マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

消費税が上がる前に壊れた炊飯器

2014年08月21日 09時27分11秒 | ぽつりと
4月から消費税が8%になる。

上がる前に買っておかねばと思っていた電化製品。

アナログテレビは買い替えたいが故障もしない。

無理に買う必要はない。

電灯なら買い置きもできるがわざわざ買うこともない。

壊れてから考えようと話していた前日。

炊飯器は炊いた直後に「F2」の表示を出力して壊れた。

エラー「F2」はなべ温度センサーの不良。

壊れたら主食のご飯を口にすることができない。

緊急を要する。

うどんを食べた大和郡山イオンモールにはジョーシン電気がある。

移動する時間はそれほどかからない。

郵送されていた割引サービス券の有効期間はまだある。

これまで使っていた炊飯器はマイコン付き。

これまで美味しく炊けていた五合炊き。

喰いぶちの息子は不在がち。

炊いても余る。

いっそのこと三合炊きにしようとあれこれ品定め。

高いモノでは7万円、5万円。

美味しくできあがると宣伝されている炊飯器が並ぶが、目線は1万円前後の三合炊き。

蓋を開けるボタンは上蓋で慣れてきた。

何種類かはボタンがない。

ないのではなく前面になっているのだ。

慣れない指はどうも使い難い。

内釜の厚さが旨みを引き出すのではと思って重たいモノを探した。

釜の厚さは1mmが最低ランク。

1.7mmもあるが薄さが気になる。

選んだのは3mm。

高級品では5mmもある厚さは品それぞれ。

メニュースイッチがある箇所は上部か前面か。

前面であれば腰を落としてみなければならない。

上部の方が見やすい。

結局、デザイン、操作面などで選んだ商品は東芝製。

そういえば東芝製品が少ない。

ほとんどが象印製かシャープ、ナショナル。

三菱は画期的な製品を出しているが高級品。

日立もあるが東芝のにしたが、これで良いのか。

帰ってこれまで使っていた製品を見れば、なんと東芝製。



我が家にはこれが似合うのかも知れない壊れた東芝製の型番はRC-10JM(平成15年販売)。

色はホワイトだったが、長年使い続けてきたので黄色に変色していた一合~五・五合炊きの東芝保温釜。

内釜の厚さは4mm。

炊飯器の名称ではなく「保温釜」だったのだ。

購入した東芝炊飯器の型番はRC-5SG。

同じく色はホワイトだ。

値札は8,980円だった。

品物を手にしてサービス券を提示する。

5千円以上であれば500円の割引。

帰宅してから見たレシートの値段は7,980円。

なんとジョーシン会員割引で千円も下げてくださっていた。

(H26. 2.21 SB932SH撮影)
(H26. 2.22 SB932SH撮影)

