フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

12月8日(水) 晴れ

2010-12-09 01:22:59 | Weblog

  7時、起床。厚切りバタートーストの朝食。急ぎの書類を1つ書いて、9時半に家を出て、大学へ。
  10時40分からカリキュラム委員会。12時半ごろ終って、事務所で打合せを一件すませてから、昼食をとりに出る。馬場下の交差点で、どこにしようかちょっと迷って、「たかはし」の生姜焼き定食に決める。この後、夜まで会議が続くのでしっかり食べておこうと。

  2時から運営主任会。4時半までかかる。続いて基本構想委員会が6時ごろまで。ひさしぶりに現代人間論系の教室会議(の終わりのところ)にもちょっと顔を出す。主任の安藤先生と話をし、論系室で助手さんたちと雑談。いつもであれば出前のお弁当を食べながら教務の会議が始まる時間であるが、今日は浦野先生が不在なので会議はなし。私が教務室に戻るともう誰も残っていなかった。事務所で簡単な打合せをしてから、私も帰ることにする。長谷先生からいただいたい新著を電車の中で読む。疲れてはいたが、鮮度のいい文章というのは、疲れを忘れさせてくれるものである。

  「美術館に行くと困ってしまう。どうやって絵を見ればいいのかがよくわからないからだ。たくさんの絵画が壁に展示されているが、まず迷うのは、いったい一枚をどれくらいの時間をかけて見ればいいかということである。わかったような顔をしてどんどんと歩みを進めていく他の鑑賞者たちに、本当にそれでいいんですかと声をかけたくくなってしまう。そうやって次々と新しい絵を見ていくと、前の絵の印象が曖昧になってしまうのではないか、などと余計な心配をしたりする。つまり、そもそも絵画を見るという経験が何を意味しているのかが私にはわかっていないということなのだろう。さすがに何十年もの間さまざまな展覧会に出かけてきたので、知ったかぶりをする作法を身につけてはいる。しかし、それでも美術館に行くと必ずその種の疑問が頭に浮かんできて、なかなか鑑賞に集中できない。困ったものである。」(あとがき)

  ソクラテスみたいな文章である。ここから「実は映画の場合も似たようなものだ」という話になっていく。

  「本書は、そんな困った人間が、映画を見るという体験とは何かを、あえて困った状態のままで考えてみるという実験的な試みだったのかもしれない。普通の人間であれば簡単に通り過ぎるだろう映画鑑賞の基本的な部分に関していちいちつまずきながら、そうした不器用な観客だからこそ見えてくることがあるはずだと信じて、人間にとっての映画体験の意味を一から考えてみた。」

  長谷先生は決して不器用な人間ではない。不器用な人間を装って振舞うことが上手いのだ。たいていの人はだまされて長谷先生のことを不器用な人間だと思ってしまう。それどころか長谷先生自身も自分のことを不器用な人間だと思い込んでいるふしもある。高倉健か。自分で自分をだましているのだ。そのくらい人をだますのが上手なのだ。しかし私はだまされませんぞ。たぶん長谷先生の奥さんもだまされてはいないと思う。ただだまされたフリをしているだけなのだ。夫婦とはそういうものである。

  「したがって私が本書の各論考で方法論的に拒絶しようとしたのは、映画研究の専門家として滑らかに語ることだったと言えるだろう。専門家や批評家が語ることほど退屈なものはない、と私は思う。(中略)私は決して映画をわかってしまった人間として装うことだけはしないように注意を払った。できるだけ、映画とは何かがわからないまま、映画を見るという経験は人類にとってどんな意味をもつのか、宇宙人の人類学者のように探ろうとした。こんな不思議な映画の見方を人間はしてきたのだという歴史的事実をあれこれ掘り起こしたうえで、しかし、その見方がいまの私の映画鑑賞のなかにも潜在しているのではないかと自問しながら書くように努力した。ときどき学術論文のように生真面目な論述に出くわすと思うが、むしろそれは私の力のなさだと思っていただきたい。」

  「映画研究の専門家として滑らかに語ること」を拒絶する。東大全共闘みたいな文章である。自己批判と自己否定。少なくともそのように振舞ってみせること。これは相当な力量を必要とする。「ときどき学術論文のように生真面目な論述に出くわすと思うが、むしろそれは私の力のなさだと思っていただきたい。」自分の力に自信がなければこういうことは書けません。学生諸君にぜひ薦めたい本である。こういう書き方、こういうアプローチの仕方もあるのだということを知ってほしい。