マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

春ねた祭のはま寿司大和郡山下三橋店

2014年09月10日 07時23分24秒 | 食事が主な周辺をお散歩
一ヵ月半ぶりに入店した「はま寿司」。

今回も新聞チラシに誘惑されて出かけた。

くるくる回転寿司屋が提供するラーメンだ。

前回はエビ味噌ラーメンを食べた。

ラーメン丼ではなく椀に盛ったエビ味噌ラーメン。

とにかく味が濃いかったラーメン。

エビ味噌が濃くすぎるのだ。

麺は細麺の柔らか麺だった。

今回のちらしはエビ味噌ではなくカキである。

どんな味なのか舌で感じてみたかった。

クラブを終えたかーさん迎えついでに寄った時間は丁度昼どき。

入店とともに器械で操作。

人数、席を選んで案内を待つ。

しばらくすればどうぞと席番号を記した札を手渡される。

カウンター、テーブル席はほとんど満席状態。

美味しさの評判が高いのだろう。

子供連れは見られない。

時間に余裕がある家族連れがほとんどだ。

「はま寿司」は平日が一皿90円。税抜き価格である。

この年の3月末までは税込みで94円。

4月ともなればおそらく97円になるであろう。

テレビで盛んにコマーシャルしていたかっぱ寿司は「へい へい へいじつ きゅうじゅうにえん」だった。

が、昨年末の12月からは105円になった。

それから聞こえなくなったコマーシャルソングは耳に焼きついたままだ。

回転寿司チェーン店はどことも競争。

くら寿司はラーメンに加えてイベリコ豚丼まで売るようになった。

過当競争の回転寿司はどこまで行くのか、である。

消費者はお目当てで行くのもあるが、やはり寿司ネタだろう。

かれこれ40年前のことだ。

大阪千日前の水掛不動尊辺りにあったにぎり寿司屋さんに度々出かけていた。

とてつもなく大きなネタだった。

マグロ、ハマチはぶつ切りのネタ。

隣のおじさんが食べたとたんに、ぶっと飛びだした。

ひと口では食べることができないぶつ切りはとんでもない大きさだった。

アナゴなんてものはまるまる一尾だった。

何口で食べたか・・・。

ウナギはさすがに一尾でなく、半分切り。

厚みがあったウナギも一口で食べきらない。

先代を継いだ若い寿司職人が握っていた。

そんなネタを出していた寿司を20皿も食べていた。

若いころのことだ。

今でも寿司店があるのかどうか知らない。

可愛かった嫁さんの顔は覚えているが、店名が思い出せない。

そんなことを思い出しながら回転レーンを流れるにぎり寿司を見ていた「はま寿司」は3月6日から19日までは春の味わいの「春ねた祭」。

漬けほたるいか、特製漬けまだい、あおりいか塩レモン、生しらす、創作かにちらしがお勧めだそうだ。

流れるレーンにそのうちのひとつが登場した。



あおりいか塩レモンだ。

レモンは食べないからそっと横に置く。

もちろん種も要らない。

甘タレ造り醤油でいただく。

まぁまぁ美味いあおりいか。

我が家はイカ派。

好みの寿司ネタであるから、漬けほたるいかも手を伸ばす。



ホタルイカの漬けは美味いのに決まっている。

漁師が船漁している最中に獲ったイカを器にぶっこんで醤油をたらたら。

数時間漬けこんでおけばイカが吐き出す墨と混ざって味が濃くなる。

そういう仕方で造りこんだのかどうか判らないが美味いのだ。

次もまた、イカであるが、レーンに廻ってこない。

メニュー画面を押して頼んだ姿やりいか。

いくら待てどもやってこない注文の品。

メニューを押して頼んだ品は到着間近になれば、チャイム音が鳴りだすのだが・・・。



鳴らないが廻ってきた姿やりいかに思わず手をだした。

食べていたら音が鳴った。

2皿も食べれば飽きてしまう。

そうそう寿司は食べてられない。

