フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

4月3日(木) 雨

2014-04-04 13:01:07 | Weblog

     8時半、起床。

     4月からの朝ドラは見ていない。つまらないから見ていないのではなく、最初から見ていないのだ。「あまちゃん」「ごちそうさん」と二本続けてとても面白かったが、それが三本続くなんてことは確率論的にがあるはずがないと思い込んでいるからである。これが潮時と。面白かったらごめんなさい。「花子とアン」というタイトルがイマイチなのかもしれない。「ごちそうさん」の主役だった「杏」とかぶっている。「ごめんなさい」というタイトルだったら、連続性を感じて、見たかもしれない。いや、「ごめんなさい」はネガティブか。「ありがとう」ならポジティブだが、そういうドラマが昔々民放であった。あれも高視聴率のドラマだった。「おはよう」は朝ドラとしてもってこいのタイトルだが、すでに秋野暢子の主演で「おはようさん」がある。

     鶏のササミのサラダと牛乳の朝食。新学期が始まるので、減量モードに入っている。

     昼前に家を出る。今日は大学に行っていくつか済ませなくてはならないことがある。

     昼食は「まやんち」で。カナさんが数か月ぶりに職場復帰されていた。しばらく悪阻で休まれていたのだ。まだお腹はそんなに目立たつほどではない。太めの女性程度である。「大久保さんに謝らないとならないことがあります」と言われたので、えっ、謝る? 何ですかと尋ねると、カナさんが休養に入る前に私が来店したとき、私が注文した焼き菓子の盛り合わせをテーブルに運んできてくれた際の焼き菓子の説明に一部間違いがあったというのである。四角くて平たい焼き菓子はチーズ入りと説明しましたが、ココナツ入りの間違いでした、そのことがずっと気になっていたのですとのこと。そ、そんjなことですか・・・。そのときのブログには焼き菓子の盛り合わせの写真は載っているが、説明は載せていない。だから、どうでもいいようなものだと思うのだが、それがずっと気になっていたのだそうだ。プロとして許せなかったのかもしれないが、どうか細かいことは気にせずに、これからゆったりとした気持ちで出産に臨んでくださいね。

     野菜のサンドウィッチと紅茶(秋摘みのダージリン)と蒲田モダンロールを注文。

     モモコさんは4月に入って髪を短くされた。先輩のカナさんも戻ってきて、そして新人のスタッフの方もこれから加わるそうだから、これで肩の荷も下りるだろう。フル回転の3月、ご苦労様でした。

     卒業式以来の大学は本降りの雨である。

 

     せっかくの桜には無情の雨である。

     教員ロビーに郵便物などを取りにいくと、現代人間論系の新しい助教になった小藪さんがいた。彼には私が担当していた演習(ケーススタディの方法)の代講をお願いしている。必修基礎演習のことなども含め、演習のすすめ方について相談にのる。私と彼とは3つの共通点がある。ベースが社会学で、スイーツが好きで、学生の相手をするのが苦ではないことである。もう一つ、カメラに向かって笑顔を作るのが苦手というのを加えてもいいかもしれない。よろしくお願いしますね。

     研究室の前の廊下の窓からは、39号館裏の土手の上の大きな桜の木が見える。満開である。これを見ることも今日大学へ来たことの理由の1つである。来週はもう散っているに違いない。一期一会の桜である。

     あれこれの用件を片付けならが、研究室でティータイム。

     キャンパスの八重椿も満開である。

     たんさんの八重椿が咲いている様子は、銀河団の写真を連想させる。

     八重椿の花はじっと見ていると吸い込まれそうである。

     八重椿に限らず、花というものは、至近距離で見ると、深海の底に住む謎めいた生物のように見える。

     地面には朽ち落ちた花が散乱している。あまり写真には撮らないが、これも花の姿である。 

 

      水たまりに集積した桜の花びらは波打ち際の大量の桜貝のようだ。

     5時をちょっと回った頃に大学を出て、大井町で途中下車。「pottery」に立ち寄り、閉店(6時半)までのひとときを最後の客として過ごす。 

 

     コーヒーとトーストを注文。コーヒーカップは日によって違うが、今日はウェッジウッドのユーランダ―・パウダー・ルビー。 

     この店のトーストは小ぶりなので、二種類注文する客が多い。私もそれにならって、ジャムとキノコのソテー。ジャムは苺。キノコのソテーのトーストというのは初めて食べた。

     今日は一日中雨で、お客さんは少なかったそうだ。それで読書がはかどりましたとマダムは言う。何を読んでいるのですかと尋ねると、司馬遼太郎『国盗り物語』とのこと。文庫本で4冊で、いま4冊目の終わりに近づいている。いよいよ本能寺の変の辺りだ。歴史小説がお好きなようである。自宅にOL時代に通勤電車の中で読んでいた文庫本が600冊くらいあって、この数年、それを全部読み返そうとしているそうである。読み返した本は、もうこの先読み返すことはないので、捨てるか、人にあげている。人生の終わりに向けての始末なのだそうである。あと3年くらいかかりそうだという。

     もし私がマダムと同じこといまから始めたら一体何年かかるだろう。それ以前に、昔の文庫本は活字がやたらに小さいから(とくに新潮文庫!)、老眼の身には堪えるだろう。

     マダムと断続的におしゃべりをしながら、『歳時記』の「桜」の句に目を通していると、こんな一句があった。

          これはこれはとばかり花の吉野山  貞室

     若い頃、蒲田の将棋会所でよく将棋を指したが、毎日来ている老人がいて、たまにあたるのだが(対戦相手は席主が決める)、私が攻撃をしかけると、「これはこれはとばかり花の吉野山」を連発する。防御に大わらわのときに発せられる決まり文句なのである。逆に、自分が思い切った攻めに出るときには、「それいけ村の若い衆」を連発する。若い衆になったつもりで、「それいけ!」と自分を鼓舞しているのである(出典は不明)。ああ、思い出した、老人は吉田さんという人だった。私は一度も吉田さんに負けたことはなかったと記憶しているが、老人相手にわざと負けるという発想は当時の私にはなかった。将棋会所にはもうずっと行っていないが、もし若い人と当たって、相手がわざと負けたことに気づいたら、もう二度と将棋会所には行かなくなるだろう。勝負というのは、互いのプライドをかけてやっているところがあるから、「わざと負ける」なんてことはタブーなのである。でも、わざとではなく、うっかりミスをして吉田さんに負けることが一度くらいあってもよかったのではないかと思うのである。吉田さんと将棋を指した将棋会所はもうないし、おそらく、いや、間違いなく、吉田さんも亡くなっているだろう。 

          さまざまのことおもひ出す桜かな  芭蕉

     今夜はカレーライスになりました。