マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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かつてあった小夫の盆踊り

2015年02月08日 08時17分15秒 | 桜井市へ
桜井市小夫ではかつて盆踊りが盛んだった。

60戸の小夫集落は東、馬場、上、桑の4垣内。

日にちを替えてそれぞれの垣内の会式ごとに踊っていた。

天神社では8月16日の風の祈祷の際では地区をあげて踊っていた。

頂上にヤナギと呼ばれる花飾りをつけて、番傘をさした華やかな音頭櫓を立てていた。

踊りは「十八踊り」、「御万歳踊り」、「住吉踊り」、「カワサキ」、「初瀬」、「サエモン」などがあったが衰退し、今では踊ることもない。

また、雨乞いの願果たしに踊られた花笠踊りもあったが、婦人会・青年団の解散に伴って中断した。

そのころの踊り様相を収めた記念の写真が残されている。

奉納盆踊り写真に見える「天児屋根命」の文字は天神社東殿に祀る春日大神である。

昭和36に発刊された『桜井市文化叢書 民俗編』に小夫の花笠踊詞章が残されている。

「花笠踊りは むつかし踊り 手拍子足拍子腰のゆり 小夫よいとこ一度はおいで 神の出所住みよいとこ 宮のお守りは桑山原に 切ってならないとこしえに わしが心を初瀬の川に うつして見せたい君が身に 笠はぬけても千古の名残り 踊りくちないほととぎす へその山から谷さか見れば じぅがたによりししが出る 城の山から宮坂見れば げじのはなから花畑」である。

(H26. 7.22 EOS40D撮影)

小夫の旧暦閏年の庚申講

2015年02月07日 09時22分41秒 | 楽しみにしておこうっと
桜井市小夫の天神社を下った地。

針から長谷寺で抜ける県道38号線に遭遇する三叉路の右に2戸の覆い屋があった。

それぞれに存在が大きな二段重ねの岩があり、いずれも天正十一年(1583)造立で阿弥陀六字名号が刻まれている磨崖仏。

その場に枯れた竹が立ててあった。



紛れもない旧暦閏年に行われている庚申さんである。

「トアゲ(塔上)」と呼ばれているようだ。

枯れているがシキビにアセビと思われる花が挿してあった。

排気口のように見えるがハナタテに違いない。

もう一つは竹の上部を四つに割いたゴクダイだ。

住民の話しによれば今年は旧暦の閏年。

この年の「大」の月は9月。

毎回4月初めの日曜に行っているというが、願文を書いた庚申杖は見当たらない。

家に持ち帰ったのであろう。

ここは東・馬場垣内。西では上・桑垣内がしているようだ。

奈良県内では桜井市都市部で26カ所、山間では17カ所もある。

他に橿原市・明日香村にはそれぞれ10カ所、田原本町は7カ所。

天理市山間・宇陀市室生・大宇陀にそれぞれ4カ所で榛原は3カ所。

また、奈良市東部山間、旧都祁村、御杖村、高取町、吉野町に1カ所ずつあるようだ。

旧暦閏年の庚申講の分布や祀り方すべてを調査するには年齢的に無理がある。

(H26. 7.22 EOS40D撮影)

動く映像

2015年02月06日 07時21分15秒 | いどう
阪原の地蔵盆取材を終えての帰路である。

前を走る車が気になった。おかしな運転ではなく、後方のウィンドウである。

ガラスいっぱいに映し出された映像が動いている。

音は聞こえないが、歌手のような外人女性が歌っているようだ。

カーナビに映像が出力されるのは知っているが、ウィンドウガラスにそのまま映し出しているのは初めての遭遇だ。

映写していた画は何度も繰り返すリピートであるが、画面展開もあった。

信号待ちのときに携帯で撮ったが、これって違法なのかどうか知らないが、ナンバープレートは消しておく。

(H26. 7.20 SB932SH撮影)