今日の目当ては牡蠣ラーメンである。

新聞ちらしに載っていた割引券は牡蠣ラーメンの税込み294円を特別値段に・・・。

ものは試しにと思って注文した。



店員さんが持ってきた牡蠣ラーメンは大きな牡蠣が三つも入っている。

お味はどうか。

牡蠣の味なのか、それとも貝出汁なのか判らないが美味しくいただける。

麺はカニ味噌のときと同じ。

ネギとモヤシが入っていてさっぱり味。

味がさっぱりだが、コクがある。

カニ味噌より断然こちらをお勧めする。

ヒラメかどうか判らないようなえんがわも取った。



サクサクでしっとり感がないえんがわはコリコリ感もない。

一体、何の魚なのだろうか。



あじのにぎりも手にとった。

イカ類はワサビが利いているが、その他はそれほどでも。

廻ってくるワサビをちょびっと盛る。

これで美味さが引き立つ。

「はま寿司」が気にいったのはフライものである。

今回も手にした鶏のからあげ。



大きいからあげがこつんと載っている軍艦巻き。

これが大好きなのだ。

揚げものついでにもう一品はカキフライだ。



ラーメン同様にどちらも大きい牡蠣は一口ではみ出す。

二口でいただく。

満足いっぱいになってもう手が出ない。

支払いは二人で税込1839円。

次回に入店するころは消費税が8%になっているだろう。

(H26. 3. 7 SB932SH撮影)

再会のポン菓子

2014年09月09日 09時11分55秒 | 民俗あれこれ(売る編)
雛祭りではなく所用で立ち寄った明日香村。

石舞台から少し上の三叉路に見たことあるような移動販売車。

覗けばなんと、田原本町八田で緊急取材させていただいたぽん菓子売りの店主だった。

天理市、奈良市、広陵町、香芝市など広範囲に出かけると云っていた。

県内広し、奇遇な再会に店主も驚いていた。

前回の出合いに買ったぽん菓子は300円。

懐かしい味が美味しかったので、またもや買ってしまった。

売れ行きがもうひとつと云って売り場を移動しようと店仕舞い。

街に向かって下っていった。

(H26. 3. 3 SB932SH撮影)

らーめん大魔神大和郡山店の九州豚骨塩らーめん

2014年09月08日 06時41分23秒 | 食事が主な周辺をお散歩
先月に入店したらーめん大魔神大和郡山店(※閉店)。

この日の注文は380円の九州豚骨塩らーめんと決めていた。

ベースは九州豚骨で塩味のらーめんに前回同様ににんにく入を頼んだ。

頼んだといっても食券を買って店員さんに提示する。

待つこと数分で、席についたテーブルに運んでくれた。



塩味であるから白っぽいスープ。

麺は九州独特のストレート細麺だ。

こってり感のらーめんのスープをひと口。

醤油味も美味しかったが、これもまた美味いのである。

細い麺を箸にからめて口に入れる。

スープが絡んだ麺は実に美味い。

何故か、今回は紅ショウガはない。

具は一枚のチャーシューに4本のシナチク。

ネギも盛っている。

そこには見慣れない海草が入っていた。

緑っぽい色だったので海草と判るが種類は何であろうか。

麺・スープとともに掬って口に入れた。

柔らかさ、舌触り食感から、おそらくメヒビ、と思ったがもしかとすればアオサではないだろうか。

アオサは大好きな海草。

味噌汁に合う食材だ。

豚骨味は鳥ガラと煮込んだ納得の味だが、塩味は特に感じない。

醤油らーめんもそうであったが、すり潰した胡麻味のほう勝っている。

麺・スープを完食してから気がついた。

らーめんを食べ始める前の作法がいるのでは・・・。

作法はただただスープを混ぜるだけ。

胡麻を汁気に分配してから食べなきゃと思ったのだ。

不味いのかといえば、そうではなく美味しいのであるが、もう少し弱めにして塩にインパクトがほしいと思ったのである。

(H26. 3. 3 SB932SH撮影)

