マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

阪原町南明寺の涅槃会

2014年09月20日 08時57分47秒 | 奈良市(東部)へ
奈良市阪原の真言宗医王山南明寺で涅槃会が行われると知って出かけた。

取材目的は涅槃会の在り方と村に伝わる石仏である。

本堂が建つ地は秋のマツリの際にお旅所だ。

平成16年10月10日平成23年10月9日に拝見した田楽や裸姿の神事スモウが演じられる場である。

涅槃会が始まる直前に着いたお堂には村の男性らがおられた。

本堂には婦人たちが座っていた。

取材を伝えたところ入堂は構わないが、撮影は一切御法度である。

掲げられていました涅槃図の横幅は271cmで、縦が211cm。

とてつもなく大きい涅槃図である。

江戸時代初期に作られたと受付されていた檀家総代らは話す。

絹本著色の涅槃図は旧暦2月15日の涅槃会(常楽会)や涅槃講の本尊として祭られてきたようだ。

「京都のあるお寺の涅槃図は横・縦が10mもあるんや、それには負けるが奈良市内で一番大きんとちゃうか」と口々に話される。

堂内は僅かな光がさしこむが、真っ暗な状況である。

お供えに立て御膳があった。

寺住職が入堂されて会式が始まった。

立礼、五体投地に頭を下げて法要の詞を述べる。

涅槃会は観たまま、ありのまま覚え書きとして以下に記述する。

抑揚をつけた詞は念仏のような感じに聞こえた。

ときおり判る詞は「檀信徒・・入滅・・釈迦牟尼・・二千五百年のこんにちこの日・・沙羅双樹のもとに・・今月今日・・供物を捧げ・・願いも・・安穏・・沙羅双樹に横たわり・ついに2月15日無情なり・・終(つい)のことばに声を揚げた。弟子は涙する・・あーーーこの悲しみ・・」。

およそ15分の長文を詠みあげる。

もしかとすれば絵解き説法を念仏で唱えているのでは、と思った。

そして、般若心経を唱える。

次に、受付していた檀家総代らが一人ずつ住職の前に座った。

手を合わせたら住職が手にした何らかのモノで頭の上から・・・押しているように見えた。

一人替って同じように頭の上に押していく作法はまるでごーさんの額押しのようであるが、作法は頭の上だ。

目を凝らしてみれば袋に入ったままである。

何人もの人が同じようにご加持を受ける。

お一人、お一人されるご加持は参拝者全員だった。

村人以外に来られていた人もしてくださった。

私も受けた身体堅固。

頭の上から押すという感触であった。

「なーむしゃかむにー なーむしゃかむにむーぶ」を繰り返して、「がんにしくどく」を唱えて下りて立礼で終えた。

およそ1時間余りの会式だった。

住職の話しによれば頭の上から押していたのはお釈迦さんの仏舎利。

「お釈迦さんが悟りを開いたように皆さん方も悟りを開いたことになる」と話す。

仏舎利はタイの国の人に貰ったそうで、今回初めての作法だと云う。

大きな涅槃図の話しもされた住職。

お釈迦さんの周りにいる僧侶の目は涙で赤く潤んでいるとか、二本の沙羅双樹は悲しみで枯れてしまったとか、お軸は絵師の絵心だと話される。

会式が終われば寺の摂待でふるまいぜんざいをよばれる。

一般参拝の人たちは帰られたが、庫裏座敷に上がったのは大師講の婦人と檀家総代の男性らだ。

「あんたも食べてや」と云われていただいた。

ありがたい摂待ぜんざいをよばれて、あらためてご住職に挨拶させていただいた。

ご出身は大阪の八尾。この日のふるまいぜんざいには母親も応援したと云う。

平成9年ころに副住職として入山され、何年か後に晋山式をされて住職についたと話される。

涅槃図はあったものの開けることもできずボロボロだったそうで、5年くらい前に修復したと云う。

寺行事は、たしか平成19年に重陽の節句の薬師会を始めたやに聞く。

「お寺の法会はどこでも同じ。ただ経典を詠みあげるのではなく、住職の願いを詞で表現したオリジナルで勤めた」と話す。

それがこの日の絵解き念仏であったのだ。

さまざまな話題に心が弾む会談。

取材の意図、心がけなど話せば、「そんなんだったら写真撮ってもらってよかったのに」と伝えられた。

阪原の大師講は3月・8月・9月を除く毎月の21日が本堂でお勤めをしているそうだ。

ご婦人が集まる大師講や村の行事などを話せば、十九夜講もあると云う。

阪原の十九夜講は北出垣内と門出(門前とも)垣内の二組であったが、北出は近年に解散されてお軸を南明寺で預かっていると云う。

中村垣内にも十九夜講があったそうだが、随分前から中断してような気配であった。

それならば、と紹介してくださった門出の十九夜講中の婦人の話しによれば講中は5軒で、ヤドの家での営みだそうだ。

特に日にちは固定されているわけでもなく、ヤドおよび講員の都合で決めていると云う。

ヤドは私の家になれば連絡してくださるそうだが、いつになるか判らないと話す。

後日、調べてみれば門出垣内の如意輪観音のお軸は天明四年(1784)ものになるそうだ。

阪原を訪れた目的はもう一つある。

北出垣内にある来迎阿弥陀磨崖仏である。

南北朝時代前期の文和五年(1356)の作らしいが、場所が判らず檀家総代に教えてもらった。

マツリに「道中でお練りをする太鼓台が巡行する道沿い、白州川向こうにある大きな岩に彫ってあるで」と云う。

その場所は北出橋が目印だと云う。

(H26. 3.16 EOS40D撮影)

