マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

柳生円成寺の食事処

2015年02月18日 07時19分10秒 | 食事が主な周辺をお散歩
忍辱山町にあるお寺は円成寺。

そこに食事処の「里」がある。

そこで昼食を摂ろうと相方に誘われて出かけた。

阪原の富士講も食事中だ。

取材する側も一休み。

阪原からは4kmぐらいのところにある「里」で一服することにした。

食事処から国道を挟んだ向こう側に駐車場がある。

この日はほぼ満車の14台で停める場もないくらい。

いつもであればゆったり駐車できるのだが・・・。

相方は親子丼、私は550円のざるそばを注文して寺内のトイレを利用した。

そこにはご住職がおられた。

相方と来てますねんと伝えた住職は平成22年5月に訪れた桃香野善法寺の花まつりでお会いして以来だ。

この日は団体家族の法要に勤めていたと云う。



畳席は半分以上を占めている団体客が食事を摂っていた。

どうやら阪原にある奈良市青少年野外活動センターに参加されている小中高校の子供たちだ。

先生が引率されて学びのプログラム活動をされてきたのであろう。

支払いは個々めいめい。

食べたメニューを伝えて現金払い。

レジはないが、子供たちの礼儀にきっちりとお釣りを手渡す店員さんになぜか感動する。

店内から極楽浄土の池を観る。



借景よろしく青葉が眩しい。

散策・参拝する観光客も楽しんでいる。

「里」の夏メニューは冷やしそうめん、天ぷらの盛り合わせ、大根おろしとじゃこがある。定番メニューは1600円の里定食を筆頭に750円の天ぷら丼、600円の親子丼。麺類は900円のなべやきうどん、800円の天ざるそば、700円の天ぷらうどん・よもぎうどん・にゅうめん・冷やしそうめん・山かけそば、、600円の山菜うどん、550円のきつねうどん・カレーうどん・たぬきそば・ざるそばなどがあるお手頃価格。

しばらくすれば注文したざるそばがテーブルに運ばれた。



そばを箸で摘まんで出汁椀に入れる。

たっぷり浸けて食べるのは行儀が悪いと誰が言ったか知らないが、そんなことはおかまいなし。

たっぷり浸けるほうが美味いに決まっている。

ネギ、おろし大根が添えてあったので、たっぷり出汁に入れる。

ワサビは半分ぐらいにとどめておく。

これが美味いのである。

そば麺はある程度のコシがある。

何が美味しいかと云えば出汁である。

甘み・旨みのある出汁だは、なぜかシイタケ味を感じた。

食べ終わってから店員さん聞いた出汁も素。

昆布にカツオをふんだんにとったという。

私の味覚はこんな程度だ。

シャキシャキ感があるワサビはチューブ入りではない。

食感からいって生ワサビに違いない。

そば麺はけっこうな盛り。

この味、ボリュームで550円とは驚き価格。

次回は相方が食べていた親子丼も食べてみたいと思った。

(H26. 7.26 SB932SH撮影)

