今日は外出をしなかった。外出しようと思ってはいたのだが、いざ外出しようとすると、学生からコメントを求めるレポートが添付されたメールが届いたり、教務主任から至急の意見を求めるメールが届いたり、事務所から来年度の授業の担当曜限についてのアンケートのメールが届いたり、女の人からケータイに電話がかかってきたりして、結局、外出するタイミングを失ってしまった。でも、いいのである。昨日、古本屋で購入した長田弘『私の好きな孤独』を、ゆっくり読むことができたから。詩人の書く文章(散文)はいい。選ばれる言葉の一つ一つに神経がゆきわたっている。谷川の水を手ですくって飲んでいるような清々しい気分になる。全部で79編の短いエッセーが収められているが、どの文章も、最初の数行で読み手の心をいきなりつかんでしまう力をもっている。いくつか紹介しよう。
「心の余白に、思いだすままに、いくつかの言葉を書く。ふっとその言葉を書いてみたくなって書く言葉。「樹」とうい言葉は、わたしにはそんな一つの言葉だ。」(言葉の樹)
「二十五歳の冬だった。わたしはじぶんが四半世紀をすでに生きたことに突然気づいて、ひどく途方に暮れていた。そして、いつもおなじようなことを考えていた。二十五歳までに自殺しなければ、四十歳までは生きられる。四十歳まで生きられれば、死ぬまで生きられるだろう。」(ランドフスカ夫人)
「拒絶のなかでしか生きられないような生のかたちを、どこまでつらぬいてゆくのか。息を深く吸い込むと、思わず咳きこんでしまう。そんな日の繰りかえしを、どこまで膝を立てた姿勢に負ってゆくのか。」(モーツァルトのように)
「何かをしながら、音楽を聴くということができない。いつも、していたことを中断したまま、じっと音を聴いているじぶんを見つけてしまう。音を聴いているというより、音のなかに手を探しているじぶんを見つけてしまう。/音楽を聴くのが好きなのは、それが手のつくりだす言葉であるからだ。」(手)
「何もすることがないときは、言葉で旅をする。一冊の本と一杯のコーヒー。騒がしい街の店にかたすみに座って、一人ぶんの沈黙を探す。」(アイリッシュ・コーヒー)
「はじめに言葉があり、街の言葉は窓だった。/街は窓でできている。窓のない街はない。街とよばれるのは、窓のある風景なのだ。」(窓)
「いつも上機嫌だった。にこにこして、人混みのなかをゆっくりと歩いた。/どこへゆくわけでもない。ただ往来を駅までぶらぶらと歩き、もどってくる。また、繰りかえす。それだけでいい。それだけのことが、彼にはひどく楽しいのだ。」(オーイ)
「市街地の静かな住宅地のあいだに、何もない場所がある。/雑草の茂りをふせぐためだろう、砂利がびっしり敷きつめられて放置されたきり、もうずいぶん長いあいだ空地のままだ。かなりの広さなのだが、金網で人ははいれない。そこでけ、まったく日々の気配がない。」(何もない場所)
「立ちどまったことがない。足をとめたこともない。地下道では、いつも急ぐように歩く。急ぐ気もちが、傾いた姿勢になる。傾いた後ろすがたが、幾つも重なる。重なって、人の流れをつくっている。/周りに、いつも変わらない明るさがある。明るさのなかをゆく人びとの格好は、明るい影のようだ。影になった人が、急ぎ足で歩いてゆく。足先に転がっている、こころもとなさを蹴とばして歩く。地下道にはそんな感じがある。」(地下道にて)
「手紙というものはいったい信じられるものだろうか。せいぜいが用箋に用件を認めるだけで、旅の絵葉書をのぞけば、親しい言葉を他人に宛てて書くというような習慣は、もうすっかり疎いものになってしまった。いつから、手紙という内密な言葉のかたちが、こんなにも遠いものになってしまったのか。」(ラブレター)
「本屋が好きだ。書店ではなく、本屋だ。「本屋さん」という雰囲気をもった街の店が好きだ。/わたしのゆくのは、ほとんどがちいさな本屋だ。街角を曲がって、ふとその店を見かける。そんな小さな本屋に足がむく。ちいさな本屋には本がすくない。しかし、かまわない。わたしは本屋に、本を探しにゆくのではない。なんとなく本の顔を見にゆく。」(本屋さん)
