マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

ラ・ムー桜井店の広島風お好み焼きメガ盛り

2018年02月18日 07時56分06秒 | あれこれテイクアウト
榛原柳と同じ時間帯に行われるも再訪して再出発。

行きついたスーパーがラ・ムー桜井店だ。

寿司、弁当、パンなどを見て廻ったが決めたのは税抜き276円の広島風お好み焼きメガ盛り。

見るからにドデカいお好み焼き。

以前も食べたような気がするが、何時だったか覚えていない。

とにかくたらふく喰ったお好み焼きが美味かったことだけは覚えている。

キャベツがはみ出すぐらいに焼いたお好み焼きが美味そうな顔をしていた。

おたふくソースかどうか知らないがパックの蓋を通して匂ってきそうな気がした。

買った時点はできたてのぬくぬく。

温かいお好み焼きはスーパー駐車場に停めた車で車中食。

天気も良くなって日差しもある。

そこで蓋を開けたら車内にえー香りが広がった。

箸を取り出してがっつり食べる。

濃い目のソースに絡んで焼きそばが上がってくる。

まずは一口。

二口目は紅生姜もキャベツもマヨネーズに絡ませて食べる。

喉が唸る味に箸が止まらない。

食べても、食べてもキャベツが減っていかない。

焼きそば麺の下には大盛りのキャベツが埋まっていた。

さらに掘り進んでいけば豚肉も出てきた。

次はモヤシも出てきた。

発掘作業ではない広島風お好み焼き。

さすがにメガ盛りやと思う。

底にあったのは何だろう。

食感もないどろどろ。

蓋に貼ってあった表記シールを見れば天かすとある。

どうもおかしい。

一般的であるが、広島風は鉄板に豚バラ肉を敷いて炒めてからキャベツやモヤシを盛って焼くのではなかったのか。

焼きそばは別途に広げてソース絡めで焼く。

炒めたキャベツやモヤシを下に焼いた焼きそばを置く。

そこに天かすを載せる。

別途に作られている玉子シートを広げてお好み焼きソースをぶっかける。

マヨネーズも紅生姜も添えててっぺんは青海苔を振りかける。

それで完成だと思うのだが、天かすが下にあるということはひっくり返しの回数が一回分足らなかったのでは・・・。

そう思うのであるが、実に旨い。

旨い上にボリュームがありすぎ。

シャキシャキ感のあるキャベツ喰いには時間がかかった。

食べきるまでに20分間。

きっちり冷めていた。

むちゃ美味しい広島風お好み焼きメガ盛りに敢えていいたいことがある。

それはキャベツとモヤシもそうだが豚バラ肉も含めて下味をしてほしいと思ったのである。

ところで本日はたっぷり余裕時間がある。

ここはラ・ムーの他、いろんな店がある。

くるくる寿司もあれはカレー店も。

ラ・ムー店の併設店にはたこやき専門店もある。

そこへもって麺屋もある。



看板を見れば「伊予製麺」とある。

初めて耳にする麺屋。

調べてみればプラージュという全国展開している低価格美容室を経営している阪南理美容㈱だそうだ。

ちなみに大阪王将も同じ経営である。

試しに一度は入店してみたいと思って店外からメニューを拝見。



私が基準にしている麺類メニューはぶっかけうどん。

お味は食べてからでないとわからないが、並サイズで一杯が290円。

たぶん税抜き価格であろう。

(H29. 3.27 SB932SH撮影)