天照皇大神社を探して

2014年09月07日 07時57分31秒 | 桜井市へ
桜井市の小夫嵩方に鎮座する天照皇大神社を探していた10日前。

2月末に祈年祭が行われると聞いていたが、真っ暗な時間帯。

10年ほど前に訪れていた天照皇大神社の景観は覚えているのだが、鎮座地までへの道のりが思い出せなかった。

諦めてこの日に再訪した小夫嵩方。

集落外れにあった。

駐車場は記憶していた場であった。

この日は誤ることなく天照皇大神社に着いた。

2月14日に降った雪がまだ残っていた。

着いたときのことだ。

すぐ近くに住む老婦人がお参りをされていた。

お供えはチクワだ。

捧げて、手を合わせてなにやら願いごとをされている。

チクワはすぐに下げて帰っていく。

婦人が云うには「たいがい参っている時間帯は朝一番だ」と話す。

行きそびれた天照皇大神社の祈年祭の件を話せば喜ぶ婦人。

下げたチクワは「あんたにあげよう」と手渡してくれた。

それはともかく拝殿廊下にハナカズラや松苗が置いてあった。



小夫天神社で祭典された御田祭のハナカズラと松苗は小夫嵩方分も作られる。

行事を終えたあと、そのハナカズラと松苗は小夫嵩方にも配られると聞いている。

この日に拝見した三谷のハナカズラと異なる造りである。

小夫嵩方は小夫の分かれの村。

隠居の村だと老婦人が話していた。

天照皇大神社の祈年祭がどうだったのか判らないが、村人に持ち帰ってもらうように置いてあったものと思われる。

平成24年4月29日に訪れた小夫嵩方の田んぼにハナカズラと松苗があった。

おそらく田植え初めのサナブリに立てたであろう。

(H26. 3. 2 EOS40D撮影)

三谷菅原神社御田祭

2014年09月06日 08時06分11秒 | 桜井市へ
昭和56年に発刊された『桜井市史 民俗編』によれば、かつては2月11日にケイチン鬼打ち行事が、3月7日には御田祭が行われていた大字三谷。

