マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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佐保庄の関の地蔵尊

2017年04月04日 07時38分36秒 | 天理市へ
気になっていた佐保庄に関の地蔵尊がある。

地蔵さんの営みがわかれば連絡してあげると聞いていたが電話は鳴らなかった。

おそらくはこの日ではなかったのだろう。

それとも今年は中断したのか。

付近を歩く人もいないから話は聞けなかった。

近くにある家を訪ねてみたいが、時間がない。

場所だけでもと思って当地にやってきた。

所在地は天理市の佐保庄。

集落中心とも思える辻に建っていた地蔵尊立像。

左に六字名号板碑、右に上部欠損した阿弥陀石仏が覆い堂の下にあった。

(H28. 8.23 SB932SH撮影)

大和郡山市内の地蔵盆はとにかく多い

2017年04月03日 07時00分58秒 | 大和郡山市へ
8月23日、大和郡山市内の各地域で行われている地蔵盆はとにかく多い。

小泉町の楠地蔵尊は朝8時からだ。

郡山城を下った近鉄電車踏切傍にある地蔵尊もあれば雑穀町、高田口町の釈尊寺北郡山幸町、同町木屋ノ口塩町柳町東、柳町6丁目、箕山町、紺屋町、植槻町、代官町、茶町。

城下町における外堀の枠内の町である。

外堀の外側。

つまりは旧村にあたる地域がある。

天井町、杉町、丹後庄の松本寺、小泉町の不動院、外川町、矢田町東村垣内、同町北村、同町山田原。

南部に額田部北町額田部南板東、昭和町がある。

南郡山町の大織冠仲仙寺、城町の主水山は住まいする処である。

主水山は自治会が違えども区域内。

九条墓地すぐ傍の九条町水込地蔵尊も地区は違うが住まいする自治会の境界にある。

町内から近鉄九条駅に向かって下る道沿いにある。

通った時間は午後だったから地蔵盆はとうに終えていた。

営みを終えた婦人たちはもういないが、営み前に替えたと思われる地蔵さんの涎掛け。

昨年は赤色だったが、今年は白色になっていた。

赤から白へと移りゆく清楚な姿を見て下った地区。



すごい数で吊っていた地蔵盆の提灯に見入る。

夕方、陽が暮れてからの営みは拝見できずに先を急ぐ。

(H28. 8.23 EOS40D撮影)

戒場の地蔵さん数珠繰り法要

2017年04月02日 05時33分03秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
つい最近になってよく訪れるようになったという榛原戒場(かいば)。

