7時半、起床。
朝食はとらず、9時半に家を出て、大学へ。今日は修士論文中間報告会がある。毎年、夏休み前のこの時期に行われる。
報告会に出る前に、36号館の売店でおにぎりを購入しラウンジで食べていると、U先生が通りかかって、「誰かと思ったら・・・」と言った。たしかに教員がラウンジでおにぎりを食べている図というのはめったに見かけないであろう。
今回は8名の院生が報告をした。報告時間は質疑応答込みで一人30分。午前中に3人、昼食休憩後に6人(途中で休憩あり)。
昼食は「五郎八」で、力うどんを食べた。
最近では大人数の報告会だった。時間厳守で行われたので、ほぼ予定通り、4時前に終了した。
8名の修論のテーマはさまざまで、進捗状況にもばらつきがあった。これから年明けの論文提出まで苦しい道のりが続くと思うが、頑張ってください。四六時中、研究テーマについて考えていれば、思わぬ瞬間にいいアイデアが浮かぶものである。ただし、「夏休み」にはあまり過大な期待をしない方がよいと思う。
帰りに「SKIPA」に寄って一服。梅ソーダをグイと飲み干してから、アイスチャイをゆっくりと味わった。
昨日、友人のKとメールのやりとりをして、8月に彼の別荘である茅野の「安楽亭」を訪問する日取りを相談した。「安楽亭」には年に3回(春夏秋)行っているが、高原の夏は格別である。お盆休みの入り口である8月11日(月)に訪問して一泊させてもらうことになった。その後は、一人で信州を小旅行だ。春は松本→長野だったが、今回は松本のギャラリーカフェ「gargas」が火曜定休なので、まず火曜日に長野に行って、松本は水曜日にしようかと思う。
東京駅で11日の新宿→茅野の特急・乗車券を購入。いつもの新宿10時ちょうど発のあずさ11号。
蒲田駅の改札で6時に卒業生(論系ゼミ3期生)のHさんと待ち合わせ、東口の「三州屋本店」に行く。彼女は今日の昼に山形から上京し、大学時代の友人と会ってからの流れである。2つ上の兄さんが蒲田に住んでいて、今夜はそこに泊めてもらうことになっているというので、それならば早稲田ではなく蒲田で会いましょうということになったのである。夕食は先生のお勧めのところでというので、繁盛している居酒屋「三州屋本店」とさびれた定食屋「喜楽亭」とどちらがいいかと尋ねたら、繁盛している居酒屋がいいですと即答だった。
まだ午後6時というのに、店内はほぼ満席だった。まずは乾杯。
彼女は健啖家である。「最近は仕事がハードで、以前ほど食べられなくなりました」と言いながらも、浅利の酒蒸し、串カツ、鯛のかぶと煮、茄子焼き、若鶏の唐揚げ、ほうれん草の胡麻和え、茶漬け(私は鯛、彼女は鮭)を次々と注文し、美味しい、美味しいと平らげた。夕食の場所の候補に最初から「phono kafe」を入れていなかった理由はこれで明らかだろう。菜食主義のカフェご飯は彼女には不向きなのである。
食後のコーヒーは「テラス・ドルチェ」で。
Hさんはこのブログに頻繁に登場する卒業生の一人である。人はカメラを向けられると毎回似たようなポーズ、似たような表情を無意識のうちにする傾向がある。先ほどの居酒屋で撮った写真がそうで、彼女のおなじみのポーズであり表情である。このままチューハイのポスターに使えそうだ。でも、今回はもっと自然なポーズや表情が撮りたかったので、おしゃべりをしながら、ノーファインダーで(カメラを構えてファインダーをのぞかずに)、撮らせてもらった。それが下の写真である。彼女は動きの人である。たんに表情が動くだけでなく、両腕もよく動く。腕の動きはもちろん無意識のものだが、もしかしたら、無意識ではなくて、一種の手旗信号で何かのメッセージを私に伝えているのではないかと勘ぐったほどである。
