マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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門外釣殿神社の節分祭

2014年07月21日 07時18分53秒 | 奈良市へ
地域によっては「年越し」とも呼ばれる村の「節分」行事がある。

鬼が出没しない村の節分行事に興味をもった前年。

奈良市佐紀中町の門外釣殿神社に出かけたことがある。

「釣殿」っていう呼び名の由来は鎮座する神社横にある池のことだ。

そこには突きでた島があったと云う上六人衆の二老さん。

この年は年番も勤めである。

突きでた島からは対岸と結ぶ堤道があった。

参拝する堤道を渡って釣殿神社に参っていたと話すが、それは随分と昔しの景観であった。

その突きでた島部分は「釣殿」の名があった。

池に面した処に建てた建物を「釣殿」と呼んでいた名残が神社名になった。

「釣殿」の名がある平城京跡の東側にある東院庭園。

「そこへ行けば様相が判るだろ」と話していた。

そのとおりである。

「門外」は今でも残る小字の名。

平城京跡大極殿北側の地、「門の外だからそう呼ぶ」と話していた小字門外は御前池の北側である。

釣殿神社直近西隣にある神社は西畑佐紀神社。

御前池の東側に鎮座するのが亀畑佐紀神社だ。

3社が近接している地域だけに、迷う人もいるようだが、2社とも亀畑佐紀神社から分社したようだ。

釣殿神社は平安時代に亀畑佐紀神社の市杵島姫命を分祀。

西畑は江戸時代(天保年間)に村たがえで釣殿神社より分祀したと伝わる。

そのような話しをしてくださった釣殿神社には「正徳五乙未年(1715)七月吉日」の記銘が見られる燈籠1基があった。

応対してくださった年番さんの屋号は「クゲヂャヤ」。

漢字を充てれば「公家茶屋」だ。

平城の歴史を感じる屋号である。

釣殿神社には上六人衆と下六人衆からなる「座」がある。

上六人衆は長老から一老、二老・・・六老。

二老は神社の年中行事を勤める年番役となる村神主になると云う。

ちなみに神職は大和郡山市の柳澤神社宮司の河野さん。

大祭の際には出仕される。

41戸の門外にはトウヤ(当家)制度もあるが、行事の手伝役で、炊きものなどをしたりすると話す。

昨年、訪れたときに話してくださった年番さんは、15時の祭典でマメを供えると云っていた。

氏子がお参りにきた際にマメを交換すると話していたが、この年からは「たばるだけになった」と云う。

「他の人が供えたマメをなんで持って帰らなあかんのや」と云う問いに応えることになった節分のマメは年番が供えてしばらくすれば下げる。



マメは持ち帰りやすいようにした袋詰めに替えた。

それを持ち帰ってもらうようにしたと話す年番さん。

参拝を済ませてよばれるお神酒がある。

その在り方も替えられた。

前年まではお神酒を素焼きの白いカワラケに注いでいたのであったが、これもまた意見がでた。

「他の人が口をつけたカワラケでは飲めない」と意見が出て、使い捨ての紙コップになったのだ。

「現代文化で育ってきた人たちの要望を満たすためにそうした」と話していたが、例年どおりにマメを持ってきた参拝者は面食らう。

その都度、説明をされる年番さんに換わった作法を教わってそうされた。



参拝者を待つ年番さんらは、マツリの際に「座中」が座る座小屋で待機していた。

ちなみにこの日の朝6時ころ。

三体の立御膳を供えていたと云う。

前年に撮らせていただいた神社概要によれば立御膳は葉付きのニンジンにダイコン、ゴボウであった。



椀盛りにはメザシに麩だ。

この日の午前中は仕事だった。

この盛りは記録写真より抜粋させていただいた。

いずれは本物を拝見したいものだ。

なお、愛宕講もあると云う佐紀門外は行政地名でいえば佐紀中町。

1月の成人の日の前日には平城京跡北にあるとんど場でとんどが焼きが行われる。

その日も早朝に釣殿神社へ立御膳が供えられたあとで雑煮をよばれるそうだ。

かつては1月15日であったが、この日に移ったそうだ。

立御膳、雑煮を経てとんど場に向かう。

その様相も拝見したいと思って神社を離れた。

(H26. 2. 3 EOS40D撮影)