桜井の竜谷から出雲、そして榛原柳の民俗探訪

2018年02月17日 08時31分38秒 | メモしとこっ!
この日に祈年祭があると思って桜井市の竜谷に出かける。

ところが竜谷の三輪神社にはどなたも現れない。

もしやと思って子守地蔵尊を安置する竜谷寺付近に住むN家を頼って訪ねた。

作業場におられた男性はお大師さん行事に導師を務めた母親の息子さん。

身体の具合は以前にお会いして時よりかはずいぶんと良くなったそうだが、車は運転のできない身。

私も心臓を壊してからは不安な毎日を暮らしているが二人ともなんとか生きていることに歓びを感じているなと云って思わず握手した。

お母さんは元気で畑仕事。

息子や娘たちもそれぞれが独り立ち。

親に世話をかけなくとも暮らしているのが嬉しいという。

思わず、うちも・・と云った。

肝心かなめの行事である。

その行事は神占の頭人定めに大幣を用いてフリアゲをすると記憶にあるが・・・男性の話しによれば秋の祭りに統合したという。

そういえば昨年の平成27年11月3日に訪れた竜谷の三輪神社では神職がフリアゲをしていた。

そうだったんだ。

その場を離れて旧暦閏年の庚申さん行事の正式取材願いをしたく榛原柳に向かう。

竜谷からはそれほど遠くない。

当日の4月2日は平成24年に訪れたものの取材時間が確保できずに断念した出雲の旧暦閏年の庚申さん行事もされる。

時間帯が重なる可能性が高い。高かっても少しでも拝見したく正確な時間を知りたくて榛原柳の再訪である。

数日前、いや昨年も紹介されたものの区長家を訪ねる時間がなかった榛原柳。

きちんとした取材である旨伝えたくて1軒のお家を尋ねたらその下だという。

結論から云えば同時間であった。

訪ねた区長家はT家。

年に6回の庚申講の寄り合いがある。営みの時間帯は夏場、冬場によって若干の時間差を設けている。

ちなみに夏場は午後7時半だが、冬場は7時になる。

それぞれが講中の掛図を揚げて営んでいたが、今は会所で両講中の集まりになったそうだ。

また、願文を墨書したヒノキ材の塔婆をあげる旧暦閏年の庚申行事もある。

閏庚申に奉ったヒノキ材の塔婆は玄関軒に掛けている。

トウヤを務めた家は奉った後に掛けるそうだ。

ヒノキ葉は削らずにそのまま掛けた塔婆は二本。

3文字の梵字がようわからないという。

梵字のことは詳しくないが、かつて天理市山田の蔵輪寺の住職に教えてもらったことがある。

その五文字の読みは「キャ カ ラ バ ア」。「キャ カ ラ バ ア」を意味する五つ漢字が「空 風 火 水 土 」であるが、柳の塔婆は三文字。

もともとからそうだったのか、それともあるときに五つから三文字になってしまったのか、謎だと区長がいう。

なお、柳の村は東出および西出それぞれの伊勢講もしているそうだ。

東出は8軒で西出は4軒の講中。

それぞれが年に2回。

2月の16日と12月の16日の夜にそれぞれの講中にあるヤカタを祭ったトウヤ家で営みをしていたが、今は会所に移っているようだ。

講の行事だけでなく村の行事の数々を教えてくださる。

榛原柳は東出垣内と西出垣内からなる13戸の集落。

2カ月に一度の庚申さんの日は村の会所である長福寺に寄り合う。

現在の長福寺は無住寺であるが本尊由来から想定するに長谷寺真言宗豊山派のようである。

その関係が色濃いのであろう旧暦1月11日に桜井市や宇陀市榛原地区の人たちが三社権現に参る行事もある。

詳しいことは後々に取材させていただくことにして詳細は省くが、蔵出しして発見した掛図に藤原鎌足三尊図がある。

正確な年代は不明であるが百年前の掛図はぼろぼろだったことから、新しく表装をしなおしたらしい。

藤原鎌足三尊図があったということは桜井市の談山神社下にある地域が祭る八講祭がある。

明日香村にも八講祭や同じように藤原鎌足公を祭る明神講もある。

ここ榛原柳にも同じように鎌足公を祭っていた講があったのだろうか。

奥さんは藤原講かも、と口にでた掛図に興味を惹かれる。

三社権現に参拝する権現ドーヤもある榛原柳は隣村の桜井市吉隠と榛原角柄からなる中之郷にあたる。

今年の2月5日が旧暦に1月11日であった。

しかも3年ごとに廻りがくる当たりの年だったという。

確か、カニノモチを供えると聞いているが、なにやらアトトリの男が宣言することによって行われるらしい。

今後ともよろしくお願いさせてもらった区長家の玄関にえらいものを吊っていた。

えらいものというのは江戸時代の木製消防ポンプである。

その名も龍吐水。嘉永二年(1849)の刻印があったので製造時代もわかる代物に竹編み籠に柿渋で貼った水溜め用のバケツもある。

その数、10個もある。

これまで見たこともない貴重な年代物の和式バケツには驚いたものだ。

排水用の木製ホースは屋内座敷で保管している。

篠原神社でもらってきた竹で挟んだごーさん札もある。

民俗行事に欠かせない祭り道具は他にもありそうだが、本日は挨拶伺い。

ぼちぼち取材させていただくと失礼させてもらった時間帯は午後12時半も過ぎていた。

ちなみに近鉄電車を見下ろす位置に建つ小社は四社大明神。

向かい側に旧長福寺がある。

さて、昼ご飯はどうするか、である。

頭の中をあれやこれやの頭の中でぐるぐる回る廻り燈籠。

場所は決まったが途中で場所の再確認をしておきたい桜井市の大字出雲に立ち寄る。

十二柱神社の鳥居に掛けてある太い注連縄に度肝を抜かれるが、あれぇ、である。



三つの垂れ房もそうだが、5年ぶりに訪れた本日の注連縄は巨大化していた。

なぜに巨大化したのか。

一般的な事例でいえば縄結いができなくなって細くなるのが常。

ところが出雲では逆に巨大化した。

機会があれば経緯を聞いてみたいものだ。

どれぐらい大きくなったのか。



参考までに平成24年の4月7日に訪れたときに撮っていた注連縄と比較していただきたい。

驚くばかりの変身ぶりにたまげたのである。

それはともかく十二柱神社が鎮座する大字出雲を東西に結ぶ旧道がある。

江戸時代は伊勢詣りをする人たちが往来していた伊勢街道である。

集落南、すぐ近くにある国道169号線が幹線道。

多くの車が往来する道が主道になった。

さて、十二柱神社である。

史料によれば、神社狛犬の台座の造りに特徴がある。

台座を支える姿は力士像。

左右それぞれの台座に4体の力士が支えているので拝見されたい。

文久元年(1861)建之された狛犬台座の力士は筋骨隆々。

出雲といえば島根県であるが、ここ大字も出雲。

古来、島根出身者がこの地に移ったからその大字名になったという説がある。

出雲といえば日本書紀に登場するスクネ(能見宿禰)。

垂仁天皇7年、天皇の命によりケハヤ(當麻蹶速)と相撲をとるために出雲の国から大和の国に出てきたとある。

その説から十二柱神社の狛犬台座に力士像が建之されたというが、同じような形、力士姿が支える台座は他所にもある。

桜井市山間部になる大字萱森に鎮座する高龗神社である。

当社の由来に力士の存在はない。

力士台座の一例ではあるが、同じ説ならここ萱森もスクネ(能見宿禰)説があっても良さそうだが、まったくない。

説を唱える人たちは萱森にある狛犬台座のことは存じていないのだろうか。

ただ、興味深いのは建之記銘である。

萱森の台座は文久二年(1862)二月。

十二柱神社の台座建之の一年後の記銘である。

作風も似ているようなので、作者との関係性があるのかもしれない。

(H24. 4. 7 SB932SH撮影)
(H29. 3.27 SB932SH撮影)

はらぺこ食堂のきつねうどん

2018年02月16日 09時12分25秒 | 食事が主な周辺をお散歩
須山町の取材を終えて次の取材はない。

ないからというわけではないが写真展に出かけることにした。

写真展の会場は大阪梅田のニコンサロンbis大阪。

長年に亘って夫婦の在り方をとらえてきた志岐利恵子が初の個展となる写真展である。

題して「支えられて今」。

夫婦ご互いが支え合って生きてきた寄せ合う表情をとらえた写真展である。

貰ったポストカードに映る姿は背景も良い。

行事撮影の合間に撮った写真もあれば、生業の取材地の夫婦も撮ったものがあるらしい。

生きざままでは見えないが、皺のあるお顔が生きて来た人生を語る。

それを見たくて梅田に向かうが、先に支度をしなくちゃならないのがお昼ご飯だ。

都合、道中にある食堂がいい。

それもワンコインで食事できる所がいい。

そうであればあそこしかない。

国道24号線沿いにあるガソリンスタンド跡地利用の「はらぺこ食堂」である。

店内でいただく料理に500円以上はない。

すべてがワンコイン以内で食べることができる。

相方はおろしからあげ定食にされたが私は小食。

一杯のうどんでいい。

この日は特に、である。

通じが悪い日はお腹が張っている。

減りもしないお腹にメガ盛りはいらない。

普通盛りも難しい。

ところが麺類なら入る。

前回はたしか500円のぶっけかけうどん冷たいのんを食べたようなきがするので今回はシンプルに350円のきつねうどんに決めた。

しばらくかかる配膳待ちにメニューを見ていた。

一枚は丼もんシリーズの定食。

すべてが500円のワンコインランチの頁に書いてあるコメント。

「ミニうどん&ミニそばor味噌汁付き」の文字がある。

おまけがすごいのだが、思いっきりお腹が減っているときに注文したい、と思ったシリーズメニューは温玉カツ丼、かつとじ丼、からあげ丼、親子丼、他人丼、牛焼肉丼、海老天丼、豚とろ丼にカレー定食だ。

それはともかくきつねうどんはでっかいアゲサンが載っていた。

ぷかぷかだし汁に浸かっている天かすは我が家でも定番も振り盛りである。

ところで麺類メニューにこれって何を思えるメニューがあった。

一番下に表示していたメニューに100円のミニうどんorミニそば。

へっ、ミニサイズであれば100円で食べられるんだ。

その右横にあったメニューはいなり寿司。

3個でこれもまた100円。小食向きの私にとってはこれで十分。

次回、来店したときの指名にしたいと思ったが、叶うことはなかった。

事態は急変していたのである。

(H29. 3.26 SB932SH撮影)