阪原門出垣内の地蔵盆

2015年02月05日 07時56分08秒 | 奈良市(東部)へ
富士講調査に立ち寄った奈良市阪原町。

講家が話していた地蔵盆はその日の夕刻であった。

「辻に建つ2mぐらいの石仏地蔵尊の前で地蔵盆をしますんや」と云うのである。

石仏地蔵尊を祀る地はマツリの際に担ぎだされる太鼓台が渡御人とともにお旅所に向かう処だ。

長尾神社を出発した太鼓台は辻の地蔵堂前を急カーブで下る。



安置しているのは足痛にご利益があるという天文五年(1536)銘がある足痛地蔵さん。

足元にはずらり石仏が並ぶ。

天保十一年(1840)の刻印があった右手前にある石仏は何であろうか。



目を凝らしてみれば、僅かに彩色が残る如意輪観音の石仏であった。

阪原には如意輪観音さんに手を合わせる十九夜講があると聞いている。

天明四年(1784)製作の如意輪観音のお軸を掲げるヤド家での営みであるが、ここへもお参りに来るかも知れない。

この場は門出垣内。門出と書いて「もんでん」と呼ぶが、1700年代の正徳年代は門前であった。

地蔵盆の場は足痛地蔵尊下の里道である。

地蔵さんは足痛にご利益があるという地蔵さん。

石仏巡りする人が度々訪れているそうだ。



地蔵さんの前に設えた地蔵盆の場はゴザを敷いて座布団を並べていた。

オードブル料理を置いたテーブルも用意して村の人を待っていた。

10年ほど前までは各家が持ちよった料理や手作りのおはぎがあったそうだ。



真言宗派南明寺の住職が来られて法要が始まるのは18時。

村の人とともにご真言を唱える。

住職が就くまでは村の人が導師を勤めていたと云う。

席に座った村人の人数は多い。

数えてみれば50人にもおよび、老若男女・・赤ちゃんまで来ていた。

普段は子供の姿がほとんど見られない阪原。

この日の地蔵盆には10人ほどの外孫も連れていた。

秋のマツリと同じように子供さんが多くなるのは、故郷に戻って一家団欒の村行事。

これまで数多くの地蔵盆を拝見してきたが、これほど多くの人たちが参拝される地蔵盆は他所では見られない光景だ。

阪原は門出・北出・中村の三垣内。

地蔵盆は阪原全体の村行事ではなく、門出(もんでん)垣内(江戸年間の正徳時代は門前)の行事、いわば垣内の行事である。

門出垣内は全戸で18戸、うち地蔵講は16戸であるが、地蔵盆には全戸が参拝されるようだ。

本来は23日が行事日であったが、できる限りみんなが集まりやすい日曜日に移された。

法要は10分ほどで終えて住職は寺に戻っていった。

会食の費用分も入っているのであるが、遠慮されての帰還である。

毎月、いくらかの集金で会食を賄っていると云う地蔵盆の用立て。

集めたお金で会所とか地蔵堂の修理費用に用立てをする。

「旅行にも行きますねん」と云う会費の使い方は村の楽しみでもあるようだ。



お酒やビール・お茶などで乾杯されて会食に移った垣内の地蔵盆。

この日は納涼と垣内の親睦を兼ねて寛ぐ時間帯である。

「家に留守番がいなけりゃ盗人が来ますやん」と云ってもお構いなし。

だが、実際は高齢者の「じっちゃん、ばあちゃんが留守番してますねん」と話していた。