イオンモール釜揚げ四国うどん鶴丸製麺のぶっかけうどん

2014年08月20日 07時24分42秒 | 食事が主な周辺をお散歩
お昼は何にするか。

寿司、ラーメン、それともうどん。

親族家に出かける前の食事選びの相談。

先日出かけた「浜寿司」の新聞チラシを失念した。

「らーめん大魔神」は逆方向で断念。

残された道は大和郡山のイオンモール。

3階にある食事処に決まった。

何年か前に食べたのは「かにチャーハンの店」。

今回はそれではない。

3階には「ミスタードーナッツ」に「マクドナルド」がある。

たこ焼きの「たこ八」もある。

らーめんの「らーめん神座」もあるが、二人が一致したのはうどんだ。

針テラスでときおりいただくつるまる饂飩店のぶっかけうどん。

これを食べたくなって3階にやってきた。

施設ではどのお店で購入されても構わない。

二つの店で買って席につく人も多いやに聞く。

この日も多くの人たちが席に運んで食べていた。

かーさんは初めてのつるまる饂飩。

並んで注文をするのも初めてだ。

私はあいも変わらずのぶっかけうどん。

この日は特別に3個入りのバッテラ寿司もトッピングした。



欲しかったのは120円のとり飯であるが、本日売り切れ。

コクがあるとり飯は実に美味しいのであるが、ないものは仕方がない。

で、選んだのが250円のバッテラ寿司である。

かーさんはぶっかけを好まない。

家で食べるぶっかけうどんはそういうことも言わないのだが、お店でたべるぶっかけは嫌がって、おつゆがたっぷりのかけうどんにした。

ぶっかけもかけうどんも同じ値段の280円。

トッピンしたのは150円の菊菜入りかき揚げだ。

家でもうどんといえばかき揚げを乗せる。

フライの油は好まないが、天ぷらは出汁にコク、旨みを引き出すのだ。

うどん店の正式名称は「四国うどん鶴丸製麺」。

○○食堂で名高いフジオフードシステムが開発したチェーン店で針テラスのお店も同社系列。

なぜか針テラスでは「つるまる饂飩」で、イオンモールは「「四国うどん鶴丸製麺」。

同じ味に満足するうどんはコシがあって美味しい。

粘りゴシが強いモチモチ食感が謳い文句に満足する。

(H26. 2.21 SB932SH撮影)

北野奥小派の初庚申供養

2014年08月19日 09時51分08秒 | 山添村へ
平成26年の初かのえさる(庚申)は2月28日だ。

もしやと思って立ち寄った山添村の大字北野。

真言宗派の極楽院帝釈寺がある大字である。

秋のマツリに天神社でホーデンガクを奉納している奥にある神宮寺が帝釈寺だ。

18日に訪れたときは寺総代ら役員が柳生の立野寺の住職と打合せ中であった。

存じている人たちに尋ねた初庚申供養。

この年は16日を予定していたそうだが、村で服忌があったことからやむなく順延したと云う。

だいたいが、2月の16日、或いは19日、20日とも・・・。

帝釈寺境内に建つ庚申堂で行われる庚申供養の日は毎年揺れ動くようだ。

法要には住職が来られる。

その日は21日と聞いて再訪した大字北野の庚申堂。

月替り当番の年預(ねんにょ)さんが登り道に凍りついた残雪を除去していた。



3人の村役も来られて始まった庚申供養。

集まったのは北野の奥小派(おくこば)の人たちだった。

長老曰く、子供の頃に見ていた庚申供養に参列していたのは「としより講」だった。

狭い庚申堂に8人も座っていたことを覚えていると云う。

その日は初庚申の日。

いつしか奥小派の村行事に移ったそうだ。



法要の営みは村役もお堂にあがって住職が唱えるお念仏。

この日は法要を営む住職と役員二人が参列された。



庚申堂に安置するご本尊は青面金剛大将立像。

青色の彩色は鮮やかに残っていた金剛像に一目ぼれしたが、それほど古くないと思われた。

ローソク・線香に火を点けて供養をされる初庚申。

お堂の前は先日降った雪がまだ残っている。

お堂の前に建之されていた六角燈籠には「明治三十三年 庚中 村内安全 発起人 3名」が刻まれていた。

当時の講中は庚申講ではなく、庚講だったようだ。

庚申堂も再建されていたが、時代は不明。

燈籠建之年代から推定するに、明治三十三年に再建されたと考えるのが妥当であろう。

そのお堂に木製の彫り物が掲げられていた。



「見ざる 言わざる 聞かざる」を表現した猿の三体像である。

愛嬌たっぷりに感じた三猿の彫り物が気に入った。

(H26. 2.21 EOS40D撮影)