「飾りのない壁に時計が一つ。何のふしぎもない時計のようでいて、それは実におかしな時計だ。時計の文字盤が、左右すっかり逆になっている。うっかりすると、気づかない。しかし、よく見ると、三時が九時で、九時が三時に、十一時が一時なのだ。/いい味のコーヒーといい音楽があって、いい椅子がある。ゆきなれた街の好きな店。午後の七時にその店にいったのだった。ゆっくりコーヒーを飲んだ。音楽を聴き、本を少し読んだ。午後五時にその店をでた。」(時計と時間)
「時間ができると、よく古本屋をのぞく。古本のあいだにいると、時間というものがちがって感じられる。街の新しい時間とは違う時間が、古本屋にはあるのだ。/古い本は、古い時計のかたちをしている。手にとってひらく。ページのあいだに、忘れてきた時間が挟まっている。それが思いがけなく新鮮に、目にとびこんでくることがある。」(古くて新しい)
「「おじさん」という呼び方は奇妙だ。父や母の兄弟もおじさんなら、父母の知りあいもおじさんだ。友人の父親もおじさんだし、ゆきずりのよその知らない大人のひともおじさんだ。みんなおじさんなのだ。おじさんはどこにでもいる。世のなかに一番おおいのはおじさんとよばれる大人なのだ。おじさんには伯父さんと叔父さんと小父さんがいるというのも、奇妙だった。」(伯父さん)
「気もちのいい沈黙があれば、それだけでいいのだ。たとえ音楽が流れていても、いい音楽であれば、あとにきれいな無がのこる。気に入った街のコーヒー屋では、黙って、コーヒーを飲む。/街のコーヒー屋へは、一人の時間を過ごしに、必ず一人でゆく。周りの声が遠のき、やがて頭上からざわめいて降ってくるようになるまで、ぼんやりしている。」(空飛ぶ猫の店)
「北アメリカのいい街には、かならずいいカフェが一軒ある。おいしいコーヒーが飲めて、おいしいケーキがたべられる。明るく清潔なカフェ。こころがひろくなってくるようなカフェのある街が好きだ。/カフェの一番いい時間は、朝だ。明るい光りをまぶしく感じながら、やわらかなコーヒーをゆっくりとすすることから、一日をはじめる。」(朝のカフェ)
「誰だって間違うことはあるし、間違う権利はひとの大切な権利だ。しかし、どうしようない間違いというものもまた確かにあって、たとえばアイスクリームについて、たかがアイスクリームと軽蔑することは、どうしようない間違いのひとつだ。」(アイスクリームの風景)
「アメリカのロースト・コーヒーは、淡くてかるい。朝にふさわしい味だ。ぐっと一息に飲む。一杯目で舌を熱く灼いて、二杯目はゆっくりと読む。」(四角いドーナツ)
「小さな店だった。コーヒーとビールを飲ませるだけの店だ。ちいさな椅子が七つ、八つ。それから奥に、古いソファーが一つ。二階へゆく階段が低い天井にせりだしているので、立ちあがるときは頭に注意しなければならない。話をしにゆく店ではなかった。」(ママとモリタート)
「『真夏の夜のジャズ』が、引き金だった。始めから終わりまでおそろしく素敵な映画で、見終わっても席を立つ気になれなかった。結局、その日の最終回まで、新宿の映画館で一人で見つづけた。夢中になったのはそれからだった。」(何かが変わった)
「おなじ歌をくりかえしうたう。けれども、二度とけっしておなじにうたわない。おなじ一つの歌が、うたいかえされるたびに、そっくりちがった歌になる。聴くたびに新しくなる。歌はおなじだ。おなじ歌だけれども、どれもがおよそちがった歌だ。ちがった歌であって、しかもおなじ一つの歌である。/ボブ・ディランの歌はそうした歌だ。」(ライク・ア・ローリング・ディラン)
「フライパンに油をひく。熱くしておいて、卵を割って、静かに落とす。それだけである。簡単だ。工夫もいらない。誰にでもつくれて、平凡で、ごくごくあたりまえにすぎなくて、それでいて・・・目玉焼きには、なんとも言えぬへんなおかしみがある。」(サニーサイド・アップ)
