マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

シルバーウィークに食べる石木町のインド料理ミラン

2016年06月08日 08時35分22秒 | 食事が主な周辺をお散歩
インド料理店のミランが近くに開店した。

店名はMilan西の京店。

所在地は奈良市石木町。

富雄川沿いに走る県道の大和田橋東詰信号の角地にある。

石木では判り難いので西の京店にしたと思うが、西の京であれば薬師寺が代表的。

そこから直線距離にして2km。

近鉄西ノ京駅から歩けば30分以上もかかる。

ここは我が家から1km。

車で1分もかからない。

ミランができる前は更地だった。

それ以前はガソリンスタンドだった。

地元民から言わせば西ノ京ではない。

粥占神事が行われる登弥神社がある石木町だ。

ミランは本格的なインド料理が味わえることを知ったのはつい最近だ。

しょっちゅう通りがかる信号角にある建物がなんなのかさっぱり判らなかった。

広い駐車場は20台も収容可能。

開店当初は広々とした駐車場に車が数台。

1台のときもあれば2台、3台レベル。

それがいつしか満車の連続日。

何の店か気になりだしたのは数か月前。

調べてみればインド料理の専門店だった。

なにかのおりに一度は利用したいと思っていたミランの東側は田園地。

育った稲は稔りの時期に近づいた。

畦道には彼岸花が真っ赤になっていた。

今週はシルバーウィーク。

家族5人が揃っている。

誰もかれもが食べられるカレー料理店。

本格的と謳っているので味は確かだろう。

そしてやってきたミラン。

駐車していた車は23台だった。

受付に名前と人数を書いて待つ。

テーブルに案内されたのはそれから30分後だった。

メニュー選びはドア付近に立ててあった看板で品定め。



とはいってもAからCまであるランチは何であるのか判らない。

品数が多いと思われる平日ランチや休日ランチを参考にする。

はっきりしているのはこの日の日替わりカレーはなすびのキーマだ。

始めてのお店は店員さんに聞いて決定する。

私と次男は990円のCランチ。



かーさんと長男はBランチ。

おふくろは単品カレーでいいと云っていた。

ほんまは牛カレーを食べたいが、それはない。

肉であればチキンになる。それがなければ野菜カレーを伝えたが、店員さん曰く野菜はズッキーニ。

ナンでなくご飯にしたおふくろであった。

10種類ほどのスパイスで作るカレーの辛さは好みに調整してくれる。

次男は3の辛口。

私は2の中辛。

他は揃って1の小辛に決めた。

ランチはお得なサービスが付いている。

ソフトドリンク一杯が人数分をサービスしてくれる。



私が食べたCランチ。

カレーはチキンカレーだ。

ナンを手で小割に千切ってカレー汁に浸ける。

口にもっていって食べる。

一口食べた感想は、美味しいやんか、である。

かーさんらがいうにはナンが美味しいなのだという。

私はナンを食するのは初めて。

他店どころかスーパー売りのナンも食べたことがない。

何が美味いんやと思っていたほどだ。

一口、二口、三口と食べるにつれ美味さが増してくる。

止まらないのである。

サラダはゴマドレッシング味。

シャキシャキ感が口の中に広がる。

何が一番美味しかったのか、といえば真っ赤な色に染まったタンドリーチキンである。

炭火で焼いたと思われるタンドリーチキンが美味すぎるのだ。

ランチはどれもこれもサービスに一切れのバナナがサービス。

それよりも美味しかったというプリンのデザートが付いてくる。

BランチやAランチにはデザートもタンドリーチキンもない。

次回も頼みたいCランチの味にまいった。

ちなみに小辛はどちらかといえば甘口。

食べられるものではない。

次回は辛口にしたいものだ。

5人で合計が4580円。

くるくる寿司より安くつくし、お腹が満腹だ。

現金払いを済ませたらスタンプカードを手渡された。

800円以上で1スタンプ。

11スタンプすればA、B、Cのいずれかのランチが一食サービス。

たいへんお得なサービスにたぶん釣られるであろう。

ちなみにミランはチェーン店。

奈良県内は西の京店、奈良店がある。

大阪府下では長尾店、住道店、香里ケ丘店がある。

京都は一軒。

宇治店があるそうだが、クレジットカード支払いはすべてのお店にわたってできない。

(H27. 9.21 SB932SH撮影)