お腹の虫やしない

2014年08月18日 07時26分31秒 | 民俗あれこれ
この日に訪れたのは山田の庚申講である。

これまでにも川辺垣内や奥垣内の住民にも聞いていた庚申講。

初庚申がこの日であることを願って来たのであるが、二日前の日曜日に行われていたことを知る。

始めに聞いたのは東茶ノ前垣内の住民。

昨年に訪れたご主人がおられた。

カンピョウ干しをされていたご主人だ。

話しによれば、村の初集会で実施日が決まったらしく、本来ならその年に初めて迎えるかのえさる(庚申)の日にされるのだが、集まりやすい日曜日になったと云う。

垣内の講中の都合の良い時間帯であって、今年は12時。

最寄りの庚申塚に集まって般若心経一巻を唱えたそうだ。

それを終えてトーヤ家でヨバレとなる。

今年は冬期オリンピック。

オリンピックの年には庚申さんの「モウシアゲ」もするという。

その日も村の初集会で決まった日。

今年は4月6日の日曜日。

これまでも実施日は4月の始めの日曜日。

「モウシアゲ」の場合はモチを供えて般若心経を三巻唱えることになると云う。

ご主人話した奥垣内の講中。

集落中央辺りにある庚申さんが場。

そこには橿原市の八木町にある愛宕神社を祀った社もあるらしい。

奥垣内と云えばF家がある。

行事取材でお世話になったF氏が住む家は母家にあたるそうだ。

以前に聞いていた川辺垣内もしていたようだと話す。

時間帯はそれぞれであった。

足を伸ばして宮講右座のお家も尋ねてみた。

ご主人曰く、おじいさんが生前に始めたと云う庚申講。

小高い丘のコバカに社で覆った庚申塚があった。

畑を作らねばというわけで場を移した。

そのうち、庚申塚もどこかへ行ってしまって行方不明。

そうした状況であったが、庚申塚を調べていた男性が訪れた。

その人は測量をして地図を作製していたらしい。

一組(東垣内であろう)は2カ月おきに講中が集まってお勤めをしているが、西茶ノ前垣内では年に一度の寄り合い。

ごっつおを作って食べていた。

講中の各家を回って茶碗、おひら、膳をもらってくる。

ヤドの家で料理を作って椀に盛りつけしていた。

講中は5軒ぐらい。

今年は欠席が多くて3人の寄り合いになった。

他の垣内と同様に2月の第一日曜にしたと云う。

ここでは旧暦の閏年には「モウシアゲ」をしているそうだ。

ハンノキを採ってきて願文を書く。

願文の内容は決まっていて見本を見ながら書くそうだ。

ハンノキはここら辺りには生えていない。

わざわざ都祁の吐山まで出かける。

そこにはずらりとハンノキがあるらしい。

それも面倒になってここら辺りにある木で代用している。

ハンノキには葉を落とす。

片方が二股になっている木を選ぶ。

「モウシアゲ」を終えたヤドはハンノキをツシに納めていたが、改築の際に捨てたそうだ。

そんな話を提供してくださった場に婦人が「おなかのムシやしない」と云って差し出されたピーナッツクリームを挟んだパン。

「えっ、今なんて言ったの」。

「ムシやしない」よ。

「なんでんねん、それ」と返した言葉は「お腹のたしに」という桜井市山田の住民。

ここらだけの言い方なのか判らないと話す。

「ムシやしない」。ラジオで伝えていた奇しくも今日は奄美大島の方言の日らしく。

奈良大和で初めて聞いた方言のひとつと思われる「ムシやしない」を解説するに、「空いた腹の虫をたしに養う」ということだそうで。

それにしても手作りパンが美味しかった。

(H26. 2.18 SB932SH撮影)

第61回ニッコールフォトコンテスト入賞作品展

2014年08月17日 09時32分03秒 | しゃしん
石津武史さんが第61回ニッコールフォトコンテストのモノクローム部門で大賞に選ばれた作品は4枚組の「釜で生きる」。

