
マツリの日にあらためてご挨拶させてもらって了解をとったが気まずかったことを思い出す。
それらあれやこれやであるが、『五ケ谷村史』を読めば読むほど米谷町の年中行事の現況を記録したいと思ってやってきたと話させてもらった。
村史によれば旧五ケ谷の各村の伝統行事はあるが、米谷町の行事だけは今もなお昔から続けてきた在り方が継承されてきたと思っている。
村人の何人かとお話しする機会があった。
その話しによれば唐屋が一通りあたれば村行事を大改正するような動きがあるそうだ。
変革があればかつて務めてきた行事の在り方が消えてしまう。
この場を借りて現況を撮らせていただきたいと申し出たわけである。
自己紹介も兼ねて経緯並びにこれまで拝見した行事の類似例なども話させてもらったら、米谷町のオコナイは珍しいと思うからテレビ局の取材に来てもらって取り上げて欲しいとも云われる。
また、稲荷講は米谷町にもあるが、伊勢講との関係は、講の行事は仏事、それとも神事なのかなども質問される。
ここで米谷町に稲荷講があることを知った。
そのことについては村史にはない。
村史に記載されていない行事はどこともそうであるが埋もれているのである。
米谷町の稲荷講もこの場におられたのも二人。
その講中でなければわからないのである。
こういう機会は逃したくない。
二人の講中に聞いた行事日は3月あたまの初午の日。
場は八丁坂と呼ばれる急な坂道にある白山神社とは別の神さんだという。
別の神さんは10軒の稲荷講が信仰する稲荷社であろう。
会所から下る道がある。
下った三ツ辻近くにあるらしい。
行事の概要は講中が集まっての般若心経。
供えたお菓子などの御供は下げて子どもたちに配るという。
(H28.12.16 EOS40D撮影)