リッチな会葬の膳

2016年06月07日 08時36分14秒 | ぽつりと
享年87歳のふーちゃんを送る斎場は大阪市福島区にあるロイヤルシティホール野田。

通夜の晩は我が家で一夜を過ごしたおかんも乗せて車を走らせる。

前日に走った道路は記憶に新しい。

難なく駐車場に着く。

葬儀の斎場、祭壇の逆方向にあった写真群。



若いときの姿はまるで女優さん。

婿入りした旦那と並んだ写真もある。

戦災者が移住した市営住宅はすぐに判る。

我が家の住まいは住之江の大和川住宅。

同じく戦災者が移住した市営住宅だ。

横に並べた板壁が象徴的。

玄関口で判った地上げ前の様相は同じだった。

淀川が氾濫しそうになるということで数年後には数十センチも家屋ごと上げた地上げだった。

当時の写真はモノクロだが、子供が生まれ育った何十年後の姿はカラー写真。

これらの写真はDVD化されて葬儀会場に映し出される。

ふーちゃんは親父といとこにあたる。

おおばあさんの子供は男女二人。

兄貴がふーちゃんの親父さんで娘は私の親父の母親だった。

親父には弟も居た。

家に残された写真に親父が出征する時と思われる写真がある。

その写真は三人の他、おおばあさん、祖母、ふーちゃんの父親も写っていた。

場は柏里でもない。

戦災で焼ける前の瓦町の呉服問屋であったろう。

今となっては誰も生きていない戦中時代の写真にふーちゃんはモンペを履いていた。

僧侶はお通夜に法要してくださった三重県伊賀上野の九品寺住職。

住職が云うには比叡山天台宗の分かれの宗の真盛宗(しんせいしゅう)である。

通夜は一人僧侶であったが、葬儀は三人僧侶で営まれる。

焼香は喪主から始まって止め焼香で終える。

関西特有の止め焼香は指名された私が務めた。

棺桶の中のふーちゃんを見送って霊柩車に納める。

それを先頭に喪主が乗ったタクシーに次いで大阪北斎場に向かう。

カーナビゲーションに場を入力する間もなく出発した。

あみだ池筋、中津駅前、城北公園通、天神橋筋を経て長柄西にある市営北斎場に着く。

一同、焼香をして見送る。

骨あげまでの時間帯は葬儀の会食。

ロイヤルシティホール野田へ戻っていただく料理にお品書きがある。



前菜は季節の六品盛り。

お造りは中トロ鮪、イクラ、あおり烏賊、赤海老、あしらえ一式。



前夜の通夜料理もいただいた「季彩菜」(SHIINA)の料理はとても美味い。

特に中トロ鮪は絶品だった。

造り盛りにある透明な糸コンニャクのように見える添え物が気になった。

食感はプチプチ感だ。

初めて口にするこれはなんであろうか。

配膳していた女性職員に尋ねたら料理長に聞くとのこと。

その答えはビードロの名がある海藻だった。

海藻だというが実態はそうではない。

昆布等のぬるぬる成分を摘出する。

ぬるぬるはフコイダンと呼ばれる成分で、水を配合して麺状に形成したものをビードロというようだ。

サラダにも合うというビードロは近くのスーパーで売っているのだろうか。

一度、探してみようと思った。

焼き物はカジキと茄子のバジルソース掛け。

ヤングコーンに刻み野菜を盛りこんでいる。

小鍋は鱧の山椒鍋。玉ねぎ、牛蒡、キャベツとともに煮立てる。

レンゲで出汁つゆを掬って椀に入れる。

煮あがった具材も入れる。

これがまた美味いのである。

出汁が利いているのは判るが何だろうか。

揚げ物は海老の天ぷら、海老の湯葉巻き、鱧の紅梅揚げ、南京。

揚げたてを梅塩に付けて食べるのだが、塩分調整している身体には毒だ。

梅塩を付けなくとも天ぷらそのものが美味しいのである。

特に美味かったのは海老の湯葉巻きと鱧の紅梅揚げだ。

酢の物は〆鯖、白木耳とヒジキ、土佐酢ジュレになた豆の花だ。

木耳そのものには味はない。

酢に漬けていただく。

シャキシャキ感がたまらない木耳の食感である。



蒸し物は雲丹の茶碗蒸しに銀餡掛けだ。

真黄色に染まった茶碗蒸しは初めて見る。

とろとろの食感に雲丹の香りがどっとやってくる。

特別な味に酔いしれる。

飯物は新潟産こしひかりに玉蜀黍(とうもろこし)を混ぜたご飯だ。

甘い玉蜀黍に何故かバター味を感じる。

椀物は木の子つみれに順才、三つ葉を浮かした清汁仕立て汁椀だ。

すまし汁を食べるころはお腹がいっぱいになっていた。

これほどのボリューム感がある骨あげ待ちの料理に胃袋が驚いている。

これまで列席した葬儀食はパック詰め料理だった。

これがフツーだと思っていた。

まるでデイナーのように配膳される料理は初もの体験。



ラストを締めくくるデザートもある。

アシェットデセル、チョコレートケーキ、マンゴーゼリー、黄桃紅茶ジュレに食べごろのメロンであった。



ご飯につきものの香の物の3種盛りもあったが、これもまた塩分調整している身であるゆえ箸をつけるわけにはいかなかった。

そういえば配膳された料理のなかに麺類があった。

おもてなしの一貫として冷やし煮こごり素麺の一品もあった。

これを仕上げと書いてあったが、配膳途中に出てきた。

食べ終わったころの時間帯は骨あげになる。

再び大阪北斎場に向かう。

サイバシで拾う故人の骨。

病に伏したときは骨が黒くなると信じてきたが見つからない。

葬儀屋さんの話しによれば、それは俗説というのである。

病気であっても骨は綺麗な色。

染まっているのは棺桶に入れた花などが焼けた色だという。

そして再び戻ったロイヤルシティホール野田。

これより始まるのは初七日。

住職が弔う念仏は切り上げ法要の追善法要。

冥途に・・向かって供養された。

こうして喪主は四十九日までの毎日に冥福を祈る。

(H27. 9.29 SB932SH撮影)