須山町・旧暦十二月十二日朝の水護符

2018年02月15日 08時59分40秒 | 民俗あれこれ(護符編)
奈良市須山町で行われている子供の涅槃講について廻っていた。

村の戸数は13軒。

お菓子を貰いに一軒、一軒を訪ねる子どもたちが立ち止った玄関に、である。

ここにもあったと思わず指をさした「旧暦十二月十二日朝の水」と書いた護符である。

用意していたお菓子を子どもに渡していたご婦人に尋ねる護符。

これまで拝見したことがある護符は、逆さに貼っていた「十二月十二日」の文字であった。

五右衛門所縁のある護符とされているような証言がある護符であるが、信憑性は薄らいでいる。

京都検定問題にまで登場する護符である。

釜茹で処刑され、亡くなった日が12月12日であると解説される。

ところが、公家日記の『言経卿記(きつねきょうき)』によれば、文禄三年8月24日(西暦1594年10月8日の記述として、“盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎らる。同類十九人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり”の記載があることから、亡くなった日に不一致が認められる。

で、あれば泥棒除けのまじない護符はそれで良し、としても、「十二月十二日」の日は一体何であるのか、である。

流行りの護符はいつから始まったのか、そしてどこから始まったのか、であるが、推測の域を出ないが、明治時代以前の旧暦のように思えて仕方がない。

私が推定するのはトシハジメの日。

尤も12日ではなく、13日である。

12月13日は新しい年が始まる基点というのでしょうか。

トシハジメの日になる。と、いうことは、前日をトシオワリの日と呼んでもいいだろう。

一年の切り替わりに厄を祓う。

そんな日に護符を貼って、新しき一年を御守りくださいという願掛けのように思えるのである。

逆さに貼る「十二月十二日」泥棒除け護符の県内事例を調査したことがある。

ある、といっても分布までとはいかない、ごくごく一部の地域の一例である。

一つは平成23年12月12日に取材した桜井市脇本の元一老家である。

同家でこの習俗をしていると知ったのは前年の平成22年の10月15日だった。

元一老から知人の家でもしていると聞いて訪問した同市脇本のK家

ルーツを辿りたかったが、過去記録・記憶が途絶えて断念した。

翌年、たまたま話題になった歯医者さん。

実家にあるとよ、と云われて取材させてもらったこともある大和郡山市満願寺町の民家である。

また、ラジオで放送されていた情報に興味をもって始められた天理市荒蒔の事例もあるが、須山で拝見した護符は、異種のようである。

前置きはそれくらいにして肝心かなめの「旧暦十二月十二日朝の水」である。

玄関柱に貼ってあった護符より前に目についたのは節分のヒイラギイワシだった。

それを撮っていたら、この日に同行取材していた写真家Kの、ここに、と指摘されたのである。

カメラのファインダーはヒイラギイワシをどの方向からとらえたらいいのやらと、向き、角度の焦点は、ヒイラギイワシだった。

まさか、その下にあるとは思っては見なかった、

指摘の気づきにぐっと引いて撮ってから、話しを伺った。婦人の話しによれば、「朝一番に水を汲んで、墨を擦った。夜に書いた」という。

書いて貼る目的は「火事にならんように」である。

なるほど、である。

朝一番の水は井戸水。

柄杓で掬ったかどうかは聞いていないが、目覚めのとき(※実際は起床して落ち着いた時間帯の午前10時ころらしい)の朝一番の水である。

まるで元日の朝に汲む「若水」のように思えた朝の水は防火のためのまじないであった。

婦人の実家は近隣村の奈良市南田原町。

母親が実家で毎年にしていたお札貼り。

当地へ嫁いで来てからも母の教えをずっと継承しているという。

須山町は旧添上郡田原村にある一村。

明治13年に制定された当時の旧田原村行政地区は、須山村をはじめとして茗荷村、此瀬村、杣ノ川村、長谷村、日笠村、中ノ庄村、誓多林村、横田村、大野村、矢田原村、和田村、南田原村、沓掛村、中貫村からなる村。

現在は奈良市が行政区域の東山間部に位置する。

南田原町と云えば、平成23年4月19日に取材した十九夜講や、南福寺薬師堂で行われている八日薬師のイセキの行事を思い出す。

平成22年9月5日に2年後の平成24年の取材である。

婦人の実家はどこにあるのか、わからないが機会があれば訪ねてみたくなる護符であるが、先に拝見したい習俗は須山の同家である。

一応は取材許可をいただいたが、気になっていた「旧暦」である。

実施される日は新暦の12月12日なのか、それとも毎年日付けが動く旧暦の12月12日であるのか、だ。

厳密に確かめたくて、再訪したのはこの年の12月2日。

十日早い2日に立ち寄って、あらためて取材の許可願いをした。

承諾してくださった同家の習俗は旧暦の12月12日であった。

旧暦の12月12日と云えば、まだまだ先の年明けになる。

直前になれば家の事情と重なり、できない場合もあるから電話して、と云われたが・・・。

それはともかく再確認させてもらった同家の習俗。



護符を貼る所は、玄関の他に風呂場、茶小屋、農小屋など火を使う建屋の桟に貼るという。

火事にならないように願掛けの護符を桟に貼る。

貼った護符は剥がさずに、前年の他過去に貼ったお札の上に貼る。

水は井戸水ではないようだ。

過去はそうであったかもしれないが、蛇口を捻って注いだコップ1杯の水を硯に落とす。

その水で墨を摺って「旧暦十二月十二日朝の水」を墨書する。

何年か前、母親がまだ生前のころである。

例年、母親が書いたに7枚のお札をもらってきて貼っていたそうだ。

亡くなられた以降に継承するようになったと話していた。

婦人のお札を拝見して、類事例をネットで探してみた。

「朝の水」を書く事例は見つからなかったが、「水」例がヒットした。

東京都品川区にある㈱アイデアポインの社員さんが記した社のブログにあった「十二月十二日 水」の順当貼りのお札である。

ライターは社員さん。

その社員さんの体験ではなく、いろいろと調べて纏めてくださった記事のようだ。

ライターが云うには、このお札の目的は1.泥棒除け、2.火難除け、3.水難除けになるそうだ。

特に注目すべき点は地域分布である。

記事によれば、逆さ文字の「十二月十二日」護符は、京都・大阪・奈良・和歌山辺りにある泥棒除けであるが、防火のまじないになる「十二月十二日 水」の場合は大阪から和歌山の県境に見られるそうだ。

ときには遠く離れた北海道根室にもあるらしいが、その根拠は紀和山間部の多くの開拓民が移民先に持ち込んだという推論。

ただ、根室は漁港。水難、火難除けである。

年寄りが願いを込めて書いて貼っているようだ。

実に興味深く拝見したブログ記事。

出典を書いてあれば、なお嬉し、であるが・・。

探してみればそのまま転載されていた記事が二つあった。

一つはブログ

二つ目はベストアンサーであった。

(H29. 3.26 EOS40D撮影)

