フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

4月20日(日) 曇り

2014-04-21 14:15:51 | Weblog

     8時半、起床。

     このところの寒さでちょっと風邪を引いた気配がある。お腹と背中の筋肉がこわばってシクシク痛むので、昨夜は市販の風邪薬+ロキソニンを飲んで寝た。

     筍ご飯と筍のみそ汁とサラダの朝食。

     昼から神楽坂の「SKIPA」で句会(第4回いろは句会)。今回の出席者は、主宰の紀本さん、フリーの校正者のTさん、中学校の先生のKさん、書家のEさん、私の5名である。一人3句を事前に主宰にメールで投句しており、3句×5名=15句の中から、各人、天(5点)・地(3点)・人(1点)の3句を選句する。ただし、自分の句を選んではいけないので、実質的には、12句の中から3句を選ぶことになる。

     しばし熟考した後、各人が自分の選んだ三句を発表していく。

     集計の結果、今回の入選作の上位は以下のとおり。

        特選(10点)  狙撃手の銃に止まれる蝶一匹

        入選(8点)   春服や会いたき人に会いに行く

        入選(5点)   誘われて厭と云えぬか桜桃忌

          同       芽吹き頃姪の言の葉あどけなし

        入選(4点)   チューリップ咲いたところが分岐点

     入選作の一つ一つについて、選んだ人が選んだ理由を述べていく。選ばなかった人も主宰に指名されれば感想を述べる(このとき、自分の句なので選びませんでしたとは言えない。客観的な風を装って感想を述べなくてはならない)。その後で、作者が誰であるかが明らかにされる。

     「狙撃手の銃に止まれる蝶一匹」。KさんとEさんが「天」を付けた。銃と蝶というコントラストがこの句の魅力である。世界報道写真展で出会うような光景である。蝶はモンシロチョウか、モンキチョウがふさわしいだろう。私がこの句を選ばなかったのは、たぶん同じ作者と思われる別の句を選んでいたからというのと、「蝶一匹」という破調が気になったからである。破調が絶対にいけないということはないが、この句においては、破調がプラスの効果を上げているとは思えないのである。この句の作者はTさんであった。

     「春服や会いたき人に会いに行く」。紀本さんが「天」、Tさんが「地」を付けた。春らしい心躍る句である。若い人の句のように見えて、実は中年以上の人の作品であろうと紀本さんは言った。会いたい人に会いに行くのは若い人にとっては普通の感覚だが、世間のしがらみの中で生活している中年以上の人にとっては解放感を伴う感覚だからである。はい、ご明察です。この句の作者は私です。春先に春らしい色合いの上着を買ったところだったのである(今日の句会にも着てきました)。隣にいたEさんも、「先生の句だと思いました。最近の先生のモットーですよね」と言った。女性の作者を装って作った句であったが、バレバレだったようである。ついでにいうと、萩原朔太郎の有名な詩「旅上」を意識しています。「ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し せめては新しき背広をきて きままなる旅にいでてみん」。

     「誘われて厭と云えぬか桜桃忌」。私が「天」を付けた。「〇〇忌」という季語はたくさんあるが、その中でも桜桃忌は好きな季語である。太宰治はあれこれの苦悩を生きた人であると同時に、社交の人でもあった。いや、道化の人というべきか。酒を飲む気分ではないときでも、人から誘われれば、出かけて行って、サービス精神旺盛に場を楽しくすることに努める人であった。この句は、「今日は太宰の命日だから、太宰を偲んでいっぱいやろうぜ」と友人から誘われて、仕事の締め切りに追われて忙しいときであったが、「しゃあないな」と言いながら、出かけていく男を描いたもの、というふうに解釈した。ところが、紀本さんは、これは愛人から心中をもちかけれたときの心境を詠んだものではないかという解釈をした。あっ、そっちですか。社交の句ではなくて、修羅場の句ですか。作者はTさんであった。これは予想通りだったが、Tさんは紀本さん指摘のように、心中をモチーフにした句であることを明らかにした。紀本さん、さすがですね。   

     「芽吹き頃姪の言の葉あどけなし」。Tさんが「天」を付けた。かわいらしい句である。「芽吹き」と「姪」が韻を踏んでおり、「芽吹き」と「葉」が縁語になっている。かわいらしくありながら、技巧的でもある。私がこの句をとらなかったのは、見た目のレベルで、前半に漢字が集中していて、バランスが悪いように感じたからである。「頃」を「ごろ」と平仮名にするとよかったのではないか。作者はEさんであった。書家のEさんが、音のほうに気をとられて、漢字と平仮名のバランスに無頓着であったのは意外だった。

     「チューリップ咲いたところが分岐点」。Eさんが「地」、私が「人」を付けた。チューリップは、珍しい花ではないが、花の形は独特のもので、道を歩いていて、玄関先に鉢植えになって置かれているとパッと目に飛び込んでくる。「分岐点」というのは空間的な意味にも、時間的な意味にも使える。「チューリップのある家の角を曲がる」とか、「チューリップの咲く頃に入学する」とか。作者は紀本さん。「分岐点」という言葉を使いたかったとのこと。最初に単語ありき。それってよくあることのようである。

     ちなみに私が投句した他の二句は、「さて今日のお八つは草餅桜餅」(TさんとEさんが「人」を付けてくれた)、「幾年(いくとせ)をめぐりて今日の春の月」(紀本さんが「人」を付けてくれた)。「草餅」と「桜餅」はどちらも春の季語だから、ひとつの句に二つ季語が入っているわけだが、これは「春の菓子」という同じ季語の仲間であるから、「草餅桜餅」で合わせて一つの季語として考えていただきたい。語呂もいいでしょ。安住敦の「しぐるるや駅に西口東口」の「西口東口」のあの感じである。「幾年を・・・」は還暦の感慨を平明に詠んだ句だが、芭蕉の高弟宝井其角の「十五から酒をのみ出てけふの月」が頭にあった。

     一段落したところで、食事を注文する。全員、スキッパ定食。

     次回の句会は6月15日(日)、今日と同じ「SKIPA」でお昼から。2000年卒のW君が次回から参加したいとのこと。同様のご希望があれば、私までメールでお申込みください。句会は人数が多い方が面白いので、歓迎します。

     Eさんと「紀の善」で二次会的おしゃべり。私は御膳汁粉を注文。

     Eさんは今回、「芽吹き頃・・・」の句が入選した。選にはもれたが、「春の星見上げて潤む遠き星」は先月に亡くなった卒業生のMさんのことを詠んだ句である。TさんとMさんとは同じ一文の社会学専修の卒業生(2007年3月卒)で、3年生のときの調査実習では2人とも私のクラスにいた。Mさんの印象を尋ねたら、「私もおしゃべりでしたけれど、Mさんもおしゃべりでした」とのこと。

     Eさんは昨年の10月に会社を辞めてフリーランスになって、ちょうど半年が過ぎた。フリーランスというライフスタイルが彼女には合っているようである。JR飯田橋の駅前で彼女とは別れた。彼女は自転車を漕いで帰って行った。

     「phono kafe」に顔を出してから帰宅。

     今日の夕食は菜の花と豚肉の炒め物。「宮本農業」の菜の花である。宮本君からいただいた野菜はこれで全部食べ切りました。ご馳走様でした。

菜の花や飯は左に汁右に  たかじ