フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

7月20日(日) 晴れのち曇り、夜になって雷雨

2014-07-21 14:42:58 | Weblog

5時半、起床。いつもより少し早めに寝たら、いつもよりだいぶ早めに目が覚めてしまった。

ベーコン&エッグ、トースト、トマト、アイスカフェラテの朝食。

昼食はつけ麺。

夕方から妻と劇団獣の仕業の芝居を観に学芸大学の「千本桜ホール」へ。

開演時間の16:30までだいぶ時間があったので近くの「平均律」というカフェに入る。階段を上がって2階のドアを開けると、広いカウンターがあり、マスターと常連客さんたちがおしゃべいをしていた。奥のテーブル席に案内される。

昭和の香り漂うカフェである。以前は原宿でやっていたお店で、十数年前にこちらで移って来られたらしい。

2人ともモカブレンドを注文。とても柔らかな味わい。

ふとテーブルの下に目をやると、妻がカジュアルなデザインの新しい靴を履いていることに気づく。これが後で小さな悲劇につながるとはこのときの妻はまだ知らなかった。

今回の公演は『空騒ぎ』。 二組の男女の出会いから結婚に至るドタバタを同時進行で描いたシェークスピアの喜劇である。

劇団獣の仕業がシェークスピア作品に取り組むのは2年前の『オセロ』に続いて今回が2度目である。『オセロ』を観たときの私の感想(2012年9月29日「フィールドノート」)は次のようなものだった。

「獣の仕業」は総合芸術としての演劇を志して進化を続けてきた。たんにレベルアップしてきたというだけではなく、自己模倣をよしとせず、変化を求めて新しい試みにに挑んできた。第4回公演で初めて原作を外部に求めたこともその1つだろう(引用註:つかこうへいの『飛龍伝』)。 そして今回(第6回)、シェイクスピアの4大悲劇の1つ「オセロ」を選んだ。豊穣な言葉の海を、素早い、力強いストロークで、泳いでみせた。7人の泳者の中では、とくに藤長由佳と客演の倉垣吉宏のセリフ回しがその切れ味のよさで光っていた。あれだけのスピードでしゃべって、一本調子に陥らず、明晰に聞き取れるセリフをしゃべれるというのはすごい。久々に登場の凛子も、藤長と二人一役の夜光(IAGO)を演じて、一歩も引かず、丁々発止のセリフ回しだった。

今回の演出上の新しい試みは、役者が観客を見る、それも「にらみつける」ように見るところだろうか。前回の「せかいでいちばんきれいなものに」においては、役者たちが客席に向かって呼びかけを行ったが、呼びかけは舞台と客席の間を架橋しようとするものだが、「にらみつける」ことは舞台と客席の境目をとっぱらって、観客を舞台の上に引きずり出し、事件の現場に居合わせる共演者にしてしまう効果がある(少なくとも居眠りはしていられない)。その他にも、コーラスを取り入れてみたり、といった新しい試みがされていたように思う。

私はそうした高い技術や新しい試みに大いに感心した。しかし、感動したかと聞かれると、必ずしもそうではない。圧倒はされたが、それは感動とは少し違う。喩えていえば、ピアノの難曲を見事に弾いて見せてもらったときのような感じである。これでもかというくらいのスピードで鍵盤を強く叩きつけるような演奏。しかし、ゆっくり弾くことも弱く弾くことも、感情を抑制して弾くことも、一種のテクニックであろう。二種のテクニックが有効に組み合わされるとき、表現はよりふくらみ、陰影に富んだものになるだろう。

演出上のテクニックの問題のほかに、物語の存在ということについても言及しておこう。なぜ「オセロ」なのか、という問いに対して、おそらくは二つの答えが予想される。1つはそれがシェイクスピアの作品であるから。演劇人たるもの一度はシェイクスピアに挑戦したいという気概はあるだろう。もう1つは、嫉妬という人間の宿命的な心理をテーマにしているから。遠い時代の遠い国の物語であるが、現代に通じるものがそこにはあるということ。古典の古典たる所以である。けれど、古典をそうしたものとして味わうためには、物語をきちんと理解しないとならない。そのためには言葉(セリフ)が言葉として理解されないとならない。速射砲のように話される言葉は、きちんと聞き取ることが難しく、聞き取れたとしてもそれを吟味している暇がない。私は(おそれくは他の観客も)、ときどきセリフをきんち聞き取ることを放棄して、また、セリフの意味を考えるこlとを放棄して、音楽を聴くように、役者の口から発せられるセリフをそのリズムと強弱だけで受け止めている時間が何度かあった。必然的に物語の理解は弱くなる。物語のあらすじは理解するが、ディテールは希薄になる。でも、物語の面白さはあらすじにあるのではなく、ディテールにあるのである。

シェークスピアは面白い。それは間違いない。でも、本当に面白いのは、シェークスピアの「オセロ」ではなくて、「僕たちのオセロ」なのだと思う。「僕たちのオセロ」は、古今東西の人間に普遍的に存在する問題(たとえば嫉妬心)にフォーカスするよりも、僕たちの時代の問題に立ち向かうものである。そのとき、物語(演劇)は、僕たちの人生と僕たちの世界(社会)を架橋するものになるだろう。 (引用終わり)


(上演前)

今回の『空騒ぎ』は、『オセロ』のときよりも、はるかに「僕たちのシェークスピア」に仕上がっていたと思う。『オセロ』には感心したが感動は弱かったと書いたが、『空騒ぎ』は大いに楽しんだ。心から楽しんだということは感動したということである。