須山町・子供の涅槃講

2018年02月14日 08時00分13秒 | 奈良市(東部)へ
奈良市の東山間部にある須山町に向かう。

前以ってお願いしていた子供の涅槃講の取材である。

須山の子供の涅槃講は、これまで2度もお伺いしたことがある。

一度目は平成23年の3月27日

二度目がその後、2年後の平成25年の3月24日だった。

実施される日は特定日でなく、涅槃に村を巡る子どもたちが決める日だった。

だいたいが、春休みの期間中のようだった。

いつしか村の子どもは減少への道を歩むことになった。

須山町の子供の涅槃講の対象者は上が中学生までで、下は歩けるようであれば幾つでも、ということだ。

平成23年のときは年長の子どもたちがいたが、中学校を卒業した翌々年は下の子どもたちだけになった。

それも特定家の兄弟姉妹の子ども3人だけである。

それから4年目のこの年もまた兄弟姉妹の3人だけである。

日程は子ども中心に決められるが、家の事情も考慮して家族で決める。

今年も取材をお願いしたら、快く受けてくださった。

3回目の取材になった今回は、写真家Kさん、たってのお願いである。

一か月前の2月28日。

取材許可願いに立ち寄った須山町の時間帯はもう夕暮れどきだった。

呼び鈴を押しても反応がなかった。

振り返れば畑から戻ってきた鍬をもつ向かいの老婦人がおられた。

話しを伺えば、まだ村に通知が来ていないようだ。

だいたいが3月20日過ぎになるらしい。

それから数日後。許可願いするお家に電話を架けたら、そろそろ決めようとしているとのことだった。

待ち望んだ涅槃講の日が確定した。

特定家の子どもは3人。

小学6年生の双子男子に4年生の女の子。

うち一人は前日に風邪をひいたものだから、やむなく欠席。

2人だけが参ることになった。

双子男子は翌月に中学生。

小学生時代最後の涅槃講に参加できなかったのは兄の方だった。

母親は「ねはんこ」と呼んでいた。

「ねはんこ」の「こ」を充てる漢字は「子」だと思っていたそうだが、畑で作業をしていた長老は「ねはんこう」だと云った。

「ねはんこう」を充てる漢字は「涅槃講」。

講の行事であるという。

須山町は13軒の集落。

かつては大勢の子どもたちがいた。

村の家を巡ってお米貰い。

大昔はそうだったという。

いつしかお菓子に移ったお米貰い。

東西、2地区の東出、西出に住まいする子どもたちの地区別競争。

すべてを巡って最後にトーヤ家(当家)の人からもらうご飯盛り。

貰ったら一目散に駆け付ける如意輪観音石像がある地。

如意輪観音や彫りの有る地蔵さん、石塔などにご飯を塗り付ける。

2番手になった地区の子どもたちは先に済ましていたご飯の上から塗ることはできない。

塗り付けたご飯を洗い落としてから塗ることになる。

その日は朝から晩までトーヤ家(当家)で遊んで過ごした。

昼食はカレーライス。

夜の食事はイロゴハンだった。

食事をよばれて、遊び疲れるほど遊んだというのは、当時の経験者である。

涅槃講の日程決めは年長者が、下の子どもらの都合も考慮して決めた。

決めた日程は村各戸に電話を架けて伝えていた。

だいたいが2週間前に通知していたそうだ。

そのようなかつての在り方は、お菓子貰いしている間に話してくださる。

石仏に塗ったご飯はちょびっとでなく、全身に塗ったという人もいる。

手でぐちゃぐちゃ。頭から下まで塗りつけていた。

昼食はキリボシダイコンを炊いた煮物料理もあった

。それにはジャガイモのたいたん(炊いたん)もあったし、ほうれん草も・・。

全部食べ切れずに、余ったものは持って帰っていた。

サラダに寿司もあったというのは西出の人。

キリコの名で呼ぶキリコモチはもう少し前の時代だったから、というAさんは昭和33年生まれ。

以前の年代の人たちがキリコの年代になる。

夜の食事に小豆粥もあった。

アラレ、キリコは大層になったので、お菓子に替わった。

お米も出す家もあったが、炊いてもらっていた。

トゲトゲのタロの箸もあった。

膳に、今年最後の子やからと云われた男性は58歳。

中学2年のときやから、昭和42年から45年ぐらいだったと話す経験を語る。

タロの箸があったとは・・。

少し離れるが隣村にある「矢田原のこども涅槃」行事を思い出した。

タロの木は一般的名称でいえばウコギ科の低木落葉樹のタラノキ(タラの木)であるだ。

春近しのころ、芽生えするタラの芽は春の恵みの一つ。

天ぷらにして食べたらとても美味しい。

近年、3月初めころともなればスーパーでも売ることが多くなったタラの芽であるが、涅槃行事に出てくる形は棘があるままの状態である。

映像も含めて、なぜにトゲトゲのタロの箸が登場するのかは、「矢田原のこども涅槃」行事を参照されたい。

裏山から流れる石清水。



湧水は井戸に溜める。

今でも利用している井戸の水を拝見させてもらったN家。

子どもたちを接待する家はヤド家。

トーヤ家(当家)でもある。

平成21年が最後になったヤド家の接待。

以降、食事接待をすることはなくなったが、塗り付けるご飯を調達するヤド家。

N家は来年の平成30年がヤド家になるという。

かつてはちらし寿司にオムライスもしていたという。

また、カヤの実は秋の稔り。

キリコはホウラクで煎って食べていたことも話してくれた。

西出の集落から東出の家を巡る。



先だって日程はそろそろと云ってくださった高齢の婦人も用意していたお菓子を手渡す。

ここの家には懐かしい光景もある。

右はポンプで汲み上げて蛇口から出てくる井戸水。

水受けする洗面台も懐かしい。



左側は陶器製の大きな口を開けた蛙。

その台も陶器製で「薬売箱」を表記している。

お爺さんが顕在だったころに聞いたその用途。

商売をしているお家から貰ったものだからわからないと云っていた。

子どもたちに付いていくまま数えたお家は13軒。

どの家も温かく受け入れてくれてありがたくお菓子をいただく。

貰ったお菓子は大きな紙袋に詰めてもらう。

両手に抱えて持ち帰るお菓子袋は満載になった。

風邪でお外に出られなかった双子の兄にも分けてあげるだろう。

トーヤ家(当家)に寄ってもらったご飯は丼盛り。



落とさないように抱える妹に箸をもったのは双子の弟兄ちゃんだ。

向かう地はかつて円福寺があったところである。



現在は小堂があるのみになってしまったが、光背のある地蔵菩薩立像、不動明王像などを大切に保管されている。

この日は特別だったが、一年に一度はご開帳。

7月23日の地蔵さんの祭り。

村の女性や子供たちが参拝に集まる。

また、小堂は毎月23日が廻り当番。

お堂に周りも綺麗に掃除をしてお花を立てているという。

円福寺の名残の石仏群に如意輪観音坐像がある。

役行者坐像に地蔵石版彫りに数々の石塔が乱立する。

どこから塗っていっていいのやら、思案にくれる兄妹。

そりゃ、やはり如意輪観世音菩薩だと思う。

ご飯を塗りたくるというよりも、箸で摘まんでくっつけるという感じである。



兄がご飯丼鉢を抱えて、妹が塗り付ける。

この年は兄妹が協力し合ってする飯塗りそのものの行為にどういう意味があるのだろうか。



県内事例に見られない在り方に感動するのだが・・。

ご飯を塗りたくっていたころ。



何人かの大人たちが、どういう具合にしているのか、様子を見に来られた。

お菓子貰いのときに話題になったかつての在り方がどのような形態に移っているのか、実際に拝見したくなったと話していた。

飯付けの〆に作法がある。

塗りたくった箸は二つ折り。



それをちょこんと如意輪観音さんに置いて終えた。

平成25年に取材したときに昭和15年生まれの男性、Mさんが話したこと。

私らの年代がしていた当時は、手で塗りたくっていた。

箸を使うことはなかったという。

この箸折り行為、昔はそうすることはなかったということだ。

箸を置いたら、二人は手を合わせて終えた。



付き添いに廻っていたお母さんも一緒になって手を合わせた。

この子たちも成長していずれは子供の涅槃講を卒業する。

双子の兄弟も4月になれば新中学生。

3年も経てば妹さん一人になってしまう。

そのころには村の次世代を担う赤ちゃんが誕生しているだろうか。

(H29. 3.26 EOS40D撮影)