阪原の富士講午前の部

2015年02月17日 09時03分28秒 | 奈良市(東部)へ
朝10時ころ、公民館に参集する奈良市阪原の富士講中。

講箱に「干時宝暦七年(1757)九月吉日・・・講中八人名 施主名」の墨書文字があることから250年以上も継承されてきた講中である。

当時からごく最近までは8軒の特定家「尾上、田中、中田、中、吉野、山本、阪本、立川」で代々営まれてきたが、今では7軒になったようだ。

講中は阪原に在住する7人。

先代から引き継ぐ一子相伝の富士講には30歳代の若者もおられる。

7人の内訳は門出垣内の3人、北出の2人(かつて3人)、中村の2人だ。

講中が保存する古文書に「安政六年(1859)七月□□ 富士講仲箱入□残覚附帳 坂原寺講中」がある。

ただ、江戸時代を残す年代期は表紙だけであって、中身の綴りは明治時代以降である。

昭和の時代には富士山に3度も登って浅間神社に参ったと云う。

その行程は詳細に書き残されていた。

参集した講中、しばらくはお茶をすすって公民館で村のことなどを話していた。

かつては前夜に泊りでお籠りをしていたそうだ。

夕方に集まって夜食を摂って、ひと晩過ごしたと云う身を清めのお籠りである。

その晩はお酒を飲んで歓談していたと話す。

家から持ってきた布団や枕もあった。

ひと晩ずっと起きているわけではなく就寝していたそうだ。

ひと晩寝て朝起きる。

朝食はヒヤゴハンで炊いたアズキガユだった。

前夜に食べ残したカマボコや缶詰めも食べていた。

朝・昼のおかずはナスビ、カボチャ、タマネギを入れたごちゃ混ぜ料理。

それは「たいたん」と呼ぶ煮もの料理だったと話す婦人たち。

これまでは男性だけの集まり。

炊事もしていたが、今では講中当番の婦人がお手伝いをするようにしたと云う。

数年前までは2段に盛ったお重もあった。

家の料理を詰めたお重だったと云う。

時間ともなれば、木綿の白襦袢に着替える講中。

装束の腰紐は藁縄だ。

履物は自作の草鞋と決まっていたが、数年前に雪駄でも構わないということになった。



が、この年は一人の講中は草鞋を履いていた。

30年前に記録された史料によれば、草鞋は毎年新しく作っていたようだ。

作り置きをしていた人もおられた。

いざ、出発するというときに草鞋がないことに気がつかれた人。

大慌てで邑地にある店まで行って買ってきたこともあると云う。

草鞋を毎年作っていたのは、3度の水行を終えて鼻緒を切って川に流すからであるが、今ではそうした行為はしなくなった。

下着はふんどし姿であったようだが、今では普段の下着を見につけている。

かつては日の出とともに参っていた。

この年は11時ころに出発した。

出発する際に初めの儀式が行われる。



斎壇を設えた後ろに掲げた掛軸の中央に「富士山」の文字がある。

光背は富士山であろう。

その上に描かれた地蔵菩薩立像。

左右には菩薩のような仏画を描かれている。

来迎阿弥陀尊であろうか。

下部に猿のような獣が2体ある掛軸は「富士山牛玉」と思われる。

「浅間神社」の文字があるやや丸みを帯びた三角形のご神体石も祭壇に置く。

水行の数取り数珠も置いてローソクに火を灯した。

講中一同が並んで、導師は前に座る。



ご真言の「ウ(オ)ンタラタカマーノ マクサンバン(ー)ダー サラサラセンダン(ー)バー(カ) シャータヤ ソワカ(ヤ)」を5回唱える。※( )内は残された史料に基づき補足する。



真言を唱えたら、草鞋や雪駄を履いて白砂川の祭場に向かう。

当番の人はご神体の「浅間神社」石を抱えている。

到着すればご神体を忌竹内に納めて手を合わせる。

次に川へ下りて、柄杓で川の水を掬ってご神体に掛ける。



それから、忌竹周りを囲んで、「ウ(オ)ンタラタカマーノ マクサンバン(ー)ダー サラサラセンダン(ー)バー(カ) シャータヤ ソワカ(ヤ)」を5回唱える。

これより始まるのが水行。

足元を川に浸けて始まった。



「ひー、ふー、みー、よー、いーっ、むー、なな、やっー」と声をかけながら川の水を柄杓で汲んで前方川面に投げるような感じで水を飛ばす。

「やっー」のときには、勢いをつけて遠くまで水を飛ばす。

この作法を八回繰り返す。

導師が手にもつ黒い数珠の数取りは八珠ずらし。

およそ3分間に亘って行われる水行の作法だ。

以前は一旦終えて公民館に戻って小休止。

再び川にやってきて水行をしていたが、今では戻ることなく続けて2回目の水行が行われる。



再び忌竹周りを囲んでご真言を5回唱える。



先ほどと同じように川に浸かって「ひー、ふー、みー、よー、いーっ、むー、なな、やっー」と云いながら川水を川面に飛ばす。

2回目のときも同じ作法で八回繰り返す。



再び忌竹に戻ってご真言を5回唱えて午前の作法を終えた。



水汲みをした柄杓は忌竹に引っかけて吊るすような形にして祭場を去っていった。

この後の会食は撮影禁。

この場を離れて思い出した柳生下町の土用垢離。

サバの缶詰めが神饌御供の一つにあったことである。

阪原の缶詰めもサバ缶であったかも知れない。

(H26. 7.26 EOS40D撮影)

