午前中に郵便局に行って、『日本の文学』全80巻(中央公論)と『世界の文学』全38巻(集英社)の代金をそれぞれの古書店に振り込む。財布が急に軽くなる。さ、寒い。銀行でお金を下ろそうと思ったら、月末だからだろうか、機械の前はかなりの行列である。時間がかかりそうなのであきらめた。今日一日は財布に残った千円札数枚でしのごう。「鈴文」でランチのとんかつ定食(950円)を食べてから大学へ。食事はしかたない。本を買わないようにすればいいのだ。
教員ロビーのメールボックスに長谷正人・太田省一編『テレビだョ!全員集合 自作自演の1970年代』(青弓社)という本が入っていた。長谷先生からだ。特別研究期間中にこういう本を書いていたわけだ。帯はなく、その代わりに、表紙の部分に内容紹介の文章が印刷されている。
草創期独特の熱気に包まれていた60年代と
MANZAIブームで幕を開ける
華々しい80年代とに挟まれ、
奇妙なまでに静かな印象がある70年代のテレビ文化。
だがその時代のテレビをめぐる
一つ一つの出来事を見ていくと、
「テレビの外部」を映していたテレビが
テレビ自身を自作自演するようになった
歴史的プロセスが浮かび上がってくる。
テレビ史の転換点としての70年代を
照射するメディア論。
1970年代は私の人生でいうと高校・大学・大学院修士時代に対応する。時代のせいなのか、そういう年齢だったのか、判然としないが、当時はよくTVドラマを観た。えっ、いまだってよく観ているじゃないかって? はい、観てますけど、それが何か? 確かにいまでも観ているのだが、のめりこみ方に大きな違いがある。TVドラマが人生に影響を与えるような仕方で当時の私はTVドラマを観ていたのだ。そうしたTVドラマ視聴の集大成が『北の国から』(1981年10月から82年3月までの連続ドラマの方)であり、このドラマの放送期間中に私が妻となる女性にプロポーズしたのは田中邦衛演じる黒板五郎の生き方に影響されたからである。細かい論理は省いてキーワードだけをいえば、「じゃりン子チエ」と「スパゲッティ・バジリコ」なのである。そういえば、わかる人にはわかるであろう。その不器用でひたむきな愛というものに私は感動してしまったのである。感化されてしまったのである。う~む、間もなく時刻は午前3時半になろうとしている。もう寝なくてはならないが、とにかく、70年代は私にとってTVドラマの時代だった。その意味で、長谷先生の論稿「日常性と非日常性の相克-七〇年代テレビドラマ論」はとても興味がある。「相克」という言葉が古風というか、ちょっと気恥ずかしいが、長谷先生のことだ、きっと70年代っぽい言葉をわざと使ったのだろう。
夕方から現代人間論系の教室会議。あれこれのことがテキパキと決まる。論系進級希望者が「153名」だったので、みんな機嫌がいいのだ。なんと新年会の予定まで決まってしまった。幹事は安藤先生が買って出てくれた。
教員ロビーのメールボックスに長谷正人・太田省一編『テレビだョ!全員集合 自作自演の1970年代』(青弓社)という本が入っていた。長谷先生からだ。特別研究期間中にこういう本を書いていたわけだ。帯はなく、その代わりに、表紙の部分に内容紹介の文章が印刷されている。
草創期独特の熱気に包まれていた60年代と
MANZAIブームで幕を開ける
華々しい80年代とに挟まれ、
奇妙なまでに静かな印象がある70年代のテレビ文化。
だがその時代のテレビをめぐる
一つ一つの出来事を見ていくと、
「テレビの外部」を映していたテレビが
テレビ自身を自作自演するようになった
歴史的プロセスが浮かび上がってくる。
テレビ史の転換点としての70年代を
照射するメディア論。
1970年代は私の人生でいうと高校・大学・大学院修士時代に対応する。時代のせいなのか、そういう年齢だったのか、判然としないが、当時はよくTVドラマを観た。えっ、いまだってよく観ているじゃないかって? はい、観てますけど、それが何か? 確かにいまでも観ているのだが、のめりこみ方に大きな違いがある。TVドラマが人生に影響を与えるような仕方で当時の私はTVドラマを観ていたのだ。そうしたTVドラマ視聴の集大成が『北の国から』(1981年10月から82年3月までの連続ドラマの方)であり、このドラマの放送期間中に私が妻となる女性にプロポーズしたのは田中邦衛演じる黒板五郎の生き方に影響されたからである。細かい論理は省いてキーワードだけをいえば、「じゃりン子チエ」と「スパゲッティ・バジリコ」なのである。そういえば、わかる人にはわかるであろう。その不器用でひたむきな愛というものに私は感動してしまったのである。感化されてしまったのである。う~む、間もなく時刻は午前3時半になろうとしている。もう寝なくてはならないが、とにかく、70年代は私にとってTVドラマの時代だった。その意味で、長谷先生の論稿「日常性と非日常性の相克-七〇年代テレビドラマ論」はとても興味がある。「相克」という言葉が古風というか、ちょっと気恥ずかしいが、長谷先生のことだ、きっと70年代っぽい言葉をわざと使ったのだろう。
夕方から現代人間論系の教室会議。あれこれのことがテキパキと決まる。論系進級希望者が「153名」だったので、みんな機嫌がいいのだ。なんと新年会の予定まで決まってしまった。幹事は安藤先生が買って出てくれた。