史料には御田祭の田植所作はしていないが、ケイチン鬼打ちは神官がしていたと書かれてあった。

度々訪れて、その状況を村人に尋ねても、田植えの道具は祭典で祭るが、所作のことは籾種を撒くぐらいしか口に出なかった。

平成24年4月7日平成25年3月23日に訪れた三谷菅原神社には祭典を終えた御田祭の残骸があった。

ハナカズラ、サカキ、松苗、お札挟んだ木である。

焼却場に捨ててあったのは弓・矢・的だった。

前年の12月1日に行われた山の口座の神縄掛祭の際に拝見した宝庫に納めていた御田祭の道具があった。



そこにはカラスキや備中クワ・スキがあったのだ。

それは遣わないと話していた村人たち。

遣わない御田祭の道具の答えになにか隠しているのではと思うような口ぶりであった。

10時から事前作業をして、午後1時から祭典だと云っていたので早めに出かけた。

菅原神社にやってきたのは4人の人足だ。

鳥居に笹を立てて、道具類を社務所廊下に置く。

神饌は神饌所に納められた。



農道具のカラスキや備中クワ・スキは宝庫から出して拝殿に置いた。

そこには牛の背中にのせる鞍もあった。

その宝庫、出そうと思ったらミツバチがわんさか出てきた。



「えらいこっちゃや」と云って藁束を持ってきて、火を点けた。

ハチが嫌う煙で追い出すということだ。

準備ができたからと云って他には何もすることがなく人足たちは休息をとる。

遠くからイカルの囀りが聞こえてきた。

ホーホケキョと美しく鳴いたウグイスにチョットコイと鳴くコジュケイもいる長閑な時間帯である。

並べられた道具を拝見すれば、ごーさんの宝印があった。



かつて神社前の山にある地蔵院でオコナイがあったというから、そのときに使われていたのかどうか村人も知らず、である。

子供の頃だったと云うから、今より50年以上も前のことのようだ。

一旦、帰宅されて戻ってきた人足たちが再びやってくるのは12時半。

「みんなが来て祭具作りをするんで、それより前に来とかな」と云っていたが、先に着いたのは笠の橋本宮司だ。

三谷は橋本宮司が生まれた地。

母屋にあたる菅原神社が主であると云う。



その直後にやってきた87歳の長老はさっそくハナカズラを作っていく。

藁一束を真ん中で割って、折った半束を添えて藁で括る。

中央に洗い米を包んだ紙を挟んでいく。

両側に葉付きのシキビを挿し込んでできあがる。



「若いもんに伝えなくては」と云って作り方を宮総代らに伝授された長老の顔は笑みで零れる。

こうして作ったハナカズラの本数は5本だ。

オン松・メン松をひと括りにして籾種を詰めたオヒネリとともに藁で括る。

一方、前庭に設える神田作りも同時併行作業。



四方に杭を打ち込んで忌竹を立てる。

注連縄を張って紙垂れを取り付ける。

「ここで御田の所作をするんだ」と云う。

一方の長老は矢作りだ。



適度な長さにススンボを切断する。

もう一人の長老は的にする竹割り作業。

真竹はしなりがあって良いと云う。

ススンボの先を削って割る。



紙の羽根を取り付けてできあがる。

長老は矢作りだけでなく、かつてオコナイをされていたと思われるヤマウルシの木を適度な長さに伐る。



先のほう、これもまた適度な長さに皮を剥いで、先をナタでT字型に割っていく。

弓は桜の木だ。

「今年の木は太いなぁ」と云いながら曲げて弦を取り付ける。



一人作業ではできないから二人がかりだ。

それぞれの道具作りは長老たちだが、役割は特に決まっていない。

羽根も取り付けて赤テープを巻いて固定するのは少し若い人。

的を作るのも若い人たちだ。



杭を打ち込んで左右に竹を立てる。

水平に一本の竹を取り付ける。

蓆を垂らしてできあがり、ではなく、竹で編んだ的も作っていく。



割いた青竹で骨部分を作る。

その間、お札作りも並行作業だ。



「菅原神社 牛王」の文字を墨書する。

枚数は5枚だった。

後方の的作りは糊を付けて半紙を一枚、一枚貼っていく。

的の枠を足で引っかけたらえらいことになる。

せっかく作った的の枠に「近寄ったらあかんで」と云いながら作業を進める。



ごーさんの宝印は朱のスタンプ押しだ。

形は他所でも見たことがないような宝印である。



それをT字型に三つ割きにしたヤマウルシに挟んでできあがる。

的は中央に三重丸を描く。



上部に「鬼」の文字を書いてできあがった。

吊るす紐を取り付けて、的場に運ぶが、壊さないように慎重に運んだ。



紐を掛けて吊るしてみるが、地球の引力に負けて的枠が下がってしまう。

糊付けは半乾きだったのだ。



こうして一切の祭具作りが終わった。

昔はカラスキ・クワ・スキのミニチュア農具も作っていたと云う。

それぞれ三つずつ作って、番号を付けたミニチュア農具は祭典を終えて村の子供にあげていたと云う。

区長、宮総代であろうが氏子全員で行った手作りの祭具が揃えば、拝殿で神事が行われる。

ワイワイ云いながら作業をしていた氏子たち全員は静かに座る。

神事は祓えの儀、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌であるが、祝詞は祈年祭と御田祭の二つがある。