阪原富士講の斎場造り

2015年02月16日 07時13分44秒 | 奈良市(東部)へ
診療していた歯医者の待ち時間。

ロビーに奈良の情報雑誌「naranto(奈良人)2013春夏号」があった。

ぱらぱらとページをめくれば石仏特集が目についた。

そこに書いてあった奈良市阪原の北出来迎阿弥陀磨崖仏。

「疫病から村を守った阿弥陀石仏・お籠りしてご利益に感謝」すると書いてあるのだ。

紹介文に「地元の男衆で作る富士講がお祀り。かつては泊りこみでお籠りをしていた。仏さんを囲んで酒を酌み交わし宴に興じていた。住民の話しによれば、富士講の起源は地区で疫病が流行って男衆が次々と亡くなった。村の人が阿弥陀さんに一心に祈ったら疫病は収束した。以来、講を作ってお礼の籠りをするようになった。今でも信仰篤い七人衆が7月末の農閑期に公民館に籠る。泊りはなくなったが、30代の若者も新たに加わり地域の話題で連帯感を育んでいる」とあった。

富士講の県内事例は、これまで柳生町柳生下町および都祁上深川の様相を取材したことがある。

ただ、柳生では富士講の呼び名はなく、神社祭祀を勤める十二人衆が行う「土用垢離」である。

上深川は6人の富士講中によって行われる富士垢離であるが、長く途絶えていたものを年寄りの記憶がある間にということで、平成21年に復活された。

昭和50年代にされていた上深川の富士垢離は県立民俗博物館に動画映像で残されている。

行事名は浅間講の富士垢離だった。

近年までは都祁小倉町にも残っていたが、いつのころか判らないが「講」は廃れて八柱神社の石段の下に浅間さんの石碑を建てるだけになっている。

富士講或いは浅間講の石碑は山添村広瀬・吉田・勝原や天理市長柄、生駒市長久寺など県内各地にその存在を現認してきた。

この月の8日に取材した古市町の仙軒講も富士講の一つとしてあげられるが、水行の作法はされていない。

また、富士講碑でなく、浅間神社を奉る地域もある。

末社に浅間神社がある在所は奈良市鹿野園町・八阪神社、三郷町薬隆寺・八幡神社などが知られる。

「naranto」に来迎阿弥陀磨崖仏写真が掲載されていた文中表現を手掛かりに阪原の富士講を訪れた。

3月に行われた南明寺・涅槃会の際に宮総代から教えていただいた祭場は北出垣内の来迎阿弥陀磨崖仏

ネット検索すればどなたがアップされたのか存知しないが、ある人がブログで公開していた北出垣内の来迎阿弥陀磨崖仏

その映像には石仏前横に立てた忌竹があった。

目を凝らして見れば柄杓を吊っていた。

柄杓があることから水行をされている様子が判るが、アップした人はそれを「オコナイ」と書いていた。

間違ってもそれは「オコナイ」の道具ではない。

柳生と同様に土用垢離であれば、土用入りであろうと判断して出かけた阪原の北出垣内。

文中に書いてあった講中の家を探してみる。

家におられたご主人に訪れた理由を伝えたら一週間後にすると云うのである。

それなら所有している講箱を当番家が持っているとわざわざ運んでくれた。

講箱は柄杓・数珠・ご真言などを納めてあった。

水行作法に使う柄杓・数珠もある。

内部にはやや小さめの講箱もあった。

その箱蓋に「干時宝暦七年九月吉日・・・講中八人名 施主名」の墨書文字があった。

宝暦七年といえば西暦1757年。今から257年前である。

講中は代々が継承してきた特定家の8軒。

うち1軒は継ぐ者がなく、辞退されて現在は7軒になったと云う。

「古文書もありますので」と云われて拝見した。

表紙に「安政六年七月□□ 富士講仲箱入□残覚附帳 坂原□講中」と書かれていた。