陽が暮れる時間帯は大宴会。



期待していた夕陽は奇麗に出なかったが、提灯の灯りが増していく。

そのうちに一人増え、また、二人と増えていく大宴会。

遠くに住んでいる息子・娘夫婦は赤ちゃん連れて戻ってくるし、大和広陵高校の高校野球を応援していた生徒も戻ってきた。

大和広陵高校はその後も勝ち続けて7月27日の奈良智弁学園と対する準決勝戦まで至った。

応援は潰えて11対6で無念の夏を閉じた。

阪原の地から大和広陵高校に通学できるわけがなく「高校近くに住んでいる」と生徒は笑っていた。

最終的には61人にもなった門出垣内の地蔵盆は、年に一度の顔合せだ。

垣内の地蔵盆には奈良市青少年野外活動センターに勤める職員さんも参加している。

住まいは阪原であることから顔馴染み。

一住民も参加を受け入れているのだ。



それから1時間半後、費用で賄った花火は子供たちのお楽しみ。

提灯は電灯の灯り。

カメラでとらえた写真を見れば一目瞭然の白っぽさ。

背景の宴の様子も撮っておきたかったが写りこむこともない。



近くに寄ってきた母親が「娘を撮ってください」と願われてシャッターを押す。

線香花火が光る状況を写し込めたが父親は影になってしまった。

声を掛けた母親はこの日に地蔵盆を紹介してくださった娘さんだった。

阪原で育ったと云う母親は「兄ちゃん家族とも会えるし、毎年が楽しみなんです」と笑顔で応える。



花火の火点けは兄ちゃんと旦那さん。

この夜の当番である。

「そろそろ始めましょう」と声があがって宴のテーブルを片付ける。

場は数珠繰りに転じるのだ。

時間帯は丁度、夜8時。

とにかく人数が多い数珠繰りの場。



対面に座って数珠を繰っていく。

導師もなく、鉦もなく、「なんまんだー」を唱えながら、地蔵さんの真下で数珠を繰っていく。

お酒がたっぷりお腹に染みている男性たち。

「酔っ払いの数珠繰りや」と婦人たちから声があがる。

「今、何回目やー、朝までやろかー・・・」とか、口々に発声すれば、その都度に笑いが出る。



「夜9時ぐらいに始まりますねん」と云っていたが、一時間早めたようだ。

「なんまんだー」って唱えていた人も声が小さくなって、とにかく賑やかな数珠繰りだ。

みなが揃って楽しんでいるような雰囲気が夜の気配を忘れてしまう。

その間、供えた御供を分け分けで当番家は忙しい。

「あと半分やー」の声にどこで数えている人がいるのかもさっぱり判らない門出垣内の数珠繰りである。

あと5回やと云う人も居られたが、数珠の房がどこで廻っているのか、さっぱり判らない。

子供たちも一緒になってする門出垣内の数珠繰り。



娘時代には入っていたが「娘は怖がって・・・」と云う親子も居る。

「あと一回、これで最後の33回の数珠繰りやで、ようおがんどきや」。

「一年間は無事に暮らせる、風邪もひかんわ」と云って終わった。

盛りあがったご近所付き合いは至近距離。

「絆」とか「つながり」とか云うような言葉で表せない垣内が一体となった情景に心惹かれてシャッターを押していた。

(H26. 7.20 EOS40D撮影)

