マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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強制終了対応

2011年12月21日 06時46分54秒 | つうしん
先月の10月半ば過ぎから突然にインターネットエクスプローラーが強制終了されてしまう現象で悩まされていた。

あるブログでは画像を挿入したとたんに終わってしまう。

その後はインターネットを閲覧している状態でも強制的に終わってしまうのだ。

どうにもならん現象で手をこまねいていた。

それゆいえ一部のブログでは文字だけの書き込みになっていた。

こんな状態が続いていた毎日。

当ブログも影響が出ていたが、画像を文章間に挿し込むことでなんとか逃げていた。

いつ終了するかわからん状態で続けていくには胃が痛くイラチがつのる。

なんとか回避したいと思って調べてみた。

あるサイトにそれらしき解決方法が載っていた。

それにはインターネットオプションで回避設定できるらしい。

「詳細設定でサードパーテイ製のブラウザ拡張を有効にする」のチェックを外すとある。

試しにそれをやってみた。

適用してSNSブログをアップした。

なんの事象も発生せずにアップできた。

これでいいのだろうか。

しばらくは様子をみてみよう。

(H23.11. 4 記)

誓多林八柱神社下遷宮

2011年12月20日 08時50分33秒 | 民俗あれこれ(ゾーク事業)
手斧始めの儀式をされた奈良市誓多林の六人衆たち。

夜には氏子らも入って再び八柱神社に集まってきた。

永正11年(1514年)の創建だという八柱神社。

社殿を造営するにあたっては神さんを遷さなければならない。

いわゆるミタマウツシ(御霊遷し)をされる宮司は闇夜のなかで神事を行っていく。

祓えの儀や祝詞奏上では電燈が照らされていたが御霊を遷す際にはすべてが消燈される。

辺りは真っ暗になった。

役員が照らし出す行燈の明かりだけがときおり闇夜に動く。

白いマスクをした宮司が発する「おおーー おおーー」の声だけが聞こえる静寂のなかでの遷座の儀式。

それは下遷宮(げせんぐう)と呼ばれる儀式である。

八柱神社、三十八神社、八阪神社、宗像神社、大国神社、水神社などひとつずつ神さんが遷される。

厳かな情景となった誓多林。

静寂のなかで遷座の儀が営まれる。

神さんが遷されたあとは再び電燈が点けられた。

そして玉垣に入っていった氏子たち。

ライトはあるもののやはり暗闇だ。



これもまた厳かに献饌される。

玉串奉奠で終えた下遷宮の儀式。

本殿はここで塗り替えられるのだが、小型になる七つの末社はオーコで担がれて工房に持ち帰るそうだ。

半年後の上遷宮が営まれるまでは仮の宮に遷された。

(H23.11. 3 EOS40D撮影)

誓多林八柱神社チョウナハジメ

2011年12月19日 06時45分53秒 | 民俗あれこれ(ゾーク事業)
早朝に降っていた雨がやんだ奈良市誓多林。

この日は20年に一度の八柱神社の造営事業の始めの儀式が行われる。

大和では造営のことをゾークと呼ばれることが多い。

当地でもそうだった。

祀るスサノオのミコトには八人の王子がいた。

スモウの行事もあるからタジカラオノミコトの神社でもあると氏子らが話す八柱神社。

明治四十年十月に建之された燈籠にはそのことを示す「八王子 村中安全」の名が刻まれている。



神社に集まったのは造営委員や六人衆たち。

造営を始めるにあたり大工棟梁も加わって起工式が行われる。

棟梁は春日大社や有名大寺などの文化財建築にも携わっている尾田組の大工さん。

創業以来匠の技を現代に活かす名高い宮大工である。

宮司による祓いの儀、降神の儀、献饌、祝詞奏上を経て棟梁が登場した。

テーブルにはヤリガンナ(槍鉋)、チョウナ(手斧)、サシガネ、スミツボ、スミサシが並べられている。

造営を始めるにあたり、最初に行われる大工さんの儀式である。

先月の秋祭りには土俵があった境内。そこに棟木が置かれている。



そこへ移動した棟梁。

手にはサシガネ(指金)とスミツボ(墨壺)、スミサシ(墨指)がある。

まずはサシガネとスミサシを用いて寸法を測る。

そして繰りだしたスミツボの糸線をピンと張る。

それは跳ねるような作法で、一筋の直線が描かれた墨打ちの儀であった。

その次も棟梁の儀式だ。



チョウナと呼ばれる手斧。

村の人はそれをチョンナと呼んでいた。

手斧を手にした棟梁は棟木に向かって「トン、トン、トン エイ」と手斧を振りおろして木に当てる。

それは3回もされて最後の「エイ」で力強く降りおろして木を削った。

「エイ」は「永」の字を充てるという手斧始めの儀式である。

「せんざい(千歳)、まんざい(万歳)、えいえい(永々)」の目出度い詞が発せられる槌打ちの儀は行われなかったが、手斧の儀は造営を始めるにあたって千年、万年と末永く社殿が建っているようにという願いが込められている。

