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小説 囚われた男(26)

2007-01-20 11:24:48 | 小説
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 日曜日は晴れて気温も上がり、五月中旬の暖かさになる。こうなると部屋でじっとしていられなくなる。ましてや、金曜日の大仕事を前にして、筋肉のたるみを放置しておくわけにいかない。
 そこで近くのジムに出掛けレッグカールマシンやチェストプレスマシンなどを使い、やわな筋肉を目覚めさせることに専念する。二時間ほどのトレーニングで大いに汗をかき、久しぶりに爽快感に浸りながら自宅に戻った。
 熱いシャワーを浴びて冷えたビールを飲むと、この世の幸せをいっぺんに与えられたような気分になる。春のやわらかい陽射しが、リビングを覆い尽くし、目を細めなくてはならない。
 数本のビールで、ますます浮き立つような気分に見舞われ、ステレオ装置にオスカー・ピータースン・トリオのCDを挿入して、繊細で力強いタッチの演奏を聴いていると、ふと久美子のことが浮かんできた。

 そういえば、住所も電話番号も伝えていない。それに、彼女の住所や電話番号も知らない。ただ勤め先とフルネームを記憶しているだけだった。大手町にある商社ユニヴァースの総務課江戸川久美子。これだけあれば連絡はたやすいことだ。電話帳で調べてメモをして、明日電話してみようと思う。

 午後は、「ダスト」の続きを読んで過ごした。地球が焦土と化したあと、一部の科学者は飛行船で、大西洋の真ん中にあるポルトガル領アゾレス諸島に脱出し、クローン技術によって、古代から樹液にまみれて土中深く眠っていた蝶のDNAから雌雄を再生し、二十年後にようやく地球が甦る入口に達する。

 著者は、壮大な地球の崩壊を描き膨大な科学の知識を駆使し、読者を深い地球のど真ん中に引きずり込むように捉えて放さない。とりわけ、昆虫の果たす役割には畏敬の念とともに感動で震えるほどの衝撃を与えられる。
 また、著者のメッセージにも、今までにない感興をそそられ深く考え込む要因になった。つまり、“わたしは、昆虫たちに畏敬の念を抱いていた。例えば、アリの頭脳は、現在設計段階にあるどんなオートマシンよりも効率的働きを見せるし、自己増殖マシンを実現させるために必要な本質的作業の束の中には、壮大な工学プロジェクトを実現可能にするばかりか、それを低コストで実現させるためのテクノロジーの進歩への鍵が秘められているのだ。
 われわれは、誰しも昆虫に畏敬の念を抱き、昆虫に取り憑かれるべきだろう。昆虫たちが湖や川や森林、土壌、そして究極的にはわれわれ人類を、いかにして支えているか、と言う点も含めて、このちっぽけなアリが道で前を横切ったとき、読者の心にひとかけらの好奇心が――望むらくは感謝と驚異の念も――こみ上げてきたなら、作者であるわたしが望んだ役割のひとかけらなりと果たしたことになる”

 生実がジョギングへの往復で地面を横切るアリの存在に、敬意を持ち始めたのはこの本がきっかけだった。それに、本人は自覚していないが、明らかに以前の生実とは違っていた。生実は考える。人類が地球上にいなくなったとして、何か不都合なことが起こるのだろうか。いくら考えても不都合はまったくないという結論に達した。長い時間がかかったが、今、生実には人間性の萌芽が見え始めていた。