「かけまくもかしこみ・・・」と祓えの際には一同揃って起立だ。



祓えは田植の所作をする祭場や農具・ハナカズラなどを含めて鬼的にもされる。

村の五穀豊穣と悪病祓いを祈願する。

「かけまくもーかしこみ かしこみもうさく 大地の恵みを与えてくだされ」とたてまつる。

災いを祓い、村の安全を祈願する。

「スキ クワ クマデ・・・四隅にさしそえ 宮座のハナカズラ マツナエ申し モノを造りて 鬼打ちのオコナイをば もろもろの鬼を打ち・・・」。

「田作りを初めの行事 モミダネをまき みずほの国」と祝詞を奏上された。

神事を終えた村人たちは御田植の斎場に移った。

87歳の長老が「こういう具合にするんや」と云って祭場で耕すスキの所作。

半周回ぐらいに動きながらの所作はサクサクとしてあっという間に終わった。



「おまえがやれって」伝えられた男性はカラスキを抱えて荒起こしの所作をしたが、周回もせずにちょいちょいで終わった。

牛の鞍はあったが、所作は見られなかった。



クワで耕す所作もちょいちょいだ。

実にあっさりした所作である。



松苗も植えていくが本数は8本だ。

「稲刈りもしとかな」と云われて、すぐさま松苗を拾っていく。

雑にみえた所作ではあるが、旧来どおりの作法を演じる三谷の御田植である。

村人が僅かしか話さなかった理由。

他人さんにはあまり見せたくなかったからでは・・と思ったが、かつて牛で農耕をしていた時代は本物の牛を連れてきて所作をしていたと話す。

斎場で「しょんべんはするし、どさっと糞も落とした」と云う。

こうして終えた御田祭の次はケイチンの鬼的打ちになる。



笠の橋本宮司が鬼の的を目がけて矢を一本放つ。

的を射る位置は拝殿前である。



的場との間隔が離れているので全景の写し込みは難しい。

何人かの村人が続いて打っていく。



立ち位置を替えて何枚か撮らしてもらった。

かつては当屋座行事であったが、50年ほど前に村行事に移ったようだ。

矢は合計で10本打った。

わいわい言いながらの手作り感がある三谷の在り方は、逆にほのぼの感がある。

実に楽しそうにされた村行事である。



祭典を終えれば直ちにバタバタと祭場を壊していく。

祭場の忌竹とか鬼的・桜の木の弓は焼却場へ運ばれる。



弓はナタを打って折っていた。



災いを村から排除した弓・鬼は復活しないようにしておくということであろうか。



サカキ・矢・松苗・ヤマウルシのごーさん札は拝殿に置いて持ち帰るようにしておく。

ハナカズラも同じように並べた。



松苗・ヤマウルシのごーさん札・ハナカズラはサナブリと呼んでいる植え初めの際に立てると長老は云っていたが、持ち帰るのは百姓だけだと話す。

一昨年、前年に拝見した残骸があった本数はこの年とほとんど変わりなかった。

減算してみれば一軒ぐらいのように思えた。

ちなみに三谷に高野真言寺の地蔵院がある。

正月二日は年始で檀家が集まる。

その月の24日は地蔵講の集まりがあった。

ウルシの木に牛玉宝印こと地蔵印を括りつけて地蔵尊に供えると『桜井市史 民俗編』に書いてあった。

その行事は昭和30年代に中断されたもようである。

もしかとすれば、「菅原神社 牛王」のお札に押した宝印は地蔵院の地蔵印であったかも知れない。

地蔵講は解散されたが三谷には大師講がある。

3月の春彼岸に大師講の営みがある


秋彼岸にもあったが、今は春彼岸だけになったと話していた。

(H26. 3. 2 EOS40D撮影)

明星味の三代目しょうゆ味

2014年09月05日 07時18分15秒 | あれこれインスタント
朝から桜井市三谷の村行事に来ている。

昼食を挟んで一旦は帰宅される村人。

当地には食堂はない。

一番近い処に行くにしても往復で30分もかかる。

食事をすれば間に合わない。

そう思って持ってきたインスタントカップ麺。

本日のラーメンは明星味の三代目しょうゆ味だ。

3分待って蓋を開ければ甘い香りが漂ってくる。



見た目が美味しそうな野菜盛り。

たっぷり盛りの具だくさんだ。

ごま油が香ると書いてあるが、それは感じない。

野菜の香りではないだろうか。

どれが甘さの香りなのか判らないしょうゆ味。

麺は細麺。一般的な細麺である。

鶏がらラーメンは「ずっとここにある味」とあるが、それも感じない。

青菜がどうも気に食わない。

青くさい香りが鼻につく。

「味の三代目」とは一体、何であるのか。

伝統を繋ぐと云われても、どこからの三代目なのか。

初代は誰なのか、さっぱり判らない。

(H26. 3. 2 SB932SH撮影)

パンクした右後輪

2014年09月04日 07時58分08秒 | いどう
北椿尾町の行事取材を終えて下った。

雨は止まない帰宅路。

家に電話を入れて買出しするイオンモール大和郡山店。

戻ってきた駐車場に違和感をもった。

後輪の右タイヤがぺしゃんこになっている。

北椿尾町を出発するときにはそうではなかった右後輪。

復路の何処で感じたか覚えていないが、いつになくゴトゴト音を感じていた。

まさかタイヤがパンクしているとは気がつかなかった。

道路に落ちていた釘を拾ってしまったのだろうか。

北椿尾からは相当な距離がある。

直線距離で7kmにもなる。

タイヤはボコボコであろう。

行事取材は山中に出かけることが多々ある。

そこでパンクどころか、車が故障すれば緊急電話。

と思っていても圏外であれば難儀する。

いつもそういう危機感をもちながら出かけている。

この日に発生した場はイオンモールがある大和郡山市の下三橋町。

道路を挟んだ向かい側にガソリンスタンドがある。

それほどの距離でもない近場。

ゆっくりソロソロ走行でスタンドを目指す。

とりあえずガソリンを補給して店員さんに声をかけた。

この様子ではタイヤ交換を要すると考えられる。

そう云って空気を入れた。

調べてみなければ判らないタイヤのパンク。

原因はエアーバルブの破損だった。

経年劣化でそうなることがあるらしいバルブの折れ。

他のタイヤもなることと思われ四つとも交換を勧めるが、冬用のスタッドレスタイヤ。

今期で3度目の使用は、安全走行を期して12月から3月末までの履き替え。

今期を以って廃棄するからお勧めはやんわりと断った。

修理代はタイヤ脱着が500円で、修理は1995円。

エアーバルブ部品は105円だった。

(H26. 3. 1 記)
(H26. 3. 2 SB932SH撮影)