安政六年は1859年。今から155年前であるが、綴じた文書は明治時代以降のものばかりだった。

理由は判らないが、なぜか江戸時代の記載文書は綴じられていないのである。

柳生・上深川には講箱や古文書は残されていない。

阪原には富士講の歴史を示す記録があったのだ。

257年間を特定家で営まれてきたことが歴史を残すことになったのだろうと思える貴重な富士講史料に感動する。

講箱には阪原の富士講を取材された記事が『読売奈良ライフ』1979年7月号も保管されていた。

同誌に書いてあった作法はほぼ克明に、である。。

当時の講中(尾上、田中、中田、中、吉野、山本、阪本、立川)の名も書いてあった。

発刊は昭和54年。35年前の様相を記録した阪原富士講の在り方だ。

ちなみに読売奈良ライフの創業は1976年(昭和51年)。

この号を発刊する2年前に創業された。

阪原富士講の史料ともなる記事を残してくれたことに感謝する。

1979年7月号には富士講とともに地蔵講の行事も書いてあった。

講中から案内されて緊急取材した門出垣内の地蔵盆は一週間前の20日に行われた。

富士講には中央に「富士山」の文字を配置した掛軸もある。

中央に地蔵菩薩、左右にも菩薩のようだが判別不能の来迎図。

下部には猿のような獣が2体ある掛軸は明日の水行前に掲げるようだ。

かつての富士講は27日に公民館で泊ってお籠り、翌日28日の朝に1回の水行、休憩を挟んでもう1回の水行。

昼食を摂ってからは昼寝。

夕方近くに3度目の水行をしていたそうだ。

今ではお籠りをすることもなく、水行前日に忌竹を設えるだけであると話していた。

こうした富士講の予備知識を頭に入れて訪れたこの日の午後4時。

石仏前の雑草を刈り取って奇麗に清掃されていた。

北出来迎阿弥陀磨崖仏を眼痛地蔵と呼んでいる地元民。

調べによれば、石仏は文和五年(1356)の作の阿弥陀磨崖仏。

彫りは深い。

湿気が多い日には目の辺りから水が流れる。

その水を目に浸けると難病が治ると伝えられている。

祭場を設えるのは2軒の当番さん。



四方に忌竹を立てて注連縄を張る。

そこに紙垂れを取り付ける。

手前の二本の竹には太めの青竹を括りつける。

そこへお花やサカキを挿し込んで汲んだ川の水を注ぐ。

こうした作業を経て、明日に行われる斎場ができあがった。

夏場の作業は汗びっしょり。

顔から汗がタラタラ流れ落ちる作業を終えて一段落。



飲料水を飲んで水分を補給する。

祭場前に流れる川は白砂川。

「ハイジャコ・アユ・ウナギ・ドジョウもおった。ウナギは生きたドジョウがエサだった」と云う。

針の先に挿して岩場の隙間に一晩寝かしたら釣れていたと話してくれた。

豪雨ともなれば川は洪水状態。

石仏の下半分ぐらいまでに水量があがると云う。

大量に流された川砂があがって石仏下の足場は砂地になっていた。

水が奇麗な白砂川にはハグロトンボが生息している。

翌日にはカエルを飲み込んでいたマムシも目撃した。

かつては祭場を設えたその夜に公民館で籠りをしていたと云う。

翌日の水行は午前中に2回連続。

川の水を柄杓で掬って「ひーふーみーよーいつむーななやっ」と声をかけて8回の水かけを繰り返す。

昼食を摂った夕方4時ころ。

3回目の水行をする。

そして、柄杓で掬った水を零れないように持って長尾神社に参ると云う。

掬う水は川の水ではなく、昔は道中にある谷脇の水だったと話す。

その付近には井戸があると話していた。

(H26. 7.25 EOS40D撮影)