十六夜の通夜

2016年06月07日 08時22分34秒 | ぽつりと
旧暦八月十四日。

彼岸明けのこの日の夕方に電話が鳴った。

架けてきたのは甥っ子の貴ちゃんだ。

一週前に見舞ったふーちゃんが入院していた病院で亡くなったという。

大腸がんを患っていたが、痛がることもなく眠り着くように静かに心音が途絶えたと伝える。

一週間前、声を架けて名前を呼んだら頷いた。

聞こえていたと思われる。

医師の診断によれば五分五分。

どっちに転げるか判らない状況であった。

体力は保たれるか。大腸がんを患ったことが発覚したのはほぼ一年前。

おそらく一年ももたないだろうと通告されていたようだ。

電話があった二日後がお通夜。

満月で光り輝く十六夜の日である。

通夜の会場は大阪市福島区にあるロイヤルシティホール野田。

株式会社ベルコが運営する葬儀会館である。

おふくろを迎える地は大阪市住之江区。

AKGコーポレーションから配車された代車で出かける。

見舞いに出かけたとこも代車だった。

住之江までは特に支障もなく走行する。

さてさて困ったのは葬儀会館がある地点である。

代車に搭載されているカーナビゲーションはやや古い。

会館の電話番号は受け付けない。

古いカーナビゲーションには登録されていない。

住所番地を入力するが、これもまた末端番地がない。

ここら辺りだと見当をつけて阪神高速道路を走る。

予め見ていたパソコンマップでは福島で降りれば良いと思っていた。

なんとなく不安であった。

それが的中して淀川の橋を渡りきって塚本で下りる。

柏里・野里の通りを抜けて淀川大橋を曲がる。

道中にあった柏里は我が家と同様に戦災にあった人たちのための市営住宅。

今では高層建ての住宅地で60年前の面影はひとつもない。

野里へ通じる通りを西南へ走っていた。

ここは大正金属があった処だという。

現地は思いだせないが親父が働いていた勤務先だ。

親父はそこで経理を担当していた。

それはともかくカーナビゲーションに入力した番地を手掛かりに梅田へ向けて走る。

野田駅近くまで行けばロイヤルシティホール野田の建物が見つかった。

警備員に誘導されて駐車場に車を停める。

エレベータに乗って案内される白と黒いドレス姿の職員さん。

エレガントな感じに受けた。

通された室内は親族集合室。

挨拶を済ませて通夜の会場に行く。

亡くなったふーちゃんはエンバーミングされて霊安室に納められた。

この日はお通夜。

葬儀フロアーに移送され、寝棺は真正面。

周りを囲む祭壇の洋風花が咲き誇っていた。

ふと気がついたものがある。

小豆餡餅、赤飯、ジュースにコーヒー豆など。

そこには揚げたて出来たて天ぷらがある。

パックに詰めた天ぷらは惣菜屋さんで買ったものだろう。

これは二人の息子が特別に供えたふーちゃんが好きだった食べ物だ。

こんな仕掛けは初めてだ。

二人の心遣いに感動する。

お通夜に出仕された僧侶は伊賀上野の九品寺の住職だ。

ふーちゃんよりも先に逝ってしまった旦那さんのイチローさんの墓がある。

九品寺には代々の墓もある。

先祖供養に何度か訪れたことがある。

息子は当時の城主の武将家来だった15代目。

分家である私は16代目だと聞いているが、特別なことは何もしてない。

享年87歳で逝ったふーちゃんを弔うお通夜はマクラ念仏に通夜回向だ。

お供えに好きだった熱々のコーヒーを手向ける。

こういうセレモニーも初めてだ。

セレモニーは続きがある。

お供えをした右側に白いバラで飾った花壇がある。

そこは少しだけ空間があった。

そこに喪主、参列者一人、一人が白いバラの花で埋める。

すべて揃えて86本。

満年齢の本数だったバラの花は故人に捧げた。

通夜の儀式が終われば別室に案内された。

お通夜の夜にいただく会食は丸テーブル。

喪主、親族一同が揃って食事をする。

丸テーブル席は椅子席。

これまで何度かお通夜に出かけたことがあるが、いずれも畳席だった。

和室にいただく通夜の会食は酒の肴のおつまみ程度の軽食だった。

これが洋風ともなれば感じ方がまったく違う。



寿司盛りは丸桶ではなく四角い盆皿だ。

料理すべてが洋風の通夜膳料理はおいしくいただいた。

ホウの葉に包んだ味噌和えの鶏肉もあった。

どれもこれも美味しい料理は「季彩菜」(SHIINA)のもてなし料理。

初、初づくしの十六夜通夜だった。

(H27. 9.28 SB932SH撮影)