こうして儀式を終えた人たちは社務所で工事の無事を願って直会が行われた。

(H23.11. 3 EOS40D撮影)

額田部融通寺の如来さん

2011年12月18日 08時11分09秒 | 大和郡山市へ
額田部の檀家を巡ってきた如来さんのご回在は門を潜って融通寺に着いた。

ここでは寺住職に案内されて僧中がお墓に入っていく。

如来さんも入っていく。

墓の前に立つ如来さん担ぎと僧中。



ここでも念仏を唱えている。

お墓参りもする人がいるがそれとは関係なく進められる。

僧中は墓石に刻まれている戒名を詠みあげる。

先祖さんのお墓も参ってくれるありがたい如来さんである。



融通寺には平成15年4月に建之された良忍上人像がある。

「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行」の文字が書かれている。

一人がみんなのために、みんなが一人のために念仏を唱えて融通しあえばすべてが往生できるという偈文である。

念仏を勧める鉦を叩いて諸国を歩いたという開祖の上人の姿だ。

大通上人の前に立つ僧侶たち。

ここでは天高く天得如来さんを掲げて念仏を唱える。



融通念仏は良忍上人以降において度々衰退したという。

江戸時代に融通念仏宗を再興した大通上人(墓)を湛えて掲げる如来さん。

それを見守る檀家役員は6人が揃って会食となる。

それとは関係なく僧侶たちは本堂に上がった。

位牌を並べた祭壇、そして本尊へと掲げられた。

(H23.10.31 EOS40D撮影)

額田部北方の如来さん回在

2011年12月17日 08時34分53秒 | 大和郡山市へ
南方の檀家すべてを回ったら北方の檀家役員にバトンタッチされる。

ここからは60軒。

長丁場のご回在だけに昼には融通寺で休憩をされそのあとは平端駅に向かった昭和地区へも行くという。

飛ばしてはならないと同じように気遣いしながら道案内する。

昨夜の雨はあがってこの日は天晴れ。

今年も晴れで如来さんの日はいつも晴れだと笑顔で案内する。

村中は旧村住居が多い。

以前はここに藁葺きの家があったと話す。

それは70年も前のことだという。

そのころの額田部は150軒ぐらいだった。

それが移り変わって新興住宅が増えて800軒にもなったと話す。



南方の檀家役員の話によれば額田部では一夜諷踊(イチヤフジ)と常諷踊(ジョウフジ)があるという。

一夜諷踊は如来さんが来る日だけに念仏する。

常諷踊は大阪平野の大念仏本山で何日間か念仏をしてくれているのだという。

諷踊(ふじゅ)とは位牌、塔婆など先祖さん、過去帳を詠みあげることだそうだ。



先祖回向、家内安全など祈願されたあとは如来さんを箱に戻して「オチョウダイ」と呼ばれる如来さんのご加護を授かる。

背中に如来さんをあてて「身体堅固 南無阿弥陀仏」が唱えられる。

如来さんの力で守って戴くという儀式だ。

この日に来られた目代の話によれば如来さんの夢を度々見るという。

鉦の音がカン、カン、カ、カ、カ、カーンと鳴る音が耳に焼きついていて、それが夢にでてくる。

追いまくられているようで目を覚ますらしい。

秋から冬にかけて村々を巡る如来さん。

鉦を叩いてご本尊を担いで駆け巡る。

風のように現れて風のように去っていくと、どの集落の人もそういう。

(H23.10.31 EOS40D撮影)

