1961年8月13日(正確には8月12日深夜)から、ベルリンの壁構築が始まりました。
今年は50年目にあたります。
それでNZZ(新チューリヒ新聞)にも色々特集記事が載っています。
以下のピンボケ写真は8月13/14日付新聞の該当ページ(日曜は新聞無し)。
先ず2ページ続きの特集記事
左ページはベルリンの壁の歴史概要を紹介、タイトルは「冷戦の汚点」。
右ページは「最悪の瞬間の幸運」:壁構築の始まった日、偶然、西ベルリンに来ていた人の物語。しかし、この人の両親は東側在住で生き別れに・・・壁構築以前、東側の人も西ベルリンへ往来でき、東側に住んで西側に出勤する人、東西に住む家族や親戚・友人知人などがありました。しかし壁構築と同時に、東の人は、ほぼ完全に西への道が閉ざされました。
左ページの写真をちょこっとアップ
左の写真:壁構築を見守るバイクの西側警官
右の写真:壁の上に更に鉄条網を張る人々を見上げる西側の家族
右ページの写真をちょこっとアップ
左の写真:まだ壁が低い頃、西側から手を振ったり呼びかけたりする市民
中の写真:ベルナウアー通りの建物は窓の外が西ベルリンだったので、多くの人が窓から西へ逃れました。こうした建物は、その後、窓が塗りつぶされ、更に緩衝地帯を造るため、取り壊されました。
右の写真:1971年、西側への逃走を試みて撃たれた人を運ぶ東側兵士
文化ページの最初のページも「壁特集」タイトルは「逃亡禁止と思考禁止」
本文では、政治史的背景が紹介されています
20世紀の報道写真の中でも最も有名なもののひとつ
壁構築開始の当初、まだ鉄条網ロールだけの部分を跳び越えて西側に逃れた東側兵士
この兵士は当時19才、とっさの思いつきで跳び越えたのだと思います。変に計画したり下心があったりすると、こういう大胆なことは、かえって出来ないのではないでしょうか。
しかし本人は生涯、東側からの報復を恐れ続け、東西再統一後の1998年自殺しました。
Wikipedia:Conrad Schumann(英語)
以下Wikiフリー画像から補足
1986年のベルリンの壁
グラフィティだらけの壁は西ベルリン、間に緩衝地帯(東側兵士のパトロール地帯)、東ベルリンでは、壁に近づいたり落書きしたりすることは禁じられていました。
その壁「崩壊」から20周年のNZZ記事は西洋ゲゲゲにアップしました。
カベツツキさん
壁「崩壊」後は、東西ベルリンで市民が熱心に「壁こわし」
こうした人々は壁(Mauer)とキツツキ(Specht)を合わせてカベツツキ(Mauerspecht)と呼ばれました。
ゴマグリモナカのMichimichiさんが描かれた脱原発ニャンコの缶バッジ
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色々な脱原発バッジがあります
シューマンさんは、19才のとき単独で跳び越えちゃったから、家族や親戚・友達なんか東ベルリンに残してきちゃったわけ。シューマンさんは西ベルリンから更に西ドイツ移住を許されましたが、残してきた人たちに対する迫害の心配もあったでしょうし、シュタージ(東独の秘密警察)の追っ手も怖かったと思います。1989年ベルリンの壁「崩壊」直後のインタビューでシューマンさんは「これで、やっと本当に自由になった」と語っていますが、これは、むしろ「たてまえ」だったのではないでしょうか?
東西の間の「鉄のカーテン」があるうちは、ある意味で東側スパイ(報復者)から守られていましたが、行き来自由になってからは、あるいは、何らかの嫌がらせや脅迫があったかも知れません
歴史的悲劇は長く尾を引きます
戦争末期ドイツの西部戦線は「アメリカ歓迎」ムードが強くて、兵士はやる気無し。アメリカ兵もピクニックかハイキングのようなのどかさだったようで・・・
私が読んだ戦記の著者は「真面目なドイツ人」のひとりで、「いくらなんでも、まだ戦争中なんだから、アメリカ軍と戦わなきゃ」と頑張った少数派だったようです
どれだけの抑圧か想像もつきません。
↓どこの国の捕虜になるかで待遇が違ったんですね。
兵庫県にも捕虜収容所がいくつかあったそうで、工場で強制労働などさせたそうです。
当時の生き証人も他界されていって、戦争を知る世代がいずれいなくなると思うと、歴史のことをちゃんと勉強せねばと思います。