マルちゃんごっつ盛りコーン味噌ラーメン

2014年09月19日 07時16分35秒 | あれこれインスタント
談山神社での行事取材を終えて奈良市東山間に向かう。

道中にはコンビニや食堂らしきものがない。

桜井の東山間を抜けて奈良市まで走らせる。

その時間帯は丁度昼どき。

お腹がもたない時間を走るわけにはいかない。

そう思って談山神社の駐車場で摂る車中食。

この日に持ちこんだカップ麺はマルちゃんごっつ盛りコーン味噌ラーメンだ。

これまで味噌味を選んだことがない。

何十年ぶりであろうかご対面した味噌の味。

液体スープはどろどろ。

袋からジュルジュル絞り出す。



こん盛りした液体スープの絵面がどうもいけません。

お箸で掻き混ぜる。



まぁこんな感じになった味噌ラーメンにはコーンがたっぷり。

大き目のネギもたっぷりだ。

これが好のみのカップ麺。

麺が90gで総量は138gにもなる大盛りラーメン。

食べても、食べてもコーンが減っていかない。

コーンに味噌とくれば北海道のサッポロラーメンをイメージするが・・・。

味噌のお味は久しぶり。

あっさり味であったが、それもまた美味しである。

(H26. 3.16 SB932SH撮影)

