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小説 囚われた男(27)

2007-01-24 13:31:39 | 小説
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 江戸川久美子は、通勤に便利だという理由で、東京メトロ東西線浦安駅から徒歩十八分の1Kのアパートに住んでいる。何しろ大手町から浦安まで、快速を使えば十六分という近さ。それに午前七時台は三分おき、八時台は二分おきに電車がやってくる。こんな便利なところは、即座に気に入ったが、アパートの狭さには閉口する。しかし、通勤時間のことと家賃の安さを考えると我慢するしかない。
 それにしても、日本の住宅事情は最悪だ。経済大国と外国からもてはやされ、主要国サミットに誘われていい気なもので、援助、援助と外国に金をばら撒き、自国民の住まいはウサギ小屋と揶揄される始末。久美子はそれを考えると革命を起こしたくなる。
               
 思い悩んでも仕方がない。暖かくなった今日の日曜日、束の間の息抜きをしない手はない。息抜きといえば、何も考えず頭を空っぽに出来るものを選ぶ必要がある。彼女の場合、それはジョギングということになる。
 クローゼットから体にぴったりとフィットする黒のトレーニング・パンツ、それにスポーツ・ブラで大きめの乳房の揺れを抑え長袖のTシャツを着る。その上に濃い紫のウィンド・ブレーカーを着込む。
 アパートから旧江戸川の堤防に向かう間、行き交う人々にことごとく注目される。注目されるぐらいはいいほうで、凝視されるほうが多い。特に男から。女からは嫉妬と羨望が入り混じる。
 それはそうだろう。ウィンド・ブレーカーといっても腰のところで絞ってあるので、ヒップラインから下は、プリンとした尻とすらりとした足の体形通りのシルエットが浮き彫りになる。せめて顔は隠したいと、ベースボール・キャップを目深にかぶる。

 旧江戸川を今井橋で渡り江戸川区に入って、サイクリング・ロードに向かう。このサイクリング・ロードをさかのぼると、寅さんで有名な柴又帝釈天にたどり着く。
 堤防でストレッチを入念に行い、上流に向かってウォーミング・アップのゆっくりとしたペースでスタートを切る。五分ほどはそのままのペース。
 目を左右に流しながら、建て込んだ人家や町工場を眺め、江戸川区は、実家があった地域だ。
 久美子の両親は、下町のよさが薄れたのを機に、千葉の郊外に引っ越した。久美子はそこで育った。大学を出て商社ユニヴァースに入社。しばらく実家から通勤していたが、時間がかかるのを口実に一人住まいを始めた。本当の狙いは、女の恋人との逢瀬を楽しむためだった。
               
 三十分ほどで折り返して、快調なピッチでスタート地点に戻る。額に薄っすらと汗が浮き、Tシャツも汗まみれだった。それでも呼吸の乱れはない。ますます調子づいてくる。しかし、ペースはきっちり守らなくてはならない。スタートしてから一時間後、約十五キロのジョギングを終える。
 下流にはディズニーランドがあり、こんな近くにいるのに一度しか行っていない。久美子はああいう人ごみは苦手だった。ストレッチのあとゆっくりとアパートに戻る。

 着ていたものを洗濯機に放り込み、シャワーを浴びる。鏡に映る肌は、ピンク色で実に健康的だ。ジョギングによる効果が現れている。そこで唐突にクルーザーでのシーンが浮かんできた。
 男とのキスは初めてだったが、そう悪いものでもない。かといって強く求めているわけでもない。今は悩み多い段階と言ったところ。
 コーヒー・メーカーにキリマンジェロの豆を入れて出来上がりを待つ間、別の思いが浮かんできた。弟信治のことだった。三十近くにもなっているにも拘わらず、定職もなく高校時代の悪ガキ連中と今でも付き合って、何を考えているのかさっぱり分からない。悪いことに走ってくれなければいいのにと、いつも悩んでいる。
 
 そういえば、自分自身、半年以上実家に電話をしていない。信治のことばかり責めているが、自分も親不孝といわれても言葉が返せない。受話器をとってダイヤルする。三度の呼び出し音で母が出た。
「母さん? 久美子よ。みんな元気にしてる?」
「久美子かい。久しぶりの電話ね。元気にしているよ。お前も元気そうだね」
「ええ、健康だけが取り柄だから。父さんも信治も?」この質問に母は言いよどんだ。
「……」
「どうしたの? 何かあったの?」
「父さんは相変わらずよ。ただ、信治の様子がね。つまり元気がないの」といって溜息をつく。
「いつから? 信治は何か取り付く島がないように感じるけど」久美子も心配そうに言う。
「最近特に、自分の部屋に引きこもって、ものも言わないのよ」
「詳しいことを聞く必要があるわね。わたしはしばらく仕事が忙しくなるから、そちらに行ける時間が出来たら電話する」
「そうしておくれ」母はか細い声で言った。久美子は「それじゃまた」と言って電話を切ると、がくんと疲れに襲われた。

 母にはやっぱりちょくちょく電話をしなくちゃ。心配しているのは明らかで、父とは違う。父は定年のあと、どこにも勤めず家でテレビを見て過ごしている。体を動かそうともしない。病気と言うほどのものはなく、高血圧症で近所の内科医院に通って、降圧剤の処方をしてもらっている程度だ。
 現役のころの仕事は、財務部門を専門としていて、そちらの知識は豊富だった。仕事を離れると意欲がなく抜け殻同然になった。久美子の会社にも仕事人間がいる。その人を見ると父を思い出す。父も子供のことを心配しているのだろうが、口には出さない。不器用な人だ。
 よく考えてみると、苦しみや悩み、迷いといったものに、心から手を差し伸べるのは、家族以外考えられない。もしかして、信治もSOSを発しているのかもしれない。そうだ、忙しくても、今度の日曜日に実家に行ってみようと久美子は考えていた。