阪原富士講の所有物

2015年02月04日 07時17分23秒 | 奈良市(東部)へ
これまで県内の富士講事例を調査してきた。

事例はごく僅かである。

奈良市阪原にその存在があると知ったのは奈良の情報雑誌「naranto(奈良人)2013春夏号」の記事だ。

『疫病から村を守った阿弥陀石仏・お籠りしてご利益に感謝・・・地元の男衆で作る富士講がお祀り。かつては泊りこみでお籠りをしていた』という一文である。

何人かの村人に伺って辿りついた講中。

籠りはしなくなったが、前日には彫りが深い文和五年(1356)作の阿弥陀磨崖仏前に忌竹を設えていると話す。

翌週もお伺いする講家のO家に保管されていた講箱を拝見した。

その蓋の裏面には墨書があった。

「干時宝暦七年(1757)九月吉日・・・講中八人」の名に施主名があった。

当時の講中である「尾上、田中、中田、中、吉野、山本、阪本、立川家」が代々続けてきた富士講の講箱だ。

古文書には「安政六年(1859)七月□□ 富士講仲箱入□浅覚附帳 坂原□講中」と書かれてあったが表紙だけだ。

江戸時代における講中記録はなく、綴書は明治始めころからであった。

「昭和云年には富士山に登って浅間神社に参った。3度登っていた」と云う。

富士講の作法は朝10時半ころから始まる。

公民館で白装束(木綿の白襦袢)に着替えて、北出来迎阿弥陀磨崖仏辺りに集まる。

締める帯は縄で、履き物は毎年作る草鞋。

ふんどし姿に普段着になって集まると云う。

講中は近年まで8軒だった。

昔から決まっている特定家で継承されてきた富士講。

そのうちの1軒は何年か前に村を出ることになって、現在は7軒の営みになったと云う。

以前は27日が籠りの泊りがあった。

夕方に集まって夜食を摂って、ひと晩過ごす。

翌日28日の朝は日の出とともに参る富士講。

昼も参って食事を摂る。

籠りの場は神社の参籠所であったが、かつては会所だった。

そこで身を清めるお籠り。

食事を調えるのも作法をするのもすべてが男性であったが、昨今は下支えに婦人たちが料理を作るようになった。

今では忌竹を前日に設営して、翌日の一日、一回限りのお参りになった。

忌竹は富士山の来拝所。数珠を手にして白砂川に足を浸ける。

川の水を柄杓で汲んで、ご真言を唱えながら「ひー、ふー、みー、よー、イーツ、ムー、ナナ、ヤッー」。

その際には汲んだ水を川面で投げかける。

これを八回繰り返す。

ご真言は「ウ(オ)ンタラタカマーノ マクサンバン(-)ダー サラサラセンダン(-)バー(カ) シャータヤ ソワカ(ヤ)」だ。

鎮守社の長尾神社に参って「水」を汲みとっていたが、本来は谷脇の「水」であった。

それを汲んで家に持ち帰る御神水は家人に飲ませていたと云う。

今では神社は参拝をする場となったが、主たる場は公民館。

古い「富士山」の掛軸を掲げて会食するそうだ。

来迎阿弥陀磨崖仏を地蔵さんと呼んでいる阪原の富士講

講中が残した三角形の石があるらしい。

それには「浅間神社」と書いているようだ。

講箱に収納されていた雑誌『読売奈良ライフ』があった。

発刊は1979年7月号(昭和54年)。



阪原富士講や地蔵講を紹介する記事が載っていた。

詳細はそれほど詳しくはないが、当時の様相が判るくらいに書き記されていた。

35年前の様相が判る貴重な史料でもある。

当番は2軒の人によって整えられる。

作法を終えたその日のうちに講箱一式を引き継ぐようだ。

(H26. 7.20 SB932SH撮影)

佐保庄朝日観音堂の七月大祭観音講

2015年02月03日 06時52分24秒 | 天理市へ
ちゃんちゃん祭のカザグルマ作りの際に村総代からお聞きした天理市佐保庄町の観音講。

毎月17日のお勤めに集落北にある朝日観音堂に講中が集まると聞いて訪れた。

「講」の行事は年々高齢化が進んで消えゆく運命にあると話していた。

この日集まった講中の最高齢者は大正12年生。

この年で91歳になられる。

次の年齢も大正生まれの13年、14年。

それより若い昭和生まれでも2年、3年で、一番若い人でも5年生まれの84歳だ。

総代が話していたとおりのご高齢の婦人たち8人。

観音堂を改築された平成13年では14人の講中であったが、その後の10年で半数になってしまったと云う。

「若いもんは入ってくれんで、いつまでできるやら」と云っていた。

総代や講中の話しによれば、観音堂が建っている地域はかつて朝日寺(朝日山円通寺)・朝日神社があって、もっと広大であったと云う。

廃仏毀釈の煽りを受けた明治8年。

朝日神社は大和神社に遷され、朝日寺は廃寺となり、のちに建てた観音堂で祀っていると云い、お堂の隣家はかつてお寺の庫裡だったと話すKさん。

朝日観音堂の本尊は木造の聖観世音菩薩立像で、両脇に金銅仏の聖観世音菩薩立像も安置されている。



「幕を揚げますので撮ってください」と願われてシャッターを押した。

寺・神社の歴史は存知しないが、上街道沿いにあって昔は旅人でそうとう賑わったと伝わる。

朝日で名高い「ここは権現藤の棚、朝日にかがやくどじょう汁」と歌われ、どじょう汁振舞っていたと総代が話す。

観音堂より南に数十メートル離れた地に外の観音さんと呼んでいる石造の観音仏があると案内された。



石仏には「天文廿三年(1554)甲寅 十二月日各夜覚圓」の刻印が見られた。

「各夜」とは「隔夜」。

新薬師寺奥の隔夜堂(一説には高畑町とも)と長谷寺の間を一夜ずつ宿泊して修行・往復する隔夜参り信仰になるようだが、詳しくは雑賀さんがブログにアップされている「空也上人と朝日観音」の記事があるのでそちらを参照していただきたい。