今井谷の八講祭in談山神社神廟拝所

2014年09月18日 08時38分59秒 | 桜井市へ
昨年末の平成25年12月に訪れた桜井市横柿で聞いていた今年が廻り村の今井谷の八講祭。

8年ぶりであるが、日程が決まっておらず予め確認するため立ち寄った。

3月3日のことである。

今井谷住民のMさんが云った。

「今年から談山神社での祭典になった」である。

八講祭は生田(おいだ)・浅古(あさこ)・下(しも)・倉橋・下居(おりい)・今井谷・多武峰・八井内(やいない)の各大字で毎年入れ替る村の行事。

村の小堂に藤原鎌足父子肖像および寒山拾得の掛軸を掲げて祭典をされるのだが、今井谷以外は村から離れて談山神社に移っていた。

唯一、村の小堂で行っていたのが今井谷であった。

平成18年4月2日に取材した今井谷での祭典は最後になったわけだ。

どのような祭典の在り方になるのか、村の人も「来てや」と云われて談山神社へ出かけた。

予め電話してお願いしておいた談山神社。

神職にその旨を伝えれば、「村の行事なので一般の人もあがっていいです」の返答だ。

受付で入山料を払おうとしたが、「村の行事ならどうぞ」ということで受け取らなかった。

祭典の場は神社神廟拝所。「今井谷区奉仕」の案内を貼っていた。

祭典より一時間前に到着した村の人のうち、長老5人は神社神職が手伝いして緑色の狩衣に着替えていく。

8年前はそういうこともなく礼服、或いは平服であった。

装束を身につければ祭典のリハーサルが行われる。



神職の指導で玉串や講式奉戴(こうしきほうたい)の作法、礼拝の並び方、メインである掛軸掛けなどを入念にリハーサルされる。

神影である藤原鎌足父子肖像は4人がかり。

軸掛けの棒を持つ人に合わせて巻き物を回しながら広げる人もつく。

一番年寄りの長老はその様子を見守る。

お軸が斜めにならぬよう見守るのである。

神饌は予め供えて並べていた。

8年前の神饌には寒てん・麩・ダイコン・ゴボウ・ウド・タケノコ・ナガイモ・スルメに扇のような形にしたコンブを盛った立て御膳があった。

50年ぶりに復活した御膳であるが、今回は見られない。

当時は倉橋の長老に教えてもらって島台の高杯に供えたとUさんが云った。

当時の魚はブリやタイもあったが、今回はカマスであった。



三方に載せた古い巻き物は「談山権現講式」だ。

昭和32年発刊に発刊された『桜井町史続 民俗編』によれば、かつて多武峰は神式で、下居は神仏習合、他の村はすべて仏式だったそうだ。

区長の親父さんのUさんの話しによれば横柿・今井谷・生田・浅古・下・倉橋・下居組(下居・針道・鹿路)・音羽組(多武峰・八井内・飯塚盛)の廻りになると云う。

史料によれば、音羽組は大正九年頃に退いた大字北音羽に移ったのである。

その当時だと推定されるが、大字下居は針道・鹿路とともにする組になったようだ。

それまでは旧大字の八カ大字で廻っていた八講祭は村の小堂(八講堂)での営みであった。

行事を終えて、下座受になる次の村が受け取った掛軸は村で保管していたが、今では談山神社預かり。

だが、倉橋だけは村で保管しているとUさんは話す。

かつて村保管だったお軸は八講祭の他、五節句・毎月の3回に掲げて燈明をあげ、7月16日には虫干祭を行っていたと書いてあった。

太鼓打ちの合図に登場した神職と狩衣姿の5人の長老。

祭典の始まりだ。

平成18年に行われた今井谷の八講祭は村の満願寺であった。

先例に倣って今回より祭事の場を替えた今井谷の八講祭奉仕が始まった。

史料によれば、代々世襲する大字長老が扮する禰宜1人・副禰宜2人が奉仕していたとある。

大字によっては狩衣でなく、烏帽子に素襖或いは浄衣にしていたようだ。



祭典次第は神官入堂に始まって神職による修祓。

次が神影(しんえい)奉上となる。

カセットテープが謡う高砂の「尾上の松」が流される。



謡曲に合わせて神影のお軸をそろりそろりと揚げていく。

二人一組で寒山拾得の掛軸の脇立(わきだて)も奉上される。

この場合の謡いは高砂の「四海波」である。

横柿の婦人が云っていた区長預かりのカセットテープのようだ。

8年前に大字今井谷で行われたときは、これら謡いもなく、予め掲げていた。



宮司一拝、献饌、祝詞奏上の次は講式奉戴(こうしきほうたい)だ。

金文字で書かれた巻き物は詠みあげることなく始めの部分を広げるだけである。

僅か数秒で講式奉戴の作法を終えた。



次は神号奉唱で、「なーむたんざんだーいみょうじん(南無談山大明神)」を十遍唱える。

次は謡曲の奉納で「海人」の曲が流される。



玉串拝礼の際には5人の長老が整列された。



撤饌、宮司一拝を経て寒山(かんざん)・拾得(じっとく)の掛軸の脇立奉下である。

その際には高砂の「四海波」が流された。



神影の奉下では高砂の「尾上の松」謡いだった。

こうして祭典は神官らの退出で終えたのである。

かつての八講祭は3月11日が宵宮で、12日が本祭であった。

区長の親父さんが云うには宵宮の夜に下座受になる次の村も祭典に加わっていたそうだ。

羽織袴姿の両大字が向かい合って並び、謡いを掛けあっていたと云う。

本祭を終えた翌日の13日は下座受の生田が再びやってきてお軸を受け取って戻る。

その際にはシキビの葉をお堂の上から投げつけたと話す。

後日(6月28日)に話された迎え。

今井谷の前は横柿になる。

祭典を終えるころに村へ出向き、奉上された神影などを受け取る。

その際には幕だけはいち早く今井谷に持って帰る。

横柿から下った村の道を駆けていった。

そうしてすぐさま満願寺に掲げたと云う。

青年だったころの様相である。

受け取った一行がお寺に到着するころとなれば、ドドン、ドンドンと太鼓を打って迎えたと話す。

八講祭は八カ大字の村々で行われてきた礼拝祭典。

史料によればお軸に「東三郷八講之、談山大明神尊影一軸、並寒山拾得各一軸、於横柿村宝積寺総郷中励力奉修補其功記、発願主深教坊熊岳、元禄十四竜集辛巳(1701)九月十六日、於多武峰開眼供養、導師検校三部都法大阿闍梨権大僧都照泉院法印辯英大和尚位、於北音羽村玉光寺、以八ケ郷中之助力談山大明神尊影一軸、奉修補開眼供養畢、干時嘉永四年辛亥(1851)卯月十八日、導師霊園山聖林寺比丘大心」とある。

来年は生田。

40年前の昔しは預かった区長家で一年間祀っていたと云うだけに、祭典の在り方は、大字ごとの様相を拝見しなくてならない。

Uさんの話しによれば横柿・今井谷・生田・浅古・下・倉橋・下居組(下居・針道・鹿路)・音羽組(多武峰・八井内・飯塚盛)の廻りになると云う。

連続8年間の取材ができるかどうか・・・。

ちなみに6月8日に伺った82歳のUさんが見せてくださった村行事の写真に掛軸があった。

お供えもしている行事は念仏講の集まり。

今井谷には2組あると云う念仏講の掛軸は三尊降臨図のように見えた。

(H26. 3.16 EOS40D撮影)

石川町観音堂涅槃さんの観音講

2014年09月17日 07時21分44秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市の涅槃行事は3地域にある。

