猫とマンガとゴルフの日々

好きな物を題名に↑ 最近はゴルフとグルメお出かけ主体に。以前は1960年~70代マンガを紹介していました。ネタバレ有り。

秋の上野恩賜公園

2006年11月27日 12時52分52秒 | お出かけ・旅・美術・博物館
 上野恩賜公園の噴水より、博物の殿堂 「東京国立博物館」 を見る。

 11月25日(土)、秋晴れの東京地方、一木彫りの 「仏像」 を見に東京国立博物館へ行ってまいりました。その前に上野恩賜(おんし だからね)公園をぶらぶら。天気もよいし、折から美術館、動物園に行こうという家族連れなどがわんさ、わんさ。土・日はいつもお祭りをしているような人ごみです。
 いつも良く道と少し違う道を通ったので、「正岡子規記念野球場」 などというところの横を通りました。翌日のニュースで、野球を日本に紹介した 正岡子規 を偲んで当時のユニフォームを着て、当時のルールでおじさんたちがここで野球をやってました。

 日当たりの良い公園のベンチは、ブルーシートから出てきたおじさんで占領されています。日向ぼっこ及びお昼に救世軍から配られる食事待ちのようですが、あまり良い風景とは言い難い。上野公園は凄いんです。何百というブルーシートの家が木立の中に並んでいて、暗くなるとちょっと女の一人歩きは怖い。追い出しても又帰ってくるんでしょうか。
 北海道など、寒いところの人には考えられないでしょうが、都会はなんとか生きられるのでしょう。うちの近くの大きな川の河原にもぽつぽつ並んでます。あんな所に住む位なら、どんな仕事でもするよとか、家族の元に帰るよ、なんて考えは最初から無いんでしょう。
 あれ、話がドンドン横に・・・。失礼しました。


                 


                    黒にゃんの兄弟がいたんですよーーー!

 黒にゃん好きとしては触りたかったけど、しっかりと触らせてはくれませんでした。惚れ惚れするくらい2匹とも大きくて立派。


                 


 今日ここに来た甲斐はあったわ・・・ふにゃ~ん。いや、まだ博物館行って無いし・・・。
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「トキワ荘物語」 ⑧ 赤塚 不二夫

2006年11月27日 11時19分27秒 | まんがエリートのための雑誌 COM
 赤塚氏については、簡単に はてなダイアリー から引用させて頂きます。


漫画家。俳優。

1935年9月14日、旧満州熱河省承徳の生まれ。帰国後に奈良、新潟で育つ。本名:赤塚藤雄。

1962年、「おそ松くん」大ヒット。1997年、食道がん発覚。1998年、紫綬褒章受賞。

トキワ荘、入居経験あり。アルコール中毒。

一時期、筆名を山田一郎に変えていたことがある。

漫画の中に編集者を出した最初の漫画家だと言われる。

また、俳優としても数多くのドラマや映画に出演している。

タモリを芸能界に送り出した人でもある。


■代表作

天才バカボン
おそ松くん
ひみつのアッコちゃん
もーれつア太郎

例によって、文中黒文字は作品中のセリフおよび文章です。

 表紙は、トキワ壮に入っていく路地の入り口の絵。片目の猫つき。誰が描いても、右側の塀の下にブロックのようなものがいつも積んであります。いつまで片づかなかったんだろう ?

 欄外に、「トキワ荘物語」 なのだ! 赤塚不二夫でやんす!読むべし!の文字。

 僕がトキワ荘へ引越しのは昭和31年のことだった。そのときの持ち物は雑誌とまんがの道具だけ・・・・・・。これからおれどうなるんだろうなあと部屋の真ん中で腕組みしている赤塚氏。
 
 赤塚氏の部屋の下は共同炊事場で、夏の暑い日など我慢できないくらい熱そうだ。しかし、お金がなくてフロに行けない赤塚氏、みなが寝静まった夜中に炊事場へ行き、裸になって・・・。水道の蛇口を全部あけ、流しに横になって水浴びをしていた。

 いい気持ち

 突然戸がガラっと開いて、驚いた赤塚氏、頭を蛇口にぶつけてしまった 
 入ってきたのは石森氏。結局二人で水ブロとしゃれ込んだ。なぜか石森氏、赤いベレー帽を被ったままです。

 最初は机が無かったので、森安氏からもらったベニヤ板を窓の敷居にクギで打ちつけ、手前は本を重ねて高さ調整して使っていた。ある日急ぎのカットの仕事が入り、張り切って担当者を待たせて描いていると・・・。最期の最期でクギが抜け、墨汁が飛び散ってカットが台無しに。早く描いていいところを見せるつもりが・・・、というエピソード。

 ちきしょう 机さえあればなあ
 
 よっぽど悔しかったんでしょうね。他の人が徹夜で仕事するのを見て、徹夜で仕事してみたいと思ったり。石森氏の仕事を手伝ったりして、自分は中々売れっ子になれなかったのです。

 みんなバリバリやってるなあ・・・ 俺はだめなんだなあ・・・

 寺田氏にまんがをやめてボーイにでもなろうと思って、と相談しに行く。寺田氏に、今描いてる作品を見せてごらんといわれて少女ものを見せると、

 ぼくならこの原稿から五つのまんがをつくるな、君のは詰め込みすぎだよ。テーマを通すことだよ、もう一度やってごらん。

とアドバイスされ、今月のアパート代まで貸してくれて、励ましてくれた。

 うれしいなあ! よーしやるぞォ

 石森氏にいつもおごってもらって映画を見て歩いた。それこそ食うものも食わずに・・・とその頃見た映画の題名がずらりと並ぶコマもある。
 
 もうすぐお正月。石森氏が田舎に帰ってしまい、ご飯をおごってもらえない赤塚氏は、田舎から送ってきたモチをぞうににして7日まで食いつなごうと、なけなしの28円で醤油の小ビンを買いおつゆを作る。しかし、その夜友人の横山某がやってきて、おつゆを全部飲んでしまった  おかげで次の日からモチだけ、何もつけずに食べたそうです。
 次の日横山氏に映画をおごってもらった半券です、と「情婦マノン」の半券コピーが張ってある。あら、池袋人生座だわ。だんなのお友達のおじい様が関係しているので、懐かしかった。

 その頃、嫌々少女マンガを描いていたが、締め切り間際になると石森氏や長谷 邦夫氏が手伝ってくれた。そのときだけアシスタントを持ったまんが家になれたのだ。その頃から毎日アイデアを一本作らないうちは寝むらないことに決め、将来ギャグまんが家になることを誓っている。

 そして昭和33年の秋、石森氏の推薦があり「まんが王」 からよみきりギャグの仕事が回ってきた。アイデアノート片手に石森氏に聞いてもらう。ああなって、こうなって、石森氏、ああなるんじゃなくてそうなったほうがおもしろいな。タイトルも石森氏に 「ナマちゃん」 と付けてもらった。張り切って描き、そして本が送られてくるとなんと連載になっているでは無いか! 

 わーっ!

 と石森氏に報告する赤塚氏。おれ、がんばるよ、そうだ来月号のアイデア聞いてよ・・・。

 僕はそのとき夢中だったが、石森は僕のアイデアをよく聞いてくれ、ぼくに自信をつけてくれた。いい仲間をもってしあわせだった。

 最期のページは又トキワ壮へ入る路地の入り口。向こうにトキワ荘の入り口が見えます。

 もし― ぼくがトキワ荘の住人にならなかったら・・・ ぼくは現在まんがをかいていなかったかもしれない ―

 次回はつのだ じろう氏の巻です。私、この回好きなんですよ。
コメント (7)
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