ずいぶんとたくさん引用してしまった。しかし、これでもまだ79編中の22編だ。いい文章を写しているとそれだけで気分がいい。念のために、再度断っておくが、引用したのはいずれもそれぞれの文章の最初の数行だ。文章中のとくに印象的な部分ではない。中身は推して知るべし。『私の好きな孤独』は1999年の出版である。定価2500円だが、版元では品切れである。だから古本でしか手に入らない。私はこれを1000円で入手した。探して入手したのではなく、散歩の途中で立ち寄った古本屋で偶然入手したのである。古本屋というのは素晴らしい場所である。

装丁は平野甲賀
「心の余白に、思いだすままに、いくつかの言葉を書く。ふっとその言葉を書いてみたくなって書く言葉。「樹」とうい言葉は、わたしにはそんな一つの言葉だ。」(言葉の樹)
「二十五歳の冬だった。わたしはじぶんが四半世紀をすでに生きたことに突然気づいて、ひどく途方に暮れていた。そして、いつもおなじようなことを考えていた。二十五歳までに自殺しなければ、四十歳までは生きられる。四十歳まで生きられれば、死ぬまで生きられるだろう。」(ランドフスカ夫人)
「拒絶のなかでしか生きられないような生のかたちを、どこまでつらぬいてゆくのか。息を深く吸い込むと、思わず咳きこんでしまう。そんな日の繰りかえしを、どこまで膝を立てた姿勢に負ってゆくのか。」(モーツァルトのように)
「何かをしながら、音楽を聴くということができない。いつも、していたことを中断したまま、じっと音を聴いているじぶんを見つけてしまう。音を聴いているというより、音のなかに手を探しているじぶんを見つけてしまう。/音楽を聴くのが好きなのは、それが手のつくりだす言葉であるからだ。」(手)
「何もすることがないときは、言葉で旅をする。一冊の本と一杯のコーヒー。騒がしい街の店にかたすみに座って、一人ぶんの沈黙を探す。」(アイリッシュ・コーヒー)
「はじめに言葉があり、街の言葉は窓だった。/街は窓でできている。窓のない街はない。街とよばれるのは、窓のある風景なのだ。」(窓)
「いつも上機嫌だった。にこにこして、人混みのなかをゆっくりと歩いた。/どこへゆくわけでもない。ただ往来を駅までぶらぶらと歩き、もどってくる。また、繰りかえす。それだけでいい。それだけのことが、彼にはひどく楽しいのだ。」(オーイ)
「市街地の静かな住宅地のあいだに、何もない場所がある。/雑草の茂りをふせぐためだろう、砂利がびっしり敷きつめられて放置されたきり、もうずいぶん長いあいだ空地のままだ。かなりの広さなのだが、金網で人ははいれない。そこでけ、まったく日々の気配がない。」(何もない場所)
「立ちどまったことがない。足をとめたこともない。地下道では、いつも急ぐように歩く。急ぐ気もちが、傾いた姿勢になる。傾いた後ろすがたが、幾つも重なる。重なって、人の流れをつくっている。/周りに、いつも変わらない明るさがある。明るさのなかをゆく人びとの格好は、明るい影のようだ。影になった人が、急ぎ足で歩いてゆく。足先に転がっている、こころもとなさを蹴とばして歩く。地下道にはそんな感じがある。」(地下道にて)
「手紙というものはいったい信じられるものだろうか。せいぜいが用箋に用件を認めるだけで、旅の絵葉書をのぞけば、親しい言葉を他人に宛てて書くというような習慣は、もうすっかり疎いものになってしまった。いつから、手紙という内密な言葉のかたちが、こんなにも遠いものになってしまったのか。」(ラブレター)
「本屋が好きだ。書店ではなく、本屋だ。「本屋さん」という雰囲気をもった街の店が好きだ。/わたしのゆくのは、ほとんどがちいさな本屋だ。街角を曲がって、ふとその店を見かける。そんな小さな本屋に足がむく。ちいさな本屋には本がすくない。しかし、かまわない。わたしは本屋に、本を探しにゆくのではない。なんとなく本の顔を見にゆく。」(本屋さん)
「飾りのない壁に時計が一つ。何のふしぎもない時計のようでいて、それは実におかしな時計だ。時計の文字盤が、左右すっかり逆になっている。うっかりすると、気づかない。しかし、よく見ると、三時が九時で、九時が三時に、十一時が一時なのだ。/いい味のコーヒーといい音楽があって、いい椅子がある。ゆきなれた街の好きな店。午後の七時にその店にいったのだった。ゆっくりコーヒーを飲んだ。音楽を聴き、本を少し読んだ。午後五時にその店をでた。」(時計と時間)