天井町八幡宮のとんど場

2014年07月20日 09時16分15秒 | 大和郡山市へ
かつてはいつだったのか聞きそびれた大和郡山市天井町のとんど。

2月の第一日曜にされると自治会長が話していたとんど場は氏神さんを祭る八幡宮。

鎮守の森は奇麗さっぱり伐採していた。

鬱蒼としていた八幡宮の森に明かりが挿しこむぐらいだが、この日は雨。

どんより曇ってはいるが清々しい。

ここでのとんど組みには竹が見られない。

付近には竹林もなく、伐採した木が盛ってあるだけだった。

そうなると話していた景観である。

天井町より南は本庄町に杉町。

その杉町住む90歳のM長老が話していたとんどの日。

丸太のモチを持っていって焼いて食べたら腹痛をしないと話していた。

2年前のことである。

杉町では「2月1日にとんどをしていた。雨が降らんかったら会所で籠りをしていた」と話す。

随分前のことだと前置きされたとんどの様相である。

「八幡神社前の信号角の畑で竹櫓のとんどをしていたが、戦後に廃れた」と話す長老は今でも毎度の朝食にチャガイを食べていると話していた。

かつては、トーヤが両方に葉がある笹竹で簾注連縄(シメナワと呼ぶ)を作って掲げていた八幡神社の注連縄を拝見したことがある。

それはともかく杉町においても二ノ正月のとんどがあったのだ。

もしかとすればだが、天井町もそうであったかも知れない。

(H26. 2. 2 EOS40D撮影)

長安寺町のとんど場

2014年07月19日 09時38分12秒 | 大和郡山市へ
かつては小正月の1月15日にされていた大和郡山市長安寺町のとんど。

いつの時代か判らないが、今では1月末か2月初めの日曜日。

朝9時に火を点けると聞いていた。

話してくれたのは送迎の患者さんだ。

楽しみにしていたこの日は雨天。

そうでなければ朝からとんど組みをすると云っていたが・・・。

刈りとった雑木とともに注連縄も雨が染み込んでいた。

通りがかった軽トラの男性の話しによれば一週間遅らせたようだと話す。

日程を順延した日付けは立て看板に書いてあった。

そこには昨年末の29日に厳島神社に掛けていたと思われる簾型の注連縄。

お役目を終えてとんど場に置いてあった。

とんどをに火を点けるのは自警団だと話していたのは送迎患者のYさんだ。

昔は五徳でモチを焼いていた。

そのようなモチ焼きはDさんも話していた。

よその土地を借りているから針金などは注連縄から取り外しておく。

とんどが終われば公民館でふるまいの雑煮をよばれていたと話していた。

(H26. 2. 2 EOS40D撮影)