ラ・ムー桜井店の中華弁当

2018年02月13日 09時07分50秒 | あれこれテイクアウト
大和郡山市内中心部から川上村の大滝まではどれくらいの時間がかかるのだろうか。

ただ、コースによって多少時間は違うかもしれない。

ずっと前までは西名阪国道に出て針テラスのところからは宇陀に向けて走る。

そこからずっと南下して吉野町から入る道を走ることが多かった。

その後は天理街道から南下して桜井に出る。

そこから談山神社に向かって登る道を抜けて新鹿路トンネルへ。

なんとなくそのコースよりも、もう少し早く、しかも途中下車して買い物や用足しもできる施設があれば、そのコースを選びたい。

それがつい最近になってわかった。

施設はスーパーのラ・ムー桜井店だ。

存在を知ってからは度々利用する取材行き帰りに立ち寄るラ・ムー桜井店。

オープンされたのは平成27年の4月。

まったく存じていなかった。

ラ・ムーの利用始めは京終店。

平成28年の6月29日だが、買ったのは筒かき揚げの天ぷらだった。

これにはびっくりした。ラ・ムーの弁当が格安と知ったのはこの日であるが、買ったのはそれから2週間後の7月10日。

買った弁当は税抜き184円のてりたまハンバーグ弁当だった。

おかずもさることながらご飯が美味しかった。

美味しいうえにお値段がとても安い。

これは買いだと思ってちょこちょこいただくようになった。

その後、ラ・ムーは京終店以外に奈良二名店や葛城忍海店もあることを知った。

ここ桜井店をしったのはごく最近である。

取材地の行き帰りに利用する範囲が広がった。

そこで立ち止まった本日お昼の弁当買い。

朝が早ければ売り場の弁当種類は少ない。

時間も10時を過ぎればそうでもないようだが、レジを通った時間は午前9時20分。

客数も少くないから作り物の販売は抑えているのかどうか知らないが、迷っている時間もなくて、今回は2種類あった中の中華弁当を選んだ。

それから時間はだいぶ経った。

大滝の取材を終えてようやく昼ご飯。

近くの道の駅の駐車場に停めさせてもらって食事にありつく。

この日は冷たい風が吹いていたが車内は温かい。

弁当はそれほど冷めていないが、ご飯のふっくら感はなくなり、箸で摘まんだらくっついてくる。

そんなご飯であってもコウコやカリカリの梅干しでついついお箸が進む。

美味しいラ・ムーの弁当ご飯に感謝する。

おかずは中身の肉がわからない串カツ。

間に挟んでいたタマネギが甘くて美味しかった。

もう一品はメンチカツ。

この大きさのメンチカツは同店舗で50円売りしているもの。

以前、他店舗で売っていたメンチカツを食べているからそうだと思う。

このメンチが美味い。

串カツもメンチカツもソース無しで食べる。

下味をつけているから美味しいのである。

もう一品は半切りした春巻き。

なんでこれだけ半切りやねんと云いたいが、これもまた美味い。

そしてもう一品が鶏肉ミンチと思う肉団子。

タレは酸っぱくもないが、味はしっかりとついている。

よう考えてみれば中華らしいのは春巻きと肉団子だけやん。

〆はポテトサラダ。

こういう味は家では食べることができない。

我が家のポテトサラダはキュウリ入り。

食感がたまらない。

味はわりあい濃いと思っている塩胡椒にさじ加減。

たぶんにこれは少ないと思うのだが、真似のしようがない。

(H29. 3.23 SB932SH撮影)