訪問する地は戒長寺。

ご住職と懇意にさせてもらっている。

その戒場で地蔵さんの数珠繰りをされるので、民俗を取材している私に声をかけてくださった女性がいる。

ありがたいことである。

彼女は東大寺を中心にブログで紹介している。

写真の腕前はメキメキと上達されて写真クラブにも入られた。

そのクラブの先生は存じている有名な方だ。

主宰する写真展に出かけて作品を拝見した。

その場に戒長寺住職にもお会いした。

平成25年1月3日に訪れた大字戒場の行事。

村の行事の「難除(なんじょ)」は自治会運営。

会長に了解を取っていただきたいと願われた。

そのときにお会いした自治会長はHさん。

かつて隣村の額井で行事を取材したことがある。

そこでお世話になったFさんがいる。

FさんとH会長は親戚筋。

行事を通じて縁が繋がっている人たちに感謝する。

上深川で同行取材した二人のカメラマンとともにでかける戒場。

その場にも知人の二人がいた。

この日はなにかと縁繋がりの人たちで顔を合わせる。

到着した場にはHさんがおられる。

久しぶりのご対面に大勢が押しかけて申しわけないと伝えた。

戒場の地蔵さん数珠繰り法要は本来ならば8月24日。

固定日では村の人たちも集まることが難しくなり日曜日に移したようだ。

戒場の地蔵さんを紹介する由来銘板がある。



それによれば、戒場の地蔵尊がある地は集落中央の「上の辻」。

石英粗面岩製地蔵尊の船形光背の高さが115cm。

光背面に「正長五年二月十一日」に多数の法名を刻んでいるらしい。

ところが、だ。

正長五年は和暦にない。

正長年代は西暦1428年の応永三十五年を継いだ正長元年は四月より始まる。

翌年の西暦1429年の正長二年までだ。

その年の八月に移った和暦は永享元年である。

しかも由来銘板にはこう書いてある。

「なほ正長五年は1433年、590年前である」と・・・。

西暦1433年は和暦年号でいえば永享五年。

あり得ない正長五年はどのように導かれたのか・・・。

それとも永享五年を正長五年としてしまったのか。

光背面を見直す必要があると思った。

数珠繰りをされる場にはもう一つの石仏がある。



祠内に安置しているので写真は撮れなかったが、これもまた由来銘板がある。

それによれば、“不動明王(廉申像)由来”とある。

そこからしてよくわからない表記である。

“廉申像”とは一体なんであるのか、である。

私が存知している範囲内に“廉申像”はない。

あるのは“庚申像”である。

漢字を見誤ったのか、それとも・・・。

仮に“庚申像”であったとしても、不動明王に“庚申像”をカッコ書きする理由が見つからない。

不動明王と庚申さんは別物である。

祠の小さな格子窓から覗いてみればわかるだろう。

二体なのか一体なのか、である。

銘板に続きがある。

「享保十二年、1727年、江戸中期造立の青面金剛像、康申が造立されてり作風は、この地方、篠楽康申と大宇陀大蔵寺「不動明王」、室生寺「軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)」の作風と同様同年号でもあり同作者の手によるものである」とあった。

青面金剛像であれば間違いなく庚申さん。

銘板にある“康申”は明らかな間違いである。

室生寺に巨岩に彫られた「軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)」をネットで調べてみれば確かに青面金剛像とよく似ている。