額田部南方の如来さん回在

2011年12月16日 08時06分40秒 | 大和郡山市へ
2年前までは融通寺で泊りがあった。

そのころまでは立ヒコ、掛ヒコの順で巡っていたが行ったり来たりするので効率性を考慮して家並びの順にされた大和郡山市の額田部町。

南町から北町へと大阪平野の大念仏からやってきた如来さんが駆け巡る。

額田部の大通り。

車の往来が激しい道を如来さんが巡っていく。

かつてはその道をバスが通っていた。

斑鳩法隆寺から安堵を抜けて平端や筒井を通っていた。

バスが通っているなら生活しやすいと隣町の西町に移り住んだ住民。

それもつかの間で、今では車がないと不便な地域になったと話す。

かつて南町と北町を南方、北方と呼んでいた額田部の村。

朝早くに大和川堤防付近で待っていた融通寺の檀家役員の3人。

南方では35軒。

如来さんに上がってもらう家を一軒ずつ案内していく。

ときには狭い路地にも入っていく。

「昔はリヤカーなどの荷車か人しか通らなかったからそれだけの道幅なのだ」と話す総代たち。

「昨日には集金を済ませていたので飛ばしてしまったらえらいことになる」と言いながら案内をしていく。



如来さんは十一尊天得如来。

十一尊にちなんで来る七人の僧侶と在俗の4人で構成されている。

紫の衣を着ているのは「唱導師(しょうどうし)」、黄色い衣は「目代(もくだい)」で収納と呼ばれる在所寺の僧侶がつく。

あとの4人は「僧中(そうちゅう)と呼ばれる黒い衣の若手僧侶たちだ。

如来さんを担ぎ回る禅門はトモと呼ばれる、鉦を叩く人。

寄進された浄財を預かる人は、檀家が一統掛かり、目代掛かり、僧中掛かりか立回向(たてえこう)かどうか指示して回る。



立回向は如来さんを箱から出さずに仏壇の前に立て掛けて二人の僧中がお経をあげる。

額田部ではこれを「立ヒコ」と呼んでいる。

「掛かり」であれば天得如来さんの掛け図を広げる。

それには「掛ヒコ」と呼んでいる。



「掛け回向」には一等、二等、三等の区分があるそうで一等は紫の唱導師に融通寺の住職がつく。

二等は黄色の目代、三等は僧中となるのだが、額田部の婦人たちはその僧中を「黒い衣装の坊さんだから親しみを込めて「クロボン」と呼んでいる。

(H23.10.31 EOS40D撮影)

私がとらえた大和の民俗解説

2011年12月15日 06時45分24秒 | 民俗を語る
奈良県立民俗博物館では、玄関ホールで度々映像による民俗を紹介する展示会を開催されてきた。

どれをとっても珠玉の作品と思う秦氏が捉えたビデオ映像に野本氏の「オンダと野神行事」。

村上氏が描いた絵画作品や伝統行事として指定された「往馬大社の火祭り」もあった。

それに私自身も協力させていただいた「大和郡山の祭りと行事」も。

今回は8人の写真家による「私がとらえた大和の民俗」であった。

それぞれの視点でとらえた民俗事象を写真で描く作品群。

これが大和の民俗ではないかとテーマ組写真は3枚組。

写真展でありながら初の図録も制作された。

民俗博物館始まって以来のことのようだ。

初の試みだっただけに、ここに至るまで一年間も要した。

テーマや写真の選別はお互いが重ならないように何度も打合せをしたが、作品や解説文はそれぞれに委ねられる。

お互いの個性がここに表出されるだけに纏まりはないが、それぞれに味わいが出たのではないかと思っている。

それぞれの写真家がとらえた民俗テーマは結果的にバラエティに富んだと思う。

民俗を網羅したわけではないがなんとか立ち上がったことにほっとする。

この日はそれらの民俗を紹介する解説日。

写真家を代表して野本氏と私が壇上に座ることになった。

自分の作品だけ話すわけにはいかない。

大和の民俗を踏まえて紹介しなくてはならないから全体をふまえた解説ストーリーは難しい。

解説依頼を受けてから「あーでもない、こーでもない」と悩ましき日々を送っていた。

期日が迫ってなんとかレジメを用意した。とはいってもそれは私用だ。

ユネスコ世界遺産に登録された都祁上深川の題目立。

そこでは「おーい、写真屋」と呼ばれていると自己紹介から始めた。

祭りのイメージにはどんなものが、大和の祭りの数は、と話しながら展示テーマのいくつかを紹介していく。

今回は写真家の立場だけに、撮影にあたっての心構えなども話した。

会場には撮影でたいへんお世話になっている宮司さんや巫女さんも来られていた。

行事をされたご家族も来られていただけに緊張しまくりの解説であった。

座トーヤや行事を勤めていた氏子に祭祀を勤める宮司、巫女。

映す側の写真家と映される側、それぞれの立場で語られた会場はまるでミニシンポジウムのようになった。

(H23.10.30 SB932SH撮影)