大江町の二ノ正月のとんど

2014年07月18日 08時21分48秒 | 大和郡山市へ
4年前のことである。

大和郡山市番条町の二ノ正月のとんど取材を終えて通りがかった国道24号線信号の大江町南。

そこより東へ数十メートルの地でとんど組みをしていた。

朝8時にとんど焼きをすると話していた。

場所は的場新池より南側の菩提仙川堤だった。

この年に立ち寄ったとんど場は工事中だった。

それより数十メートル離れた橋の南側で煙が上がっていた。

そこには男性がおられる。

もしやと思って近寄ればとんど焼きであった。

男性は大江町の住民。家で飾った注連縄を燃やしていたのである。

例年であればとんど場は南側の菩提仙川堤。

今年は吉野川分水を通している管の補修工事によって仕方なく場を替えたと話す。

老朽した管は何十年に一度は補修される。

今回は二重の管にするようだともう一人の男性が話す。

2月1日は二ノ正月。

大江町ではその翌日の2日の朝に燃やすのであった。

それより30分ほど前には大きな注連縄を折って燃やしていた人も居たと云う。

簾型であれば大晦日に拝見したN家のオシメサンに違いない。

簾型の注連縄は大江町に鎮座する大将軍(たいしょうぐん)神社の拝殿前に掲げられていた。

撮らせてもらった日は大晦日。

それより以前に掲げられたと思っていた。

男性の話しによれば30日か31日の年末大晦日。

今年は訪ねてみたい。

神社の注連縄はこの日の二ノ正月のとんどではなく前月であった。

27日辺りに燃やしていたと云う場は神社境内。

地域によれば各戸・神社とも同じ日にされる場合がある。

大江町のように別の日にされる場合もあることを知った。

雨も止んだこの日は、稗田町賣太神社の宮司が出仕されて神事が行われる。

とんどの場で火番をされていたのは宮守さん。

しばらくすれば神社の行事に出向くと話す。

(H26. 2. 2 EOS40D撮影)

番条町の二ノ正月のとんど

2014年07月17日 06時56分58秒 | 大和郡山市へ
戦後10年までは大きなとんどを組んで行っていた大和郡山市の番条町。

環濠集落に囲まれた旧村である。

子どもの行事であった番条町の大とんど。

各家を巡って藁束をもらっていたとんど組みであった。

大人は藁を寄せて竹を組んで大とんどを設えていた。

「虫追い」とも呼んでいた大とんどは1月31日にしていた。

4年前に訪れたときには地区それぞれで行われていた二ノ正月のとんどである。

毎年、2月2日がとんどの日である番条町。

とんど場は北西堤防、北東、中、南地区の4カ所である。

各戸が家で飾った注連縄を持ち寄る場は住居に近い場となる。

早い家では朝の6時にとんど焼きをしていた。

遠くの方でぽつん、ぽつんと火の手が上がる。

決まった時間でもないので待っておれば、お目にかかることができる。

昨夜から降りだした雨は止まない。

北東、中地区のとんど場ではそうすることもなかった朝7時半。

されておれば焼け跡で判る。

もしかと思って走った南地区。



そこには焼け跡があった。

しばらくすれば一人の男性が注連縄を持ってこられた。



雨が降る中のとんど焼きは初めてだと云ってパラソルを広げてとんど焼きをした。

しばらくすればもう一人の男性もやってきた。



小雨になったからと話す。

一人増えて、さらにはもう一人も集まった南地区のとんど場。



輪っかの注連縄も焼いている。

10個も作る人もおれば、20個も作っていたと話す人も。

または、徐々に数を減らした人もいる輪っかの注連縄の数量。

半日かけて年末に作ったそうだ。

店で買った注連縄は固く縛っているから、なかなか燃え尽きないが、刈りとった稲の荒縄は燃えやすい。

かつてはモチゴメの藁であったが、今では作る家もないと話す。

一時間後に戻った北東、中地区。



そこにはとんど跡があった。

煙がたっているからほんの少し前のようだ。

(H26. 2. 2 EOS40D撮影)

豊浦町の二ノ正月のとんど場

2014年07月16日 07時21分47秒 | 大和郡山市へ
昨年に拝見した大和郡山市豊浦町のとんど場。

青竹で組んでいるのはホン(本)とアイトーヤ(相当家)である。

とんど焼きをする一週間前に組んでおく。

その様相を見ていた矢田町垣内西の住民。

「雨が降れば中断せざるを得ないのでは」と、話していた。

雨が降らなければ朝7時に火点けをされる。

その時間を過ぎていたが、とんど組みはそのままだった。

おそらく順延されたのであろう。

(H26. 2. 2 EOS40D撮影)