西町椎木町に石川町だ。

八坂神社の祭祀を勤める宮座六人衆から聞いていた観音講の行事。

婦人の集まりであるが、どちらの家の婦人か判らず数年間も経過した。

観音堂は八坂神社境内にある。

聞いていた時間に行けば、どなたかがおられるやもと思って出かけた。

お堂は扉が閉まっていたが隣接する公民館から女性の声が聞こえた。

「ごめんください」と声をかけたら、奥から婦人が出てこられた。

事情を述べて伺った観音講の涅槃行事

昼前に集まって涅槃の掛軸を掲げた観音堂で般若心経を唱えていたと話す。

昔はイロゴハンを炊いてよばれていたが、今ではパック詰め料理になった。

おしゃべりも一段落。

そろそろ帰ろうかという時間帯であった。

石川町の観音講は北垣内の7軒が講中。

涅槃図は当番が持ち廻る。

ボロボロになっていたことから、つい最近の7、8年前に表装しなおしたと云う。

拝見した涅槃図は横幅が110cmで縦が200cmもある。

涅槃図は墨書も見られず年代記銘はなかった。

表装した時期も判らなかったが、昔からあった涅槃図箱の蓋板二枚が残されていた。

黒ずんだ箱蓋から推定するに、相当な年代ものと思えたのである。

このことは半年後の9月に宮座六人衆のKさんから聞いた年代。

1600年代だったそうだ。

どうりである。

「心経に打っていた鉦はこれです」と指をさした鉦はやや小型、もう一枚の鉦はこれより少し大きい。

二枚とも三本足の鉦付き。

床に置いて打つ伏鉦である。

大小の鉦を並べて撮らせてもらった。



この日に鉦を打っていたのはやや小型の三本足をもつ鉦だ。

足部の直径は12.5cmで打ち部は11cmである。

もしかと思って裏返せば、刻印があった。

「室町住出羽大掾宗味作」の名である。

その名の六斎鉦があったのは隣村の白土町だ。

子供の念仏講が所有する六斎鉦に「和州添上郡白土村観音堂什物 奉寄進石形壹 施主西覚 □貞享伍ハ辰七月十五日 室町住出羽大掾宗味作」の刻印があった。

1688年の製作である。

おそらく同時期に製作されたと思える石川町の伏鉦。

「室町住出羽大掾宗味作」の刻印をもつ六斎鉦は白土町より北にある井戸野町にも存在している。

「郡山住人堺屋文□ 和井戸野村念佛講中 室町住出羽大掾宗味作」の刻印で同じ製作者。

いずれも村の念仏講中が使っていた六斎鉦である。

大和郡山市内で確認された「室町住出羽大掾宗味作」名の鉦は杉町伊豆七条町にもあるが、念仏講の存在は未だ判っていない。

杉町には年代記銘はなかったが、伊豆七条町の鉦の刻印は「安永八巳亥年二月 伊豆七条村 勝福寺什物 京室町住出羽宗味作」であった。

1779年の製作である。

奈良市の今市南田原町にも同製作者名の鉦があるが、いずれも製作年代がみられない。

額田部町の地福寺が所有していた六斎鉦には「天下一宗味」の製作者名がある。

おそらく室町住出羽大掾宗味と同一人物であろう。

その鉦の製作は慶安二年(1649)年である。

これら同一作者名の鉦から石川町の観音堂にあった鉦は300年以上に亘って使われていたと推定されるのである。

もう少し大き目の鉦も三本足をもつ鉦の足部の直径は16cmで打ち部は12cmだった。

それには「文化八辛未年(1811)十二月」、「石川村惣中」の刻印があった。

三本足をもつ鉦は置いて叩く鉦。いわゆる伏鉦である。

鉦の刻印を調査することで、旧村の歴史を知った観音講の人たち。

感心しながら所見した事実に驚かれていた。

かつて観音堂には安寿さんが住んでいた。

「涅槃さんの日は世話をしてくれていた。当時は年寄り衆がお供えをしていた。家で炊いたイロゴハンをよばれていた。そのころの涅槃さんは夜の営みだった。今では集まりやすい昼になった」と話す。

その後の昭和63年に観音堂を建て替えて新しくなった。

石川町の観音講は20人ほどであるが、涅槃図を所有しているのは北垣内の6軒だ。

村で亡くなった家の「中タイヤ」、「アガリタイヤ」の際には涅槃図を、その家に掲げて西国三十三番ご詠歌・般若心経・黒谷和讃を唱えていると話す。

かつては49日の期間、毎日に掲げていたそうだ。

一方、南垣内では涅槃図でなく、「マクラ念仏」の掛軸を掲げて念仏を唱えていると云う。

「マクラ念仏」の掛軸は南垣内の数軒で所有しているらしいが、この日お会いした観音講中にはおられなかった。

石川町の観音講の行事は、この日の涅槃さんの他、8月の十日盆、9月の彼岸の入り、12月は一年を感謝するお礼念仏をしていると話す。

「マクラ念仏」を含めて、尋ねてみたいものである。



この日掲げていた涅槃図を拝見したところ、西町と同様にお釈迦さん周りにいる僧侶は同じように涙ぐんで眼が赤くなっていた。

翌日にお伺いした奈良市阪原の南明寺の涅槃図も同じである。

住職は「ここだけや」と云っていたが、そうでもないように思えた。

(H26. 3.15 EOS40D撮影)

椎木町光堂寺の涅槃会

2014年09月16日 08時27分51秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市西町で行われたお釈迦さん取材を終えて隣村の椎木町に向かった。

町内の宗派は融通念仏宗派であるが、東地区に建つ光堂寺は真言宗だ。

長年に亘って無住寺だった光堂寺に縁があって勤めることになった香芝の住職。

荒れていた堂内を美しくしたと話す。

光堂寺では先月の2月17日に大般若経が行われた。

お堂に上がるのは自治会長をはじめとして杵築神社の祭祀を勤める十人衆たちであるが、この日のお勤めは涅槃会。

参集された東地区の人たちは自治会長や年番さんに村の婦人たち。

お堂にあがって、お菓子と巻き寿司を供えた。

前回と同様に取材を許諾されるが、撮影はストロボ厳禁で、本尊が写らないように気を配る。

お釈迦さんが亡くなったのは2月15日であるが、椎木町も他村と同様に3月15日に行われる。

お釈迦さんが入滅される涅槃図もなく、法会だけである。



平成3年10月に発刊された『椎木の歴史と民俗』によれば、昭和10年頃までは子供の涅槃があったそうだ。

子供たちは「ねはんさんのすすめ ぜになっとかねなっと すっぽりたまれ たまらんいえは はしのいえたてて びっちゅうぐわで かべぬって おんたけさんの ぼんぼのけえで やねふきやー」を三辺繰り返しながら村中を廻ってお供えのお金を集めていたと書いてあった。

