三重県松阪市殿町にある松阪城跡です。
戦国の武将蒲生氏郷は、近江の国日野の城主でした。数々の武功により、天正12年(1584)に、秀吉から伊勢松ケ島城の城主として12万石を与えられました。
松ヶ島城は天正8年(1580)北畠具教の養子に入った信長の次男北畠信雄が築城しました。天正12年(1584)に蒲生氏郷が入城し南伊勢支配の拠点となっていましたが氏郷は不便なこの場所を捨て、四五百森(よいほの森)に新しい城を築いたのでした。
天正16年(1588)に城は完成し松阪城と名付けたそうです。吉祥の木とされる「松」と秀吉がいる中心地大坂の「阪」から「松坂」としたといわれています。そして地名も松阪になったそうです。
築城とともに城下町を整え、近江日野などから連れてきた職人や商人を住まわせたそうです。「座」を廃止して楽制にして商売がしやすいようにしたため商業都市松阪の基礎が築かれたのです。
氏郷はわずか2年で会津若松移封になり、服部一忠に引き継がれました。次に古田重勝・重治が領し、元和5年(1619)から明治維新までは紀州徳川家の管轄となり城代がおかれたそうです。
天守閣は一国一城令で壊される予定でしたが費用の関係からそのままの姿でいられましたが修復などできなかったため、江戸時代に崩壊したそうです。城址の一角に松阪が生んだ「本居宣長」の旧邸(鈴屋)が保存公開されています。
本居宣長は古事記伝の執筆に半生を捧げた江戸中期の国学者です。松阪の出身で12才のころから亡くなるまで暮らした魚町の旧宅が明治42年に松阪城址の中に移築されています。宣長が鈴の愛好家であったので、「鈴屋」と呼ばれています。36個の小鈴を飾った柱掛鈴を壁に掛け、音色を楽しんでいたそうです。
宣長は享保15年(1730)松阪市本町の豪商小津家の長男として生まれました。宣長が11歳の時、父が亡くなって家業が傾いたため、隠居所であったこの「鈴屋」に住むようになったそうです。
宣長は木綿商の家に生まれましたが商才がなかったため23才の時、母の配慮で医学の修業に京都へ旅立ったのでした。松坂に帰り医者になった宣長「源氏物語」の講義をしたり「日本書紀」の研究や儒学・古典・歌文等を修めていきました。
賀茂真淵の書に出会って国学の研究に入りました。宝暦13年(1763)「松阪の一夜」として名高い真淵の訪問で万葉仮名に慣れるため万葉集の注釈を薦められました。その後35年間かけて「古事記伝」44巻を執筆したのでした。
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戦国の武将蒲生氏郷は、近江の国日野の城主でした。数々の武功により、天正12年(1584)に、秀吉から伊勢松ケ島城の城主として12万石を与えられました。
松ヶ島城は天正8年(1580)北畠具教の養子に入った信長の次男北畠信雄が築城しました。天正12年(1584)に蒲生氏郷が入城し南伊勢支配の拠点となっていましたが氏郷は不便なこの場所を捨て、四五百森(よいほの森)に新しい城を築いたのでした。
天正16年(1588)に城は完成し松阪城と名付けたそうです。吉祥の木とされる「松」と秀吉がいる中心地大坂の「阪」から「松坂」としたといわれています。そして地名も松阪になったそうです。
築城とともに城下町を整え、近江日野などから連れてきた職人や商人を住まわせたそうです。「座」を廃止して楽制にして商売がしやすいようにしたため商業都市松阪の基礎が築かれたのです。
氏郷はわずか2年で会津若松移封になり、服部一忠に引き継がれました。次に古田重勝・重治が領し、元和5年(1619)から明治維新までは紀州徳川家の管轄となり城代がおかれたそうです。
天守閣は一国一城令で壊される予定でしたが費用の関係からそのままの姿でいられましたが修復などできなかったため、江戸時代に崩壊したそうです。城址の一角に松阪が生んだ「本居宣長」の旧邸(鈴屋)が保存公開されています。
本居宣長は古事記伝の執筆に半生を捧げた江戸中期の国学者です。松阪の出身で12才のころから亡くなるまで暮らした魚町の旧宅が明治42年に松阪城址の中に移築されています。宣長が鈴の愛好家であったので、「鈴屋」と呼ばれています。36個の小鈴を飾った柱掛鈴を壁に掛け、音色を楽しんでいたそうです。
宣長は享保15年(1730)松阪市本町の豪商小津家の長男として生まれました。宣長が11歳の時、父が亡くなって家業が傾いたため、隠居所であったこの「鈴屋」に住むようになったそうです。
宣長は木綿商の家に生まれましたが商才がなかったため23才の時、母の配慮で医学の修業に京都へ旅立ったのでした。松坂に帰り医者になった宣長「源氏物語」の講義をしたり「日本書紀」の研究や儒学・古典・歌文等を修めていきました。
賀茂真淵の書に出会って国学の研究に入りました。宝暦13年(1763)「松阪の一夜」として名高い真淵の訪問で万葉仮名に慣れるため万葉集の注釈を薦められました。その後35年間かけて「古事記伝」44巻を執筆したのでした。
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