旧大阪厚生年金病院の独立行政法人地域医療機能推進機構大阪病院へ行く

2016年06月07日 08時11分25秒 | ぽつりと
叔母が入院している病院を探す。

昨年までは大阪厚生年金病院と呼ばれていた。

場所はといえば大阪市の福島区。

中之島からすぐ近くになるが、道路事情もさることながら市街地区域。

たぶんに彷徨うことになると思っていた。

車は先々日に借用した代車。

故障修理に日数がかかるということであてがってもらった。

慣れない車で大阪市内を走るのは気が重い。

運転走行に神経を集中しなければならないし、病院を探さなければならない。

この日は仕事休みだった。

午後におふくろを迎える。

朝はゆっくりしたい。

いつもの時間どおりにいただく家の朝食。

そこに電話が架かったと携帯電話を持ってきた次男。

送り主は相方の送迎ドライバーだった。

なにかが起った、と思って電話する。

慌てふためく声が聞こえる。

どうやら出勤途中の車道で事故に遭遇したようだ。

怪我はなかったが、警察の事故調査や保険会社手配で仕事先に向かうことはできなくなった。

ドライバーの交替要請である。

緊急なお願いに支度を調える。

慣れない代車を走らせて代行出勤する。

仕事が終わって自宅に戻った時間帯は午後1時。

かーさんが買ってきたのり弁当をがっつりいただく。

落ち着いたところで出発だ。

病院へ向かう道は前夜に調べていた。

ある程度は理解している。

福島辺りで降りる阪神高速道路。

出口を抜けたら市街地。

車道、信号、電車道、街が詰まっているように見えたネットマップ。

プリントしておいたが、だ。

よくよく見れば代車にカーナビゲーションが付いていた。

情報はたぶんに古いと思うが利用する価値はあるだろうと思って病院の電話番号をセットして地点登録する。

まずはおふくろが住む大阪市住之江区に行く。

急ぐときには高速道路。

第二阪奈道路に入って料金所。

支払いはETCでなく普通車の現金払い。

故障してなければETCクレジットの軽自動車運賃。お安くなる。

生駒山下を通るトンネルを抜けたら東大阪。

直進する水走から阪神高速道路へ。

ここでも現金払い。阪神高速道路は軽自動車であっても普通自動車扱い。

ところがだ。ETCなら割引がある。

現金払いはなにごとに置いても特典はない。

住之江でおふくろを乗せたら再び阪神高速道路。

出口はネットで見ていた福島。

ここら辺りだろうと車を走らせていた。

ふと、あそこではと思ったが、ときすでに遅しである。

淀川を越えて柏里に出る。

ここは叔母の住む街。

昔、親父が働いていた大正金属はここらあたりだったとおふくろが云う。

幼少のころに記憶にある大正金属。

事務服姿だった親父の姿を思いだした。

カーナビゲーションが案内する独立行政法人地域医療機能推進機構大阪病院所在地は福島区の福島。

ナビゲーションが案内する通りに走る。

途中でなんとなく違うような気がした。

それもそのはず、ナビゲーションは180度戻れと表示する。

ここら辺りだろうと思って病院を探すが見つからない。

表示するナビゲーション映像には玉川小学校がある。

すぐ近くである。

なにやら工事をしている処にでた。

話しを聞けば駐車場工事。

学校帰りの子供たちを誘導する男性に問うた病院。

ここではなくあっちに回った反対側だという。

充てにできないナビゲーションは諦めて、プリントしておいた印刷物で付近を探すが、その反対側が判らない。

方角が判らなくなった。

あっちへと云われた通りに車を走らせるが、電車が通る高架に出る。

そこは先ほど通ってきた道。

ぐるりと一周した。

信号付近にガソリンスタンドがある。

車を降りて周囲に建つビル群を見上げる。

そこにあった「大阪病院」。

あそこだ、と思うが道が判らない。

スタンドに居られた人に尋ねるが正確な情報は得られなかった。

ビルが近くに見える場所まで走らせたら、またもや駐車場工事中。

ここは迷路か。

警備していた人に道を尋ねる。

そこを右に曲がって二つある信号の二つ目を右折れ。

そこからしばらく走ってあみだ池筋の道にでる。

信号を右折れしたらすぐ判るという。

それに従った走行をすれば右に見つかった。

が、である。

病院の駐車場は工事中で停める場所はない。

近くの民間業者が運営するタイムパーキングの地図を大きく貼りだしていた。

すぐ傍だ。

ぐるりと回って停める。

ようやく着いた病院は平成27年5月に開業した独立行政法人地域医療機能推進機構大阪病院。

新築である。

これまでは新築されるまでは大阪厚生年金病院。

入口道路にある標識は「大阪厚生年金病院前」とあった。

病院は新しくなって名は替わったが、道路標識は馴染みのある名が残されていた。

住之江を出発してから1時間半後。

ようやく着いた。総合案内の受付嬢に伝えた面会。

それなら入院センターで問い合わせてくださいという。

そこにいた事務員に入院患者の名を告げたらエレベータまで案内してくれた。

病棟階は外科。

セキュリテイゲートを抜けてまたもや病棟の受付。

名前を書けば面会番号が付与された首吊りプレートが手渡される。

介護士だと思う女性が病室まで誘導する。

さっさと歩く介護士の速度についていけないおふくろを私。

案内する速度は面会者に合わせるのが当然だろと思っていたら、後ろを振り向いた。

おふくろの足音で気がついたのだ。

病棟の造りは狭苦しくない。

むしろ広々としたゆったり開放感だ。

こういう間取りの病院は初めてだ。

大部屋ベッドもゆったり感。

締め切られたような感じはまったくない。

四角いベースでなく斜め。

この配置が室内を明るくしているのだと思った。

叔母が寝ていたベッド。

付き添いに息子の甥っ子がいた。

母親想いの息子は毎日付き添い。

介護センターでお世話になっていたときはそこまでついていない。

昨年末に発症した大腸がん。

再発する恐れもあるといわれたが手術に耐えた。

季節は流れて春には介護センターのお世話になっていたが、私が入院する直前に再発した。

探し見つけた病院がJCHO大阪病院だった。

抗生剤、点滴処方をしてきたが、86歳の叔母の身体に挿す針位置が見つからない。

医師の話しによれば首から点滴をする予定にあるという。

横たえていた叔母の姿は数年前に見たときよりもさらに老婆になっていた。

美人だった叔母の姿をとらえた写真からは想定できない姿だ。



病室から遠くを眺める。

中之島のビル群の向こう側。

つんと突き出たビルはあべのハルカスになるという。

それから一週間経った。

9月25日の夕刻に静かに眠るように逝ったと息子の貴久から電話があった。

(H27. 9.18 SB932SH撮影)