北椿尾町の祈年祭

2014年09月03日 07時16分12秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
稲荷講の寒施行やとんどを取材したおりに聞いていた奈良市北椿尾町の村行事。

同町には三社の神社が鎮座する。

ひとつは正暦寺がある菩提山町手前の山にある椿本神社だ。

その場は何度聞いても所在地が判らなかった。

もう二つは下の垣内に鎮座する春日神社と八王子神社である。

祈年祭の行事は始めに村役員が参集された椿本神社で行われる。

そこで神事を終えた一行は春日神社(左)・八王子神社(右)にやってくる。



上がる階段左横に建之された笠燈籠がある。

「雨神□ 大正元年十月建之」の刻印がある。

建之したのは「元宮座」の14名が寄進したようだ。

役員たちが椿本神社で参拝している時間帯におられた男性は北垣内の一年村神主さんだ。

北椿尾町は37、8戸の集落。

下から出・小知山(こちやま)・北・堂・大久保・大磯の6垣内からなる。

毎月1日、16日は村神主の月参り。

境内を奇麗に清掃される。

参集するころにはぽつぽつと雨が降り出した。

この日は「ついたちぶり(一日降り)」と云って雨が多くなるそうだ。

祭壇を社殿前に設えようとしたが本降りになってきた。

やむを得ず、この日の祭典の場は参籠所に移した。

拝所・神具を急いで参籠所に運んだ。

祭壇は社殿に向かってだ。



社殿下には境内社の二社がある。

稲荷神社(左)や弁財天神社(右)である。

次々と訪れる参拝者は傘をさしていた。

始めに神社に参ってお米粒を供えて手を合わせる。

稲荷神社や弁財天神社にもお米粒を供えるのは「賽銭の代わりや」と云う。

その頃から降りだした雨は大粒になった。

祈年祭を勤めるのは一年村神主ではなく神職だと云う。

どちらの神職だろうと思っていたら、出仕されたのは丹生町の新谷宮司であった。

出仕される地域は広い。



急遽設えた祭壇。お供えは洗い米、サバ、ダイコン、ニンジン、ハクサイ、シイタケ、ミカンにバナナなどだ。

これは二組ある。

春日さんと八王子さんに供えた御供である。



手前には「奉讀唯般若心経五穀成就祈」のお札と袋に包んだ籾種もある。

参集された宮総代、氏子、農家組合、自治会の方々に3人のトーヤである。

配置したテーブルには直会でよばれるパック詰め料理もおかれた。

神事は一同が立ち姿になって行われる。



お神酒の口を開けて一枚のサカキの葉を挿し込んだ。

祓えの儀、祝詞奏上、玉串奉奠で終えた祈年祭の祭典。

その後は直会の場に移る。



氏子総代長、自治会長の挨拶を経て座席に配られたパック詰め料理をいただく。

お神酒を注いで回るのは「ガチギョウジ」と呼ばれる垣内から選ばれた4人だ。

直会が始まって20分過ぎ。



祈祷された御供を配る。

前年までは松苗もあったのだが、たいそうになったということから袋に詰めた籾種だけにしたと云う。

次に配るのは「奉讀唯般若心経五穀成就祈」のお札だ。



欠席者も含めて氏子全員に配られる籾種とお札である。

1時間余りの村行事を終えて解散した。

それから膳をいただく「ガチギョウジ」の人たち。

解放されてようやく食べることができる。

この日の祈年祭を「オコナイ」と呼んでいたのは長老たちだ。

平成6年に発刊された『五ケ谷村史』によれば、明治初年までは正月の座中行事だったようだ。

「3月1日はトウヤが用意する松苗とごーさん札を供えて神主が祈祷していた。松苗は神社門松のオン松・メン松のスエ(芯)に洗い米を包む。注連縄の藁を解いて結んでいた」とある。

「エノコロと呼ぶネコヤナギの木の先を三つに割いてごーさん札を挿していた」と書いてあった。

授かった松苗・エノコロは苗代の際に挿していたごーさん札であったという記述である。

平成24年6月10日に訪れた北椿尾町では田植えをしていた。



それを撮っていた場は正暦寺に向かう道。

傍に建つ小屋の横に立ててあったのだが、お札はビニール袋の中だったゆえ、「奉」の文字しか判別できなかった。



正暦寺の関係者のNさんに尋ねても判らなかったお札だ。

取材を終えてその場を通りがかったときにおられた男性は先ほどまで直会の場でお話を伺った人だった。

ご主人は出垣内の人。

当時、見つけたお札の持ち主であったのだ。

2年経って巡り合えた男性によれば、イノコロと呼んでいたのはカワヤナギだったと云う。

イノコロ挿しにはオン松・メン松の松苗も挿していたと話す。

かつてはイノコロがいっぱい生えていた。

いつしかすべてが川から消えた。

その時代の川はシジミもいたぐらいな奇麗な川だった。

山のほうに産廃がくるようになって川が汚れたと話す。

秋のマツリも簡略化されたそうだが、『五ケ谷村史』を拝見して取材したくなった。

(H26. 3. 1 EOS40D撮影)