大阪釜が崎で生活される情景、人、暮らしぶりを激写した作品だ。

大賞だけでなく最高賞の長岡賞までも得た作品は何年間にも亘って現地取材されてきた。

「釜が崎」という呼び名の行政地名はない。

大正11年に西成郡今宮村が大字を改編され、消滅したが、俗称としてその後も使われ続けてきた。

昭和41年から3年間、高校に通っていたときに利用していた南海電車天王寺支線。

天下茶屋-天王寺駅を結ぶ支線はたしか2両編成だったと思う。

天王寺で乗り換えた南海大阪軌道の平野線は阿倍野斎場前駅。

懐かしいチンチン電車である。苗代田、文ノ里、股ケ池、田辺、駒川町、中野、西平野、平野区間を走っていた。

たしか西平野駅で降りて学校まで徒歩。

いつしか自転車通学に替えた。

高校一年生だった昭和41年に見かけた蒸気機関車。

天王寺駅でのことだった。

平野線が廃線になったのは昭和55年のことである。

天下茶屋駅-今池駅間が昭和59年に、その後の平成5年に飛田駅を含む全線が廃線になった。

車窓から眺めていた三角公園は通称で正式には東萩町公園だった。

そんな48年前の光景を思いだしながら拝見した「釜に生きる」。

私が高校生の頃に見た男たちはもういない。

逞しく生きる風体は変わらずとも、衣服は現在の様相だ。

男性が運ぶリヤカー、逞しさは時代を越えても同じように感じた。

入賞作品は身震いするほどの新しい感覚。

刺激を受けたのは云うまでもないが、私は撮れない分野だ。

石津武史さんが次に目指す方向は未だ定まっていないと話す。

私は大阪生まれの大阪育ち。

高校の学友が住んでいた大正区や浪速区。

大阪環状線駅で云えば芦原橋駅、大正駅、弁天町駅から通学していた。

学校を終えて友人たちとともに乗った環状線を一駅ずつ降りては乗って、降りて乗ってを繰り返していた単純な遊び方。

一斉に降りるのではなく、一駅ごとに一人ずつ降りた。

次の列車が来れば乗る。

全員が集合するのは大阪駅だったような気がする。

今でも環状線に乗ればその行為を思い出す。

彼らが住んでいた町には川がある。

大阪湾にそそぐ川だ。

私は住之江に住んでいた。

大和川が遊び場だったが、彼らの地に流れる川は木津川、尻無川、安治川。

川の様相はまったく異なる。

車窓から下を見下ろせば川、舟、波止場、貯木場、渡し、店、道具、人。映画の「泥の川」を思い出す。

川に生きる人たちを描いた作品だ。

石津さんが以前、個展されたガード下の情景。

「日々坦々」は下町に生きる姿であった。

今度は大阪三部作の仕上げに大阪の「川に生きる」にされてはいかがかと提案したが・・・。

(H26. 2.17 SB932SH撮影)

椎木町光堂寺の大般若経

2014年08月16日 09時53分30秒 | 大和郡山市へ
椎木町の自治会長から聞いていた光堂寺の大般若経。

平成3年10月に村が発刊された『椎木の歴史と民俗』に載っている光堂寺は推古天皇十年に聖徳太子が草創したと伝えられている。

本尊は木造薬師瑠璃光如来座像であるが、修復された関係で文化財指定はされていない。

だが、脇仏の木造四天王立像は平安初期~中期の造仏と判り、平成3年に大和郡山市の文化財に指定された。

行事に参列されるのは自治会長をはじめとして杵築神社の祭祀を勤める十人衆たち。

馴染みの顔ぶれであるが、お寺行事に参集される姿を拝見するのは初めてだ。

取材目的を住職に伝えて承諾を得たが、秘仏であるゆえ撮影不可である。

真っ暗な本堂で行われる大般若経の在り方も撮ることは可であるが、ストロボは厳禁だ。

狭い本堂での立ち位置も指定されて撮影に臨んだ。

干支の午をデザインした切り絵を本尊前に掲げていた。

切り絵は高野山で授かったと話す住職。

今年の干支は午だ。

福を呼ぶ注連縄代わりの縁起物だそうで、紀州高野山が発祥の伝統切り絵の「吉祥宝来」。

本尊前に供えた御供は丈六寺御供。

紅白のダンゴもお供え。

終わって配られるようだ。

長年に亘って無住寺であった光堂寺は縁があって御室派真言宗派の住職が導師を勤められる。

大般若経を勤める6人の僧侶は椎木町近辺の人たちだった。

真言を唱えて始まった「大般若法則」。

導師も含めて七人の僧侶が作法する「だーい はんにゃ」である。

本来なら一巻終えて、経典箱をビシバシと叩くのであるが、虫喰い穴もある古い経典を壊してはならない。

そういうわけで叩くことはないが、虫干しだともと云う。

大般若経転読法要は県内の数か所で拝見した作法と同じである。

考えてみれば、大般若経をされるのは真言宗派ばかりだったことに気がついた。

一人、百巻を転読されて、合計で六百巻となる大般若経。



その途中、厚い経典(おそらく一巻目)を持って参拝者の前に座って、経典を頭の上でご加持をされた。

席に戻って転読法要を続けられる。



法楽・・・心経・・・諸真言・・・薬師・・・般若・・・不動・・・光言に続いて、「なーむとうざんちんじゅ ごずてんのうそん」、「なーむとうざんかいき しょうとくたいしそんれい」、「なーむだいし へんじょうこんごう」を唱えて終えた。