『空騒ぎ』の成功の理由は3つあるだろう。第一に、役者たちの演技力。小林龍二、雑賀玲衣、手塚優希、藤長由佳の4名は『オセロ』に続いての出演だったが、2年間の劇団内外での活動を通じて、役者として進化している。小林は香川照之的オーラを身にまとっていた。雑賀は高飛車な女と愛らしい女を自由自在に演じていた。手塚は年齢を重ねるにつれて純真無垢な女を上手に演じるようになってきた。藤長は主役も脇役もなんでもこなせますよというところを見せつけた。今回、客演やオーディションで出演した役者たちのレベルも高かった。遠藤昌宏の王子的な端正さ、西荻小虎のジョーカー的な異能さ、佐藤辰海の不良的なワルっぽさ、横山大河のピーターパン的な軽妙さ、いずれも劇団内部では調達の難しい人材で、客演やオーディションの意味が大いにあったと思う。

第二に、脚色と演出の工夫。『オセロ』が「ピアノの難曲をこれでもかというくらいのスピードで鍵盤を強く叩きつけるような演奏」であっとすれば、『空騒ぎ』は強弱と緩急のバランスを心得た演奏であった。それはたんに声の大きさや語りのスピードについてだけでなく、原作の台詞(坪内逍遥訳)の豊穣でしばしば難しい言い回しをそのまま使う部分と、現代の若者の言葉でアレンジした部分の配合についてもいえることである。その結果、観客は役者の語りをちゃんと聞き取れただけでなく、深く味わうこともできた。シェークスピアの作品の場合、このことはとくに重要だ。照明や音響が効果的だったこと(これはいつものことだが)も忘れてはならない。

第三に、選んだ作品が喜劇であったこと。私が今回の芝居を心から楽しめたのはハッピーエンドであることがわかっていたからということもあるかもしれない。喜劇とはいっても、そのストーリーには悲劇的要素はたくさん含まれている。ちょっとした行き違いで、悪意が勝り、死が現実のものになったかもしれない。悲劇と喜劇は紙一重である。ところが、世間では一般に悲劇を重く見て、喜劇を軽く見る風潮がある。しかし、喜劇というのは、終始喜劇であるわけではなく、悲劇的要素に打ち勝って、最後に喜び(笑顔)を手に入れる物語なのである。その意味で感動的な物語なのである。劇団獣の仕業が喜劇に取り組んだのは初めてのことである。それはそうした喜劇の仕組みに最近気づいたからなのか、以前から気づいてはいたが世間の喜劇軽視の風潮の中で踏み出せずにいたのかはわからないが、劇団にとっては大きな一歩だと思う。役者だけでなく、劇団も進化しているのだ。

次回の公演は『ヴェニスの商人』(11月1日~3日、劇場はJR王子駅前のpit北/区域)。シェークスピア作品の連投である。さて、今度はどんな球を投げてくるのであろうか。心して待ちたいと思う。


(上演後) 左から横山大河、立夏(脚色・演出)、遠藤昌宏、藤長由佳


雑賀玲衣


小林龍二(左)と西荻小虎(右)


立夏

会場を出たのが6時過ぎ。夕食は鹿島田の「パン日和あをや」と決めていたが、劇場を出たときにポツポツと降り始めた雨が、武蔵小杉で東横線から南武線に乗り換えるあたりで、とんでもない土砂降りになった。駅構内のあちこちで滝のような雨漏りがしている。

鹿島田についたときは雨は小止みになっていて、雨雲は通り過ぎたのだ、やれやれ、と思ったら、そうではなくて、電車が雨雲を追い越したのであって、駅から「あをや」に向かって歩いている途中で再び雨脚が強くなってきた。いったん追い越した雨雲に再び追いつかれてきたのだ。

土砂降りに完全に追いつかれる前に、なんとか「あをや」に滑り込む。

妻を「あをや」のご夫妻に紹介して、相談しながら注文を決めるのだが、雨と雷の音がうるさくて、テーブルとカウンターの距離では話し声がうまく伝わらない。「こんなにすごい雨は初めてです」と奥さん。

本日のスープはチリコンカン(挽肉とレットキドニーのトマトスープ)。トーストと一緒に食べる。

アップルサイダーで喉を潤す。

ホットドッグにサルサソースは私の注文。

妻はサラダを注文。アボカドとサーモンと人参とレタスとパプリカ。私も少し分けてもらう。

B.L.Tサンド。妻と分けて食べる。

食後のスイーツは丸パンを使ったフレンチトースト(アイスクリーム添え)を妻と分けて食べる。

私はコーヒー(妻はチャイ)。

閉店時間の8時。雨もようやく小降りになってきたところで、店を出る。ご馳走様でした。明日の朝食用にコーンマヨネーズパンとサルサチーズパンを買って帰る(おまけでチョコクロワッサンをいただく)。

帰り道は鹿島田ではなく、矢向への道を選ぶ。

駅近くにきたところで、大きな水たまりがあった。水たまりを回避しては歩けない。妻は新品の靴で泣く泣く水たまりの中を歩いたのであった。これが今日の小さな悲劇。

矢向から川崎は二駅。川崎で京浜東北線に乗り換えて、蒲田は一駅。

蒲田に着くと、駅前のタクシー乗り場には見たこともないほどの長蛇の列が出来ていた。落雷の影響で池上線と多摩川線が止まっているためだ。

今日の雷雨は大田区や川崎市を中心としたものであったようである。