久しぶりのシニア会

2014年09月02日 07時11分14秒 | 食事が主な周辺をお散歩
Facebookメールを通じて連絡があったシニア会。

会合の場は大阪の淀屋橋。

平成23年5月20日に出かけた会合はシニア会でなく、エントリー部門で働いていたOさんの送別会だった。

シニア会となれば直近に出かけた日は平成21年2月10日の新年OB会以来である。

なんと5年ぶりである。

毎年の夏に出かける十津川村。

そこに集まるのはOBではなく、ほとんどが現役だ。

会社、仕事、顔ぶれなどの状況変化は聞いているからある程度は知っている。

5年ぶりとなるシニア会はOB会をあらため会名を替えたのだろう。

私より若かった人たちも定年満了を迎えた。

短時間勤務の継続社員として頑張っているやに聞いている。

彼らもOB入りだが、制度が替って5年間も勤めることができるようになった。

勤めを継続しているのであればOBという名よりもシニアの方が相応しいのであろう。

久しぶりに会ってみたいと思って出かけた淀屋橋であるが、その前に済ませておきたい所用先は奈良県庁。



校正段階に突入した緊急伝統芸能調査報告書の提出は急がねばならない。

当初の依頼は1件であった。

その後に於いて1件増えて、2件、3件となり、合計4件の調査報告になった。

執筆報告は文字数が多い。

一つ(白土の子供・大人念仏)は15000文字で、もう一つ(法貴寺郷の神楽と御湯)は12000文字。

他にも8000文字(萱森の六斎念仏)、7800文字(田中甲斐神社の御湯焚き)もある。

3年間もかけて調査した報告字数は膨れあがった。

収録するには大幅に減数しなければならない。

発刊される報告書には数多くの行事写真も要する。

私が担当した調査報告はもちろんだが、章立てに充てる写真も頼まれた。

その枚数は45枚にもなる。

それも校正の一部である。

そんな打合せをして近鉄奈良駅に向かった。

なにげに見たガラスウィンドウ。

奈良県商工観光館のウィンドウだ。



そこにあったブロンズ製の阿修羅像。

なかなか見事な出来栄えに見惚れていた。

展示品でなく売りものの阿修羅像は18万9千円だった。

近鉄大阪線、地下鉄御堂筋線を乗り継いで到着した淀屋橋駅。

懐かしいプラットホームもそうだが、田舎暮らしに慣れた目は雑踏にうごめく人の流れについていかない。

親会社の本社ビル(東館)はビル工事をしている。

隣のビルは新館になっていた。

元会社があった界隈は変わっていないが、ビルは撤去されて今では駐車場。

3年前ぐらいにそうなったことは知っている。



四つ辻にあるビルの地下街。

懐かしい名が今でもあった。

「酒房百番」、「上海楼」、「まめだ」の店だ。



昼となく夜にも入店していた食堂街であるが「九郎兵衛」の名がない。



そこから東へ100mも歩かんうちにあった「適塾・緒方洪庵旧宅」。

市立愛珠幼稚園は今でもあるのだろうか。



対面にあった「お好み焼き酒場」。

私が居たころはなかったと思う。

その前は何の店だったのか思い出せない。



そこから40m先にあった中華料理屋は北京料理の「福仙楼」。

床は板張りだったお店。

焼きそばだけが美味かった。

会合が始まる時間までの待ち時間は探索とする。



ふと思い出して足を伸ばした栴檀橋。

昭和10年に架けられたコンクリート製の橋であるが、明治18年までは木橋だった。

その先に建っているのが大阪市中央公会堂だ。

時間つぶしはこれで充分。



会合の場であるニューミュンヘンに行く。

京阪ビルの地下一階に並ぶ店である。

ガラス越しに店内を見渡すが誰もいない。

まだなのかと思っていたらコン、コンの音が聞こえた。

2年ぶりに合ったMさんだ。

そのうち誰かがくるだろうと先に注文したジョッキの生ビール。

ぐっと飲んで頼んだ肉豆腐。



昔は100円だった肉豆腐は様変わりしていたが、実に美味いのである。

ビールがぐいぐい進む。



夜遅くまで飲んでいた。

夕方5時から飲み始めたシニア会の酒量は留まることを知らない5時間。

どこをどう帰ったのか記憶にない。

(H26. 2.28 SB932SH撮影)