稗田町賣太神社の旧正月のとんど場

2014年07月15日 08時57分14秒 | 大和郡山市へ
賣太神社境内で旧正月のとんどをされると聞いていた大和郡山市の稗田町。

前夜から降りだした雨で境内はずぶ濡れになった。

とんど場は5月5日に行われる人形昇天祭の火焚きと同じように四方に忌竹を張っている。

神聖な場であるが、とんど組みをした上にブルーシートを被せていた。

朝7時、家で飾った注連縄をシート内部に入れ込む村人たち。

参拝は欠かせず本殿に向かって手を合わせる。

雨天順延を決めたのは前日。

天気予報が当たったのである。

一週間後に火が燃え上がることであろう。

(H26. 2. 2 EOS40D撮影)

ザ・ビッグ・エクストラ天理店のF特安弁当

2014年07月14日 07時26分48秒 | あれこれテイクアウト
吉野町から戻って自宅まで。

丁度昼どき時間になった。

またもや車中食だが、この日は何も持ってこなかった。

どこにするかと云えば、途中にあるお店はザ・ビッグ・エクストラ天理店。

ときおり弁当類を買って食べている。

いつもなら海老天・焼きそばにするが、この日はそれを選ばない。

目についたのが197円の値札が張ってあったF特安弁当。

なんと安いことか。

トライアルの格安弁当は250円。

いずれも税込みである。

50円も安い弁当は何が入っているのだろうか。

魚のフライ、チクワ天、肉だんご、玉子焼き、香物、ポテトサラダにスパゲティというシンプルな盛り。

のり弁当よりも安いF特安弁当を試しに食べてみようと購入した。

お味はまぁまぁ。お腹を満たすだけならこれで充分なサイフ勘定である。

ふと思ったF特安弁当の「F」とは一体何だろうか。

いくら考えても思いつかない謎の「F」に考え込む。

(H26. 2. 1 SB932SH撮影)

感動した丹治の地蔵盆御膳

2014年07月13日 07時26分09秒 | 吉野町へ
男の人が42歳の厄年になればそれぞれの地区にある地蔵尊に参ってモチを供えて巡拝すると聞いていた吉野町丹治。