「時間ができると、よく古本屋をのぞく。古本のあいだにいると、時間というものがちがって感じられる。街の新しい時間とは違う時間が、古本屋にはあるのだ。/古い本は、古い時計のかたちをしている。手にとってひらく。ページのあいだに、忘れてきた時間が挟まっている。それが思いがけなく新鮮に、目にとびこんでくることがある。」(古くて新しい)
「「おじさん」という呼び方は奇妙だ。父や母の兄弟もおじさんなら、父母の知りあいもおじさんだ。友人の父親もおじさんだし、ゆきずりのよその知らない大人のひともおじさんだ。みんなおじさんなのだ。おじさんはどこにでもいる。世のなかに一番おおいのはおじさんとよばれる大人なのだ。おじさんには伯父さんと叔父さんと小父さんがいるというのも、奇妙だった。」(伯父さん)
「気もちのいい沈黙があれば、それだけでいいのだ。たとえ音楽が流れていても、いい音楽であれば、あとにきれいな無がのこる。気に入った街のコーヒー屋では、黙って、コーヒーを飲む。/街のコーヒー屋へは、一人の時間を過ごしに、必ず一人でゆく。周りの声が遠のき、やがて頭上からざわめいて降ってくるようになるまで、ぼんやりしている。」(空飛ぶ猫の店)
「北アメリカのいい街には、かならずいいカフェが一軒ある。おいしいコーヒーが飲めて、おいしいケーキがたべられる。明るく清潔なカフェ。こころがひろくなってくるようなカフェのある街が好きだ。/カフェの一番いい時間は、朝だ。明るい光りをまぶしく感じながら、やわらかなコーヒーをゆっくりとすすることから、一日をはじめる。」(朝のカフェ)
「誰だって間違うことはあるし、間違う権利はひとの大切な権利だ。しかし、どうしようない間違いというものもまた確かにあって、たとえばアイスクリームについて、たかがアイスクリームと軽蔑することは、どうしようない間違いのひとつだ。」(アイスクリームの風景)
「アメリカのロースト・コーヒーは、淡くてかるい。朝にふさわしい味だ。ぐっと一息に飲む。一杯目で舌を熱く灼いて、二杯目はゆっくりと読む。」(四角いドーナツ)
「小さな店だった。コーヒーとビールを飲ませるだけの店だ。ちいさな椅子が七つ、八つ。それから奥に、古いソファーが一つ。二階へゆく階段が低い天井にせりだしているので、立ちあがるときは頭に注意しなければならない。話をしにゆく店ではなかった。」(ママとモリタート)
「『真夏の夜のジャズ』が、引き金だった。始めから終わりまでおそろしく素敵な映画で、見終わっても席を立つ気になれなかった。結局、その日の最終回まで、新宿の映画館で一人で見つづけた。夢中になったのはそれからだった。」(何かが変わった)
「おなじ歌をくりかえしうたう。けれども、二度とけっしておなじにうたわない。おなじ一つの歌が、うたいかえされるたびに、そっくりちがった歌になる。聴くたびに新しくなる。歌はおなじだ。おなじ歌だけれども、どれもがおよそちがった歌だ。ちがった歌であって、しかもおなじ一つの歌である。/ボブ・ディランの歌はそうした歌だ。」(ライク・ア・ローリング・ディラン)
「フライパンに油をひく。熱くしておいて、卵を割って、静かに落とす。それだけである。簡単だ。工夫もいらない。誰にでもつくれて、平凡で、ごくごくあたりまえにすぎなくて、それでいて・・・目玉焼きには、なんとも言えぬへんなおかしみがある。」(サニーサイド・アップ)
ずいぶんとたくさん引用してしまった。しかし、これでもまだ79編中の22編だ。いい文章を写しているとそれだけで気分がいい。念のために、再度断っておくが、引用したのはいずれもそれぞれの文章の最初の数行だ。文章中のとくに印象的な部分ではない。中身は推して知るべし。『私の好きな孤独』は1999年の出版である。定価2500円だが、版元では品切れである。だから古本でしか手に入らない。私はこれを1000円で入手した。探して入手したのではなく、散歩の途中で立ち寄った古本屋で偶然入手したのである。古本屋というのは素晴らしい場所である。

装丁は平野甲賀