井沢元彦著「古寺歩きのツボ」にもリスト・アップされ、古い歴史を持つが、現在は石仏の寺として有名。高さ31メートルの大石仏がある。眺望絶佳と紹介されている。
千葉県金谷と神奈川県久里浜を結ぶ東京湾フェリーの金谷と保田との中間に位置する鋸山は、有料ドライブウェイとロープウェイが山頂まで通じている。私たちは、無料の自動車道で中ほどにある無料駐車場まで上った。ここへ行くには、国道127号線とJR内房線が平行に走る元名海岸付近で、内房線の下をくぐり抜けていくことになる。少し分かりづらい場所だ。事前にインターネットで日本寺のホームページから案内図をダウンロードしておいたほうがよさそうだ。
元名付近で正午が過ぎていたので、いつものコンビ二の弁当でなく食堂に入った。お昼時なのにお客は一人もいない。アジのフライ定食を注文した。海を見るには絶好の位置にあって、太平洋が果てしなく広がり、かすんだ曇り空が海の色を灰色に染めていた。私たちの食事が終わった頃、サラリーマン風の営業マンと思しき二人の男が入ってきた。つづいて三十代の女性二人も入ってきた。歩いてすぐのところに元名海水浴場があって、夏季はこの食堂も賑わうことだろう。
日本寺の駐車場には、十数台が見えた。拝観料一人600円を払い、おじさんの初めてですか? の問いから、効率的な拝観順路を教えてもらった。
順路の階段
標高300メートルの境内は、階段が縦横に走り、かなりの運動を強いられる。このお寺へは、ウォーキング・シューズか、ジョギング・シューズのような歩きやすい靴が必携だ。私はジョギング・シューズに履き替えたので何の問題もなかった。大石仏、千五百羅漢、百尺漢音などを巡って1時間半の所要だった。
さて、このお寺の由来は、約1300年前、聖武天皇の勅詔(ちょくしょう)と、光明皇后のおことばをうけて、神亀2年(725年)高僧行基菩薩によって開かれた勅願所で、乾坤山(けんこんざん)日本寺という。聖武天皇からは、国号の「日本寺」の勅額、宸翰(しんかん)並びに黄金5千貫を、光明皇后からは手ずからの刺繍になる三十三観音の軸物および御戸帳料綾錦十匹を賜る。
ちなみに御戸帳というのは、本尊の前に垂らす幕のこと。また、綾錦は、美くしい絹織物のことを指し、多彩な着物、紅葉の鮮やかさを形容する言葉。さらに十匹の匹は、布地二反を単位として数える言葉で、一反は、長さ10メートル、幅約34センチで、成人一人の和服が作れる。ということは、かなり豪華な幕を賜ったことになる。
はじめは法相宗に属し、次いで天台、真言宗を経て徳川三代将軍家光のとき、曹洞宗になって今日に至る。
大 仏
お寺の売り物の一つ大仏がある。江戸時代末期から昭和41年まで風化に任されていたが、昭和44年(1969年)に復元された。原型は天明3年(1783年)大野甚五郎英令が、門弟27名とともに3年を費やして完成させたものという。
百尺観音
百尺観音から仰ぎ見る崖の先端(展望台になっている)
次いで百尺観音。これは現代の人間が作ったもので、昭和41年(1966年)完成というから古いものではない。発願の目的は、先の大戦の戦死病没殉難者供養。東京湾周辺の航海、航空、陸上の交通犠牲者供養として造営された。
首なし石仏がずらりと並ぶ
私が最も印象に残ったのが、千五百羅漢の中に石仏の首がないのを多く見たことだ。風化して自然になくなったのかと思っていたが、案内図でコースを教えてくれたおじさんに尋ねると「あれは廃仏毀釈のせいですよ」と言う。
明治の初期までは、土着の信仰と仏教信仰を折衷して、一つの信仰体系としていた。今でも寺院と神社が同じ敷地に並存しているのを多く見かけるが、それがその名残だろう。ところが明治新政府が、神仏習合の廃止、神体に仏像の使用禁止、神社からの仏教的要素の払拭などを含む神仏分離令を発令した。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の取り壊し、仏事の禁止、民間への神道強制などを急激に実施したため大混乱となった。仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動とも呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまった。千葉県の鋸山には五百羅漢があるが、すべての仏像が破壊された。現在は修復されている。とウィキペディアにある。
灰色にかすむ金谷港