脇田夏越十二振提灯献灯

2015年02月15日 08時29分33秒 | 葛城市へ
葛城市の脇田へ向かう道中に見つけた地蔵盆。

ひとつは葛城市西辻の地蔵盆だ。

周りは田畑でぽつんと建っていた。

18時には近くのお寺さんが来られて法要をされていた。

西辻は葛木坐火雷神社の郷村の一つ。

平成15年7月17日に撮った葛木坐火雷神社の夏越し十二振提灯を思い出した。

写真をよくよく見れば村人が伊勢音頭を唄っているのだ。

ずいぶん前の様相を思い出す。

西辻からほどない距離にあったのは御所市櫛羅の地蔵盆。

子供が数人着ているように見えた。

いずれも移動中の車窓から拝見した。

同じ御所市内であっても五條市寄りの鴨神や西佐味では地蔵盆を見たことがないと云っていた。

脇田に到着するまでの時間は下見の時間。いずれは訪れてみたいものだ。

こうした下見を終えて脇田に鎮座する脇田神社に到着した。

拝殿奥にある本殿前にはすでに御供が並べられていた。

畑におられた婦人に十二振提灯の件を尋ねた返答は「今日でしたっけ」。

話によれば、脇田大字の4組が毎年交替する当番組制。

4年に一度であることからなのか、外れの組になれば関心は薄くなるようだと話していた。

提灯は旧公民館前で組み立てると聞いて急行する。

散歩していた77歳の婦人の話しによれば、17日の夏越には郷社の葛木坐火雷神社に提灯を担いで、オンド(音頭)をとって献灯しにでかけていると云う。

「オンドさんはかつて長老が唄ってはったけど、今では唄っていないと思います」と云う。

話しの場に単車でやってきたのは区長さん。

「神饌の鯛だけは予め供えることができへんから買ってきた」と云って神社に走っていった。

主垣内の森垣内に集中している脇田は旧村40戸であったが、新家(分家)も建つようになって現在は70戸にもなったと云う。

地図表記では脇田神社となっているが、本来は脇田天満宮だと話す。

葛城市笛吹は江戸初期に脇田から分離独立した。

寛永年間(1624~)には脇田上之村とあり郡山藩領。

葛木坐火雷神社(通称笛吹神社)の夏越祭には神社の郷村にあたる脇田からも十二振提灯が献灯される。

この日は地元脇田の天満宮に十二振提灯を献灯する。



旧公民館に収納していた提灯をだして組み立てる。

隣に新公民館が建ったことによって旧公民館は倉庫代わりになったと云う。

手尺で測った竿の長さはおよそ440cm。

提灯を吊るす水平棒は一番上が110cmで中・下は270cmだった。

提灯の文字は「御神燈」、「脇田氏子」。

上から2個、4個、6個の十二振提灯である。

水平棒は竿に挿し込むようになっている。

動かないように水平棒の端を紐で括って固定する。

斜め状態にした提灯に長目のローソクを入れて灯す。

提灯の内部は溶けた蝋がいっぱい溜まっていた。

斜めにする機会が多く、その都度、溶けた蝋が提灯に落ちて固まっているのだ。

内部を拝見したのは初めて。状況がよく判った。



今年の担当当番組は2組。

4年に一度の廻りの組当番は17日の葛木坐火雷神社夏越献灯に東へ900mも歩いたと云う。

組立てが終わるころには村の人や子供たちも大勢やってきた。

18時40分ころに発令されたサイレンを聞きつけてやってきたようだ。

組の人が持ってきたカセットテープを鳴らしていた。

曲は伊勢音頭であるが、チャンチャン鉦のお囃しが聞こえる。