セキュリテイアラームが鳴ったスズキエブリイジョインターボPART2

2016年06月06日 09時28分48秒 | いどう
故障の原因は掴めなかった

性根を入れて調べなければと云ったAKGコーポレーションの代表。

原因を見極めるに数日間もかかるという。

代車をあてがうので後日に連絡すると聞いていた。

2か月も前の6月30日のことだった。

それから10日後。

手配が済んだという電話はなく、私が病に倒れて入院することになった。

36日間に亘る長期間入院

その間も電話はなかった。

失念しているのだろう。

忘れていても当方は特段、困らない。

予備のキーで動かせるのだ。

退院後は心臓のリハビリ。

身体を治すのが先決と判断し、しばらくはAKGコーポレーションへ連絡もしなかった。

数日前は入院中に破損されたフロントガラスの交換をした。

仕事日を外して本格的な修理を依頼する。

AKGが手配した代車はトヨタ自動車のサクシード。

ステーションワゴンタイプの商用車バンだった。

久しぶりの乗用車タイプに乗る。

駐車場は軽タイプになっていた。

息子の単車が場をとっている。

全車も入らない駐車場。

仕方なく玄関前に停めた。

それから2週間。

故障の原因となる部分・部品などを調べた。

ドアはバックドアを含めて5枚ある。

それらを一枚、一枚外して接触部分を点検する。

異常な状態を探してみるが見つからない。

若干の微調整をしてドアを戻す。

調整しては車を走らせる。

試運転はAKGコーポレーションの周辺を走ること。

平坦でない車道を走る。

6月に事象が発生したときは車が揺れ動くだけでルームライトが点灯したが、調整後は点灯しない。

他のドアも同じようにドアを外して微調整、作動テストの繰り返し。

5枚のドアを点検したが、再発事象は発生しなかった。

今回持ち込んだときのことだ。

6月はあれほど発生したのにAKGコーポレーションへ持ち込む移動にまったく発生はしなかった。

接点がおかしくなったのか、それとも正常に戻ったのかどうか判らない。

結局は事象の再発が認められなかったのだ。

手間も時間もかけた問題探しは徒労に暮れた。

調整の範囲内、やれることはやり尽したという。

100%大丈夫という保証はないが、とにかくお返ししますという電話を受けたのは9月31日。

翌日の10月1日に戻ってきたが。

いつ何時に警報アラームが鳴りだすや判らない不安がある。

例えばスーパーや取材地に停めたスズキエブリイが突然鳴りだすかもしれない。

そんなことに怯えなければならないだろう。

もしも、お返しして発生すれば後方のバックドア接点の交換を考えるという。

パーツ代がほとんどの3万円もかかる。

今回は調整ごとであったので無償で、ということになった。

代車借用期間は2週間。

その間は大阪出る用事がなんどかあった。

急がねばならない高速道路の利用に負担が増えた。

スズキエブリイは軽バン。

第二阪奈道路は軽自動車クラスは普通車より安価だ。

第二阪奈道路、阪神高速道路はETCカードを利用できる。

ところが代車では我が家のETCカードは利用できない。

ETC装置があっても利用できない代車である。

利便性もあるが、ETCを利用した際は安価になるコースがある。

そういう特典は現金払いに通用しない。

これら差額は片道で150円+110円だ。

往復ともなれば520円の差が出る。

9月30日まで走行した片道回数は6回。

差額は1560円にもなったことを付記しておく。

(H27. 9.16 記)
(H27. 9.17 SB932SH撮影)