一面八臂姿の岩彫石仏は奈良県が発信するその記事にはこう書いてあった。

「4年に一度、庚申の日に町の人々が軍茶利明王石仏を拝みにくる習わしになっている」とあった。

気になる行事であるが、4年に一度と云えば新暦の閏年。

4年に一度のオリンピックがある。

庚申さんのトウゲ、或はトウアゲなどの名がある旧暦閏年に行っている庚申さんの行事である。

ちなみに青面金剛像は一面三眼六臂。

たしかに一面八臂の軍茶利明王像とよく似ている。

数珠繰りをされる戒場の庚申さんであれば可能性も考えられる。

今度、伺ったときに庚申講の存在などをお聞きしたいと思った。

なお、由来銘板には「・・・その昔康申講は、夜明けまで語り合う習慣もいつしかなくなり、昭和四十年以降は途絶えるが・・・」とある。

そうであったか。

戒場の庚申講はずいぶん前に解散されたようである。

ただ、気にかかるのは銘板に書かれた文字である。

この由緒銘板寄贈者は「井上薫 2015年84歳」とあるから前年のことである。

戒場在住の方なのか、村の関係者なのか、それとも学者であるのか、存知しないが、庚申講の誤記だけでも直しておいた方がいいだろうと思うのである。

そうこうしているうちに数珠繰りの準備が始まった。

村の人たちが数珠繰りをする場にブルーシートを敷く。

座布団をいっぱい広げる。

そこに据えたのは大珠のある数珠である。



その数珠を納めている箱がある。

何らかの文字があるかと思えて拝見させてもらった。

上蓋に書いてあった墨書に「明治弐拾年九月拾壱日整之」とある。

裏を返してもらえば数珠を寄進した人たちと思われる名が21人も連なる。

Hさん他、役員さんも見られた連名。

見たのは初めてだと話していた。

数珠繰りをするには導師の力が要る。

戒場の数珠繰り法要に導師を務めるのは真言宗御室派戒長寺の住職。

お供えをした地蔵尊の前に座る。

地べた直接ではなく座布団に座って唱える般若心経。

撞木を打つ伏せ鉦の音色・・・。

昔はこの鉦の音を聞いて数珠繰りの場にやってきたというから呼び出しの鉦でもある。

特に場から下にある垣内はそうであったと云う。



住職が唱える三巻の般若心経読経中に数珠繰りが行われる。

カン、カン、カン・・の音が戒場一帯に広がる。



鉦の音はたしかに村じゅうに聞こえるような音だった。

大きな房珠がわが身の前にくれば頭を下げる。

大人に混じって小さな子供たちも見習って頭を下げる。



数珠繰りは反時計回り。

地域によっては時計回りにしている場合もある。

何周したのか数えてはいないから回数はわからない。

三巻の心経ともなればまあまあの長丁場。

焼香はいつ終えたのかわからないが、数珠繰りを終えたら身体堅固。



数珠を束ねて背中をさする。

さすることからおさすりの身体堅固である。

子どもも大人も順番待ち。

この日に数珠を繰った21人が無病息災、身体堅固をしてもらった。



法要を終えて気になっていた伏せ鉦を拝見させてもらった。

鉦は戒長寺の什物である。



普段は本堂にあるが、この日は住職が運ばれる。

その鉦にあった刻印は「室町住出羽大掾宗味」。



これまで同記銘の鉦は県内各地で拝見してきた。

大和郡山市の杉町・南郡山町・伊豆七条町・額田部南、奈良市の今市・南田原町、桜井市の小夫、大淀町の畑屋、宇陀市榛原の篠楽である。

ほとんどが名前だけの刻印であるが、大和郡山市の伊豆七条町が所有する鉦は「安永八巳亥年二月 伊豆七条村 勝福寺什物 京室町住出羽宗味作」とあった。

安永八巳亥年は西暦で換算すれば1779年。

今からほぼ240年前になる。

伊豆七条町の手がかりしかないが、貴重な年代記銘である。

他村に見られた刻印は私が観る限りではあるが、同一人物が刻んだように見える。

断定はできないが、おそらくは村々に配布したものではないだろうか。

この伏せ鉦は融通念仏宗派に限られる。

戒長寺は真言宗派。

明治から大正時代にかけて高野山僧侶が兼務していた。



1480年代は興福寺領であった戒場村民は真言宗から融通念仏宗に宗派替えされたのであろうか・・・。

(H28. 8.21 EOS40D撮影)

上深川の富士垢離

2017年04月01日 10時09分43秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
かつて都祁上深川で行われていた富士垢離行事があった。

