奈良市阪原の真言宗医王山南明寺で涅槃会が行われると知って出かけた。
取材目的は涅槃会の在り方と村に伝わる石仏である。
本堂が建つ地は秋のマツリの際にお旅所だ。
平成16年10月10日、平成23年10月9日に拝見した田楽や裸姿の神事スモウが演じられる場である。
涅槃会が始まる直前に着いたお堂には村の男性らがおられた。
本堂には婦人たちが座っていた。
取材を伝えたところ入堂は構わないが、撮影は一切御法度である。
掲げられていました涅槃図の横幅は271cmで、縦が211cm。
とてつもなく大きい涅槃図である。
江戸時代初期に作られたと受付されていた檀家総代らは話す。
絹本著色の涅槃図は旧暦2月15日の涅槃会(常楽会)や涅槃講の本尊として祭られてきたようだ。
「京都のあるお寺の涅槃図は横・縦が10mもあるんや、それには負けるが奈良市内で一番大きんとちゃうか」と口々に話される。
堂内は僅かな光がさしこむが、真っ暗な状況である。
お供えに立て御膳があった。
寺住職が入堂されて会式が始まった。
立礼、五体投地に頭を下げて法要の詞を述べる。
涅槃会は観たまま、ありのまま覚え書きとして以下に記述する。
抑揚をつけた詞は念仏のような感じに聞こえた。
ときおり判る詞は「檀信徒・・入滅・・釈迦牟尼・・二千五百年のこんにちこの日・・沙羅双樹のもとに・・今月今日・・供物を捧げ・・願いも・・安穏・・沙羅双樹に横たわり・ついに2月15日無情なり・・終(つい)のことばに声を揚げた。弟子は涙する・・あーーーこの悲しみ・・」。
およそ15分の長文を詠みあげる。
もしかとすれば絵解き説法を念仏で唱えているのでは、と思った。
そして、般若心経を唱える。
次に、受付していた檀家総代らが一人ずつ住職の前に座った。
手を合わせたら住職が手にした何らかのモノで頭の上から・・・押しているように見えた。
一人替って同じように頭の上に押していく作法はまるでごーさんの額押しのようであるが、作法は頭の上だ。
目を凝らしてみれば袋に入ったままである。
何人もの人が同じようにご加持を受ける。
お一人、お一人されるご加持は参拝者全員だった。
村人以外に来られていた人もしてくださった。
私も受けた身体堅固。
頭の上から押すという感触であった。
「なーむしゃかむにー なーむしゃかむにむーぶ」を繰り返して、「がんにしくどく」を唱えて下りて立礼で終えた。
およそ1時間余りの会式だった。
住職の話しによれば頭の上から押していたのはお釈迦さんの仏舎利。
「お釈迦さんが悟りを開いたように皆さん方も悟りを開いたことになる」と話す。
仏舎利はタイの国の人に貰ったそうで、今回初めての作法だと云う。
大きな涅槃図の話しもされた住職。
お釈迦さんの周りにいる僧侶の目は涙で赤く潤んでいるとか、二本の沙羅双樹は悲しみで枯れてしまったとか、お軸は絵師の絵心だと話される。
会式が終われば寺の摂待でふるまいぜんざいをよばれる。
一般参拝の人たちは帰られたが、庫裏座敷に上がったのは大師講の婦人と檀家総代の男性らだ。
「あんたも食べてや」と云われていただいた。
ありがたい摂待ぜんざいをよばれて、あらためてご住職に挨拶させていただいた。
ご出身は大阪の八尾。この日のふるまいぜんざいには母親も応援したと云う。
平成9年ころに副住職として入山され、何年か後に晋山式をされて住職についたと話される。
涅槃図はあったものの開けることもできずボロボロだったそうで、5年くらい前に修復したと云う。
寺行事は、たしか平成19年に重陽の節句の薬師会を始めたやに聞く。
「お寺の法会はどこでも同じ。ただ経典を詠みあげるのではなく、住職の願いを詞で表現したオリジナルで勤めた」と話す。
それがこの日の絵解き念仏であったのだ。
さまざまな話題に心が弾む会談。
取材の意図、心がけなど話せば、「そんなんだったら写真撮ってもらってよかったのに」と伝えられた。
阪原の大師講は3月・8月・9月を除く毎月の21日が本堂でお勤めをしているそうだ。
ご婦人が集まる大師講や村の行事などを話せば、十九夜講もあると云う。
阪原の十九夜講は北出垣内と門出(門前とも)垣内の二組であったが、北出は近年に解散されてお軸を南明寺で預かっていると云う。
中村垣内にも十九夜講があったそうだが、随分前から中断してような気配であった。
それならば、と紹介してくださった門出の十九夜講中の婦人の話しによれば講中は5軒で、ヤドの家での営みだそうだ。
特に日にちは固定されているわけでもなく、ヤドおよび講員の都合で決めていると云う。
ヤドは私の家になれば連絡してくださるそうだが、いつになるか判らないと話す。
後日、調べてみれば門出垣内の如意輪観音のお軸は天明四年(1784)ものになるそうだ。
阪原を訪れた目的はもう一つある。
北出垣内にある来迎阿弥陀磨崖仏である。
南北朝時代前期の文和五年(1356)の作らしいが、場所が判らず檀家総代に教えてもらった。
マツリに「道中でお練りをする太鼓台が巡行する道沿い、白州川向こうにある大きな岩に彫ってあるで」と云う。
その場所は北出橋が目印だと云う。
