フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

3月7日(土) 曇り時々小雨

2015-03-08 12:37:57 | Weblog

8時、起床。

トースト、目玉焼き、フルーツバー、紅茶の朝食。

お昼に家を出て、国立へ。蒲田-(京浜東北線)-東京-(中央線特別快速)―国分寺-(中央線快速)-国立で、1時間ちょっと。

今日は2時から一橋大学で関東社会学会の研究例会がある。

研究例会に出る前に腹ごしらえ。国立へ来たときはたいていこのカフェ「無伴奏」に来る。

「喫茶食堂」と名乗っているだけあって、食事類が充実しているカフェである。オムライスとコーヒーを注文。

「無伴奏」を出て、東キャンパスの裏手の方から正門の方へ回る。

大学通りに出た。

東キャンパスに入る前に、西キャンパスにちょっと寄り道。『学校のカイダン』の私立明蘭学園はここが使われている。

ドラマの中で毎回登場するこの建物は兼松講堂である。

開始まであと5分。急いで東キャンパスへ。院生のOさんと一緒になる。

昨年度から立ち上がった「自己/語り/物語の社会学・再考」をテーマとする研究例会だが、今年度は、対話的構築主義の理論にフォーカスを当てるということである。今回の報告者とテーマは以下の通り。

 (1)湯川やよい(日本学術振興会 特別研究員PD)「対話的アプローチを再考する」

 (2)森一平(東京大学社会科学研究所附属社会調査・データアーカイブ研究センター 助教)「「対話的」とはいかなることでありうるのか」

 (3)西倉実季(同志社大学文化情報学部 助教)「ライフストーリー研究実践における「対話」」

 司会は、牧野智和(日本学術振興会)・中村英代(日本大学)。

個々の報告の内容紹介は割愛するが、報告を聴きながら、私が考えていたのは、「対話」と「インタビュー」の相違についてであった。

ライフストーリーを対話的構築主義の立場から考えるということは、ライフストーリーは語り手と聞き手の相互作用(対話)の中で「作られる」ものであると考えるということである。あらかじめ(対話開始前に)語り手の内部にあったライフストーリーが、ボタンを押せば(問いかければ)そのまま出てくるわけではなくて、どのような聞き手がどのように問いかけるかによってライフストーリーはその現場で「作られる」ということである。これはいまでこそ当たり前の(といっていだろう)考え方だが、かつては語り手の内部にあらかじめ存在するライフストーリーをできるだけ損なわずに取りだすという作業がインタビューだと考えられていたのである。だから聞き手はできるだけ「黒子」に徹して、ノイズとしての相互作用的影響を極力小さくして、インタビューに臨まなくてはならないと。対話的構築主義はこうした旧来の考え方とはっきりと決別するものであった。

その上で私が思うのは、「インタビュー」というのは「対話」の一形態であって、「対話」=「インタビュー」ではないということである。われわれは日常生活の中で、自宅の居間での家族との対話や、カフェでの友人との対話や、あるいは学校の進路相談室での教師との対話の中でライフストーリーを語る。決してインタビューだけがライフストーリーが「作られる」場面ではない。けれど調査研究のデータを用いてライフスト―リーの分析を行うとすると、ほとんど必然的にインタビュー場面で「作られた」ライフストーリーが取り上げられることになる。しかし、元来、対話的構築主義が想定している「対話」は対話一般であってインタビューという特殊な形態の対話ではないはずである。だからインタビュー調査によって得られたライフストーリーを対話的構築主義の理論で考察していこうとする場合には、インタビューという対話の形態の特殊性(対話一般との相違)について留保しておく必要があるだろう。

インタビューの対話としての特殊性は、第一に、その非日常性である。一流の芸能人やスポーツ選手や政治家でもない限り、インタビューを受けるというのは非日常的な体験である。だからよくないといいたいのではない。よそゆきのライフストーリーが語られてしまう可能性もある代わりに、非日常的な対話の中でこそ普段は語られなかった重要なことが語られる可能性もあるからだ。第二に、これがより重要なことだが、聞き手(質問者)と語り手(回答者)との役割が固定的であることである。日常の対話においては、聞き手と語り手の役割は固定的ではなく、随時、入れ替わる。自分のことばかり話す人は嫌われるし、逆に自分のことをまったく語らない人というのは対話の相手として物足りないだろう。しかし、インタビューにおいては、終始、聞き手は語り手に関する事柄について質問し、語り手は質問された事柄について語る。言い換えれば、日常の対話の場面で作られるのは二人分のライフストーリーであるが、インタビューの場面で作られるのは一人分のライフストーリーであるということである。

そうしたインタビューの特殊性を自覚した上でインタビュー調査を行うとして、さらに問題となってくるのは、対象者のライフストーリーの対話的な構築にどの程度「積極的に」(あるいは「消極的に」に)関与するかということである。語り手の語りに疑問を呈したり、ときには反論をしたりという「アクティブな」インタビューを心がけるのか、うなづきを中心とした共感的で受容的な態度(セラピストの態度に似ている)のインタビューを心がけるのかということである。日常的な対話の場面においてはこのどちらもありえるが、ライフストーリーインタビュー調査では圧倒的に後者が多いだろう。その理由は、調査対象者に「なっていただく」という経緯と、今日の研究例会の報告のように「アカデミックハラスメントの被害者」や「顔に痣のある女性」のように被害や差別を受けている人が対象者になるケースが多いことに由来するものだろう。調査が調査である以上、調査対象者には「なっていただく」ことは今後も変わらないが、特定の被害や差別とは縁のない「普通の人」を対象者としたライフストーリー調査がもっとあっていいのではないかと思う。

研究例会は5時半に終了。Oさんと駅前のカフェ「シュベール」で一服していく。私がクリームソーダを注文すると、Oさんも同じものを注文した。私に合わせてくれたというわけではなく、クリームソーダが好きなのだそうだ。でも、もし私が珈琲を注文していたら、はたしてOさんはクリームソーダを注文しただろうか。たぶんコーヒーとか紅茶とかカフェオレとかの「無難な飲み物」を注文したのではなかろうか。私がクリームソーダを注文したことで、「安心して」好物のクリームソーダを注文することができたのだろう(研究会の後だとカフェでの振る舞いを見る目も分析的になるのである)。

国立の駅のホームから妻に「あと1時間ちょっとで帰ります」というメールを送る。東京駅で乗り換えをしているときに、妻から電話が入り、「何時に帰るの?」と聞いてきた。「さっきメールを送ったじゃないか」というと、「届いてない」という。おかしいなと思って送信記録を確認すると、妻ではなく、娘に送っていたことが判明。あらま。

夕食は麻婆茄子。

10時頃、娘から「さっきのメールは何?」というメールが入る。娘は今日、「新井薬師スペシャルカラーズ」という劇場で劇団インハイスの公演『祝福』の初日である。夜の部の舞台が終わってから私のメールを見たのだろう。明日、妻と観に行くことになっている。