弾かれた小石でひび割れたフロントガラス

2016年06月06日 09時15分27秒 | いどう
心臓の弁治療や手術で36日間も入院していた。

退院したのは8月15日だった。

その数日前に愛車のスズキエブリィJOINターボのフロントガラスが割れていたと伝えてくれたのは隣家のご主人。

入院中は車に乗ることはできない。

我が家の駐車場に停めたままだ。

入院期間も長くなったが、退院日が決まったことで、ふと心配になったバッテリー切れ。

かーさんに伝えてご主人に動作してもらった。

難なくエンジンがかかって近所周りを走行した。

そのときは何もなかった。

それからの何時かまったく判らないが、フロントガラスにひび割れがあったという。

退院の日も支援してくれる旦那さん。

我が家から病院までひと走り。

めでたく退院した私を自宅まで送迎してくださった。

自宅に停めていただけなのにフロントガラスが割れる。

これはどういうことなのか。



ひび割れの中心部は穴が開いたような感じに見える。

小さな物体が当たった衝撃であろう。

穴はガラスを突き破ることはなかったが、線条痕のように広がる数本のひび割れがある。

退院してからは歩行リハビリを繰り返していた。

自宅周辺を歩くリハビリだ。

通算、一日の距離は2.5km。

毎度お世話になっているSオートサービスまで足を伸ばした。

病後状況も伝えるためもあるが、破損したフロントガラスの修理の相談だ。

昔の車のフロントガラスは飛んできた小石の衝撃で砕け散っていた。

今ではそういうことはなく、今回のように線条痕のひび割れになるが、雨などの水分は通さない。

ひび割れもこれ以上広がることはたぶんにないという。

この状態で走ることは可能であるが、見てくれが悪い。

ガラス交換するしかない。

お願いしたら専門の業者があるという。

引く手あまたの専門業者。

引き合いが多くて数週間待ちになるらしい。

急ぐこともない。

車体ナンバーを伝えて指定のガラスを準備していただく要請をしたのは8月19日だった。

交換費用はどれぐらいになるか。

Sさん曰く、4万円から5万円になるらしい。

小石を飛ばした車はどこのだれかは判りようがない。

車両保険も入っていない。

支払いは実費。

痛い損失である。

それにしても我が家の前の市道路はぶっとばすところではない。

たまたまあった小石。

回転するタイヤに当たって飛んだ。

その先、1mほどのところにある愛車目がけて・・・と、いうことだ。

依頼してから3週間待ち。

ようやく取り掛かることができたと連絡が入った。

フロントガラスの交換修理は夜9時になるらしい。

我が家の駐車場でも修理はできるが、夜ともなれば灯りが要る。

投光器もないのでSオートサービスですることになった。

一晩寝て午前中に連絡が入った。

交換したフロントガラスの周りは接着剤で固定する。

丸半日間は車を動かさず安静にしておく。

それで固定される。

Sさんの工場に交換修理されたスズキエブリィJOINターボ。



フロントガラスはピッカピカ。

なんと、上部数センチはスモークがかかっている上等もん。

今まで体験したことがない景観がフロントガラス越しに飛び込んでくる。

レベルが上がって戻ってきた修理費は43000円。

(H27. 8.15 SB932SH撮影)
(H27. 9.12 SB932SH撮影)