「はしのいえたてて」とか「ぼんぼのけえで やねふきや」の台詞で思い出した高取町森のイノコの行事の正調節。

「イノコの晩に モチの搗かん家は 箸の家を立てて 馬のクソで壁塗って ここの嫁はん何時もらう 3月3日の朝もらう イワシ三匹 酒五合 新米藁喰ろうて 祝おうてやろう」の台詞だった。

「箸の家を立てて」が同じだ。

今では廃れたが明日香村の檜前地区の台詞は「亥の子の晩に 餅つかん家は 箸でいえ建てて 馬のフンで壁塗って ボボの毛で屋根葺いて ここの嫁さんいつもろた 三月三日の朝もうた イワシ三匹 酒五合 しんまい藁で祝うたろう もうひとつおまけに祝うたろか」だった。

「ボボの毛で屋根葺いて」は、椎木の「ぼんぼのけえで やねふきや」と同じである。

椎木の台詞に「ねはんさんのすすめ」がある。

これを「ねはんのすずめ」と呼んでいたのが奈良市日笠の子供の涅槃。

今では廃れたが奈良市菩提山町にあった子供の涅槃も「ねはんのすずめ」だった。

山添村勝原のこども涅槃の台詞は「ねはん きゃはん おしゃかのすずめ」であった。

「きゃはん」は足を保護して歩きやすくする脚絆布。

「おしゃかのすずめ」とは米を拾う雀。

お釈迦さんが行った修業を見習って、その使いとなった子供たちがお米を集めるという説があると聞いているが、である。

「ねはんのすすめ」がいつしか「ねはんのすずめ」に移った台詞の本来は「涅槃の勧め」である。

椎木の台詞は涅槃の勧めとイノコ行事の台詞が混ざったのでは、と思ったのである。

子供が大勢いたころは、西地区にある出雲寺(しつうんじ)まででかけてダンゴを貰うとか、集めたお金でお菓子を買って食べていたようだ。

史料によれば光堂寺、出雲寺ともそれぞれに涅槃図が現存すると『椎木の歴史と民俗』に書いてあった。

いずれは確認したいと思っている。

ちなみに椎木町は天誅組だった三枝蓊「さえぐさしげる」が生まれたとされる浄連寺がある。

天保十一年(1840年)にこの地で生まれた三枝蓊は伴林光平「ともばやしみつひら」が天誅組に入ったことで挙兵(文久三年・1863年)し共に活動をしていたと伝わる誕生地である。

平成25年は天誅組が挙兵して150周年。

安堵町の歴史民俗資料館が主催するツアーに多くの人が浄連寺にやってきたと云う。

(H26. 3.15 EOS40D撮影)

西町良福寺文殊堂のお釈迦さん

2014年09月15日 07時18分29秒 | 大和郡山市へ
かつてお釈迦さんの涅槃図は朽ちてボロボロであったが改表装されたと云う。

裏面に書いてあった墨書には「昭和拾二年三月 改表装」、「明治三十二年頃 平端村大字西 辻本太四郎寄附 此ノ太四郎氏ハ辻本善蔵ノ實ノ父成」、「奈良懸生駒郡昭和村大字西 光専寺什物 光専寺 司馬永住職 初代達英 二代黙佛 三代永年 昭和二十一年十月九日 三代住職 司馬永年 謹誌」とある。