大滝・土倉家屋敷跡の地蔵さん祭り

2018年02月12日 09時44分55秒 | 川上村へ
奈良東大寺二月堂の修二会が終われば温かくなる。

彼岸も過ぎればさらに温かくなる。

県内の人は何時、どこの地でもそういう人が多い。

奈良に住んで30云年。

いつのまにか私もそういうようになったが、この日は寒い。

テレビの天気予報が伝える“春”は今月いっぱいも待たなければならないという。

そうであれば蕾が膨らんできた桜の花は一斉に咲き始める。

4月になればどこでもかしこもあちこち。

桜の名所もぱっと咲く。

咲いたかと思えばこれもまた一斉に散ってしまう。

何年か前もそういう年があった。

この日に訪れた川上村は冷たい風が吹く。

決して強い風ではなく、嫋やかな風であるが、体感は冷たい、である。

訪れた地は川上村の大滝。

前年の平成28年4月24日にも訪れていた。

気になっていた大滝の行事を拝見したく下見に出かけた日であった。

行事日は3月24日であったが、どことなく曖昧な雰囲気だった。

もう一度訪れて正確な行事日を知りたくて再訪した。

尤もこの日の取材地は大滝よりもさらに南下した高原である。

高原行き道中にある大滝の住民に聞けばわかるだろうと思って辻井商店を訪ねる

お店から出てこられた婦人の話しによれば3月23日に近い日で、だいたいが第三木曜日になるという。

間違いはないだろうと思うが、念のためをと思って、平成28年2月3日に訪問した際にお会いした辻井酒店主に電話を架けた。

少し待って教えてもらった行事は3月24日の木曜。

聞いていた条件通りであるが、来年の場合だったら、何時にされるのかわからなくなった。

行事が始まる時間も聞いてほっとする。

大滝に土倉庄三郎屋敷跡地がある。

その跡地に地蔵まつりがあると伝えるブログが何かの折に見つかった。

ブログ執筆者は森林ジャーナリストの田中敦夫氏である。

詳しいことは書いていないが、どことなく、それとなくという感じだった。

思いは募っていくばかり。

いつしか自分の目で確かめたいと思った。

川上村在住のMさんが、土蔵生誕百年祭があると賀状で伝えてくださった。

平成28年3月26日、たまたまの場でお会いしたのがキッカケになって土倉庄三郎屋敷跡地で行われている地蔵まつりを是非とも取材したくなったのである。

「土倉屋敷の地蔵さん祭り」は何時知ったのか。

私が残したメモによれば平成22年(2010)だった。

3月であるが日程は不明。

推定した場所は川上村大滝土倉庄三郎翁屋敷跡裏庭。

小学校跡地でもあるようだった。

その日の行事に赤飯ニギリの御供をする。

前日にはヨモギで搗いた草モチも作っているとメモを残してしていた。

その件に関しては、私の記憶から消えたが、当時、なんらかのネットを参照したのであろう。

いずれにしても地蔵まつりを知ってから7年も経っていた。

ようやく実見することになって取材熱が高揚する。

これまでの経緯を手繰る前置きが長くなってしまった。

着いた時間は10時半ころ。

私が来るのを待ってくださっていたのは電話を架けるなどお世話になった辻井酒店主。

当地は大滝の茶出垣内。

茶出と書いて「ちゃいれ」と呼ぶ。

おそらく「ちゃいで」が訛った「ちゃいれ」であろう。

かつてはお茶屋があった並びの軒。

現在は7軒の並びだという。

大滝は茶出垣内の他に、北出、中出、下出、上出に越出、小滝からなる。

茶出垣内が所在する地区の前を流れる川は吉野川。

大きく蛇行するところにある集落である。

田中敦夫氏がアップされる“幻の土倉屋敷”記事に掲載された昔の様相を伝える絵図を見ればご理解できるであろう。

絵図にあるように大滝の茶出垣内は蛇行する曲がり角にある集落である。

待っていたら、何人かのご婦人たちが動いていた。

御供の準備が始まったようである。

取材の主旨を伝えさせてもらって写真を撮る。

場所はバス停留待合所。



座る場所に並べていた。

手前や奥にも置いたコウジブタにはどっさり盛った紅白餅に緑色のヨモギ餅がある。

ご婦人が立っている場には皿に盛った漬物や酒の肴のようだ。

せわしなく動くご婦人はこの日の当番のMさん。

昨年に採取しておいたヨモギを冷凍していたという。

紅白の紅色は海老餅だという。

漬物は自家製。

コウコに菜っ葉である。

肴はチクワに明太子を詰めたものやチーズ入りのチクワもあればコンニャクを煮たものとか玉子焼きなどなど。

当番一人で作ったわけではなく隣近所の婦人たちも一緒になって作った。

それぞれが家で作った得意分野の料理をもってきたそうだ。



鏡餅や次から次へと運ばれるお供えは採れたて新鮮野菜もあれば、シイタケ、シメジもある。

神饌ものはスルメ。

お菓子に饅頭まであるお供えが満載でテーブルから毀れそう。

二段重ねの鏡餅にお神酒も供える。

真新しい赤い帽子や涎掛けをしてもらった地蔵さんは喜んでいるように見える。



地蔵さんの周りに花飾り。

風で消えないようにローソクに工夫して火を点ける。

そして、一同はブルーシートに座る。

導師はTさんが務める。

拍子木を打って唱える三巻の般若心経。



手を合わせて念じておられる人たちは茶出垣内7軒の隣近所組のみなさんだ。

前月の2月3日に訪れた大滝。

行事の日程や時間などを知りたくて再訪した。

訪ねたお家は辻井商店だった。

お店に出てこられた婦人が話してくれた昭和33年に襲来した伊勢湾台風である。

その年に嫁入りされた婦人。

台風の影響で大雨になった吉野川は豪雨。

前述したようにこの地は大きく蛇行する曲がり角。

一気に溢れた水の勢いに集落前の道路は水浸し。

あっという間に住まいが流されるほどの甚大な被害があった。

田中敦夫氏がブログにアップされている絵図でも読み取れるように垣根に囲まれた大きな家屋がある。

その家は土倉庄三郎屋敷跡の一部であろう。

30~40年前には屋敷があった。

屋敷の中に地蔵さんを祭るようになった。

そんな話をしてくださる割烹着姿の大滝茶屋のTさんである。

この日は吹き降ろす冷たい風が吹く。

熱心に唱える姿を目でとらえていた通りがかりの集団が居た。

何事をされているのか不思議そうに見ていた。

心経は5分間。

ただ、ひたすらに心経を唱えていた。

この場に居られたのは茶出垣内の人ばかり。

若い男性も茶出垣内の住民。

一人はこの日の行事を教えてくださった辻井酒店主。

もう一人は駐在さんである。

実はと云って話された特技がサックス演奏。

その腕を活かして駐在さんバンドを編成している。

バンド名は「川上駐在挽音(ばんど)」。

大滝駐在所に勤務する巡査部長のMさんもメンバーの一員。

音楽で地域での啓蒙、広報活動に慰問演奏もしているようだ。

地域安全に貢献する駐在さんは村の一員。

行事の場にも参列される。

女性が何人かいる。

うち一人の女性は賀状のやり取りをしていたSさんの奥さんだった。

Sさんは大滝より北方にある大字西河・大名持神社の神主役を勤めたことがある方だ。

平成19年12月2日に行われた神主鍵渡しの儀式を取材した。

そのときの神主であった。

引き受けたときに名を『神事記録簿』に書き記す。

これまで勤めた方々の記帳名簿を見られたSさん。

親父さんにお爺さんの名もあると云った。

親子三代に亘って記帳されていたのが印象的だったことを思い出す。

奥さんがいうには、この場に神社の神主を昭和54年12月1日に「右相受け申候也」と記帳した昭和5年生まれの父親も参列していると伝えられたときは驚いたものだ。

直会の準備をしている間に聞取りさせてもらったかつての土倉庄三郎屋敷。

当時を知る人は高齢者の記憶が頼り。

導師を勤めたTさんや大滝茶屋のTさんに昭和54年に大名持神社の神主役を勤めたSさんたち、高齢者だった。

昔は建屋の前に中庭があった。

そこは昭和33年に襲来した伊勢湾台風で流された。

そこにはひょうたん型の泉水があったが、建物は本屋の裏に移したという。

かつての建屋の配置を教えてくださる。

話される配置を聞き取った私は図面に書き記す。

田中敦夫氏がブログにアップされる絵図を思い浮かべていただきたい。

大きく蛇行する川に沿って道路を敷設している。

屋敷前の道路向こうにも茶屋が建ち並ぶ。

屋敷を見ていただこう。

道路に面する建屋が本屋と呼ばれる。

右にあるのが蔵である。

逆に左側は離れである。

離れは本屋よりも屋根が高い。

その関係で内庭が隠されている。

そこにひょうたん型泉水があったのだろう。

右手前は門屋。

左手前にも門屋があったそうだが、絵図では囲われており門屋らしきものが見られない。

樹木があるところが座敷。

ここら辺りが現在の地蔵さんがある場であろう。

石塔があったようで、「はっちゃんが下ろした」と口々に云う。

「昔に土倉家に出入りしてはった人がおった時代。家で地蔵さんの祭りごとをしていた。当時は8月24日にしていた」と話す。

また、「8月24日はお盆でもあった。お寺行事がそうだった。地蔵さんの祭りは4月24日にしている所もあった。その時期は柿の葉寿司作りが忙しい。そういうことがあって3月に移した」という断片的な経緯を話してくださる。