「とうざんかいき しょうとくたいしそんれい」は「当山開基 聖徳太子尊霊」で、「とうざんちんじゅ ごずてんのうそん」は「当山鎮守 午頭天皇尊」である。

椎木町の鎮守社は現在の杵築神社であるが、江戸時代までは午頭天皇社と呼ばれていたのである。

大般若経を終えて住職にあらためてご挨拶させていただいた。

「よく来てくださった」と云われて午の絵を象った切り絵を授かった。

ありがたいことである。

切り絵は福を呼ぶ注連縄代わりの縁起物。



いただいた縁起物は、後日に額縁に入れて飾った。

そのことを3月15日(涅槃会)に再訪した際に伝えたら喜んでおられた。

(H26. 2.17 EOS40D撮影)
(H26. 2.20 EOS40D撮影)

筒井食堂のかけうどん

2014年08月15日 09時43分40秒 | 食事が主な周辺をお散歩
仕事を終えてすぐに行かねばならない椎木町行事の取材。

とにかくお腹を満たさなければ。

取材先は大和郡山市内。

仕事場からすぐ近くだが、間に合わなかったら何もならないと判断して途中にある筒井食堂にした。

一週間前に入っていた新聞チラシの中にあった筒井食堂のサービス券。

一杯のかけうどんは税込み157円。

そこから50円も引いてくれるサービス券は乏しいサイフにありがたい。

ご飯におかずを添えて注文する人が多いなか、たった一人。

「かけうどん一杯」だけを注文するのは私ぐらい。店員さんに「ご飯は」と云われても「いいです」と返答する。

注文をすれば番号札を渡される。

レジで購入金額の107円を支払って席につこうとしたら、もううどんができあがった。

とても早いのである。

幾度となく食べているかけうどんはとても美味しい。

ネギ、天かすもトッピンされて、この値段。

さらに盛ったネギ、天かすにワカメも入れた。

出汁も麺も美味しくいただける。

つるつると食べて取材地に向かった。

(H26. 2.17 SB932SH撮影)

トライアルのからあげ弁当

2014年08月14日 08時11分19秒 | あれこれテイクアウト
買い物がてら、午前中に買っておいたトライアルのからあげ弁当は250円。

以前にも食べたことがある。

ビーフカレーパンにしようかと思ったが、買い手が伸びたのはこちらだった。

晴々した毛原の景色を味わいながらいただくからあげ弁当。

透き通るような雪化粧だが、空気は乾いている。

風もなく穏やかな日だったが、外気は冷たい。

弁当も冷めているが、美味しいのである。

鶏のからあげは五つ。

やや大き目である。

下味が利いているのか、コクがあるからあげにパクつく。

香物は甘い。

美味い味に黒ゴマを振り掛けたご飯が進む。

ご飯はさすがに冷え切っている。

箸で切り離そうとしてもなかなかだ。

ポテトサラダはお気に入りの味。

玉子焼きはもっと甘い。

ほっとする味だ。

スパゲティは胡椒を混ぜているのか、これまた美味い。

これで250円。

とびきり安値の弁当にからあげが五つもあれば大満足したのは云うまでもない。

(H26. 2.16 SB932SH撮影)