退院後の2回目診察

2016年06月05日 08時01分28秒 | むびょうそくさい
初回診察してから28日目。

四週間後の通院診療である。

気にかかっているのは脈拍だ。

前日の心臓リハビリ中は110。

運動しなくとも90台。

高めである。

この日の診療前検査は4種。一つは採血、二つ目が心電図、三つめは心エコーで四つ目に胸部レントゲンだ。

10時20分までに外来棟に行って再来受付機に診療カードを挿入してこの日の検査、診察の内容を確認する。

そのシートは総合受付に持ち込んで正式処理される。

心エコーと診察の時間は予め設定されていた。

少し前に着いた時間に費やす診療前検査。

指定されたのは採血だった。

待ち行列は多い。

順番待ちの番号を呼び出されて採血する。

時間帯は10時から10時20分まで。

胸部レントゲンでもと思っていたが、心エコーの予約時間に遅れてしまう。

そう思って後にすることにした。

検査はそれぞれに受付がある。

心エコーも心電図も同じ受付だ。

予約時間になった新エコー検査であるが大幅に遅延していたことから先に心電図へ行くことになった。

時間帯は10時20分から同40分まで。

待ち時間はそれほどない。

心エコーはその後も遅れが発生する。

呼び出しされたのは同55分。

心エコー検査は長丁場。

入院時も検査があった。

だいたいが30分ぐらいだ。

終わった時刻は11時20分。

25分間の検査は入院時の体力状況が違う。

呼吸をしにくい身体だった。

30分も超えたときは、耐えられず苦痛で仕方なかった。

今回は手術後約2カ月。

無理な運動をしない体力はほぼ回復している。

気持ちよさに目を閉じていたら、数分後には眠りに入る。

佳境なころはすっかり夢の中。

医師に起こされるまで気がつかなかった。

次は取りこぼしの胸部レントゲン。

ここまで服を脱いだり着たり。

その都度、心臓を締め付けていた胸帯を外したり閉めたりだ。

レントゲンは正位置と横位置。

鏡でわが身を見たらガリガリ君だった。

およそ10分間のレントゲン検査を終えたら診察だ。

この予約時間は12時30分。

待ち時間は1時間もある。

「心臓血管外科」受付で待った時間は結局のところ、1時間45分である。

呼び出しを受けて診療カードを首からぶら下げる。

診察室前室で待つ患者さんは3組。

その人らが終わらなければ呼び出しされない。

待ち時間に計測した血圧は125-89。

脈拍は107だ。

一か月前の計測値は血圧が112-75で脈拍数は79だった。

血圧は若干の違いがあるが、特に問題視する値ではない。

気がかりなのは脈拍だ。

異常に値が上昇している脈拍は身体でも感じる。

目を覚ましたときからドクドク。

心音が聞こえそうな感じであるが、とにかく早いのだ。

入院前の脈拍はだいたいが60~70。

それ以上になればドクドク感に身体が震える。

何週間か前から毎日のように発症するドクドク感で診察を待っていた。

呼び出しまで待つこと20分間。

診察室のドアを開けて、医師によろしくお願いします、である。

開口一番に伝えられた脈拍の値。

これまでは1/4か1/3ぐらいの間隔でおかしくなる不整脈。

リズム感覚が1/4か1/3ということだ。

今日の心電図の結果によれば1/2。

2回に1回の割の脈拍異常。

そういうわけで高い値となった脈拍だ。

医師が云った。

現在服用中の薬剤を増量するという診断結果に思わずのけぞった。

結果はよろしくない。

退院前に伝えられていた二種の薬剤。

心臓の働きを改善・心不全悪化予防のアーチスト錠と心臓の拍動抑え・不整脈改善のアンカロン錠である。

これらは通院検査の結果によって錠数を換える可能性があると聞いていた。

まさに、その宣告であった。

薬剤量を増やすのはアーチスト錠。

相当な量になったが、錠剤は半切り。

中身が濃いのである。

次の検査通院は3週間後。

昨日に設定した心臓リハビリに合わせて診察することになった。

その対応で変化がなければ・・・。

脈拍が低下すればいいのだが、そうでなければ心臓に措置を講じなければならない。

不整脈異常の発生源は心臓手術。

インパクトある手術処置に驚いた心臓がビックリした状態になっているようだという。

驚きに対処する措置は「ドン」である。

ビックリ状態を落ち着いた状態の心臓にするということだ。

心臓蘇生装置にAEDがある。

消防訓練の際に仮人形の胸に降ろして「ドン」を体験したことがある。

心臓に電気的インパクトを与えて蘇生する。医師曰く、それによって脈が正常に戻ることがある、だ。

もう一つの措置は心臓カテーテルを用いて心臓そのものにショックを与えて安定させる。

これらの手段は3週間後に決定される。

なんとか薬剤で落ち着いてほしいものだと思うが・・・。

ちなみに肺に溜まる水分はごく僅かだという。

レントゲン結果の肺映像。

向こう側がすっきり見えるくらいになっている。

弁の調子が良いと伝えられた。

(H27. 9.25 記)

一日の制限塩分摂取量

2016年06月05日 07時58分09秒 | むびょうそくさい
スーパーに出かけて買い物する。

週に3、4回は行っているような気がする。

買い物に選ぶ商品袋の裏面に書いてある栄養成分表を見るたびにがっくりすることが多くなった。

心臓を手術する前まではまったく気にもせず購入していた。

術後の心臓リハビリに食事療法がある。

特に注意しなくてはならないのが一日の制限塩分摂取量だ。

多く摂り過ぎたら心臓に負担を掛ける。

一体何グラムまでなのか。

退院前に指示が出た制限摂取量は6g。

家で作る料理なら塩分量をコントロールできるが、食事処の料理は一切が判らない。

スーパーで売っているほぼ出来上がり商品はこれまで重宝していた。

さまざまな料理を味わえる簡単惣菜がある。

発売されるたびに購入して味わっていたが、だ。

裏面の塩分量を見てがっくりする。

だいたいが4g前後。

多いものなら6g前後。

一食で一日摂取量を満足させてしまう。

これらを食べたら他の料理は0gに抑えなければならない。

購入品定めに裏記載の栄養成分を見る。

せめて1g前後をと思って探してみるがない、ない、づくしであったが、なんと、なんと。

0gにより近いのは豆腐、コンニャクなどなどだあった。

が、である。

味付けに醤油や味噌を使えば塩分摂取量がどっと増える。

そこで思いだしたのが「出汁」である。

だしの塩分量は多いもので0.5g。

少ないもので0.01gだ。

38歳のころ、肝臓の病に伏したことがある。

病名は肝膿瘍で、処置は肝臓に溜まった膿を取り出すドレナージだった。

退院後は意識して「油極少」に「出汁」で食べる食生活にした。

いつしか体調が戻って希薄になって味付けが濃くなった。

生活習慣をもとに戻すだけなのだが・・・。

塩分含有量が多い食料品は棚いっぱいに並んでいる。

辛いが、美味しい誘惑は思い切って断ち切る。

一日の制限塩分摂取量は6g以内。

塩、醤油、味噌はご法度。

漬物、干し魚も口にできない。

スーパーの買い物はひたすら食品袋を見ることだ。

裏面に記載されている栄養成分表ばかり見ている。



商品によっては塩分量を「g」表記している。

塩分相当量である。

場合によっては塩分相当量でなく、ナトリウム量で表記されているものもある。

ナトリウム量は塩分量に単純計算できる。

ナトリウムが400mgであれば塩分は1gである。

ナトリウム量が1200mgであれば塩分は3gだ。

栄養成分表はどの商品にも書かれているわけではない。

義務化されていなくてメーカーの任意表示であったが、である。

今年の4月1日より食品表示法が施行された。

施行は決まったが2020年までは経過措置。

5年間は経過措置期間なのだ。法によればナトリウム量は食塩相当量で表示しなければならないとある。

たしかにスーパーで売っている商品パッケージはその表記が多くなったが、すべてではない。

例外規定があるのだ。

対面販売の外食・中食、スーパー内のバックヤード製造店頭販売も例外措置で義務化対象になっていない。

コンビニで販売されている弁当類はさてどっち。

バックヤード製造ではないから義務化対象だ。

パッケージ表記面積が30平方cm以内も義務化は免れた。

消費税法による小規模事業者も免除される。

大雑把にいえばそういうことだが、一日の塩分摂取量を制限する人にとっての栄養成分表は制限食生活の目安になるのでとても助かる。

が、である。

6g以内に納めるのはとても難しい。

冷凍食品のラーメンは6gを越えている。

カップ形態であれば3g前後。

まったく食べることができなくなったラーメン。

宣伝も含めてすべてのラーメンにウラメシヤであるが、スープを除いた麺は1gもない。

そう、塩分の大半はスープ。

飲んではならないのだ。

茹でうどんは0.3g。

乾麺・素麺は4g。

パトライトが回転する。

大好きだった麺類の食べ方は工夫してでもなんとかして食べたいものだ。

特に焼きそば・・・。

(H27. 9.24 SB932SH撮影)