音頭を歌う人の声は明らかにプロの歌手。

「こんな上手いこと歌えることはない、市販の伊勢音頭だ」と組の人は種明かし。

提灯を担いで出発する時間は陽が落ちた19時20分だった。

カセットテープが音頭取りをしていた。



新公民館の前で立ち止まった十二振提灯。

その場で聞こえてきた伊勢音頭は生唄だ。

歌詞カードを見ながらではあるが、区長が歌う生唄に感動する。

「50年前は長老さんやった。もっと上手に歌っていた」と老婦人たちが話すが、なかなかのえー声だった。

1曲唄って再び提灯のお渡り。



次の場は旧街道の辻。

そこでも1曲。



次は地蔵さんの前で1曲。

止まっては歌う生唄の伊勢音頭。

周りの男性たちは「あれわいせ これわいせ・・・よーいんとせー」と囃した。



提灯担ぎはさらに東進されて、ここでも1曲。

ライトが照らされて夕闇に浮かび上がった脇田天満宮。



これより十二振提灯の宮入りが始まる。

それより先に歌われるのはこれまで同様の伊勢音頭。

夕闇でこの先は見えないが、鳥居の南の新道舗装路向こう側に記念の「奈良の八重桜」が植樹されていることを知る人は多くない。

1曲唄って宮入りをするが、鳥居が低いことから宮入りされるのもひと苦労する。



杭に括りつけて始まった夏越祭。

境内に集まった村人は60人余りの老若男女。

境内で立ち見する。



拝殿に登るのは区長や神社役員の3人だけだ。

何組かが鈴を鳴らして参拝された。



健康で夏を越せるようにと葛木坐火雷神社宮司の持田さんが境内に集まった村人たちに幣で祓ってくださる。

脇田の夏越行事は健康で夏を越す祈願祭である。

神事を終えれば数人の村人が伊勢音頭を生唄で披露した。

お下がりのお菓子を貰って帰る子供たちはあっと云う間に去っていった。

(H26. 7.24 EOS40D撮影)

鴨神上郷大西垣内の愛宕参り

2015年02月14日 08時28分22秒 | 御所市へ
12月に申講の山の神参りをされている御所市鴨神上郷大西垣内。

垣内に建つ石燈籠は刻印が見られないが「愛宕さん」と呼んでいる。

愛宕さんは火伏せの神さん。垣内が火事に会わないように願って建てたと思われるが「伝え」はないようだ。

三つの桶に盛った紅白の餅を供えた石燈籠に集まる。

丸餅はコモチ。

煎餅のような形はカガミモチと呼んでいた御供は、ヤド家はこの日までに集落を巡った米集め、蒸した米で餅を搗いた。

三つの桶に盛った紅白の餅は1斗。

餅搗きは農協に頼んで搗いてもらったと話す。

神饌はタイ・モモ・ナス・ピーマン。

「そろそろ始めようか」と声を掛けた垣内の人たちが燈籠前に集まりだす。



導師が前に立って大祓えを唱える。

元々は虫を弔う虫供養だったと話す。

愛宕さんと虫供養の関係は判らないが、一同、手を合わせて拝礼で終えた。

直ちに場を替えてゴクマキに転じる。



ゴクマキの櫓はトラックの荷台。

適当な人がモチを撒いて拾う人たち。

笑いが絶えないゴクマキはあっという間に終わった。



これを「秒殺のゴクマキや」と話していた。

子供や婦人たちは手に入れたゴクモチをもらって帰るが、男性たちは手料理などで酒宴。

延々と飲食されるそうなので大西垣内を離れた。

ここら辺りでは地蔵盆の様相は見られないが、愛宕さんは隣村の伏見の北窪や西佐味にもしているようだと話していた。

(H26. 7.24 EOS40D撮影)