川上村村長を勤めた土倉家が当地を離れ、屋敷跡だけになったのはいつ頃であったのだろうか。

その件は聞きそびれたが、現在の地蔵まつりを始められたのは辻井商店のおばあさんが発起されたことによる。

時期は3、40年前だったというからずいぶんと幅がある。



そうこうしているうちに直会の準備が調った。

ペーパー皿に盛った手造り料理が席に廻される。

先にも挙げた煮込みコンニャクの椀もあれば、明太子詰めやチーズ入りなどなどチクワ盛り。

香物の皿もある。

その場にあったお櫃に目がとまった。

実はお供えはもう一つあったのだ。



栗入りの赤飯握りの御供はお櫃に盛っていたが、すっかり忘れていたと法要が終わってから直会の場に登場した。



他にエノキを添えた豆腐味噌汁もある直会料理を囲んでの会食。

国道から見れば、不思議な光景に見えることだろう。



国道辺りから様子を覗っていた集団が垣内の人たちに声をかけた。

その集団はNHK奈良放送局の撮影クルーだった。

クルーの話しによれば、毎夕方に放送している「ならナビ」の取材撮影隊であった。

近く放映が始まるシリーズ“やまと偉人伝“。

そのシリ-ズ1回目に選ばれたのは「土倉庄三郎」。

つい先ほどまで取材していた帰り道。

屋敷跡に建つ土倉庄三郎像を撮っていたときに気づいた地蔵まつり。

何をされているのか、と思って立ち止まって見ていたそうだ。

私はその間、ずっと心経を唱える様相を撮っていた。

終ってから高齢者が私に云った。

「あんたの仲間か」に「いやいや・・違います」、だ。

もしや、と思ってクルーに声をかけて説明したら、これはラッキーな場に巡り合わせ。

急遽、のことである。

土倉家が残した地蔵さんの祭りを取材しようということになった。

撮影隊の質問に応じてくださったのは当番のMさん。



皆が食べている間に応じていた。

懐かしい昔の話は割烹着姿のTさんがしていた。

そのときの模様は平成29年4月4日に放送された。

番組はNHK奈良放送局開局80周年の記念番組

村では英雄扱いされている土倉庄三郎編である。

天保十一年(1840)、大滝に生まれ育った。

偉人伝については放映を見ていただいたらいいのだが、いつの間にか放映当初にあったシリーズ1回目“やまと偉人伝 土倉庄三郎”編の動画が消えている。

録画しておいた当日放送の映像は、赤い帽子に赤い涎掛けをした地蔵さんからズームアウト。

「3月下旬、庄三郎の自宅跡に、地区の人たちが集まっていました。年に一度、庄三郎を偲んで、敷地に残る地蔵をお祭りするためです」と紹介する映像に図らずも・・一村民のような恰好で出演してしまった。

場面はすぐさま展開して、大にぎわいの御供撒きに転じた映像でフレームアウトした8分間放送。

地蔵祭りをしていた村人の承諾を得て、急遽差し込み映像にまさかの1.5秒も写り込んでしまったが、「写っていただろう」と連絡してきた人は誰一人いない。

映像に馴染んでいたから気づかれることはなかったようだ。

なお、放送された地蔵まつりについては、田中敦夫氏もブログでアップされていた

大にぎわいの御供撒きを撮影している撮影隊も撮りこんで記録する。



撮影隊が撮っていることもまったく気にせず、御供撒きに熱中する村の人たちの表情は実に明るい。

御供撒きをする側には駐在さんも。



白い餅に赤い餅、緑の餅が飛んでいるし、お菓子や饅頭も宙を飛ぶ。

そのうちに飛び出す黄色い色は蜜柑だ。



一緒に宙を飛んでいるのはサツマイモ。

なんと、どでかい白菜までも宙を飛ぶ。



これには笑えた。

県内各地で行われている御供撒きに白菜は飛ぶことがあるだろうか。

戦利品はダンボール箱に詰めて持ち帰る。



そんな様子にほっこりした大滝の地蔵さん祭り。

これからもずっと続けていくことだろう。

ちなみに当番のMさんは、奈良新聞社雑記帳集いの会員でもある。

随分前のことであるが、「雑記帳」に投稿された記事に興味をもったことがある。

平成22年2月2日号に掲載された吉野町丹治の「お地蔵さん」である。

その記事を拝読した私は投稿記事にあった厄除け地蔵参りを取材した。

それも先月の2月1日である。

雑記帳を拝読してから7年後にようやく実現した行事の記録である。

投稿記事にはもう一つの村行事があった。

丹治の地蔵盆である。

これもまた、平成26年の8月24日に取材した。

吉野町に住む投稿者のおかげは感謝である。

そんな話をMさんに伝えたら、奈良新聞社会議室にて数月に一度は20名ほどが集まる講演会を開催しているという。

機会を設けて講演をお願いするかもしれない、という。

読者に喜んでいただけるならば、講演はさせていただきます、と伝えたが・・・さてさて。

それはともかく、長年、賀状のやり取りをしていただいているSさんに、本日の地蔵祭りに寄せてもらったことを伝えておきたい、と思って勤務する役場を訪ねる。

ほぼ8年ぶりになるSさんは、またもや大名持神社の神主役を勤めることになったという。

2度目の神主勤めはそうそうないらしい。

(H29. 3.23 EOS40D撮影)