稗田町常楽寺結願融通正伝法

2011年12月14日 06時47分04秒 | 大和郡山市へ
この日も生御膳を供えた常楽寺。

5日間の修業をしてきた融通正伝法もようやく結願の日を迎えた。

本尊の前には「行人願文」が寄せられている。

コーヤドーフで造られた五重の塔。

平たい麩でこしらえた巻物。

この日の結願満行の証しにいただく巻物を形にしたそうだ。

昆布は扇にされた。

趣向を凝らして毎日造られる生御膳は芸術の域である。

こういった生御膳は常に造るわけではなく十夜とか大事なときに供えるという。

僧侶たちは毎朝の勤行礼拝を始める前に水行を行う。

設営された水行場に入り「沐浴身体(もくよくしんたい) 当願衆生(とうがんしゅじょう) 身心無垢(しんじんむく) 内外清浄(ないげしょうじょう) 六根清浄(ろっこんしょうじょう) 三業清浄(さんごうしょうじょう)」の水行の偈文を唱えて、己の垢を取りはらい内外とも身体を清める。



そうしてこの日も正伝法の修行に入堂した行人たち。

白地の背中に「十界一念融通念仏 南無阿弥陀佛 億百万遍功徳円満」浮かぶ文字が本堂に並ぶ。

先代の母親が授かったという田中町のY夫妻。

それからもう42年も経ったと話す融通正伝法の修業はこの日をもって結願(けちがん)する。

先祖代々の追善法要、位牌伝法に「なーむあんまいだー なーむあんまいだー」の念仏は朝な夕なに唱えてきた。

(H23.10.30 EOS40D撮影)

稗田町常楽寺42年ぶりの融通正伝法

2011年12月13日 08時47分19秒 | 大和郡山市へ
26日の入行から31日の満行までの五日間に亘って融通正伝法(ゆうずうしょうでんぼう)が行われている大和郡山市稗田の常楽寺。

田中町に住む信者夫妻から「お寺の了解も得た正伝法の取材。42年ぶりに行われているので是非来ていただきたい」とお願いをされて訪れた。

本堂の仏さんには生御膳(なまごぜん)が供えられている。

ニンジン、アスパラ、カキ、ダイコンで造ったお花はランでしょうか。

ソーメンのフシを菊の花のように咲かせたものもあるが、葉っぱは本物だと作られた僧侶は話す。

中央にはダイコンの塔まである。

これらの生御膳は姿を替えて毎日供えられる。

意外と簡単だと言わるがその発想力には感動を覚える。



4日間もの行を勤めている人たちでいっぱいになった堂内。

およそ90人の人たちは行人と呼ばれる。

男性、女性の割合は半々ぐらいであろうか。

行人たちは毎朝8時からお勤めをされてきた。

これまでの3日間は僧侶のお説教(勧誡、いわゆる教義)を聞いていたと話す信者さん。

「法名(戒名)は生きている間に貰うもので、仏教徒として洗礼を受ける。いわば仏弟になるのだ」と僧侶たちが言った融通正伝法の修行。

文字通りお釈迦さんが悟られた真理である「法」を「伝える」修業の意味をもつ。

2日目はオカミソリと呼ばれるお剃刀の儀式があったそうだ。

在家の人の髪に剃刀をあてる真似事をして仏門に帰依する証しの儀式。

剃髪(ていはつ)とも呼ばれる儀式は、衆俗から脱して僧侶になるというが実際は剃らない。

3日目となったこの日はお説教を終えてから授戒道場に入る儀式がある。

一人ずつ名前を呼ばれて本堂から下る。

その際に香炉を跨いでいく足香(そっこう)。



男性は左足で、女性は右足を高く揚げて香炉を跨いでいく。

行人が向った先は隣に設営された圓頓戒(えんどんかい)道場だ。

そこは真っ暗で、僅かなローソクの光りに照らされた本尊釈迦牟菩薩、・・・文殊菩薩や四天王などの掛け図。

「なむあみだー なむあみだー」と声を揃えて念仏を唱える僧侶たち。

道場の行はおよそ1時間。



あの世となる道場で不浄を退けた行人の顔は円満の願つきとなるという。

授戒後には男性は禅定門、女性は禅定尼と呼ばれる法位を得るのである。

なお、行人たちが入っていた道場は一般の人も入道を許される。

手をすり合わせていた行人が立ち去ったあと、いかばくか温もりがある道場に入った人たちも手を合わせて念仏を唱えた。

(H23.10.29 EOS40D撮影)

暁の空

2011年12月12日 06時48分26秒 | 食事が主な周辺をお散歩
この日も朝早く目覚めた。

仕事にでかける日は5時半に起きて新聞受けを見る。

秋の朝は徐々に夜明け時間が遅まっていく。

空はまだ夜。

天空を見れば星もちらつく。

と、思いきや東の空は一直線の朝焼け。

暁の空にはまだお月さんが光っていた。

(H23.10.24 SB932SH撮影)