フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

8月2日(日) 晴れ

2015-08-03 09:28:37 | Weblog

6時半、起床。

トースト、サラダ(トマト、レタス、水菜)、牛乳の朝食。

今日は母の2度目の月命日。

昼食はインスタントラーメン。

夕方、採点作業の山を越えたので、息抜きに散歩に出る。「山を越えた」というのは半分終わったという意味です。

「一二三堂」をのぞいて本と雑誌を購入。

「カフェドコバ」で目を通すことにする。

 

購入したのは本を4冊と雑誌を1冊。

アイスコーヒーを注文して準備は整った。

『HANAKO』の特集は「東京新名所案内」と「東京あんこ」(和菓子の特集)。

「東京新名所」では神楽坂駅の神楽坂口と矢来口の間一帯を「奥神楽坂」と呼んでいる。なるほどね。

「東京あんこ」で紹介されていた「船橋屋こよみ」(広尾)の白桃の白玉しるこを食べてみたい。 

安西水丸『東京美女散歩』(講談社)。2007年から2014年まで『小説現代』に連載されたもの(彼が亡くなって連載も終わった)。タイトルは美女と東京を散歩するという意味ではなくて、美女を探して東京を散歩するという意味。出会った美女は彼がイラストに描いている。

「人形町通りを日本橋人形町へと歩く。/人形町という地名は、水天宮から神田方面にかけて人形細工の家が多かったことからきているらしい。ぼくはこの町名が好きで、フリーランスのイラストレーターとしてスタートした時、この町に仕事場を持とうとおもい立ったことがあった。しかしよく考えてみると、ここまで仕事を頼みに来てくれる人がいないのではないかと、結局青山になった。今のようにメールやFAXや宅配便がもっと早く普及していたら、きっと「人形町の水丸」になっていただろう。」(16頁)

岸本祐紀子『定年女子』(集英社)。

男性の定年後の生活を扱った本はたくさんあるが、女性の定年後の生活を扱った本は少ない。それは男性と比べて定年まで働く人の絶対数が少なかったからだろうが、そろそろ需要が生まれてきたということか。雑誌からライフスタイルを学ぶ世代が60代を迎えたのだ。

「今60歳前後の女性たちは、その他の世代と異なる特徴がある。/この世代はいわゆる「アンノン族」の中心の世代である。高校生のころ、それまでの婦人雑誌とは異なる女性雑誌が誕生し始め、彼女たちが仕事を始めるころになると、女性誌の創刊の勢いはさらに増したのだ。/その影響たるや大変なもので、女性の生き方、生活スタイルに影響を与えただけでなく、ビジネスと結びついて商品開発にも影響し、全国津々浦々まで及んでいくのである。/1970年代後半から80年代にかけての女性誌に並んだテーマには、女のひとり暮らし、女のひとり旅なども多かった。それまでは、学校を卒業すると就職は親元通勤が原則だったのが、ひとり暮らしをする女性でも就職できる会社が出てきたことで、借りている部屋を自分でお気に入りのインテリアに模様替えしたり、自分の生活を彩るものとして、花嫁修業ではないクッキングが登場した。アフターファイブや休日は、女友達と食べ歩きをするということも、このころからはやりだしたのである。・・・(中略)・・・私は当時、『ノンノ』の編集部にいたが、やる企画やる企画がヒットして、全国に波及していくことに驚いたことを今でもはっきり覚えている。/その女性誌は70年代後半になると、キャリア・ウーマンという生き方を打ち出した。仕事とは単にお嫁に行くまでの腰かけとか社会勉強ではなく、自分のキャリアを築いていくという考え方である。学校を卒業して、仕事をし、結婚して子供を産み、日常生活も思う存分楽しむ、という女性の「何でも欲しい」精神は、女性誌とともに発展していったのだと思う。/また、かつては、20代の若い女性と、結婚した主婦だけだった女性誌の対象も、働く世代の成長につれて、30代のための女性誌、40代のための女性誌、そして50代のための女性誌へとつながっていくのである。/「自分が歳をとっても、常にそばに読む雑誌があった」世代、流行を実践して楽しみ、一線を走ってきた世代が、いよいよリタイアを迎えるのである。」(91-93頁)

佐藤優『プラハの憂鬱』(新潮社)。

佐藤優の自伝(の一部)。英国陸軍語学学校で英語とロシア語の勉強をしていた時期に焦点を当てたもの。

「私が英国で生活したのは、1986年7月初めから翌87年8月末までの1年2カ月に過ぎない。モスクワでの生活は、7年8カ月になる。鈴木宗男事件に連座して、外交の現場から離れて12年10カ月になる。客観的に測った時間ならば、英国での1年2カ月は、私の人生の中で、取るに足らないくらい短い。しかし、私の人生に与えた影響ということならば、ソ連崩壊を目撃したことや、東京地検特捜部に逮捕された経験に匹敵する重みを持つ。初めての異文化生活だったので、その印象が強く残っているという面は否定できない。しかし、それだけではない。現在になっても、英国時代のことを何度も思い出し、それを作品にしたいという意欲が生まれてくるのは、あの1年2カ月の生活に、その後の私の人生が凝縮されているという想いがあるからだ。」(329頁)。

片岡義男『たぶん、おそらく、きっとね』(中央公論新社)。

「二十七歳の長谷川修は左手に衣装ケースとテナー・サックスのケースを下げ、駅の南口の改札を抜けた。改札の木製の柵のなかにいる駅員に、右手で切符を渡した。改札の柵はそのぜんたいが木製だった。角になった部分は最初から丸みをつけてあったのだろう。そこからさらに丸みは深まり、十分に手垢が蓄積された結果として、黒光りしている部分が多かった。乗客が通り抜ける改札口の両面に、駅員のための小さく四角に囲まれた柵があった。長谷川が山手線の切符を手渡した駅員は、切符を切るための鋏を手のなかで鳴らしていた。駅を出て左に向かい、陸橋にさしかかる長谷川を、その鋏の音がうしろから追いかけ、やがて聞こえなくなった。」(3頁)

見事な書き出しで、1967年の東京が再現されている。ちなみに片岡義男は1940年生まれだから、1967年には主人公と同じ27歳だった。

店を出たのは7時半。

夕食は秋刀魚の開き。

デザートはスイカ。