前厄、本厄、後厄の3年間もしなければならないと云っていたが、参るのはご婦人だ。

朝7時頃にはぼちぼち出かけると聞いていたので朝日が上がる前に到着しておいた。

だが、2年前に下見していた4カ所の地蔵尊にはだれ一人も来られない。

数か所ある地蔵尊にも出かけてみたが、それらしき姿はまったくなかった。

どうやらこの年は厄年対象の人がいないようだ。

2年前に聞いていたお家は後厄だった。

おそらく三年参りは、前年で終わったようだ。



散策していた時間帯、2カ所の地蔵尊ではローソクと線香を灯していた婦人もおられたが、結局は遭遇することもなく諦めて帰ろうとした。

そのときのことだ。

上の地蔵尊近くに住むご婦人が家の外周りを清掃されていた。

箒で掃いておられた婦人に尋ねてみた地蔵尊参り。

時間帯は「もっと遅いかも知れませんなぁ」と云う。

供えたモチは夕方になれば、ご近所人がたばって持ち帰っても良いと云う丹治の風習。

それまで待っているわけにはいかない。

そのご婦人が話した地蔵盆の在り方。

「8月の地蔵盆にシンコを供えますねん、写真があるから見ますか」と云われてお邪魔した。

数年前まではシンコを作るのに当番の家(トヤ・当屋)に集まったという上の地蔵尊。

10軒の営みである。

粉挽きは店屋にしてもらっているが、「シンコはこんなんです」と見せてもらった家の記録写真。

なんと、地蔵石仏を安置した祠の奥には埋めるように花びらのような形の盛りがあった。

緑、黄、赤の色粉で花弁をあしらったシンコである。

赤い色はツバキを模したと云うし、鯛の形もある。

緑の葉はほんまもんのツバキだ。

ヒバの葉を添えて盛った器は木の桶だと云う。

お供えはシンコだけではなく、地蔵尊には御膳も供えると見せてくれた写真の映像は驚愕であった。

おじいちゃんが毎年悩みながら当家宅で作る野菜の作りもの。



トマト、ピーマン、ショウガ、トウモロコシ、マツタケなどはゴボウで象った船に乗せていた。

もしかとしれば、それは七福神であろうか。

もう一枚の写真は違う年の作りもの。

カボチャを土台にキュウリ、サツマイモ、ニンジン、ショウガ、ミョウガ、ミニトマトを配置した。



何が驚きかと云えば、カボチャのヘタと細長い赤トウガラシで作ったカニである。

今にも動き出しそうに見えるカニの足。

リアルに作った造りものに感動する。

記録された写真ではあるが、ゲラゲラと笑ってしまったのはこれだ。



ショウガで作ったロバ。

たてがみもある精巧な作りに目は点になった。

左側はブロッコリーで作った動物はセサミストリートのビッグバードのようにも見える。

愛くるしい二つの目は黒眼。

なんともいえない表情である。



カボチャにへばりついているのはピーマンで作ったカエルだ。

愛嬌たっぷりのカエルさんの姿がむちゃくちゃ面白く、笑いが止まらなかった。

その他にエノキで作ったクジャクの羽根とか、いっぱい見せてくれました。

こういう地蔵盆の造りものを供える丹治の行事は実にユニークである。

主要地方道桜井吉野線の国道が沿った丹治の町内。

丹治川に沿って南北に抜ける旧街道に連なって建てられている。

垣内は上第一・第二・第三垣内から下っていく旧街道。

国道の向こう側は向丹治(むかいたんじ)と呼ぶ垣内だ。

それぞれの垣内ごとに作って供える御膳であっても、わざわざ他の垣内の人が見にくるぐらいにおじいちゃんの作品は面白みがある。

丹治に祭る地蔵尊は12カ所もあると云うが、祠の所在地が判ったのは4カ所だけだ。

あっちにもあると云われるが見つからなかった。

丹治の地蔵盆は8月24日

第三垣内にある浄土宗金龍寺の住職が各地区に祭った12体の地蔵尊を巡って法要すると云う。

ただし、向かいのワセダには地蔵尊がなく、その日にどこからか寄せるらしい。

お寺も生御膳を供えていると寺婦人が話す丹治の地蔵祭り。

午後3時には飾り付けをして法要を待つ。

それから2時間後、順番にやってくるご住職を迎えて法要をするらしい。

その日は丹治地域どころか、近隣の子供たちがお菓子をもらいに大勢がやってくる。

帰るころには貰ったお菓子で袋がいっぱいに膨らむそうだ。

厄年参りは残念であったが、なにがでるやら、その日を祭るお楽しみの地蔵盆は是非とも訪問したいものだ。

ところで丹治には氏神さんを祭る神社がある。

神社名は大守・小守神社だそうだ。

毎月1日と15日は宮守さんが参拝をされていた。

今では第一日曜と第三日曜に移ったが、早朝に宮守さんがお供えをしているらしい。

この月の23日は祈年祭が行われるそうで町内には張り紙が貼ってあった。

また、丹治では12月7日に山の神の行事もあると云う。

上第一垣内の山の神は上流を遡って左折れの山道を登ったところにあるらしいが、所在は判らなかった。

行事は12月7日であるが、なぜか1月7日には山の仕事の製材は休むと云う。

元々は1月7日であったと思われる上第一垣内の山の神参りには供えたモチを撒くそうだ。

(H26. 2. 1 EOS40D撮影)

