8時、起床。
朝食はとらず、10時過ぎに家を出て、池上へ。駅前のロータリーから上池上循環(外回り)に乗る。
上池上で下車。停留所は新幹線の線路のガード下にある。
ここから歩いて数分のところに目指す店はある。
カフェ・レストラン「たかじ」。
人伝にその存在を知り、来てみたいと思っていた。ネット情報では「たかじ」はシェフのお父様のお名前からとったらしい。漢字は私の「孝治」とは違うようだが、「たかじ」という名前の人がいるということを初めて知った。珍しいのは字でなくて、音なのだ。「孝治」という字の人は珍しくないが、たいてい「こうじ」あるいは「たかはる」と読み、「たかじ」と読む人は知らない。だから「たかじ」という名の店があることを知ったときは驚いた。それも居酒屋とかではなく、カフェレストランである。しかも同じ大田区に!(去年の3月に開店)
今日は私一人で来たのではない。大森が地元の卒業生のCさん(2000年、一文卒)が一緒である。開店の11時に店の前で待ち合わせた。彼女はママチャリに乗ってやってきた。自宅から自転車で10分ほどとのことだった。
サーモンとキャベツのパスタを一皿注文してシェアする。
メイン料理は私はカニクリームコロッケ&海老かつ。
Cさんはチキンのグリル(トマトソース)。
デザートはこの店の名物のふわふわのパンケーキ。注文時、パスタとパンケーキの両方は(シェアするとはいえ)多すぎると思いますとお店の方(奥様だろう)に言われた。Cさんと私は顔を見合わせた。前菜(パスタ)→メイン料理→デザート(パンケーキ)と飲み物、というのはわれわれの感覚では普通のことで、とくに多いとは思われなかった。「私たちはよく食べるので大丈夫です」と言って、注文は変更しなかったが、食べ切れないのではとアドバイスしてくれるとは良心的な店であると思った。
見た目は大きいが、ふわふわなので、一人一個でも大丈夫だったと思う。でも、2つ注文したら、奥様はもっと必死に制止しただろうな(笑)。
いろいろとトッピングする注文もあったのだが、初めてなので、プレインにしてメープルシロップで食べた。
1時間半ほど滞在し、店を出る。支払いのとき、お店の方(シェフと奥様)と少しお話をしたが、私の名前が「たかじ」であることは言わなかった。それはこの先、何度か来店したときの話題にとっておくことにしよう。ごちそうさまでした。
こうして写真に撮ると、なんだか自分の店のような気がする。「たかじ」をよろしくお願いします。
食後の散歩を兼ねて、池上梅園まで歩く。
池上梅園は地元の梅の名所である。梅は桜と違って、開花している時期が長く、全部の木がいっせいに咲くわけではないので、2月後半から3月後半まで長い期間に渡って楽しめる。現在は7分咲きとのことである。
入園料は100円。65歳以上の方は無料である。来園者の年齢層は高い。「お梅さん」とかいるに違いない。
園内はそれほど広くはないが、起伏に富み、池などもあり、庭園としてよく整っている。
Cさんは旅の雑誌のモデルみたいである。今日のファションは紅白の梅を意識したものだろうか。
高い場所から。
これはと思う梅の木には名札が付いている。この木には「満月枝垂」と書いてある。
園内には日本庭園風の一角がある。
そばにいた方に頼んでシャッターを押してもらう。昔はこういう行為はよく見られたが、最近は減っているように思う。二人で来た人が、互いに写真を撮りあってそれでお終いである。路上で他人に道を尋ねる行為が減ったのと同じ理由によるものだろう。見知らぬ人同士のコミュニケーションが乏しい社会になっているのだ。
そろそろ幼稚園から帰って来る息子さんをお迎えの時間である。
梅園を出て、寺町を本門寺方面に歩く。これがママチャリでなく、レンタルサイクルであったら、旅の雑誌の写真になるところだ。
Cさんとは本門寺の門の前でお別れ。