二条町辻の歓喜寺地蔵尊の地蔵盆

2015年02月13日 09時13分22秒 | 奈良市へ
この日は大暑。高温注意報が発令された奈良市内。

7月23日の夜は二条町の四叉路道路中央にある地蔵尊で地蔵講が集まって歓喜寺住職が三仏偈を唱えると聞いて訪れた。

東に向かえば平城京大極殿裏に通じる道。

西は近鉄西大寺駅になる。

北へ向かえば二条町に向かう四叉路信号。

そこにあるのが地蔵尊である。

拡張された舗装道路の中央にある地蔵尊は、場が特徴的であるゆえ通りがかった誰もが記憶に残る場所である。

地蔵尊は昭和29年に道路拡張がされるまでは対面の角地に建っていたと86歳のおばあさんが話していた。

昭和29年にご結婚された直後の道路はもっと狭くて一車線程度。角を追いやって今では丸みをつけた辻にしたと云う。

地蔵尊の北側は元々道がなかったようで、拡張の際に新道をつけたそうだ。

そういうわけで道路に挟まれたような格好になったと云うが、「地蔵さんは元の位置に戻ったんや」と話したのは歓喜寺住職。

事実関係は歓喜寺に記録があると云う。

浄土真宗本願派の歓喜寺は二条町東にあるお寺。

廃仏毀釈の際に取り壊された超昇寺の仏像は歓喜寺に移されたようだ。

今では行政区割りの二条町の呼び名であるが、かつては超昇寺村であった。

鯉の養殖池になっている御前池の西側に超昇寺城があったそうだ。

二条町「青野墓 墓子」一同の出資によって、平成14年に弘法井戸・地蔵堂の覆屋を建て替えた。

弘法大師の井戸には三体の石碑がある。

左端の五尊板碑(上から薬師・釈迦・不動明王・阿弥陀・地蔵)は有名らしく室町期の天文十六年(1547)の作だそうだ。

中央は阿弥陀佛、右端も天文十九年(1550)に建之された平等利益板碑。

弘法井戸は昭和30年代までこんこんと湧いていたと云う老婦人。

小学生時代の帰り路に飲んでいたと話す様相は今から75年前のことである。

湧いていた井戸は「セキスイ」の工場ができてから絶えて「井戸水があがってしもた」と云う。

その後も増え続けた交通量に対応するために役所は井戸の場を替えようとしたが、「いろたら祟る」と云われて断念したと話す。



右隣は鎌倉時代後期の作と伝わる地蔵立像。

後方は新道。行き交う車が往来する場である。



辻の歓喜寺地蔵尊を守ってきたのは二条町の地蔵講だ。

汚れが気になれば講中が日々清掃してきた。

よだれ掛けを付け替えるのも地蔵講の役目だという年寄り講。

地蔵盆のお供えには地蔵講の名があった。

二条町の地蔵盆をお世話するのは歓喜寺の年番さん。



法要をされるのは歓喜寺の住職。三仏偈を唱える。

お念仏を唱えるなか、一人ずつ参拝する地蔵堂の内部は狭い。

焼香を済まして交替する。

おじいちゃんとともにやってきた子供も手を合わせていた。



地蔵さんの前後はひっきりなしに通り抜ける生活道路。

町内の人たちがお参りに来られるのだが、立ち位置は悩ましき場所。



激しい車の往来を避けて、僅かな空間に立って参拝行列を待っていた。

(H26. 7.23 EOS40D撮影)

矢部の地蔵尊

2015年02月12日 08時17分28秒 | 田原本町へ
午前中に地蔵盆を終えた村の辻。

ここがどこだか判る人はよほどの奈良通。

ここは田原本町の矢部。

所用で訪れた安楽寺の娘さん。午前中に地蔵盆があったようだと話す。

子供会の行事なので詳しくは判らないと云う。

地蔵尊の斜め向こうに見えるのは毎年5月5日に懸け替えられる綱掛け行事の綱。

2カ月以上も経過しているが簾型の綱形態が美しい。

(H26. 7.23 EOS40D撮影)

額田部北町の地蔵盆

2015年02月11日 07時18分14秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市額田部町は大きく分けて旧名北方、南方がある。

今では北町、南町の行政区域で表記される。

昨年は棚ケ崎地蔵講の数珠繰りを拝見した。

そこから数百メートルも離れていない場で北町地蔵講の数珠繰りがあると知って出かけた。

旧村に新町が加わって戸数は50戸にもおよぶ北町。

若い婦人たちが世話人を勤めていた。

数珠繰りの場は融通念仏宗派融通寺の門前。

到着したときはすでに副住職の法要は終わっていた。

旧村住民が昭和34年に寄進した盂蘭盆会地蔵尊提灯立てや幕などを設えて御供えを供えていた。

数珠を納めていた箱は黒ずんでいた。

そうとう古く、おそらくは江戸時代に寄進されたように思える。

かつて旧村の地蔵講が行っていた地蔵盆。

付近に建てた新興住宅の新町が地域に加わった。

若い婦人たちは昔のことは伝え聞いていないようだ。

この年の当番は50戸中の10組だと云う。

おもむろに始まった数珠繰りは子供たちだけでされると思ったがそうではなかった。

思いきやそうでもなく母親らも参列して行われる。

ゴザを敷いた場にあがって円座になる。

副住職が唱える「なむあみだ あーあみだん なんあみだ・・・」。

鉦を打ちながら左手で数取りをする。

数珠の房が廻ってくれば頭を下げる。

数珠繰りは20回。

子供が飽きない程度の回数にしているという。



数珠繰りを終えてありがたい身体堅固。



背中を撫でてもらった女児は「痛ーい」と叫んでいた。

(H26. 7.23 EOS40D撮影)

