6時半、起床。
日曜日なのに早く目が覚めてしまった。坂口恭平『現実脱出論』(講談社現代新書)のせいかもしれない。彼はそこで「日曜日の朝の幸福」について語っている。
「小学生のころ、日曜日はいつもより早く起きていた。家族のみんなは、逆に休みなのでゆっくりと寝ている。とにかく寝起きが良かった僕は、目を覚ますとさっと布団から出て、子ども部屋へと向かう。机の上の片付けを済ませると、さっそく作業をはじめる。取り掛かっていたのは、自作の連載漫画だ。/家族が起きてくる前の静かな朝の時間。この毎週訪れる日曜日の朝こそが、学校の些事から遠く離れ、自分の興味があることだけに没頭できる一番幸福な時間であった。躊躇することなく鉛筆を持ち、白い紙の上にせっせと漫画を描いていたことを覚えている。/今、当時を振り返ってみると、この幸福な朝の時間は、朝六時から九時ごろまでだったように思う。もちろん、家族が起き出してきて、朝食を食べてからも、作業は継続していたのだが、そうなるともう違う空間になってしまっていた。/寝室から家族が歩く音が聞こえはじめ、台所で母の包丁の音が鳴り、朝食ができたことを告げる声がするまでの静かな時間。三時間のこの時間が、僕には半日のように長く感じられた。朝食から昼食までの三時間とは比べ物にならないほど、ゆっくり時が経つのである。/朝の僕は、時間の中に生かされているというよりも、自分の行動がまず先にあって、それに時間が併走してくれているように感じた。時間に追われているという感覚がなかった。」(66-67頁)。
トースト、野菜ジュース、紅茶の朝食。
午前中は先日購入した関川夏央『人間晩年図鑑1990-1994』(岩波書店)をパラパラと読んでいた。授業にも(たぶん)研究にも関係ない本である。こういう本を読んでいるときは私も「時間に追われているという感覚」がない。幸福な日曜日の午前である。
昼食は妻と「phono kafe」に食べに行く。
二人ともご飯セットでおかずを合わせて6品注文した。
ブロッコリーのタルタルソース、ベジミーとのカツレツ
薩摩芋のきな粉サラダ、おからコンニャクの竜田揚げ
ラタトゥイユ
ルッコラと長ひじきのくるみソース
「phono kafe」での食事を終え、妻は家に戻り、私はコーヒーを飲みに駅の方へ。
駅前の誰かが演説をしていて、警察が駅前への交通規制をしている。
サンライズ商店街。
昨日から『64』(後篇)が上映されている。観たいが、前篇を観ていないので、それはできない。TVで観ているから前篇は観なくてもいいというわけにはいかない。
南天堂をのぞく。
挨拶代わりに古本を一冊購入。竹内良夫『華麗なる生涯ー佐藤春夫とその周辺』(世界書院、1971年)。
著者は読売新聞で文化部の記者だった人。「私の人生のなかで最も幸福に思う一つは、佐藤春夫という、飛び切り上等の人間に出会ったこと。何時までも進歩発展のない私は、先生に接してびっくりした。そして、先生から色々学んだが、なかでも人生の楽しみ方について、とっくり教えられた。/先生は大賞作家の代表選手であり、私も大正生まれ。大正は短命で終わったが、しかし文学界には反自然主義のノロ火があがり、ロマンチズムの開花があり、華やかに咲き、やがて結実し、そして年毎にその花園は広がって行った。」(207頁)
著者が廣辺正義という人に贈った本のようで、著者のサインがある。古本にはときどきこういう献本が混じっている。もらった人が売ったわけではない。その人が亡くなって、遺族が蔵書を処分したのである。
「テラス・ドルチェ」で読むことにする。購入したばかりの古本をカフェで読むというのは「日曜日の午後の幸福」である。
家の戻ると玄関先になつが寝そべっていた。
妻に言われて、物置の中のものを一緒に片付ける。ビニール傘のたぐいがたくさんある。母がとっておいたものである。痛んでいるものは処分する。大学の研究室にも置き傘として何本か持って行こう。
夕食は海老シューマイ、鯵、サラダ、味噌汁、ご飯。
デザートはマンゴー。とろり。
『ゆとりですがなにか』をリアルタイムで観る。来週はまだ最終回ではないようだ。そりゃそうだろう。
2時半、就寝。