八田伊勢降神社御田植祭

2014年09月01日 07時16分03秒 | 田原本町へ
行事を含めて度々訪問する田原本町の八田(はった)は150戸の集落。

東八田(ひがしばった)、中の東、中の西、西八田(にしばった)の4垣内のうち村の年中行事を支える廻り当番の垣内が御田植祭の松苗を収めたホッカイ担ぎを担う。

伊勢降神社の祭祀を勤めるのは3人の宮守さん。

年長者が村神主となってお渡りをすると話していた。

神社に集まっていた宮守さんたち。

「私の家から出発する」と案内されていった家は宮守の一年神主家だった。

御供などを調整されて収めていた唐櫃がホッカイだ。

内部にはモチ11個、三合の洗い米にオス・メスを重ね合わせた5本の松苗。

藁縄および水引で括り、束ねた松苗は昨年の12月の新穀感謝祭に供えた新穀の米5粒を収めた紙包みをおさめている。

しばらくすれば正装された行事関係者が集まってきた。

村神主は白装束に着替えて烏帽子を被る。



宮守家の玄関先で手水をされてお渡りが出幸した。

先頭はサカキ幣を持つ老人会会長。

法貴寺池坐朝霧黄幡比賣神社宮司、笏を持つ村神主、小幣を持つ自治会長、宮守、法被姿のホッカイ担ぎ、ミナライが続くお渡りである。



この年の宮守家は集落の東外れの東八田。

神社から一番遠い処である。



お渡りは集落内を抜けて北の街道へ向きを替える。

そこからは西に鎮座する神社に向かう。



ホッカイ担ぎは村の年中行事を支える人たちで、廻り当番の垣内が担う。

この年は中の東があたった。

鳥居を潜って参進してきた一行は神社に着いて神事を始める。



一同は本殿前にまず並んで祓えの儀。

それから拝殿に登る。

二神を祀る本殿の御扉開の次は献饌である。



ひとつひとつ手渡しで献饌する。

祝詞を奏上する神職は度々お世話になっている藤本宮司。



よく見れば拝殿に長い棒のようなものが立ててあった。

これより始まるのが御田植の所作である。



拝殿に立ててい長い棒を手にする宮司。

棒はカシの木である。

幣と注連縄を巻きついたカシの木は先端が二股になっている。

それは「牛」であると云う。

二股部分が牛の角を現しているのだろう。

まずは、水平に抱えて神さんに一礼する。

「牛」を正面・立て位置に持って立ち上がった。

そして一歩進む度に、「牛」を拝殿床にドンと打つ。

これを右周りに何周かしていく。



ビジュアルさ、派手さもなく淡々と作法をされる。

周回は大きくすることもあれば小旋回することもある。

クワもマンガもカラスキもない御田植の所作は初めてだ。

このような木の棒を操って牛遣いをされる所作は大神神社と天理市小田中町ぐらいしかないのではと思った。

これまで多くの県内事例を拝見したが、他所では見られなかった特徴的な作法である。



拝殿を周回する作法は、おそらく拝殿を神田に見立てて田んぼを耕している「牛遣い」の作法なのであろう。

御田植の所作を終えれば玉串奉奠に移る。

神職、自治会長、老人会会長で最後に村神主が奉奠された。

撤饌、閉扉、神職の一拝で神事を終えた。



その後は拝殿でカマボコとスルメでお神酒をいただく直会だ。

直会の時間帯は次に行われる村行事を再確認される。

3月彼岸の日に行われる還暦祝いや彼岸の祖霊祭の段取りも確認された。

こうして終えた八田の御田植祭。

終えれば、宮守・ミナライの6人が200セットも作った松苗を八田集落の農家80戸に配られる。

また、出仕された法貴寺の藤本宮司にも法貴寺地区の分として80松苗も渡される。

八田の御田植祭の日程は神職・宮守・自治会などが協議されて決まると云う。

この年は28日であったが、26日だと云う人もあれば27日とも・・・毎年替るようである。

(H26. 2.28 EOS40D撮影)