台風の接近もあって空は曇っていた。先週なかばも同じように台風がやってきた。いずれも日本列島を横目で見ながら、関東沖を遠ざかっていった。
そんなわけで、すっきりとした秋晴れに恵まれない金曜日のドライブとなった。最近は、土・日になると東京湾アクアラインがETC搭載車800円の影響で、千葉方面への下りが渋滞している。ということは、千葉方面に来る車が多いということになる。
私のような時間に余裕のある年代は、毎日忙しくしている人たちの邪魔をしないのも肝心なことと思う。そこでウィークデイのドライブとなった。館山自動車道を1時間も走れば着く場所ではあるが、あえていつものように県道や地方道を走る。
走る道によっては、対向車も時折見かけるという、眠気を催すほどのんびりとしたものだった。道路脇のピンクと白のコスモスや赤い彼岸花を眺めながらのドライブとなった。
尾根を走る県道163号線は、対向車が少ない
鹿野山付近の県道163号線は、低い尾根を縫うように走る。地方道93号線に飛びだしてすぐのところに神野寺がある。
むき出しの板に書かれたお寺の由来は、真言宗智山派鹿野山神野寺といい、推古天皇6年(598年)に聖徳太子の開山、天安元年(857年)には、慈覚大師円仁が再興した。平安時代から鎌倉時代にかけては、天台宗の霊場として栄えた。
永正年間(1504年~1521年)には、紀州高野山から弘範上人(こうはんしょうにん)が來山、真言密教の法燈を立て、荒廃していた寺を復興した。天正19年(1591年)に徳川家康は寺領ならびに格式十万石の大名格を寄進している。また、この年に伽藍や僧坊を造営している。
元和7年(1621年)12月、坊中から出火して堂宇を焼失した。その後、住職たちによって再建して行ったが、大正6年(1917年)9月の台風によって仁王門その他の建造物が倒壊した。その後も住職などの努力で復興して現在に至る。
本尊は、薬師如来と軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)で、秘仏となっている。ちなみに、軍茶利明王は、軍茶利夜叉明王とも言われ一面八臂の姿で、手は2本の腕で三鈷印を結び、他の腕には武器や斧を持ち、顔は三ッ目でとぐろを巻く蛇を身にまとった姿で密教においての宝生如来の教輪転身とされ、さまざまな障碍を除くといわれる五大明王の一尊。
その五大明王というのは、不動明王、降三世明王(ごうざんせみょうおう)、軍茶利明王、大威徳明王(だいいとくみょうおう)そして金剛夜叉明王という。このあと鋸山の日本寺に向かった。