外の観音さんがある地は墓地。

所有者はこの日に導師を勤めるS家。

「造り酒屋だった」と云う。

導師のご主人が戦後間もないころに山林にヒノキを植えておいた。

その木を伐採して今の観音堂を建てたと云う。

外の観音さんは北のほうにもあったらしいが、焼けてしまったそうだ。

例月は11時ころから西国三十三番ご詠歌を唱えるだけだが、7月は朝8時半より長柄町の融通念仏宗派長福寺の住職が来られて法要をされる。

60年も前の大祭観音祭には上街道をずらりと並ぶ露天店もでて賑わったそうだ。



今では自転車や配達の車が往来する街道。

真っ青な空が目にしみる。



法要は融通念仏、般若心経を唱えて、講中とともに大和西国の札所第七番朝日寺・朝日観音の和讃「ひさかたの 空に照りそふ 朝日寺 くもらぬ法の 光なるらむ」を唱える。

長丁場の法要はおよそ一時間。

朝日に照らされたお堂は、まさに朝日堂に相応しい佇まいをみせる。

堂内は「風が通りぬけるので講中はそれほどでも・・」と云うが、外気は暑いお日さんの熱気で熱中症になりそうな気配。

流れ落ちる汗をぬぐったタオルが塩にまみれる。

七月大祭の法要を終えた住職を見送ってから外の観音さんにお参りする二人の講中。

手押し車を押して各夜覚圓が建之したとされる観音石仏に向かっていった。

直射日光が強烈なこの日。



心経はつぶやく程度に短くして手を合わした。

二人が戻ってから始まったいつもの西国三十三番のご詠歌。



二十三番で休憩することもなく一挙に最後まで唱えていた。

導師の念仏に合わせて講中のおばあさん講が唱えている。

観音講はおばあさん講の呼び名があるが、最近は念仏講と呼ぶようになったそうだ。

アブラゼミが盛んに夏の声を告げていた。

汗が噴き出すこの日のお勤めはカンカン照り。

導師は汗をハンカチでぬぐいながら声をあげて鉦を打っていた。

ご詠歌を終えてから拝見した導師の鉦。



年代記銘はなかったが「西村左近宗春作」の作者名があった六斎鉦。

「西村左近宗春」の名は桜井市萱森の六斎念仏・桜井市北白木の虫の祈祷、大和郡山市大江町の六斎念仏、奈良市佐紀東町の六斎念仏、奈良市法蓮町の阿弥陀講のアマヨロコビの鉦の同一作者名である。

大江町の鉦は明和元年(1764)。

奈良市佐紀東町の鉦には寛延二年(1749)。

桜井市北白木の鉦は元禄十七年(1704)であった。

各地の鉦より推定するに、佐保庄の鉦は同じような年代であると思われた。

鉦の所有者は導師を勤めたS家。

観音講の営みの際には家から持参して打っていると云う。

もしかとすれば、であるが佐保庄にも六斎念仏講があったのかも知れない。

大切な鉦はいつも風呂敷に包んで持ち込んだと云う。

S家の所有物は観音堂に吊るした鰐口もある。

それには「和山邉郡佐保庄村 朝日寺 寛政六甲寅(1794)極月吉日 施主 島崗代」とも読めるような刻印があった。

おそらく鰐口よりも六斎鉦の方が古いように思えたのである。

大正15年生まれの導師Sさんは自宅でオッパン(仏飯)を供えて阿弥陀さんの前で融通念仏を唱えていると云う。

「家にも来てや」と云われたがこの日は遠慮した。

いずれは家の営みを拝見したいと思っている。

こうして7月の営みを終えた講中は注文した柿の葉寿司をよばれて午後3時ごろまで、お堂で過ごすと話していた。

(H26. 7.17 EOS40D撮影)