光専寺は良福寺よりすぐ近くに西側に建つ浄土真宗本願寺派だ。

涅槃図を納めていた箱には「釋迦涅槃像」、「箱寄進者 村田長太郎 昭和拾弐年三月十二日新調」とあった大和郡山市西町の涅槃図。

この日は良福寺文殊堂のお釈迦さんの行事日である。

額田部町の西側の地であることから西町の名がついたと聞いている。

西町は良福寺文殊堂および戎子神社の祭事を勤める当屋が4組。

それぞれの当屋は交替して寺・神社行事を勤めている。

この日の涅槃さんにあたった当屋は保管してある涅槃図を文殊堂に掲げて御供を供える。

ご主人の都合で、前日に掲げておいた涅槃図は横幅が255cmで縦は210cmであった。

涅槃図は明治三十二年頃に平端村大字西の辻本太四郎が寄附したとある。

ボロボロになっていた戦前の昭和12年に表装しなおした涅槃図は元々村の光専寺の什物。

じっくり見たこともないと云って自治会長夫妻も同席されて拝見する。

例年であればお堂の連子窓は開けることはないがこの日は特別。

涅槃図全景も記録しておきたいと申された自治会長。



燭台も除けてくれた当屋さんらの配慮で村の記録を手伝った。

涅槃図はお釈迦さん入滅画。

周りの僧侶たちは涙をこぼしている。

よく見れば眼が赤く描かれていた。

お供えはお花と椀に盛ったセキハンとお菓子。

当屋の都合で昼過ぎになるという。

拝見はできなかったが、午後ともなれば供えたお菓子を、小学生から生まれたての赤ちゃんまで、子供がいる家に配るそうだ。

その際、「おしゃかさんのはなくそや」と云って配っていたと自治会長婦人やお参りに来た老婦人が話していた。

妙な云い方である「おしゃかさんのはなくそや」は、正月のモチを残しておいて、涅槃の日に煎って御供にしたいわゆるキリコモチ、つまりアラレである。

見た目が似ているから「鼻くそ」と揶揄(やゆ)された「花御供」。

食べると一年間無病息災で過ごせるという謂れがある。

朝に掲げて午後のある時間まで掲げる涅槃図。

その間にお参りする人は閉じた連子窓の隙間からお賽銭を投じて手を合わせる。



普段の様相はこういう状態である。

連子窓ごしに拝見する入滅姿のお釈迦さんに手を合わせる。



涅槃図は古いものではなかったが、堂内に掲げられていた絵馬は享和二年(1802)に寄進されたものだった。

「奉 懸御□□」、「□和二壬戌年三月廿五日 □林村畑野氏門人 小林村小川栗 小泉家中中川春 小林小川春 今国府村連名4名 椎木村連名2名 小林連名3名 今国府1名 小林連名2名 ・・・・ 高辻宣木画」とある。

二壬戌年で□和となる年号は天和と享和があるが、推定するにおそらく享和であろう。

享和二年であれば1802年。

文字は欠けているが下部から判断してそう思った。

「三月廿五日」は旧暦。良福寺文殊堂の行事に2月25日に行われている文殊会式がある。

3月25日は二ノ文殊会式だが、その日は2.5升で搗いたコモチを2個ずつ各戸に配るだけのようだ。

もしかとすればだが、この在り方が「おしゃかさんのはなくそ」がモチに変化したのでは、と思ったのである。

奉懸御された絵馬。

鉢巻をしめた童がサンハタキか、それとも箒と思われる道具を持っている。

何を現したものなのか、判らない。



寄進者は西村(西町)だけでなく、近隣村の椎木村、今国府村、小林村に小泉家中の名もあった。

村の人も知らないと云う絵馬は何であろうか。

(H26. 3.15 EOS40D撮影)