毛原子供の涅槃の日

2014年08月13日 08時33分58秒 | 山添村へ
平成22年2月21日(日)に訪れた山添村の大字毛原。

豊原山(ほうげんざん)長久寺(ちょうきゅうじ)で行われる子供の涅槃であるが、既に終わっていた一週間後だったのだ。

付近を散策して尋ねたお家の人に教えてもらった子供の涅槃は15日に近い土曜辺りに行われているようだった。

子供の涅槃は中学三年生までの男児だけ行われていたが少子化によって女児も参加できるようされた。

かつて、朝からお米集めをしていたが今はしていない。

長久寺でお参りして掛け軸を掲げた構造改善センターに集まって出される子供の膳。

大幅に簡略化されて好きなカレーライスになった。

それでは寂しいというわけでおすまし汁は今でも出していると話していた。

もしやこの日であろうと判断してやってきた大字毛原。

名阪国道の小倉より南下しようと思ってインターチェンジを出たが、生憎の雪積で「やまなみロード」は走り抜ける状態ではなかった。

幹線道路であれば除雪しているであろうと思って針に戻った。

そこから一路南下する国道369号線。

ここら辺りは積もった雪が多い。

なにもかもが真っ白である。

車の屋根に積もっている量はおそらく20cm。

平坦ではとうに溶けている。

白石を抜けて「外の橋」信号を左に入れば室生に繋がる。

それまでの幹線道路は奇麗に除雪していて難なく通れるが、曲がった道路はそうではない。

なんとか通って次の信号を左に曲がれば室生の無山。

早朝であればバリバリに凍っていたであろう。

笠間川を下るに沿って走る多田、染田、小原。日陰の道路は危険な状態。

気をつけながら運転する。

上笠間、下笠間を抜ければ山添村の毛原に着く。

一部の道路は凍っていてビクビクしながらのノロノロ運転だった。

到着したときは12時過ぎ。

村の構造改善センターではカレーの臭いが漂っていた。

賑やかな声が聞こえる。

集まって食べていたのは28人の親子さん。

閉めた扉に声をかけたが返答がない。

仕方なく長久寺に伺った。

出てこられた婦人は京都東寺の人。

本来ならば15日に行われる子供の涅槃であったが、前日に降った大雪でやむなくこの日にしたと云う。

時間はこれより1時間前。

掛軸を本堂に掲げて涅槃の和讃を唱えていたと云う。

和讃を唱えていたのは村の大師講。

正式名称は「東寺大師講長久寺支部」である。

村の大師講を勤める婦人たち。

最近は若い女性(60歳代)も加入されて30人ぐらいになったと話す。

左手にリンを持って右手で鉦を打ちながら和讃を唱える。

およそ10分の和讃だそうだ。

平成22年に聞き取っていた東寺大師講のいきさつ。

ことの起こりは昭和12年に遡る。

中興の祖とされる智龍和尚が明治七年に大師信仰の修行道場として造られた四国八十八カ所を模した霊場「大師山」を開基された。

いわゆる写し霊場である。

そこにあった大師湯をやむなく閉ざされた。

このときにせめてもと結成された長久寺観音講。

当時は毎月17日に勤行されていた。

折にふれ大師修行和讃などを唱えて、近隣の村を巡礼しつつ浄財を集めていた。

昭和22年、京都の東寺へ所属する関係で初瀬寺派から東寺派本山のご詠歌に切り替わった。

昭和26年に東寺大師講長久寺として認められ今日に至っていると話されたことを思い出した。

長久寺はかつて奈良東大寺戒壇院の末寺であったが、現在は京都真言宗東寺本山とする関係寺だ。

この日に行われるお勤めに京都から出仕されるご住職。

通りすがりの男性が話したお勤めは隣村の勝原、三カ谷に於いても法要がある。

一日に三カ所も勤める法要で走り回っていると話す。

子供の涅槃にはキナコメシを供えると云う。

長久寺は普段は無住寺。

お勤めがある度に京都から駆け付けると云う。

下って下笠間の住民家に立ち寄った。

度々の民俗行事でお世話になっている。

ご主人の話しによれば3月21日にもお勤めがあるらしい毛原の長久寺。

毎月のお勤めは一度拝見したいと思った。

(H26. 2.16 EOS40D撮影)

