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司馬遼太郎の「忘じがたく候」は、3編からなっていて「故郷忘じがたく候」が主題であるが、私はむしろ「胡桃に酒」が興味深かった。
これは細川忠興(ほそかわ ただおき)とその妻たまの愛憎を細かく描写してある。たまは、明智光秀の三女で、キリスト教の洗礼を受けた細川ガラシャといえば思い当たるだろう。しかも大変な美人で教養豊かだったと言う。
夫になった細川忠興は、戦に精通していて数々の武功を立てている。一方政治的才能にも恵まれていた。和歌や能楽、絵画に通じ茶人としても利休七哲の一人に数えられる。戦国時代の武将としては有力な才能の持ち主と言える。ただ一つ危惧すべき点は、並外れたやきもち焼きだったことだ。
嫉妬心は誰にでもあるが、忠興の嫉妬心は病的だ。たまを屋敷の奥深くに住まわせ側近と言えども男は一切口を利けなかった。従って、たまの侍女が取り次ぐことになる。
その嫉妬心の過激さは二つにエピソードで描かれる。忠興とたまが座敷にいた。寒い日だった。たまが厠に立った。出てきて手水鉢の水で手を洗いながら庭師に声をかけた。
「寒いね」庭師は驚いた。高貴な人から声をかけられてどうしていいかわからない。とっさに「へい、お寒うございますことで」と言った。
これが庭師のこの世の最後の言葉になった。忠興は激怒して一刀のもとに首をはねた。
もっと恐ろしいのは、たまが何事も起こらなかったように顔色一つ変えず水で手を洗っていたことだ。この恐ろしいと言うのは、忠興にとってで、忠興は「蔑まれている」という思いに沈んだ。その後、たまは持仏堂に入った。持仏堂は忠興も入れない。忠興を見たくないという一心からだった。
同じように植木職人にも行っている。ちらりとたまを見たからだという。これではこの世の男を全部殺さないとすまないかもしれない。困った性癖だ。
こういう男だから、秀吉が大名の奥方を片っ端から犯してるのを聞くと、ますますたまを幽閉するようになる。しかも、もし秀吉がやってきたら自害せよとも言う。爆破装置のある部屋を作ったともいう。
逆に言えば忠興は、妻を心から愛していて愛おしくて仕方がなかったのかもしれない。美人の妻を持った経験がないからなんとも言えないが、想像するに美人妻だと会社に出勤しても心配で仕方がないのかもしれない。その点、私は気苦労がなかった。幸せと言うべきか。
忠興がこういう性格だから小説にしても映画やドラマでも主人公にはなり得ないようだ。有能な武将だったのに残念な気もする。
題名の「胡桃と酒」は、たまがくるみを食べ酒を飲んで具合が悪くなったことがある。つまり食べ合わせが悪かったというわけ。それを比ゆ的に忠興とたまの夫婦仲の悪さを表したものである。
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浜野卓也の「細川忠興」は、当然のことながら忠興の戦功や政治的能力、それに文化人としての生涯を描いてある。夫婦仲は悪いとは書いていないし、むしろ睦まじさを強調しいるようだ。
作家の主観だからどちらでもいいものだが、こうも違ってくると考え込んでしまう。同じ史料の中から作家の洞察力と創造力や想像力で味付けして作品を生んでいく。
浜野卓也のほうは、どちらかというと教科書に少し物語性をつけたような記述だった。両方を読んで自分なりに消化するしかないのだろう。
折角細川忠興を読んだのだから、今度は、妻の細川ガラシャについて三浦綾子の「細川ガラシャ夫人」を読むつもりだ。