長滝町の涅槃さん

2014年09月14日 08時02分26秒 | 天理市へ
天理市藤井町の子供の涅槃を見届けて、天理ダムを挟む向こう山の長滝町へ向かった。

藤井の取材の合間に訪れた地蔵寺が涅槃さんの場となる。

本堂には地獄絵図と涅槃図のお軸を掲げていた。



藤井町もそうであるが、長滝町も掛軸が傷んだので何年か前に表装しなおしたそうだ。

いずれも年代記銘を示す墨書は見られなかった。

長滝町の涅槃さんも聞いてから3年目。

ようやく拝見できることになった。

涅槃さんが始まるまでにお供えを1戸ずつ持ってくる村の人。

大きいものだけに、祭壇下にずらりと並べていた。

親しみを込めて涅槃さんと呼ぶ会式は長滝町の村行事。

家で昼食を摂ってから集まってくる。

導師を勤めるのは念仏講と婆講の婦人たち。

それぞれの営みは講中の当番が決めるらしく、だいたいが15日頃だと云う。

念仏講は4人、婆講は8人の老婦人たち。

念仏講は毎月の営みであるが、婆講は春・秋の彼岸と十夜にお勤めをするそうだ。

これもまた当番の都合で日程は落ち着かないが、いずれは取材したいとお願いした。

長滝町の涅槃さんはかつて2月15日であったが、ヨモギもまだ生えていないから3月に移したと云う。

これまでに何度か行事を取材してきた長滝町。

何人かはお顔を知っているので「よー来たな」と云われる。

かつては子供の涅槃があった長滝町。

子供が30人も居た時代は昼食、夕食ともヤド家で15人ずつに分かれてよばれていたそうだ。

ホウラクで煎ったキリコ(千切ったモチ)を食べていたが、いつしかお菓子になったと老婦人が話す。

かつてはキリコを苗箱におましていたとも話す。

昼はカレー、夜はちらし寿司だった時代もあったが、村で生まれた子供は撃滅した。

それからかどうか定かではないが、村行事に移して、講中が地蔵寺で念仏を唱えるようになったと云う。

子供が生まれた家は米と餅米を半々混ぜた米を挽いて粉にして作ったダンゴを供える。

シロダンゴとヨモギを混ぜて練って作ったダンゴはヨゴミ(ヨモギが訛った)のクサダンゴと呼んでいたが、この日にお勤めをする講中は「センダンゴや」と云っていた。

老婦人の話しは「本堂に安置した小安地蔵に参って安産を願います。願いが叶って子供が生まれたらセンダンゴを作って供える」であったが、今年は村外で生まれた外孫。



本堂の小安地蔵に参って安産を願った家は、願いが叶って子供が誕生すればセンダンゴを作って供えるのである。

村内で誕生(ウチ孫)した場合は、トウヤ家で涅槃をすると云っていたが、若い人は皆無で老人ばかりの村ではその姿を見ることもできなくなったと話す。

みんなが揃ったようだと区長がはじめの挨拶。

次に念仏講と婆講の二人が代表して「導師を勤めます」と挨拶された。

講中は浄土宗総本山の京都知恩院派。



香偈、三宝礼、四奉請、歎仏偈、懺悔偈、十念、開経偈、四誓偈、本誓偈などの念仏を唱えた。

浄土宗勤行はもっと長いのであるが「本日はここまで」と終えた。

お釈迦さんが亡くなったときを表現している涅槃さんの謂れや長滝町の戦前の様子などを話す導師。

いつまでも行事が続いてほしいという願いで導師の昔話に移った。



村人に見てもらいたくて、かつてはヤドでよばれていた涅槃の献立をわざわざ作ってもってきた料理を披露される。

村には分教場もあったぐらいに子供が大勢いたころ、4kmの道を通ったと話した時代は昭和初期の戦前まで。

親に作ってもらった草履は、二日間しかもたなかった戦争時代の体験談は食糧難。

ぜいたくができなかった時代は、質素な「膳」を食べたとか、ジンベサンに風呂敷き包みで通ったとかお話しされる。

「膳」と呼ぶ涅槃の料理を懐かしそうに見る人もおれば「始めて見たわ」という若い人も魅入る。



献立はチクワ、漬けもの、味付けしたコンニャク、サクラエビを降った菜っ葉の味噌和えであるが、白ご飯を盛った椀とかトーフの汁椀もあった6品の盛り。

当時は脚がある膳だった。



涅槃料理の披露を済まして、最後は般若心経を一巻唱えて終わった。

涅槃の会式を終えたお供えは大きな箱から取り出して、一人、一人に配られる。

何箱もあるからまるで戦場のような様相になった。



その間をぬってコジュウタに入れたセンダンゴもひとつずつ袋にポイポイと入れていく。

まだあるからと云って、もうひと廻り。



持って帰る袋包みは抱えることもできないから風呂敷に包んで担いで帰った。

ちなみに長滝町の閏年のトアゲは旧暦でなく新暦である。

旧暦は村人にとって判り難く、「毎回、いつごろするねん」という意見がでる。

そういうことで、誰しも判りやすい4年ごとのオリンピックの年に替えたそうだ。

というわけで、次回のトアゲは2016年のブラジル開催のリオ・デ・ジャネイロオリンピックの年の4月29日である。

(H26. 3. 9 EOS40D撮影)

エースコック柳麺屋鶏がら醤油ラーメン

2014年09月13日 09時06分26秒 | あれこれインスタント
先月は柳麺屋の野菜タンメンを食べた。

塩味のラーメンは口に合う濃い目の味。

この日は同じ銘柄の柳麺屋。

トライアルスーパーで買い置きしていたラーメンは二種類。

もう一つが鶏がら醤油ラーメンだった。

麺は同じく69gである。

出汁スープが美味かった野菜タンメンに対して鶏がら醤油ラーメンはどうなのだろうか。

この日の昼食は急いでいた。

藤井町の行事を見届けて直ちに長滝町へ向かわなければ間に合わない。

ノンフライ麺は湯を入れて4分間。

その1分間が間に合わなかったらと思って、急いで食べる。

ゆっくりと味わっている場合ではない。



具材はタンメン同様の肉そぼろが入っているが肉種は謎だ。

他には大きなネギとワカメにモヤシである。

スープは胡椒が利いた濃い目の醤油味。

喉が唸るほどの美味しさである。

(H26. 3. 9 SB932SH撮影)