今日の食事のとき、Cさんから意外な話を聞いた。小学校、中学校、(高校のときは違ったが)、大学の一年生のとき、クラスでいじめに遭っていたという話だ。いきなりそういう話になったわけではなく、高校受験のときたまたまテストの成績がよかったので塾の選抜クラスに入れられてしまって、落ちこぼれを経験しました(人生初めての挫折体験)という話がまずあって、そこから糸を手繰るように、一連のいじめ体験が語られたのである。いじめは彼女が目立つ生徒であったことや、クラス内の女子同士の付和雷同を好まない性格であったことに由来するものだが、とくに大学1年生のときの語学のクラスでの孤立はきつかったようで、学食でクラスの人たちと顔を合わせるのがつらくて、誰もいない教室で一人でお弁当を食べていたそうだ。心身のバランスを崩して、拒食症気味になり、家族に心配をかけたという。
そういう話をしながらでは食事が進まないのではないかと心配したが、そういうことはなくて、Cさんは注文した料理を美味しそうに食べながら話を続けた(笑)。
明るい人というのが私のCさんの印象であったが、それはCさんが「明るい人」という印象を持ってもらいたいと思って、私に接していたためだろう。いや、私に限らず、Cさんは他者にそのように接して生きてきたようである。つらい経験は人生の糧として内にとどめ、「前向きな、明るい性格の人」という自分を演じてきたのだろう。そういう人は、とくにそういう女性は、多いように思う。それはそういう「ポジティブな」生き方を社会が人に奨励しているからである。「過去を振り返らない」(語らない)、「過去にこだわってはいけない」(未解決の問題は棚上げにする)、そういうことに注ぐエネルギーがあれば、未来に目を向けるべきだと。
しかし、そうした「ポジティブな」生き方というのはどこか頼りない。人間的な時間の構造は、過去-現在-未来という三層構造になっている。厳密に言えば、「現在から回想された過去」と「いまこの時」(狭義の現在)と「現在から展望された未来」の三層構造になっている。「過去を振り返らない」人というのは、時間的な厚みに欠ける。過去が欠落している(語られない)分を、いまと未来を語ることで補おうとするのだが、そのときでも、不安という「ネガティブな」面からは目を背けて、希望という「ポジティブな」面にばかり目を向ける傾向がある。「ポジティブな」人は、時間的な厚味に乏しいだけでなく、人生の陰影(正の面と負の面が作り出すコントラスト)にも乏しいのである。だから頼りない印象を受けるのだ。その「ポジティブさ」は何かあればたちまち「ネガティブさ」に転じてしまいそうな気がするのだ。
学生時代、一度も私に今日のような話をすることがなかったCさんが、卒業後15年経って、つらい経験を語ったのはなぜだろう。私の専門がライフストーリー研究だからというわけではあるまい(笑)。そこには彼女自身の成熟ということがあり、私と彼女の関係性の変容ということがあるはずである。卒業生と会うことが、たんに彼らの学生時代の再現(過ぎた時代を懐かしむこと)ではないというのは私の持論だが、今日はそのことをとくに強く感じた。私は今日、学生時代のCさんと再会したのではなく、30代後半のCさんと新たに出会ったのである。
本門寺は桜の名所だが、もちろんまだ桜には早い・・・と思っていたら、階段の脇に見事な桜が咲いていた。赤味の強い、彼岸桜の類である。
門の脇には見事な紅梅がある。
よく見ると、梅の木の側に小さな桜の木があって、可憐な花を咲かせている。一緒に写真に収める。
階段を上まで登る。静かな境内。ここが桜の季節には大いににぎわうことになる。
階段の途中に野良猫が一匹。本門寺をよく訪れる人たちの間では有名な猫ちゃんである。
ファンも多い。
門のところにもう一匹の野良猫。
こちらもおなじみの猫ちゃんである。
やはりファンが多い。
どこかで一服してから帰ろう。
駅前商店街の奥の方にある「バター・リリー」。何度目かの訪問である。
クリーム・ブリュレ(林檎入り)とコーヒーを注文。
冷蔵庫でカチカチに冷やし、表面に砂糖をまぶしてバーナーであぶったもの。
湖の表面に張った氷を割って食べる感覚。美味しいです。
マダムからアメーバブログのやり方を聞かれたが、よくわからない。すみません、詳しい方に聞いて下さい。
池上線に乗って、帰る。
夕食はちらし寿司。
鰹のたたき。
デザートはCさんからお土産にいただいた「馬込の月」。地元のお菓子だ。
深夜、数日ぶりのランニング&ウォーキング。走り始めてすぐに細かい雨が降り始めたが、完走(10周)する。