3回目の心臓リハビリ運動

2016年06月05日 07時54分01秒 | むびょうそくさい
心臓リハビリ運動が始まる時間に着いた。

到着して身体を休める。

息遣いはゆっくり整える。

そう思っていたが駐車場は満杯。

出る車がなければ入口ゲートは上がらない。

時間は刻々と過ぎていく。

予想外の展開に慌てる。

病院の駐車場は午前中が満杯になる。

午後なら待たずに入場できる。

だいたいがそうであるから安心していた。

何故に、であるが、この日は雨天。

しかもだ。

5連休のシルバーウィーク明けの平日。

患者さんが集中したのであった。

とにも、かくも診療カードを挿入して受付書を発行する。

保険証に高額医療費認定書とともに総合受付に手渡して正式に受理される。

心臓リハビリを受けるフロアーは5階。

エレベータを利用して着く。

受付書を手渡してリハビリ室へと行きたいところだが、その前にしなくてはならない血圧・脈拍測定。

バタバタしていたから心臓はドキドキ動悸だ。

測った血圧数値は120―87(前回は110―78)。

脈拍は106(前回95)だった。

前回よりもやや高めになっていた。

次のリハビリ希望日・時間や問診を記入して健康手帳とともに提出する。

リハビリを受ける人数は8人。

いつも満席御礼である。

器械装置の関係で最大8人を許容するリハビリ室。

いつもの通りのイスに座って心電図などを測る携帯計測器を身につける。

モニター画面に表示されるわが身の血圧値・脈拍値に波形だ。

準備体操をしている間の数値が変動する。

気にかかる脈拍値は108~110間(前回は74から76)を行ったりきたり。

このときの体操はつま先・かかとを上下する足の運動だ。

屈伸運動になれば96に落ちた。

落ちたといっても大きく落ちたわけではない。

準備運動は伸長する道具も使う。

まあまあの体力を使う。

そのときの脈拍値は110。

2週間前の値から上昇傾向にある。

その間の不整脈はときおり発生する程度だった。

そして始まった血圧測定器を身に着けて体力度合いを測る自転車エルゴメーターのペダル漕ぎ。

スタートはいつもの通りのワーク度が10。

軽すぎる。

1分も経たないうちにぐっと上がったワーク度は35。

楽々ペダルに回転数は60辺りの57~61に調整しながら漕ぐ。

しばらくして血圧計が自動的に動作した。

値は127-84。

脈拍値は110だ。

10分ほど経過して前回希望のワーク40に切り替えられた。

が、である。

切り替えた直後は負担度が増したが、しばらく経てば楽々。

しんどさはまったく感じない。

ペダルを漕いでいても楽々。

血圧値も脈拍値も変化が見られない。

変動しないのだ。

エルゴメーターのリハビリは25分間。

疲れもなにもない。

いつも状況を見てくれるGリハビリ療法士が云った。

随分と調子が良い、であるが、高めの脈拍値が気にかかるという。

脈拍値が110。

高いときは不整脈が発生していない。

が、90台に落ちたときに不整脈が見られると診断された。

2週間前にはなかった症状がある。

寝るときも起きたときもどころか身体が活動している期間のほぼすべてにおいて心臓鼓動にドキドキ感があるのだ。

活動中は動いているから感じないのかも知れない。

明日は2回目の診察日。

不整脈を調える薬剤について質問をしてみよう。

早めに終わった心臓リハビリを終えて支払いをする。

時間はいつもより早い。

そこで思いだした看護師さんの言葉。

外来棟に来たときには入院棟にも立ち寄ってほしいということだ。

元気な姿を見たいという看護師さんの願いに応えるべく入院棟に向かう。

N看護師さんが居た。

びっくりした顔で見つめる看護師。

その節はたいへんお世話になったと伝える。

ただ、お風呂はまだ首まで浸かることができないと云えば、へぇーであった。

水圧で圧迫されることは知らなかったようだ。

看護師さんは治療に専念する。

退院後までの詳しい状況は存知する世界ではなかったようだ。

ぐるりナースステーションを回る。

そこにも居られた看護師さん。

顔を見てこれもまたびっくり顔を返す。

入院中はパジャマ姿。

印象に記憶があるのはその姿であって、普段着姿では気がつかなかったのだ。

このことは逆も言える。

看護師さんの姿はナース姿。

患者はいつもその姿で覚えている。

例えば、である。

看護師さんが普段着で買い物をする場合がある。

そのときばったり出会ってもたぶんに気がつかない。

お互いがそうなのである。

患者にとっては非日常の入院姿。

看護師にとっては日常がナース姿。

非日常と日常が逆転すれば気がつくこともない。

そういう話しをしたら、そうだよねと云った。

入院棟から外来棟に戻った。

そこで出会った男性の介護士さん。

おう、と手を振れば気がついた。

フツーに歩いていたのでびっくりしたと笑顔で応えた。

(H27. 9.24 SB932SH撮影)

生駒山夕照

2016年06月05日 07時51分24秒 | むびょうそくさい
退院してからは毎日のように自宅周辺を歩いている。

速度はでない散歩的感覚の歩行リハビリは一日二回。

朝食を済まして一回。

日暮れ前に一回で合計2.5km。たいした距離ではない。

ぐるりと一周した下り道。

夕焼けで染まった生駒山の空。

数本の鉄塔がはっきりくっきり。

肉眼でも見られた。

さらに下った2分後。

焼けはすっかり消えていた。

(H27. 9.19 SB932SH撮影)