猫とマンガとゴルフの日々

好きな物を題名に↑ 最近はゴルフとグルメお出かけ主体に。以前は1960年~70代マンガを紹介していました。ネタバレ有り。

大エルミタージュ美術館展

2006年11月06日 18時31分26秒 | お出かけ・旅・美術・博物館
 秋晴れの11月4日(土)、上野のお山の東京都美術館へ文化の香漂う、「大エルミタージュ美術館展」 を鑑賞に伺いました。

  
                 


 ちょっと嫌味ッぽいのは・・・・。期待していたのとちょっと違ったから。我々夫婦の夢は、実物のエルミタージュへ行って、建物からインテリアから、美術品からゆったりと見たいという事。先日この美術館展に合わせてTV番組をやっていたように、空いた館内をじっくりと、というのが夢です。でもそれはやっぱり夢で・・・。

 わかっちゃいたけど、凄い人波、疲れました。平日は来られないしねー。結構お年を召した方いたけど、平日に来てくださいよね。自分だって大変でしょ。現役世代 (つまり我々) は休みしかこられないんだしさ。引率の人が休めないのかしら。

 いや、混むのはしょうがないのですが、展示品の選び方というか、日本人好みのものばかり集めているのはいいのですが・・・。つまりメジャーな作家の作品ばかりで、エルミタージュの特徴ある品揃え (?) を期待していた私には 何 ? な感じでして。つまり、よく知らないひとなら、「これ、ルーブル美術館展よ」 と言っても、 「大英博物館展よ」 と言っても分からないのじゃないかという事です。

 宣伝文句が、ヴェネツィア派からモネ、ゴーギャン、ルノワール、ピカソまで はっ?
 
 ロマノフ王朝のニコライ2世の絢爛豪華なインペリアル・イースターエッグは~ ? あれはロシアではクレムリン博物館にしか無いの ? ピョートル大帝やエカテリーナ2世の愛したお手元品とかの展示は無いの~ ? 私、そう言うものが見たかったのだけど。

 どうしても、誰にでも分かるものばかりになってしまうのかいな。



                  


 入り口前の広場でパーフォーマンスをやっていました。一人で太鼓とか他の楽器も使って、凄かった。ほかにもアクロバットみたいのを準備中の人もいた。



                 



       上野恩賜公園内では、佐賀県の物産と全国大陶器展もやっていて、文化の秋です。



                 一日楽しく遊んだので、良しという事で。               


コメント (4)
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「トキワ荘物語」 ①水野 英子

2006年11月06日 13時30分19秒 | まんがエリートのための雑誌 COM
 まんがの「トキワ荘物語」は、COMに1969年10月号の 水野 英子氏から1970年9月号の最終話 手塚 治虫氏まで、11回の読みきり連載で掲載されたものです。


                 


              
              「トキワ荘物語」の連載されていた11ヶ月分のCOM 5・6月号は合併号




                         


                10月号は水野氏、下の11月号には寺田ヒロオ氏が執筆しています。表紙はこの頃 フリーランスになった前後の和田 誠氏が描いています。

  記事アップした最初、表紙を やなせたかし氏 と間違えておりました。お詫びして訂正させていただきます。(2007年3月26日)


 手塚 治虫氏が最初に入居してから漫画家の卵たちが次々に入居し、巣立っていったマンガ虎の穴 (?) のアパートの物語。後に有名になって大家と呼ばれた方々の仲間の事やら貧乏やら成功やら挫折やら、つまり楽しかった青春の日々がつづられていて、どれも当時面白く読みました。今回読み直してみると、当時はわからなかった大人の事情も分かってきて、(なにしろ連載当時は私、中学生でしたから)
感慨深いものが在ります。

 では、はじめを飾った水野 英子氏の作品から。文中の黒字は、作中のセリフおよび文章です。

 私がトキワ荘に来たのは、たしか昭和31年の春でした。当時「少女クラブ」の編集員だった 丸山 昭氏に連れられて、胸ときめかせながら上京第一歩をふみだしたのです。ニキビはなやかな17歳でありました。

 そこには石森(当時)章太郎氏、赤塚不二夫両氏が待っていて、垢抜けない、元気いっぱいの水野氏 (ごめんなさい、そんな風に描いてあるのです) は、

 「これ女 ?」 「ハァそのつもりですけど」 

 といわれる始末。ちなみに水野氏の服装は上が制服のセーラー服、下はズボンといういでたち。

 私がここへきた一番の目的は、石森・赤塚両氏と三人で U・マイア (うーまいや)の名で 「少女クラブ」 に合作をする事でした。

 「赤い人黒髪」 歌劇 「サムソンとデリラ」 より 少女クラブ 別冊付録
 「星はかなしく」 歌劇 「アイーダ」 より    少女クラブ 別冊付録
 「くらやみの天使」 連載ミステリーもの  

 水野のM(マ)、石森のイ、赤塚のア、それにUをつけるとU(ウー)・マイアーというわけ。
 夜ともなれば話の落ちること落ちること。それまでわたし、なんにも知らない純情な乙女だったのよ


 新入りの新鮮な血が好きな南京虫の話とか、
タバコを煙突みたいに吸っている人はまずいのかな (石森氏のことでしょう)

 ゴキブリを追いかけたり、ネズミを見せてもクモを見せても驚かない水野氏に
「やっぱりあれ、女か?」 「つまんねえよ、こいつ何を見せてもこわがらねえんだ」
 と赤塚氏に言われ、そのくせ男性陣がブルーフィルム(ふるいねー)やヌード写真などを見るときだけ女扱いされ、そんな

 初夏のある日、石森氏のお姉さんが喘息の発作で入院、急死、あの夜、そんなこととは知らず三人で映画なんかいったっけ。胸の痛む思い出・・・。

 石森氏のお姉さんは本当に優しい美人だったらしく、藤子不二雄氏の回にも、

 台所にカ・カレンな美女がいる ! 

 と氏の最上級の美人顔で登場します。水野氏も

 優しい素敵なひとだったナ

 と言っています。石森氏がマンガを描く事に理解のあったお姉さま、話には聞いていましたが、本当に若くして亡くなっていたのですね。
 
 食事の世話は赤塚さんのおかあさんがいっさい見てくれることになり、アパートの部屋代三千円、食事代がだいたい四千五百円くらいで、一万円で十分な生活が出来ました。

 昭和31年といえば、戦後11年目 もう「戦後ではない」 と白書が言ってからでも2年足らず、私は幼稚園に入るか入らないかの頃ですもの。流石にこの頃のマンガは覚えていません。でも、トキワ荘のようなモルタル2階建てのアパートは子供の頃まだいっぱいあって、ひとりものとか、若い夫婦ものとか住んでました。見取り図も出ていますが入り口の電灯はこんな感じかな ?


               


 あはは、すいません、うちの近くのモルタル2階建てアパートの入り口そばの電球です。まだあるんですよ、こんなのが。うちの方、下町だから。

 長くなってしまったので、やっぱり一人づつUPします。本当は二人くらいまとめて書きたかったのですが。長期連載、こうご期待 

 


コメント (7)
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