寺口二塚のダイジングサン

2015年02月02日 07時15分59秒 | 葛城市へ
前日に伺った葛城市寺口の二塚(につか)大字。

集落の婦人が云うには呼びだしに太鼓を打つ二塚のダイジングサンは前夜に博西神社の夏祭りに献燈された十二振提灯を立てると話していた。

ダイジングサンは「集落北のほうや」と云うので探してみた。

集落を北に向かって歩いた。

T字三叉路を小川に沿って坂道を登っていく。

しばらく歩けば見つかった大神宮の石塔。

その場には「庚申」の文字を刻んだ石塔もあった。

大神宮の石塔は「明治十三年正月吉日 村中安全」の刻印があった。

ここより後方には二塚古墳があるそうだ。

歴史を訪ねる人たちのために案内看板を立ててある。

大神宮の石塔が立つ前は山から流れる小川がある。

人力によって施行されたと思われる石畳の川だ。

積んだ石垣に蔵が建つ。

急峻な傾斜に施した石畳はおそらく花崗岩であろう。

上流に布施城跡の土塁・石垣があるそうだが登る余裕はない。

石畳の川の件は後日に訪れた博西神社の宮役員を勤めるTさんに教わった。

この年初めて宮役員を勤めることになったと話していた。

小川に大きな石を埋めて護岸工事をしたのは親父さん。

工事にあたったのは6、70年前のことだと話していた。

18時半ころには提灯を準備されると聞いていたが、どなたも現れない。

待つこと30分。

提灯竿の先が下にある民家にちらりと見えた。

もしやと思って大急ぎで走る。



その家に行けば、ローソクを灯して提灯を掲げている最中だった。

二塚のダイジングサンは大字5組の廻りで、今年はこの家がアタリになったと云う。

組の人たちが手伝って提灯を括りつけていく。

博西神社の献燈もそうであるが、竿の先には御幣を取り付けている。

竿は竹製で中は空洞。

そこに挿し込む御幣である。



大庄屋の門屋で組んだ十二振提灯を出すころには太鼓も持ち出された。

抱えるように太鼓持ちを先頭に御供持ち、提灯担ぎが続く。



後方からチャン、チャンと打ち鳴らす鉦の音が聞こえてくる。

当番の男性が打っているのだが、写り込まなかった。

本来なら太鼓持ちは太鼓を打ちながら向かうのだが、抱えて持つがゆえ打つことはできなかった。

御供を供えて提灯を立てる。

2、4、6の提灯を吊るした十二振提灯である。



ゴザを敷いた場に降ろして太鼓と鉦を打つ。

ダイジングサンの呼び出しである。

太鼓は「昭和55年8月吉日」。

大阪市浪速区の太鼓正(たいこまさ)製の太鼓である。

鉦に刻印があるかもと思って拝見した。



「天保十五辰(1844)九月吉日」の刻印が見られた。

鉦であるが、なぜに九月吉日なのであろうか。

何らかの仏事ごとがあったと思われるが大字の人は知らないと云う。



しばらくすれば母親に連れてこられた子供が一人。

「太鼓を打ってみるか」といわれて叩いてみる。

「鉦も打ってみい」といわれてそれも打つ。

昔は大勢の子供がきたそうだが、この夜のダイジングサンは当番の組の人ばかりだった。

役目は5年おきの当番、終えたらすっかり忘れてしまうものだと話す。



19時半も過ぎれば街の灯りが見えてきた。

美しい景観に見惚れることもなくダイジングサンの場では太鼓と鉦の音色だけが響いていた。

その場に犬を連れて散歩する男性が訪れた。



「来年はウチやと」云ってお参りをされていた。

当番を終えたら7月7日の弁天さんの日に提灯・太鼓・鉦を引き継いでいた。

弁天さんを祀る地は布施城跡近く。

「歩くのもたいへんや」と云う場である。

「わざわざそこまで出かけることもないだろう」という意見も出て、引き継ぎの場は大神宮の前に替えて、11月或いは12月ころにしたのは平成25年のことだった。

寺口二塚の夏祭りの行事は博西神社の献燈と大字のダイジングサンを拝見して郷村と大字における行事の在り方が少し判ったような気がする。

寺口では7月16日にダイジジングさんをする大字もあれば、6月16日、或いは10月16日の大字もあると聞く。

寺口の各大字の在り方に興味をもったわけである。

(H26. 7.16 EOS40D撮影)

ワタの実干し

2015年02月01日 06時05分22秒 | 民俗あれこれ(干す編)
葛城市寺口の二塚(につか)大神宮を探して集落を歩いていた。

ふと目に入った白い物体。

もしや、綿花ではないだろうかと思って家人に尋ねた。

庭先で収穫作業をされていたご婦人の話しによれば、間違いなく綿花であった。

収穫したのは昨年だ。

物置の軒先にぶら下げていたら、いつの間にか綿花が開いてワタが噴き出したと云う。

かつて栽培していた畑で見かけたことがあるが、ポンと弾けるような丸い姿だったように思える。

枝ごと挿していたらそうなったと云う白いワタがこういう形になるとは知らなかった。

弾けた殻から飛び出すようなワタ。

あまりにも美しい姿だったので石垣民家を背景に撮らせてもらった。

白いワタの内部には種が入っている。

畑に植えておけば育つと云ってくださった。

家に持ち帰って見せたら、「何?、何?」と云って気持ち悪がったかーさん。

見た目はそうであるかも知れないが、綿であることをしって手で触る。

紛れもない奇麗な真綿であった。

(H26. 7.16 EOS40D撮影)