小南町の二ノ正月のとんど

2014年07月12日 06時44分33秒 | 大和郡山市へ
昨年は燃え尽きたときに着いた小南町の二ノ正月のとんど。

火点けはどのようにされるのか確かめたくて出かけた大和郡山市の小南町である。

ここでは氏神さんが鎮座する小南神社の境内で行われる。

とんどの火点けは16時丁度だ。

直前の時間帯になれば村人が集まってくる。

大きめのとんどには赤い提灯があった。

数えてみれば18個である。

何故に提灯を燃やすのか。

もしやと思って尋ねた神社六人衆の答えは「提灯は新調したから古い提灯は燃やす」と云うのである。

18個の提灯は秋祭りに境内へ立てる神楽提灯だった。

平成22年10月6日に撮っておいた神楽提灯の写真は大きく引き伸ばして寄進した。

その写真は記念に拝殿へ掲げられた。

ありがたいことである。

大きなとんどは崩れないように括った荒縄は鳥居などに掲げた注連縄だ。

年末に当番の人が手で編んだと云う。

とんどの火点けは神社六人衆が行う。

神社本殿に灯したオヒカリを手にした六人衆。



ローソクに移したオヒカリが消えないように手で囲って運ぶ。

それは、さらに太い藁束に移す。

藁束は年3回行われる御湯の幣などを挿す用具である。

三郷の坂本さんが出仕されて神事される御湯の用具は毎年造り替えて新しくするということだ。

古い藁束はとんどの火点けに廻される。

かつては村の子供が各家で貰ってきた藁を使っていたと云う火点けの用具。

用立てた藁束は雑木のシバ、廃材板などであった。

風呂の焚き木はスギヌカ(モミガラ)も入れていたと話す六人衆。

1月31日、学びの小学校が終わってから家に帰ってから貰いに行ったと話していた時代はおよそ60年前のことである。

オヒカリから移したローソクの火は僅かな風に消えてしまう。

何度か繰り返す移すオヒカリの火は、藁束になかなか移らない。

宵宮の場合と同じように、この日も当番の人が燈籠灯しをしたオヒカリ移し。



火が消えにくいからそうしようと云って六人衆は距離が近い燈籠灯しの火を用いて藁束に火を移した。

六人衆は一年ごと新入りが加わる。

追い出すわけではないが、その日を以って一老は引退する。

六人衆は6年間も勤めるのだ。

かつては宮座制度があった小南町。

今では神社行事は自治会運営となったが、六人衆制度は継承していると云う。



大きな藁束を大とんどに運んで火を点ける。

メラメラと燃え上がった。



瞬く間に火が上昇する。

大きな火になったとんどが熱くなる。



その場を避けるように村人は後退する。

あまりにも火が強くなった場合は、境内に設置している水道ホースでただちに消火する。

防火装置は万全だと云う。

とんどが燃えている時間帯にも参拝者の波は途切れない。



親子連れ、家族伴って氏神さんに参る。

神社行事には見られなかった子供たちもやってくる小南のとんどである。

下火になれば鉄製の長い棒で焼けた消し炭を動かして勢いを鎮める。

これもまた六人衆の役目である。



そのころになれば、火を囲むようにモチ焼きの場を作っていく。

まるでストーンサークルのような円になった。



各戸が持ちこんだモチは12月30日に家で搗いた正月のモチ。

モチを焼くのは火がおさまった消し炭だ。

それを鉄製の長い棒でとんど周りに置いていく。

五徳に並べた紅白のモチもあるが、大多数はコゴメを入れたドヤモチだ。

正月のモチ搗きはドヤモチも作っておくと云う人が多い。

「あんたも食べてや」と云われていただいたドヤモチ。

醤油を漬けて食べるのがいちばん美味しい。



今では五徳でモチを焼いているが、かつては割いた竹の先にモチを挿していたそうだ。

モチを焼いてくださったご婦人の出里は奈良市の津風呂町。

昭和9年、吉野川分水の関係の津風呂(つぶろ)ダム建設によって村全戸が移転せざるを得なくなった。

一部の住民(20戸)が昭和33年に移ったのが奈良市山陵町の一角にある。

そこは行政地名には現れない津風呂町。

町内には旧社地から遷した春日神社(昭和35年に遷座)が鎮座していると云う。

婦人が若かったころの2月1日は神事をしていると話していた。

機会があれば一度訪ねてみたい神社である。

(H26. 1.31 EOS40D撮影)