小夫の虫祈祷

2015年02月10日 09時27分58秒 | 桜井市へ
小夫の神事が始まるまでの僅かな時間を散策した。

神社を下った参道脇の田畑に咲いていた黄色い花。

小型のヒマワリだと思われるが、確信はもてない。

しばらくの時間を過ごして戻った天神社。

社務所前にある手水鉢に年号が刻まれてあったとこに気がつく。

「天明七年(1787)九月吉日 施主 六右衛門」だった。

「紙魚(しみぶるい」の日の午後4時に天神社祭祀の厄蝗祭(じょこうさい)が行われる。

昭和36に発刊された『桜井市文化叢書 民俗編』によれば、「土用の夏に発生する蝗(いなご)駆除祈祷。稲を食い荒らす蝗の害から逃れるために氏子が戸数ごとに長い葉の付いた竹の先に五色の紙を結び付けて社殿に持ち寄り五穀成就を願った」と書いてあった。

お札には「奉 祈念扼命風天子稲速病速除五穀就修」とあったそうで、俗に云う一万度と云う行事である。

お札はもう一枚あって「奉 御祈祷五穀成就災除家内安全幸福延命祈攸」。

参ったあとは家の戸口に貼り付けていたとあったが、今では宮総代や区長、氏子が参拝する祭典になっていた。

祓え、献饌、厄蝗祭祝詞、斎王神社の祝詞。

続けて高龗(たかおかみ)神社の祝詞、素盞雄神社の祝詞を奏上される。



総代・氏子とも扇を手にして玉串奉奠。

拝礼されて撤饌される厄蝗祭は秋の実りを願う豊作祈願の神事である。

祭典を終えて聞いた小夫の虫の祈祷は6月20日だった。

東、馬場、上、桑などそれぞれの垣内ごとにある寺とも呼ぶ会所に集まって鉦や太鼓を打つ。

田んぼも巡って太鼓打ち。

それを終えて数珠繰りが始まる。

繰る回数は49回になると話していた。

神事は厄蝗祭であるが、垣内行事に虫の祈祷が行われているようだ。

(H26. 7.22 EOS40D撮影)

小夫の紙魚ぶるい

2015年02月09日 07時17分22秒 | 民俗あれこれ(干す編)
境内前庭にブルーシートを広げている桜井市小夫の天神社。

この日は朝から神社の持ちものを天日干し。

今では22日に固定されているようだが、かつては23日、或いは土用三郎の日であったようだ。



狩衣、白衣、素襖、法被、鉢巻、御旗、幟に座布団、布団、マットレス、毛布にスリッパまでも干している「紙魚(しみぶるい」。

8年前に訪れたときはゴザを敷いて座布団だけを干していた。

その後に変わったのか、既に終えていたのか覚えていない。



「紙魚(しみぶるい」は古文書などに住みつく虫を殺す天日干しのことである。

正倉院や古寺では今でもそうしているらしく、古文書や経文などに住みつく虫を天日干しで殺す。

小夫には古くから伝わる大般若経があると云う。

天神社の蔵で保管しているが、ボロボロに朽ちていることからナフタリンの入れ替えに留めていると話す。

防虫剤などなかった昔は、「紙魚」と呼ぶ虫をふるい落とすことからそういう呼び名があるようだ。

そういえば、天理市苣原の大念寺では毎年の7月23日に600巻の大般若経典をひとつずつ取り出してナフタリンを入れ替えする大般若と呼ぶ行事がある。

大般若といえば六百巻の大般若経の転読法要であるが、苣原ではただたんに虫干しする作業だ。

それはともかく、小夫に大般若経典が残っているということは、かつて神宮寺があった証拠であろう。

もしかとすれば、そこで転読をされていたのではと思って尋ねた答えは・・・「判らん」である。

(H26. 7.22 EOS40D撮影)