8時、起床。寒い。「花冷え」という言葉があるが、もう桜の花は散ってしまったから、こういう寒さを何と呼ぶのだろう。
サラダだけの朝食。
10時前に家を出て、大学へ。
今日は村上春樹の新著『女のいない男たち』が出る日だ。駅に行く途中で、一二三堂に寄ったが、今日は入荷していませんとのこと。町の小さな本屋さんの悲哀を感じる。
駅ビルの有隣堂には山積みになっていた。
6つの短篇から構成されているが、最後に置かれた表題作は書下ろしだが、他の5編は雑誌に載った時点ですでに読んでいる。電車の中で表題作を読んだ。小説の形式をとった「あとがき」ないし「解題」のような印象を受けた。そこでは「女のいない男たち」について説明されている。「女のいない男たち」とは妻や付き合っている女性のいない男たち、という意味ではない。現時点だけに着目すればそうなのだが、そうなる前提として、かつてそういう女性がいたが、何らかの理由で彼女を失った(彼女に去られた、裏切られた、死なれた)男たち、という意味である。
「ある日突然、あなたは女のいない男たちになる。その日はほんの僅かな予告もヒントも与えられず、予告も虫の知らせもなく、ノックも咳払いも抜きで、出し抜けにあなたのもとを訪れる。ひとつの角を曲がると、自分が既にそこにあることがあなたにはわかる。でももう後戻りはできない。いったん角を曲がってしまえば、それがあなたにとっての、たったひとつの世界になってしまう。その世界ではあなたは「女のいない男たち」と呼ばれることになる。どこまでも冷ややかな複数形で。/女のいない男たちになることがどのくらい切ないことなのか、心痛むことなのか、それは女のいない男たちにしか理解できない。」(276頁)
「女のいない男たちになることはとても簡単なことだ。一人の女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ。・・・(中略)・・・そしてひとたび女のいない男たちになってしまえば、その孤独の色はあなたの身体に深く染み込んでいく。淡い色合いの絨毯にこぼれた赤ワインの染みのように、あなたがどれほど豊富に家政学の専門知識を持ち合わせていたとしても、その染みを落とすのはおろらく困難な作業になる。時間と共に色は多少褪せるかもしれないが、その染みはおそらくあなたが息を引き取るまで、そこにあくまでも染みとして留まっているだろう。それは染みとしての資格を持ち、時には染みとしての公的な発言権さえ持つだろう。あなたはその色の緩やかな移ろいと共に、その多義的な輪郭と共に、生を送っていくしかない。」(279頁)
「その世界では音の響き方が違う。喉の渇き方が違う。髪の伸び方も違う。スターバックスの店員の対応も違う。クリフォード・ブラウンのソロも違うものに聞こえる。地下鉄のドアの閉まり方違う。表参道から青山一丁目まで歩く距離だって相当違ってくる。たとえその後で新たな女性に巡り会えたとしても、彼女がたとえどんなに素晴らしい女性であったとしても(いや、素晴らしい女性であればあるほど)、あなたはその瞬間から既に彼女たちを失うことを考え始めている。」(280頁)
「女のいない男たちになることはとても簡単なことだ」と表題作「女のいない男たち」の主人公は述べている。本当にそうだろうか。「一人の女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ」というが、「一人の女性を深く愛する」ことはそれほど簡単なことではないだろう。いま、未婚率は上昇を続けているし、恋愛経験のない若者も増えている。男に限らず女にとっても、一人の人を「深く愛する」ことは難しいことになっているのではないだろうか。そして難しければ難しいほど、それは憧れの対象になる。だから「女のいない男たち」の世界は一種のユートピアであり、村上春樹の他の作品がそうであるように、『女のいない男たち』も一種のユートピ小説なのである。
2000年卒の教え子の一人であるTさんが研究室にやってきた。彼女はカメラ女子である。鞄にはいつもミラーレス一眼の大きなカメラが入っている。結婚十年目の記念の夫からプレゼントであるとのこと。ちなみに大学の同級生である彼女の夫はプロの報道カメラマンである。
私が彼女にカメラを向けると、彼女も私にカメラを向けた。真昼の決闘みたいだ。