仕事の話をたくさんした。卒業(就職)2年目は仕事の責任やノルマがきつくなる時期である。そのきつさのある部分は、人件費の削減で、社員一人あたりの仕事量があきらかに荷重オーバーしていることからくるものである。だから残業は日常化するし、ときには休日も仕事をしなければならなくなる。有給休暇をとれば、同僚の誰かにしわ寄せが行く。あるいは休暇明けの自分にしわ寄せがいく。だから有給休暇がとれない。制度があるということと、その制度を利用できることは同じではないのである。これは彼女の職場に限った話ではない。民間企業に限った話でもない。雇用されて働く人間が置かれている一般的状況である。
「でも仕事ってそういうものですよね」と彼女は言う。自分に言い聞かせるように。たぶん職場ではそういう語りが支配的なのだろう。そういう語りで理不尽なことも受容されているのだろう。「仕事だから」ということでいろいろなことが正当化される社会は仕事至上主義社会である。もちろん仕事は大切だ。それは個人の生活の経済的基盤を支えるものであり、個人の社会的役割=アイデンティティの構成要素でもある。しかし、だからといって、「仕事の在り方」「仕事の内容」「仕事のシステム」を問わなくてもいいということにはならない。大切なものであるからこそ、それを無批判的に受け入れるのではなく、「これでいいのだろうか」と問う必要があるのである。
私は彼女の職場の同僚でも先輩でも上司でもないので、つまり職場の外部の人間なので、「でも仕事ってそういうものですよね」という彼女の語りに「そうだね」と相槌は打たなかった。かといって積極的に反対意見を述べるというわけでもなかった。彼女はいま彼女が身を置いている状況の中で頑張ってやっていこうとしているのだから、それに水を差すつもりはなかなった。健康第一。私が卒業生にいうのは結局はこれに尽きる。頑張るのはいいが、健康を害してまで頑張ってはいけないと。そのことに健康を害してから気づくということがないようにと。そのためには健康管理が大切だと。
食欲の増減(=体重の増減)というのは健康管理の重要でわかりやすいポイントの1つである。体重の増減について彼女に尋ねたら、驚いたことに、もう何カ月も彼女は体重を測っていないという。体重を測るなんて実に簡単なことで、脱衣所に体重計を置いておいて、風呂に入る前後にその上に乗るだけでいい。私は毎日体重計に乗っている。体重計をまたぐより、体重計に乗る方が自然なのである。なぜ体重を量っていないのと尋ねたら、「仕事が忙しくて」と答えたので、さらに驚いた。「仕事が忙しくて、風呂に入る時間もない」ならわかるが、彼女は風呂好きで、毎日、それもけっこう長時間入ってるようだから、「仕事が忙しくて、体重を測っている時間がない」というのはおかしな説明で、正しくは、体重のことに気が回らないということであろう。つまり、体重の測定(=健康管理の具体的行動)を怠っている理由を「仕事」に求めるというのは、仕事至上主義の端的な表れである。
「時間が過ぎるのがとても速いです」と彼女は言う。私もそう思うし、多くの人もそう感じているだろう。今年ももう半分以上が過ぎたのだ。もうすぐ来年のスケジュール帳が書店に並ぶだろう。私が「えっ?」と思ったのは、彼女が時間が過ぎるのを速く感じているということそれ自体ではなく、過ぎ去った時間に起こったこと、季節の移ろいについて、彼女がほとんど覚えていない(印象に残っていない)と語ったからだった。人生とは、いま目の前で起こっていることの認識と、経験したことの記憶と、これから起こるかもしれないことの想像から成り立っている。現在・過去・未来という重層的な構造を人生はもっている。だから過ぎ去った時間のことが記憶に残っていない(ほど忙しい毎日)というのは、明らかに人生を貧しいものにしている。もし彼女が文学趣味をもっているなら俳句を勧めるところだが、たぶんそうでないので、それよりも生来の食いしん坊である彼女には、旬の食材を使った料理を味わうことを勧めておいた。毎日コンビニ弁当では季節の移ろいを味わうことは難しいだろう。食べ物に限らず、何かを味わうためには(恋愛もそのひとつだ)、気持ちにゆとりが必要だ・・・という話を最後にして、サンロード商店街(昔「蒲田銀座」と呼ばれた)の出口で、私たちは別れた。