雨はすれども

2018年02月11日 08時45分46秒 | むびょうそくさい
昨夜から降り出した雨は止まず。

この日も週一ペースで通院している外来棟に向けて車を走らせた。

毎週の火曜日はリハビリ運動や循環器内科とか血管外科医の診察日に決めている。

曜日が替われば週の暮らしに支障をきたす。

そんな大層なものではないが、曜日を決めておけば家人も覚えやすく協力を得られる。

その週一ペースはいよいよ来週でジ・エンド。

ハッピーな日を迎える。

いつもの時間に家を出て走っていった。

途中でガソリン補給。

毎回のトイレも遣わせてもらっているガソリンスタンドは外来棟に通う道沿いにあるから翌日以降に遠出があれば補給しておく。

いつもそうしているが、行きになるか、帰りになるかは帰りの行程次第だ。

本日の帰りは天理のハッスル3でお買い物。

それを済ませば40日間、伸びに伸びた髪の毛の手入れ。

本数は少ない。

成長は遅い我が身の髪の毛であるが、何センチか伸びたら耳に被る。

その被り方で痒くなる。

伸びを放置すれば気にならんようにもなるが、とにかく40日間が過ぎたころに出かける散髪屋さん。

ほぼ20年間も通っている散髪屋さんは自宅近く。

髭剃りはしてほしいがシャンプーは要らん。

家に帰ってからお風呂でジャブジャブするから不要である。

つまりは調髪と髭剃りだけで1500円。

早期定年退職したビジネスマン時代からそうしてきた。

やがて年金生活になる。

少しでも経費節約になればと思ってそうしてきた。

そんな回顧をしながら到着した外来棟は駐車空き待ち。

行列車体はそれほど多くはないが、出庫待ちの車がなければ入庫ゲートは開かない。

入庫待ちの列に入る際に警備員が云った待ち時間。

20分から30分かかります・・・。

えっ、20分じゃなくて、30分も・・。

むむむ、である。

リハビリ運動の予約時間は午後1時30分。

現在時刻は午後1時15分。

これじゃ遅刻は間違いない。



とにかく出庫を待つしかないと思っていたら意外とスムーズ、でもなく開放されようとした時間は午後1時32分。

待ち時間は17分だった。

大慌てで受付を済ませて駆けつけたが、10分の遅刻。

準備体操が終わったばかりだった。

早速、心電図機器を装着して測った心拍数は47-48拍。

いきなりのスクワット運動は52-54拍。

運動次第で58-58拍。

まあ、こんなもんだ。

自転車ペダル漕ぎの慣らし運転が始まった。

そのときの血圧は125-59。

脈拍は50-51拍。

この日もほぼいつもと同じ。

いや若干低い方かも。

踏み始めて1分後のワークは55。

心拍数は57-58拍。

回転しだしてから2分後の脈拍は62-63拍。

だいたいがここらへんで正常値に達する。

6分後の血圧は144-60。脈拍は63-64拍。

11分後の血圧は125-48。心拍数は68-69拍。

調子はいかがと問うⅠリハビリ療法士。

この3月から担当する療法士。

呼吸も足もラクラク状態。

では、少し上げましょうと、ワークは60。

これでもまだ楽々。

すっごく楽とはよう云わんが楽々である。

とたんに汗、汗。汗が滲みでてくる。

心拍数もいっときは71-73拍にもなった。

16分後の血圧は136-58。脈拍は69-70拍。

21分後の血圧は134-56。脈拍は69-70拍。

汗、汗、汗、に首回りがにじみ始めた。

ラスト、26分後の血圧は124-56。脈拍は70ジャストで終えた。

自転車を下りてしばらくすれば53-54拍。



十分な心拍数になるのが気持ちいい。

(H29. 3.21 SB932SH撮影)

人力車でならまち巡り

2018年02月10日 09時48分03秒 | 奈良市へ
これほどの賑わいになるとは思ってもみなかった「ならまち」。

行政区域にその名はない。

「ならまち」の中心部はどこであるのか・・・。

元興寺極楽坊を中心としてもあまりにも広範囲。

近鉄電車がお勧めしているならまち巡りのコースは近鉄奈良駅がスタート地点。

東向き商店街から南に歩いてもちいどのセンター街を突き抜ける。

信号を東折れして元興寺極楽坊を目指す。

そこから奈良町資料館、庚申堂、十輪院、今西家書院としていた。

奈良市観光協会がお勧めする大まかな観光コースは四つ。

文化財、満喫、昔話、高畑コースである。えらい増えたもんだが、私が初めて「ならまち」を訪れたのは随分前のこと。

一眼レフカメラなんてものは持ち合わせていない。

手でフイルムを送るパノラマも撮れるOLYMPUS TRIP PANORAMA 2のコンパクトカメラ一台をもって闊歩していた。

たまたま入手したならまちを巡るスタンプラリーシートに載っていた有形文化財、施設などを見て廻った。

走っていたのは人力ではなくマウンテンバイクに跨ってである。

そのころはマウンテンバイクに目覚めて遠出を計画していたころ。

足慣らしにあちこちを走っていた。

入手したシートは「スタンプラリーならまちウォーキング’98」ラリー。

’98の表記があるから1998年の平成10年。

その年は9月8日から9日の二日間もかけて淡路島を一周していた。

話は戻すが、ならまちを訪れていた平成10年は観光客どころか町の人も見当たらないほど簡素な状況であった。

それを長閑だとはいえない町屋の佇まいがあった。

スタンプラリーで訪れた施設は行った順に奈良町物語館、奈良町資料館、時の資料館、寧屋工房、御霊神社、ならまち格子の家、元興寺小塔院跡などなど。

24カ所の施設を巡ってスタンプを台紙に押してもらったらプレゼントが貰える。

スタンプは全カ所でなく13カ所。

それが目当てだったスタンプラリー

主催は財団法人世界建築博覧会協会・ならまち振興財団であった。

このスタンプラリーがいつまでしていたのかは覚えていないが、翌年の平成11年に再訪したときはわりあい、というか、そこそこの人たちが訪れていた。

この日に訪れた19年後のならまち界隈に人力車夫(平成5年設立・観光人力車やまと屋奈良)が観光案内をしていた。



ここまで賑わうとは想像だにしていなかった。

「ならまち」の町づくりの始まりから現在に至る変遷は『新奈良町にぎわい構想(修正案)』に詳しい。 

ちなみに撮影地は奈良町資料館の真ん前である。

先月の2月28日から開催されていた川島朱実さんの写真展は好評のうちこの日がラストデイ

何度見てもほれぼれする写真に感動していた。

私も何度か展示をしたことはあるが、展示する写真は定型版である。

大多数は大判であるが、私は4pwオンリー。

展示するサイズはすべて同じである。

それが一般的な写真展の在り方。

尤もクラブなど団体展は若干の差異はある。

それが、だ。

川島さんの作品は定型でない。

大きな枠の中にいろんなサイズの写真で表現している。

形式に拘らない写真作品は一枚、一枚、どれをとっても見飽きない。

無駄のない写真もさることながら無駄のないような配列は縦横自由往来。

余ったわけではないが、数枚の写真は床に2枚。

細めの壁板に一枚。

これらの写真もモノを言う。

まいった、である。

(H29. 3.20 SB932SH撮影)

上狛のヒイラギイワシに現役井戸

2018年02月09日 09時14分11秒 | もっと遠くへ(京都編)
O家を失礼してもう1軒のお家を訪ねる。

そのお家もO家と同様に貴重な大晦日の砂撒き習俗を取材させていただいたM家。

ご主人は不在であったが記録させていただいた写真をお渡しすることができた。

そのM家玄関にあった節分の魔除け。

ヒイラギイワシである。

迫力あるイワシの姿に圧倒する。

同家で行われている年中行事が色濃い。

正月の餅搗きもあれば、三宝飾りまで拝見した。

同家の習俗を収録し厚くて大きな民俗本も拝見していただけに節分は当然にあるだろうと思っていた。



まさに、その通りの同家には今でも現役活躍中の懐かしい井戸もある。

かつて井戸は釣瓶で井戸水を汲んでいた。

その後は汲みあげ式の鉄製手押しポンプが登場する。

今でも製造販売されているようだが、生活文化の発展にともなって改良されていく。

ちなみにネット探しに汲み上げ式手押しポンプが見つかった。

それも「元祖オリジナルトップブランド」の会社があった。

同社のHPによれば大正時代に開発・製造販売された昇進ポンプ。

おふくろが生まれ育った大阪南河内郡・錦織の母屋にもあった井戸揚水手押しポンプ。

懐かしさの思いが蘇って撮らせてもらったが、さらにネット調べにウキペディアにあった結果である。

広島県の津田式ポンプ製作所製もあれば、ガチャポンで呼ばれた名古屋の鋳造会社。

そして、戦後に主流、「元祖オリジナルトップブランド」を称していた東邦工業製がある。

昭和30年代後半に一般水道が普及するころから徐々に・・廃れることもなく電動式ポンプに移っていた記憶がある。

やがて井戸の蛇口も一般水道型に移り変わる。

そのころの私は小学生から中学生のころ。

学校でも蛇口を捻っていた。

その蛇口を「ひねるとジャー」と呼んでいたのは同世代。

山添村の大字大西でチョウジャドンの祝い膳を取材させていただいたお家の婦人も、そう云っていたことを思い出す。

(H29. 3.20 EOS40D撮影)