当時、営んでいた人たちは富士講。

今でもそうであるが講中は5人。

うちお一人は若い時の映像が残されている。

映像は動画である。

記録された映像を所蔵しているのは奈良県立民俗博物館である。

そこで拝見したときの感動は今でも忘れない。

当時30歳代だったOさんは逞しい筋肉姿。

小川のような深江川に浸かって水垢離の行をしていた。

時を隔ててお会いしたOさんに初めて会ったのはずいぶん前だ。

平成16年に訪れた上深川。

八柱神社下の境内である。

そこに建つお堂は元薬寺。

ここで初祈祷の乱声柳のオコナイをしているから・・と云われて取材させてもらった。

それから幾度となく上深川の年中行事を取材させてもらった。

いつしか気になっていた富士垢離について尋ねてみた。

実は先代たちが亡くなったことから長い期間を中断していた。

県立民俗博物館で映像を拝見したとかお話しているうちに復活話になっていた。

機は熟して復活したときの営みを記録させていただいた。

平成22年に復活した富士垢離はそれからも続けていたと聞いたのは前月に行われた「ゲー」の行事のときである。

本来ならば8月24日に行われるのであるが、講中の事情もあって数日早いこの日になった。

あれから5年も経った。

年齢は講中それぞれが5歳ずつ繰り上がったわけではない。

70歳だったOさんは75歳。

長老のKさんは82歳であったが、引退されて息子さんに継いだ。

今回で3回目の体験があるから心もち慣れている。

実は父親が引退されるまでの時期。

20年ほど前にも体験したそうだ。

それは新聞社の依頼。

その関係があって参加したことがあると云う。

同年齢のNさんは膝を痛めて杖をついてはいるもののお元気な姿をみせてくれた。

あれから5年も経ったから88歳。

垢離場まで行くには無理があるから車利用で現地に向かう。

78歳だったⅠさんも前年に引退されて息子さんが継いだ。

講中はもう一人。

当時65歳だったAさんは70歳。

事情で出かけるはめになったから垢離取りの作法は参加できない。

引退はあるものの、代々を継いできた講中は前年の平成27年に本家本元の浅間神社に参って富士山も登ったそうだ。

若い二人に替わったこともあって段取りなども引き継がれて任しているという。

二人は相談しながらも深江川に運んでいく注連縄を作っていく。

張り方もあれば幣の付け方などもある。

記録された写真ではなかなかわかり難い部分である。

記録写真は平成22年8月24日に撮ったもの。

アルバム化した写真はさんが持ってきた。

年に一度の行事は細かい部分の記憶が曖昧になるようだ。

注連縄ができたかどうかが気になるNさんは八柱神社境内に置いてあった注連縄を点検していた。

ふと漏らした言葉は注連縄の竹は土に挿すから先は尖がらした方が挿しやすい・・・。



注連縄が出来上がれば白装束姿になる。

下着は越中ふんどし。

頭に鉢巻きを巻く。

締め帯も締めた。

履物以外の一切が白づくめ。

その履物は藁草履である。

深江川に足を浸けて垢離をする。

川に下りる際も、道中もずっと履き続ける藁草履である。



行の無事を祈願するに氏神さんに参る。

そして向かった先は深江川。

2月7日の初祈祷の際に架けられる勧請縄がある。

架ける地はカンジョウバ。

垢離をする場はそこより先になるヒガシカンジョウの地だ。

神社、寺本堂がある地より下っていく。



作り上げた注連縄を抱える役目もあれば、三方にのせた神酒とオセンマイ(洗米)を抱える役目もある。

お若い二人がその役につく。

5年前は初めて垢離をするAさんやⅠさんだった。

ずいぶんと若返り若返ったような感がある。

ただ、柄杓と数珠は個人所有。

人に頼むことなく我が自身が持っている。

垢離を終えてから拝見した柄杓と数珠は年代物。



それぞれが先代から継承してきた垢離取りの道具である。

ちなみに左よりⅠ家、O家、K家の持ち物である。

Ⅰ家、O家の数珠は八つ珠。

K家の数珠は算盤のようにも見える数珠珠である。

O家の柄杓に墨書がある。

文字は「せいひち」。

3代前のおじいさんの名であると云う。

それにしてもだ。

徒歩でカンジョバへ行く白装束の姿をみれば、あーそうか、ではなく、なんである。

村の人も初めて見る姿に驚かれた婦人がそう云った。

ヘイ刈り(稲田の雑草取り)をしていたときに気がついた婦人はその場できょとんとしていた。

上深川に富士講の存在を知る人は多くない。

多くないこともあるし、年に一度の垢離の行に遭遇することもない。

滅多に見ることもないから話題にも上らない。

そういうことだと思う。

ヒガシカンジョウの地に着いたら注連縄を立てる。

そこより離れた位置にも竹を立てる。

白衣を脱いでふんどし姿になる。



その白衣を架ける竹の竿架けであった。

深江川の土手を下りて祭壇を設える。

お神酒とオセンマイ(洗米)を祭壇に置く。

その方角は富士山がある位置である。

その方角に向かって一列に並ぶ。



手を合わせて富士山に向かって拝礼する。

水垢離はじめにお神酒を注いでオセンマイを川に浸して洗う。

そして東の方角に向かって並ぶ。

注連縄の遥か先が富士の山。

つまりはその先の富士山に向かって水垢離をするのである。

代々継いできた数珠を左手に持って数える。

「ひー、ふー、みー、よー、いつ、むー、なな、やー」と数えて柄杓で掬った川の水を頭からかけるような作法をする。



低頭姿勢で「やー」のときに水を落とす。

富士垢離の儀式に数珠珠は八つ。

それはひと節ごとにある。

次の節の数珠を数えて、またもや「ひー、ふー、みー、よー、いつ、むー、なな、やー」の「やー」で水をかける。

これを8回繰り返す。



再びお神酒を注いでオセンマイを川で洗う。

数珠を指でくって「ひー、ふー、みー・・・」。

これも8回繰り返す。

合計で108を数える。



かつては初めの64回の一垢離を終えてから、元薬寺本堂に戻ってオコモリの会食をしていた。いわゆる「籠り」である。

ゆっくりと昼寝の休息をとってから再び川に出かけて水垢離をしていた。

やがては効率化。

二垢離を一度で済ますようになった。



こうした作法を対岸から見続けていたNさんの顔が綻んでいた。

稔った稲穂は黄色くなってきた。

垢離を済ませば帰路につく。



架けていた白衣を再び身に着ける。

青空が眩しい上深川。

爽やかに流れる風に汗もかかない。

今回の取材にカメラマンが5人。

私が案内した人もおればたまたまこの日だと信じてやってきた人も。

富士講を調査している人は予めに尋ねていた。

実はそれぞれが知人、友人であった。

皆もあがっていきなと云われて講中のヨバレの席につく。

ありがたいことである。



「ゲー」のときもよばれた盛り合わせオードブルは旧都祁白石の「たけよし」。

豪勢な盛りに箸をつけるのは気が引ける。

それなら巻き寿司でもと・・。



夏は暑いからと持ってこられたビン詰めトマトジュースの原料はトマトベリー。



2年前から針テラスで販売するようになったが、栽培しているのはOさんの娘さん。

「ゲー」のときも来てはった。

ありがたくいただきますに美味しいを連発した。

この場を借りて厚く御礼申し上げます。

(H28. 8.21 EOS40D撮影)