旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

比叡山延暦寺

2009年11月06日 | 旅 歴史
 滋賀県大津市坂本本町にある比叡山延暦寺です。
 杉木立にかこまれ、荘厳なたたずまいをみせる延暦寺は、かずかずの名僧を輩出した天台宗の総本山です。
 比叡山には延暦寺という名の建物はありません。比叡山そのものが延暦寺を表わしているのです。その寺域は広大で、標高848mの比叡山の山中に数百の建物があり、東塔・西塔・横川(よかわ)の三地域に分かれています。
 延暦7年(788)、京都の北東の鬼門にあたる比叡山の山頂に、唐へ留学した伝教大師最澄が帰国後、平安京鎮護のために一乗止観院という草庵を建てたのが始まりです。
 最澄没後の弘仁14年(823)嵯峨天皇より延暦寺の寺号を賜りました。円澄が西塔、円仁が横川を開き、東塔(根本中堂)と合わせて三塔が成立しました。
 数々の名僧を輩出しています。浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮、等もこの延暦寺で学びました。数多くの宗派の母なる寺院なのです。
 延暦寺の強大な力を恐れた織田信長は元亀2年(1571)全山を焼き討ちにしました。この時、延暦寺は根本中堂をはじめ大半の建物を失ったのです。
 その後豊臣秀吉や徳川家康らによって再建されました。家康の死後、天海僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されてからは、宗務の実権は江戸に移りました。
 東塔には、延暦寺の中心である国宝の根本中堂をはじめ、戒壇院、阿弥陀堂、山王院など主要伽藍が建ち、西塔には、法華堂、常行堂、釈迦堂など、横川には横川中堂、恵心堂などが静かに建ち並んでいます。
 根本中堂には「不滅の法灯」が1200年の間、輝きつづけています。平成6年(1994)12月「古都京都の文化財」の一つとして世界文化遺産登録されました。


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三井寺

2009年11月06日 | 旅 歴史

 今日は滋賀県大津市園城寺町にある三井寺を紹介します。
 天台寺門宗の総本山である三井寺は正式名称を長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)といいます。再三の兵火にあい焼失しました。豊臣・徳川氏の尽力で再興され、現在も国宝・重要文化財・名園など貴重な寺宝を数多く伝えています。
 平安時代、第五代天台座主・智証大師円珍和尚の卓越した個性によって天台別院として中興され、 東大寺・興福寺・延暦寺と共に「本朝四箇大寺(しかたいじ)」の一つに数えられ、千百余年の歴史があります。
 天智・弘文・天武天皇の勅願により、弘文天皇の皇子・大友多王が田園城邑を投じて建立され、天武天皇より「園城(おんじょう)」の勅額を賜わり、「長等山園城寺」と称したのにはじまります。
 「三井寺」と呼ばれるのは、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、「御井(みい)の寺」の厳儀・三部潅頂の法水に用いられたことに由来しているからです。
 円珍の死後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、正暦四年(993)、円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入ります。この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し天台宗は二分されたのです。
 その後、両派の対立や源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど幾多の法難に遭遇しましたが、智証大師の教法は今日に伝えられています。
 この重要文化財の大門(仁王門)は宝徳4年(1452)滋賀県甲賀郡石部町の常楽寺に建てられました。のちに伏見城に移され、さらに慶長6年(1601)徳川家康の寄進によりここに移されたそうです。


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