藤井町の子供の涅槃

2014年09月12日 08時34分08秒 | 天理市へ
3年経ってようやく実見できた天理市藤井町の子供の涅槃。

朝8時に子供が集落を巡ってお米集め、昼に涅槃図を掲げた東福寺でお参りして三角アゲ等の料理を食べる、夕方5時には夜食を食べると聞いていた。

第二日曜辺りのようだと話していた。

朝8時までに到着できるよう出かけたが、誰一人も公民館には集まっていなかった。

この日でなかったのかと思って、前区長のK家を訪ねた。

「よう来た、今日やで」の返事にほっとしたが、昨年に簡略化したと云う。

つい先日に六人衆入りされたK家では「イリク」の摂待をしていたそうだ。

ご馳走を作ってもてなした。その際には「よろしくお願いします」と口上を述べたと話す。

今年のマツリには新装した提灯を持っていくと云う。

手伝いさんから声があがって手間がかかるお米集め、夜食は中止した子供の涅槃。

村集会で決定したのである。

平成24年にはお米集めも夜食もしていたが、やむを得ないことである。

藤井の集落は全戸で21戸。

上・北・南垣内それぞれが7戸で、小学生以下の子供が居るのは北と南垣内。

合計9人が集まる子供の涅槃だ。

ヤクを勤めるのは上・北・南垣内から1軒ずつ。

かつてヤク家でこしらえていた料理はカマスゴ、イカを入れたワケギのヌタ和え、ちらし寿司だったとK家婦人は話す。

いつの頃か判らないが、子供が好きそうな料理に転換したのである。

この年のメニューはエビフライ、ソーセージ、ハンバーグ、シューマイ、ポテトサラダ、三角アゲにシロメシオニギリ。

献立はヤクが決めるが、三角アゲだけは今でも続けていると云う。

公民館の炊事場で献立料理ができるまでは遊びにふける子供たち。

先日降った雪が残っていた。

「おじさん、サッカーしよう」と云われたが、身体がついていかないからとやんわり断った。

12時になれば料理もできあがって、涅槃のお軸を掲げた東福寺にあがる子供たち。



お供えは昼食の料理にリンゴやミカンだ。

ローソクに火を灯して正座するが、手を合わすこともない。



親から云われてなんとなくしかけた手合わせ。

ちゃめっけたっぷりのK家の孫の動きに思わずシャッターを押した。



かつては笠の融通念仏宗派妙円寺の住職が念仏を唱えていた。

そのころはきちんとしていたかも知れない。

藤井町は融通念仏宗派。

9月8日は大阪平野大念仏がやってくる大和ご回在がある。

3年に一度の山廻りで、今年がアタリの年である。

昼食を食べる場は公民館の座敷。



ヤクの人たちがこしらえた料理をいただく。

場が公民館に移ったのは5、6年前。

それまではヤクの家であった。

夕食までは時間がある。

お腹が減ったときにはパンも食べていたそうだ。

涅槃の掛軸を掲げるのは年に一度。

虫干しのようでもある。

何年か前に表装をしなおして煌びやになった。

掛軸および軸箱を拝見したが、年代記を示す書は見られなかった。

ちなみに3月30日は旧暦閏年の庚申塔上げがある。

前回は一昨年であったから廻りが早い年である。

藤井の庚申講は3垣内それぞれで、ヤドがもてなす料理をいただいてから庚申塚に参るのであるが、これもまた簡略化されたと云う。

(H26. 3. 9 EOS40D撮影)

葛城地域の民俗学in葛城市歴史博物館

2014年09月11日 09時00分34秒 | 民俗を聴く
3月16日まで展示されている葛城市歴史博物館の冬季企画展は「農家の四季―祭礼と耕作図―」である。

祭礼は當麻山口神社のオンダ祭事例しかなかったが、大きな絵馬と屏風に目がいく。

明治時代に描かれたという耕作図絵馬は磐城小学校蔵。

耕作図の企画展は平成20年にも展示されたが、私は拝見していない。

たぶん違うモノだと思うのだが・・・。

耕作図絵馬で興味をもったのは、牛耕だけでなく馬耕の姿もあったことだ。

奈良県内事例ではまったくといっていいほど登場しない馬耕。

耕す農具はマンガ或いはマンガン(馬鍬)である。

牛が曳いていたのはカラスキ(犂)だ。

もうひとつの耕作図は屏風。

心ある家が寄託された館の所蔵品。

暮らしぶりも含めて稲作の四季が判る。

じっくり拝見している時間はない。

講演会場に急ぐことにする。

話者はこの年の3月末まで奈良県民俗博物館に勤めておられた鹿谷勲氏。

忙しい人であるから一年前から講話を頼んでいたと話す館長。

県職時代は教育委員会で文化財保護に携わっていた。

その頃は同室だったと話す。

県内各地を歩いて民俗文化を探訪してきた鹿谷勲氏が話す葛城地域の民俗を聞きたくてやってきた。

年に数回、葛城市歴史博物館から届くハガキを見てときおり訪れる。

座学は教養知識を埋めてくれる。

そうおもって選ぶテーマ・話者。

葛城地域の民俗にはどういうものがあるのか知りたかった。

「追想・回想は大事なこと。脳を活性化する。身体で覚えている民具で昔の暮らしを思い起こす。集落の記憶は住んでいた土地の記憶でもある。昭和50年に民俗文化財が法令化された。過去の記憶体験が将来に役立つチカラとなる。奈良新聞で毎月掲載されている「民俗通信」が始まったのは平成2年。今月で227回目になった。民俗はどのように調べてきたか。歩く・観る・聞くである。さまざまな土地を訪れて住民の記憶を採取してきた。それを文字化する。集めて比較して思考すれば見えないものも判ってくる。民俗文化の研究は本質と変化する部分を知ることにある。そうしてこれからの暮らしに活かす。生駒高山には茶ガユがあるが、大阪はシラカユ(白粥)である。ちゃんぶくろ(茶袋)を知るようになった。それから茶ガユに関する民俗を調べた」から始まった講話はスライドショーで紹介される。

そこでボールペンのインクが無くなった。

隣の席についた男性は顔見知り。

偶然の遭遇である。

男性は度々お世話になっている御所市西佐味の住民。

これまで山の神や弁天さんにとんど行事まで取材させていただいた。

ありがたい出合いである。

スライドショーに映し出されたコイノボリ。

どこかで見たような映像である。

映像はコンパクトだったので判り難かった。

眼をこすって拝見すれば、御所市多田(おいだ)で取材した杉の葉付きのコイノボリだ。

これを撮ったのは私だと紹介してくださった。

次に映し出した映像は武者絵大幟

これは當麻の映像である。

まさか、この日の講演に映し出すとは思わなんだ。

事前に云ってくれれば、元画像をお渡ししたのに・・・。

(H26. 3. 8 記)