(H26. 3.16 EOS40D撮影)
取材目的は涅槃会の在り方と村に伝わる石仏である。
本堂が建つ地は秋のマツリの際にお旅所だ。
平成16年10月10日、平成23年10月9日に拝見した田楽や裸姿の神事スモウが演じられる場である。
涅槃会が始まる直前に着いたお堂には村の男性らがおられた。
本堂には婦人たちが座っていた。
取材を伝えたところ入堂は構わないが、撮影は一切御法度である。
掲げられていました涅槃図の横幅は271cmで、縦が211cm。
とてつもなく大きい涅槃図である。
江戸時代初期に作られたと受付されていた檀家総代らは話す。
絹本著色の涅槃図は旧暦2月15日の涅槃会(常楽会)や涅槃講の本尊として祭られてきたようだ。
「京都のあるお寺の涅槃図は横・縦が10mもあるんや、それには負けるが奈良市内で一番大きんとちゃうか」と口々に話される。
堂内は僅かな光がさしこむが、真っ暗な状況である。
お供えに立て御膳があった。
寺住職が入堂されて会式が始まった。
立礼、五体投地に頭を下げて法要の詞を述べる。
涅槃会は観たまま、ありのまま覚え書きとして以下に記述する。
抑揚をつけた詞は念仏のような感じに聞こえた。
ときおり判る詞は「檀信徒・・入滅・・釈迦牟尼・・二千五百年のこんにちこの日・・沙羅双樹のもとに・・今月今日・・供物を捧げ・・願いも・・安穏・・沙羅双樹に横たわり・ついに2月15日無情なり・・終(つい)のことばに声を揚げた。弟子は涙する・・あーーーこの悲しみ・・」。
およそ15分の長文を詠みあげる。
もしかとすれば絵解き説法を念仏で唱えているのでは、と思った。
そして、般若心経を唱える。
次に、受付していた檀家総代らが一人ずつ住職の前に座った。
手を合わせたら住職が手にした何らかのモノで頭の上から・・・押しているように見えた。
一人替って同じように頭の上に押していく作法はまるでごーさんの額押しのようであるが、作法は頭の上だ。
目を凝らしてみれば袋に入ったままである。
何人もの人が同じようにご加持を受ける。
お一人、お一人されるご加持は参拝者全員だった。
村人以外に来られていた人もしてくださった。
私も受けた身体堅固。
頭の上から押すという感触であった。
「なーむしゃかむにー なーむしゃかむにむーぶ」を繰り返して、「がんにしくどく」を唱えて下りて立礼で終えた。
およそ1時間余りの会式だった。
住職の話しによれば頭の上から押していたのはお釈迦さんの仏舎利。
「お釈迦さんが悟りを開いたように皆さん方も悟りを開いたことになる」と話す。
仏舎利はタイの国の人に貰ったそうで、今回初めての作法だと云う。
大きな涅槃図の話しもされた住職。
お釈迦さんの周りにいる僧侶の目は涙で赤く潤んでいるとか、二本の沙羅双樹は悲しみで枯れてしまったとか、お軸は絵師の絵心だと話される。
会式が終われば寺の摂待でふるまいぜんざいをよばれる。
一般参拝の人たちは帰られたが、庫裏座敷に上がったのは大師講の婦人と檀家総代の男性らだ。
「あんたも食べてや」と云われていただいた。
ありがたい摂待ぜんざいをよばれて、あらためてご住職に挨拶させていただいた。
ご出身は大阪の八尾。この日のふるまいぜんざいには母親も応援したと云う。
平成9年ころに副住職として入山され、何年か後に晋山式をされて住職についたと話される。
涅槃図はあったものの開けることもできずボロボロだったそうで、5年くらい前に修復したと云う。
寺行事は、たしか平成19年に重陽の節句の薬師会を始めたやに聞く。
「お寺の法会はどこでも同じ。ただ経典を詠みあげるのではなく、住職の願いを詞で表現したオリジナルで勤めた」と話す。
それがこの日の絵解き念仏であったのだ。
さまざまな話題に心が弾む会談。
取材の意図、心がけなど話せば、「そんなんだったら写真撮ってもらってよかったのに」と伝えられた。
阪原の大師講は3月・8月・9月を除く毎月の21日が本堂でお勤めをしているそうだ。
ご婦人が集まる大師講や村の行事などを話せば、十九夜講もあると云う。
阪原の十九夜講は北出垣内と門出(門前とも)垣内の二組であったが、北出は近年に解散されてお軸を南明寺で預かっていると云う。
中村垣内にも十九夜講があったそうだが、随分前から中断してような気配であった。
それならば、と紹介してくださった門出の十九夜講中の婦人の話しによれば講中は5軒で、ヤドの家での営みだそうだ。
特に日にちは固定されているわけでもなく、ヤドおよび講員の都合で決めていると云う。
ヤドは私の家になれば連絡してくださるそうだが、いつになるか判らないと話す。
後日、調べてみれば門出垣内の如意輪観音のお軸は天明四年(1784)ものになるそうだ。
阪原を訪れた目的はもう一つある。
北出垣内にある来迎阿弥陀磨崖仏である。
南北朝時代前期の文和五年(1356)の作らしいが、場所が判らず檀家総代に教えてもらった。
マツリに「道中でお練りをする太鼓台が巡行する道沿い、白州川向こうにある大きな岩に彫ってあるで」と云う。
その場所は北出橋が目印だと云う。
(H26. 3.16 EOS40D撮影)