大雪警報に積もった雪は14cm

2014年08月12日 07時45分31秒 | 自然観察会(番外編)
12月は幾度となく雪が舞う日が多かった。

年が明けてからの1月は一度も降ることない日々。

安心してはならない2月。

そう思っていた8日は雪が降った。

僅かであったが積もった雪は平坦となればすぐに溶けてしまう。

金剛山や葛城山を眺めてみる早朝。

9日もそうであったが、12日の日も神々しく輝いていた。

翌日の天気予報によれば全国的な大雪に見舞われると報道していた。

8日の前日もそうであったが、それほどでもない。

今回はおそらく大雪になるであろうと思っていた。

案の定であった迎えた朝。

雪に覆われていた。

これからも降り続けるだろうと思って出かけることもしない。

みるみるうちに積もった雪は10cm。

車が通る我が家の前。

一面の白い雪景色である。

身も心もそぞろの朝は家に籠る。

そうこうしているうちに臨時ニュースが出た。

9時38分、奈良県北部・中部のほぼ全域の25市町村に大雪警報が発令されたのだ。

平成2年1月31日(水曜日)以来、24年ぶりの大雪警報だそうだ。

我が家に積もった雪は10cm。

まだまだ降りそうである。

この日の患者さんの送迎は中止指令が出たそうだ。

安全に送迎する。

これが第一であるが、送迎中止が発令されたのは8時半を過ぎだったと相方が電話口で話していた。

自家用車を動かせる状態ではなかったので歩いて仕事場に向かったと云う。

先生方は近鉄電車で通勤しているが大幅な遅れ。

第1便を発車する直前に着いて中止を伝えたそうだ。

相方の自宅から勤務先までは4km。

何もなくても1時間も要する徒歩の距離。

雪道であればそれ以上かかったという。

我が家であればその距離8km。

遠すぎる。



私の担当日であれば自転車と思っていたが・・・。

2年前の平成23年2月14日も大雪であったが積雪は6cm。

たいしたことなく歩いて前の勤務先に出動したことを覚えている。



奇しくも同じ日であった積もった雪の量が違う。

前の道を歩いていくにも滑りそうな気配。

バスに乗って出かけるのであろう。

いつもなら車の通行量がまぁまぁあるが、この日はごく僅か。

車輪の痕にも雪が積もって見えなくなった。

自宅で籠っていた11時半。

我が家に積もった雪を計測すれば13cmになっていた。

まだまだ降り続ける本日の大雪警報は継続中だ。



水仙の花はこんもり姿。

寒い日になった。

南天の実も凍えそうだ。



先月から咲き出した水仙。

香りがとても素敵だ。

こんな心地いい香りは抽出してお風呂の友に商品化してほしいぐらいだ。

で、雪で花折れした我が家の水仙は廊下の花挿し。

ダジャレではないが、水洗トイレに入る度に甘い香りに癒される。

ニュースが伝える奈良市の雪積量は14cm。

いち早く「なら瑠璃絵」は中止を判断されたが、長谷寺のだだ押しは決行であった。

桜井市内は県南部に近い。

奈良市・大和郡山市・天理市ほどでもなかったようだ。

大雪警報が発令されて昼過ぎに小学校から帰ってきた地元の子供たち。

休校の通達は昼食時だったそうだ。



戻ってきた子供たちは我が家の前の小高い丘山に集合して雪遊び。



「カマクラを作るんや」という子もおればソリに乗って滑る子も。



10数人の子供たちが思わぬ雪景色に佇むことなく雪遊びに笑顔をみせる。



アカギレを経験した子供もなんのその。

雪合戦も元気が良い。

我が家の息子たちもそうであった何十年か前を思い出した。

奈良市では18年ぶりの大雪であるテレビ報道が伝えていた。

平成8年のことだろうか、そのときだとすれば屋根から落ちてくる積もった雪がドサッ、ドサッと落ちる音。

その都度キャイーンと啼いた我が家の愛犬チロ。

可哀そうにと思って玄関内に入れてあげたら穏やかな顔ですやすや寝ていた。

いや違った。

平成7年は阪神大震災。

翌年の平成8年の5月末は2泊3日で琵琶湖を一周していた。

長距離サイクリングを楽しんでいた45歳のころだ。

自宅へ戻ったときに息をひき取った愛犬チロの姿が愛おしかった。

息子たちもかーさんも泣いていた。

ということはチロが脅えていたのはそれよりもっと前のことだとすれば平成2年かもしれない。

翌日になっても溶けない雪だが、屋根から落ちてくる大量の雪がドサッと落ちてくる。

音がする度に目を覚ます。

隣家のガレージの屋根が崩れていた。

雪の重みで朽ちたのであろう。

我が家のガレージ屋根も不安になってくるほどの量が溜まっている。

いずれは重みで耐えきれずぶち抜くであろうと思って雪掻きをする。

1時間以上もかかる仕事量。

積雪に見舞われる地方の人のしんどさが少しでも判る。

町内を歩いてみればもう1軒もガレージの屋根が崩れていた。

我が家はなんとか持ちこたえた。

いつ設置したのか覚えてないが、たしかヤマヒサ製。

頑丈な作りに感謝する。

(H26. 2.14 EOS40D撮影)