昼食はTさんの希望で「SKIPA」で。
Tさには3歳の息子さんがいるが、今週から午前保育が始まった。子どものお弁当が始まったら最初のひとりランチは「SKIPA」で、と決めていたのだそうだ。ひとりランチへの憧れは小さなお子さんのいる女性に共通のものである。もっとも、今日は二人ランチですけどね。
今週の月曜日に私と「SKIPA」に来たMさんは、Tさんの友人である。Mさんがその日、私の研究室を訪問することはMさん本人から事前に聞いて知っていたTさんだったが、Mさんが私のブログに載っているのを見て、改めて驚いたそうだ。この感覚はなんだろう。毎日読んでいる新聞の連載小説に、自分の知り合いが登場したみたいな感じなのだろうか。
今日のブログに載ったTさんを見て、同じようにMさんも驚いているのだろうか。
私はチキンカレー、Tさんは日替わり定食を注文。食後にアイスチャイ。
Tさんは料理が好きで、得意でもあるらしい。そのTさんが「とっても美味しいです」と言って料理をほめるので、のんちゃんも嬉しそうであった。
お子さんのお迎えの時間を尋ねたら、今日は夫が休みの日で、子どもの面倒は見ていてくれているのですとのこと。
それならということで、「SKIPA」を出て、カフェの梯子で、「紀の善」へ。私は田舎汁子を、Tさんは白玉ぜんざいを注文。Tさんは学生時代は甘いものは好きではなかったが(酒飲みなのである)、子どもを産んでから、甘いものが好きになったそうだ。へぇ、そんなことってあるのか。
Tさんの印象は学生時代と変わらない。いつもニコニコしていて、愚痴みたいなことは言わない人だった。ある意味では、男前なところのある女性である。別の言い方をすれば、弱さの自己開示が苦手な人である。一般的に、男性は弱さの自己開示が苦手で、女性はそれが無理なくできる。それは男性が強く、女性が弱いことを意味しない。むしろ、男性のパーソナリティ構造は「硬くてもろい」のに対して、女性のパーソナリティ構造は「柔らかで丈夫」なのである。実際、Tさんは悩みごとをひとりで抱えて、体調を崩したこともあるそうだ。そんなTさんだが、彼女に言わせると、今日は普段はあまり人に言わないようなことまで思わずしゃべってしまったそうだ。えっ、そうなの? どのあたりが? 全然、気づきませんでしたけどね(笑)。
次回はMさんと二人でやってくるそうだ。
5限・6限はゼミ。
先週、3年生に自己紹介をしてもらってので、今日は4年生に自己紹介をしてもらったが、必ずゼミ論のテーマについての説明を盛り込むようにと注文しておいた。1年間つきあってきたわけだから、自己紹介そのものにあまり新味はないだろと思っていたが、蓋を開けてみると、キャラを変えたのかと思うほど、新しい自己呈示をする人が何人かいて、驚いた。また、就活中の人も多く、その習性だろう、語りながら、ときどき最前列に座っている私の方に顔を向けて、にっこりほほ笑む人もいて、「役員面接か」と思わずツッコミを入れたくなった。
前回は4年生は5人も欠席者がいたので、集合写真は撮らなかった。今回は欠席者は1人だけ(就活で大阪に行っているS君)。Uさんは写真を撮るとき大抵目をつむってしまう。今回も、何枚か撮ったのだが、全部目をつむっていた。目を開けたままのUさんの写真をいつか撮りたいものだと思う。
今日のスイーツは、4年生のMさんが用意してきたおまんじゅう。
3年生だけ少し残ってもらって、これからの発表のグループと日程を決める。
午後9時、遅い夕食を「ワセダ菜館」でとる。いつものカツ煮定食+ほうれん草の胡麻和え。
こーちゃん一家のお母さん(あやかさん)から、こーちゃんとあおいちゃんが書いた昨日の絵日記(写真)がメールで届いた。
こーちゃんの絵日記。判読すると、「きょうはオネエサンのおみせでおおくぼせんせいとあそんでたのしかったよ おねえさんともたのしかったよ ちがうおねえさんとあそんでたのしかったよ しゃしんとったよ」と書いてある。「ちがうおねんさん」って誰だい?
あおいちゃんの絵日記。左上の人物(?)が私だそうだ。左下のカプセルみたいなのがこーちゃんで、右下のお面みたいなものがあおいちゃん自身だそうだ。そうすると、あおいちゃんの上の喋々のような、トンボのようなものは何だろう?さらにその上の前髪を垂らしたお面みたいなものは何だろう(お母さんか?)。